人工知能の都市表象

小澤京子(表象文化論、和洋女子大学准教授)

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「人工知能と都市」というテーマを──もっぱら人文学の立場から──問おうとするとき、想定される議論はおよそ次の三つのレヴェルに大別できるだろう。
ひとつめは、都市計画や設計、また施工といったプロセスの一部や全部を、人工知能が行なうという次元である。そこでは、従来は人間が担ってきた知的作業や労働を、人工知能がどこまで代替ないしは拡張できるかが問われることになるだろう。
次に、都市そのものが人工知能化するという次元も想定しうる。このような発想は、少し前であればSFめいたものとして響いただろうが、例えば自動車の自動運転のような機能を、建築物や道路・橋梁、通信システムなどが具備する未来像も、近年では急速に現実味を帯びたものとなりつつある。この次元においては、都市が無意志的で固定的な、静止した人工物であることを止めて、自己学習によって主体的に行動やリアクションを起こし、さらには自ら生成変化を行なうようになる可能性も出てくるであろう(さらにここから派生して、人工知能のなかにいわばヴァーチュアルに創出される居住空間を想定することも可能である)。この論点については、しかし下手をすると、1990年代後半から2000年代前半にかけて流行した「サイバーシティ」や「ヴァーチュアルシティ」を巡る議論の焼き直しにしかならないのではないか。文化的な想像力の系譜で言えば、『鏡の国のアリス』で提起される「他者の夢のなかの存在」という問いであり、松本次郎のマンガ『女子攻兵』において一エピソードとして登場する「人工知能の脳内(かもしれない)の存在」というテーマである。「都市」の側面を強調するなら、この系譜は15世紀末の『ヒュプネロトマキア・ポリフィリ』における夢のなかの建築群にまで遡りうるだろう。擬人化された人工知能の「体内(胎内)」が人間の居住空間となる、というイマジネーションの方向性については、「人工知能を備えた宇宙船」というSFの類型的モティーフがある。スタンリー・キューブリック監督『2001年宇宙の旅』(アーサー・クラーク原作、1968)に登場するコンピューターHAL9000(人間に反乱を起こしカタストロフをもたらす人造の人間代替物という点では、フランケンシュタイン・コンプレックスの系譜にも連なる)などが代表例だろう。
さらに三つめの次元として、人間の「インテリジェンス」、つまり知性による諸機能の等価物としての都市、という観点から、「人工知能と都市」というテマティックを思考することも可能であろう。この「人間の知的諸能力とアナロゴスな人工物としての都市」にして「人工の知性としての都市」という契機は、これまでも文化的想像力のなかに、さまざまな形で現われ出てきている。このことを如実に示すのが、古代ギリシア由来でルネサンス期に隆盛した「場所記憶術」や、あるいは「記憶装置としての都市」の系譜──ピラネージによる古代ローマ表象、フロイトが「文化のなかの居心地悪さ」で記憶痕跡の隠喩とみなすローマ遺跡、ベンヤミンにおけるパリ、ブルトンが『ナジャ』で召還するパリの記憶、ゼーバルトの都市小説とりわけ『アウステルリッツ』など──であろう。
「人工知能の都市」(ここには「人工知能である都市」という意味と、「人工知能が創り出す都市」という意味とがある)をめぐる文化的な想像力を論ずる本稿では、この第三の次元に焦点を当てたい。押井守はアニメーション映画『イノセンス』2004年★1で、「都市は巨大な外部記憶装置」であると登場人物に語らせている。この映画では時代背景もあって、インターネット技術がもたらすサイバースペースでのデータの貯蔵や相互連関のあり方と、人間の脳がアナロジカルに語られているが、同時にまたこの二つの記憶装置──都市的ネットワークと人間の脳──は、近未来を舞台とする作中では物理的にもダイレクトに接続されることとなる。

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しかし、的確に予言的なSF作品を待つまでもなく、古代ギリシアに起源をもつ場所記憶術の系譜からして、人間の記憶の機構のアナロゴンにしてメタファーとして都市や建築を扱うものであった。『叡智の建築家』で桑木野幸司は、「ランダム・アクセス・メモリー」としての知的フレームのメタファーが、都市であり庭園であり劇場であったとしている。「精神内に着想された空間の設計図は、それを石や木材で具現化するところまでゆかずとも、頭のなかにとどめたままで、記憶の『思考器械』としても機能する可能性を秘めていたのではないだろうか。すなわち、精神空間に聳立するその種の仮想建築の部位や部材の一つひとつが、記憶データを貯蔵する器としても活用できるはずなのであり」★2、「この種の仮想建築の内部では、個々の情報単位が相互参照の網を通じて緊密に連環することで、有機的な知の総体が形成されることになる」★3
この「記憶術」は、都市空間と相互的なものである。そこでは、特定の記憶が特定の場所(のイメージ)と結合する。キケロが記憶術の創始者として伝える古代ギリシアの詩人シモニデスにあっては、現実の空間と対応させる形で記憶の内にも建築空間が設えられ、それが個々の事物の記憶を保持し想起するための支持体となる。ある日シモニデスは、祝宴に招かれた先で突然邸宅が崩落する災厄に見舞われるが、一命をとりとめる。死者たちの遺族に請われた彼は、記憶の中の建築空間を利用し、祝宴の客たちの席順を想起する。


うたげの客たちの席順を正確に記憶していたシモニデスは、識別できないほど損傷した遺体のすべてに、その名を返してやることができた。こうして身元が確認できたので、死者の身内の者たちは、彼らをたたえ、しかるべく埋葬し、自分たちが正しい死者を嘆いていることに確信を持つことができた。[...]この伝説によってシモニデスの業績は、死と破壊を超克する人間の記憶の力として永遠にとどめられた。★4


シモニデスはこの「場所(loci)の方法」を、やがて記憶劇場や記憶宮殿という建築空間へと発展させてゆく。
古代ギリシア由来の場所記憶術は、一続きのテクストを記銘し再生するための手法であった。想像内の建築物を「正しい順序で」巡りつつ、そこに定置した単語を想起することで、秩序だった一連のテクストを口述することが可能となる。つまり、記憶の機構のアナロジーであり、外部拡張でもあるような都市空間においては、ただ個々の事物の記憶がひとつの場所を固定的に占めているのではなく、その空間の内を順次移動することによって、一連のナラティヴが生成するのである。アルス・メモリア(記憶の術)は、すなわちアルス・コンビナトリア(結合の術)であり、アルゴリズム的な組合せも可能であった。
記憶と場とを結合させることで、語と語を結び合わせてゆく技法である場所記憶術は、クインティリアヌスによって体系化される。彼は、「前庭広場、居間、寝室、客間など」を備えた建築物を、装飾物も含めてすべて記憶することを推奨する。思考の機構の内に、現実の建築空間と対応するヴァーチュアルなイメージをインストールするわけである。演説を思い出させる鍵となるイメージを、個々の場に配置し、このようにして創出された建築空間の内を「順路」に従って巡ることで、演説内容の記憶と想起が可能となる★5


このような「場所と記憶」の結合が、記憶の保管と配列の空間であるミュージアムや図書館にとっても重要な契機であることは、言うを俟たないであろう。それは時空間的な拡がりをもつ世界を把握するための装置であり、同時に世界を認識する知性の働きのメタファーとして機能する建築空間でもある。つまり、「記憶」や「歴史叙述」に空間配置を与える試みであり、また人間の内面を空間化したものでもあるのだ。近年とみに注目されているエコミュゼ(エコ・ミュージアム)やアート・ツーリズムなどは(それらが実は近代以降にミュージアム制度が構築される以前の、事物と記憶の空間配置のあり方と共振する性質も有しているのではないか、という論点はとりあえず置いておくなら)、ひとつの建築物の内部から都市へと、ニューロン・ネットワークが拡張した形態と言えるだろう。


都市そのものが記憶痕跡の積層したパランプセストであり、記憶痕跡の重層的に刻まれる心的メカニズムであることを、古代ローマ都市の特異な再現手法において暴き出したのが、ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージである。彼の都市表象における記憶の重層性とモンタージュ性については、すでに2011年刊行の拙著『都市の解剖学』において展開したので、ここでは細部を繰り返すことはしない。彼の画面構成の特徴である、複数的・多重的な時間に属する形象のキマイラ的な蝟集という性質が、ローマという都市の記憶の重層性や起源の異種混淆性を剔抉したものであり、それは私たちの「記憶」の機構のあり方とも通底していることを指摘しておく。

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ブルトン『ナジャ』
(巖谷國士訳、白水社、1976)

パリという特権的な都市で出会った女性との9日間を記したブルトンの『ナジャ』(1928)では、都市と人間とのインタラクションによって記憶が無意志的にアドホックに想起されるさまが描かれている。シュルレアリスムの実践として名高いこの作品は、パリの地名が召還する記憶と自由連想についての、さらには都市の集合的記憶についてのテクストでもある。パリの具体的な地名やモニュメント、看板に書かれた店名などが、パリを巡るブルトンとナジャのうちに(亡霊の突然の回帰のように)その場所の記憶を喚起してゆくこの小説は、マーガレット・コーエンの規定する通り、「パリのゲニウス・ロキとの邂逅の物語」★6であり、つまり特定の場所に結びついた記憶という、いわば「土地の亡霊」の召還と憑依の物語である。さまざまな写真やナジャによるデッサンの挿入も特徴とするこの書にあっては、読者はテクストの内部にちりばめられたパリの地名とその記憶を巡ってゆく旅行者であり、そしてこのテクスト(ないしその物質的形式としての「書物」)自体もまたもうひとつの「都市」と化すであろう。
『ナジャ』の物語は、パンテオン広場の偉人ホテルという地名から開始され、ブルトンがパリを彷徨するにつれて、あたかも地名目録のように、さまざまな場所や通り、建築物の名前が列挙されてゆく。パリのモーベール広場にあるエティエンヌ・ドレの銅像」にブルトンはつねに「惹き付けられ、同時に堪えがたい不快感におそわれる」★7のだが、そこは実はドレ焚刑という残虐な死の記憶が眠る場である。「Qui suis-je?」「qui je "hante"?」という冒頭の問いが示唆する通り、『ナジャ』は亡霊の憑依(さらには自己の亡霊性)をめぐる物語でもある。土地の亡霊が人物──ブルトンとナジャ──に憑依することによって、あるいは都市と人間との相互作用によって、都市に記銘され保持された記憶が再生されるにいたる。このような地名の列挙は、ナジャと出会った後に二人がパリの街を歩き回る過程でも続いている。

エティエンヌ・ドレ銅像
引用出典=André Breton, Nadja : Édition entièrement revue par l'auteur,
Paris: Gallimard, 1964.


しかし、このインタラクティヴな記憶装置としての都市は、物語内の決定的な出来事であるブルトンとナジャの初邂逅においては、アムネジアに陥ってしまう。二人が出会うのは、「なんという通りだか知らないが......教会の前のあの十字路」★8なのである。ここには欠落が、記憶の機構における決定的なヴォイドが存在している。これは、都市のアナロゴンでもあるこの『ナジャ』という書物が抱える欠落、「『ナジャ』の挿図の部分はいかにも不充分なものである」★9こととも対応しているであろう。
そしてまた、記憶装置としてのパリの姿は、流動的でアモルファスなものでもある。物語の末部でブルトンは、「私としては、『ひとつの町の外形』がどうなったのかについて[...]ここで思いをめぐらすつもりはない。[...]私はいま、この町が別のものになってゆくのを、いや、逃れ去ってゆくのすら眺めている」★10と述懐している。


ここで問題となるのは、都市における、ないしは都市の表象における「ヴォイド」である。人間の精神的機能の対応物としての都市は、つねに忘却された穴としてのヴォイドを抱え込んできた。このような欠落にも複数の次元があって、例えば死者たちの眠る空間、人間の支配や所有、都市の機能性・合目的性から外れた廃墟・廃屋、イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオーの言うテラン・ヴァーグ★11。あるいはこれらのヴォイドとは決定的に性質を異にするが、カタストロフがもたらした喪失や欠落や忘却の空間などがある(クリスチャン・ボルタンスキーの失われた固有名をヴォイドとして表現するインスタレーションや、ホロコーストの記憶についてのいくつかの「対抗記念碑」は、この「喪失」を欠落のままに表現しようとする試みであるだろう)。ここでは、「空虚」であることが喪失と死とを喚起する。それは一種の「忘却術」の結果出来した空白であり、しかし、いまだ何も書かれたことのない(これから書き付けられるべき)空白(タブラ・ラサ)ではない。一般的なモニュメントは「記念」(覚えていること、記憶を未来に渡すこと)を目的とし、場所記憶術にあるように、記憶を留めるためのシンボリックなオブジェを都市の特定の場所に置くものだ。しかし「都市の忘却術」としては、むしろ記憶を留めるオブジェとして空虚(ヴォイド)が置かれる。

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ここで一息に議論の焦点を現在と近未来の技術水準に引き戻して考えてみよう。いわゆるシンギュラリティのあとに仮に「人工知能化した都市」(冒頭で行なった分類の二つめのカテゴリ)が実現し、都市が自ら自己修復機能をもち、また記憶の保持と再生のメカニズムにおける劣化が起こらないならば、そこに都市における種々の「ヴォイド」は生成しうるのか、という問いが生ずる。あるいは、都市に蓄積されてゆくデータの再生が、体系だって瞬時に行なわれるようになるならば(ちょうどPC内やインターネット上のデータから、検索システムを使って必要なものを瞬時に呼び出すように)、それはボードレール式のパランプセスト、あるいはフロイトのマジックメモの隠喩が示唆するような、複数の文字が重ね書きされてときに判別不可能となるような「記憶装置としての都市」の姿はもはやそこには無い。むしろ一望監視装置と数字データによる管理社会を徹底したような、SF的想像力が綿々と──ジョージ・オーウェルの『1984』(1949)からアニメ『PSYCO-PASS』(Production I.G制作、2012年から2015年にかけてマルチメディア展開)にいたるまで──ディストピアとして描いてきた都市のあり方を連想することも、まんざら突飛ではないであろう。


いわゆる「サイボーグ」的技術の進展を受けて登場した「ポスト・ヒューマン」という概念は、つまるところ「人間」という概念規定やその境界線の所在に、問いを突きつけるものであった。おそらく「人工知能と都市」について思考することは、いわば「ポスト・シティ」の問題として、「都市とは人間にとって何であるか」を問い直す作業を要請するであろう。
都市は人間にとってその外部に存在する「環境」や「囲繞物」であり、循環的で流動的なネットワーク・システムであり、同時に身体(インテリジェンスを司る諸器官も含め)とダイレクトに接続されたテクノロジーでもあり、知性の機構の隠喩でもあるが、しかし都市空間は本来的に「人工の知能」でもあった。文化的想像力が生み出すイメージ、という部分に注目するなら、1950年代以降のSF小説や1980年代以降のサイバーパンク映画、あるいは1990年代から2000年代までのアニメやライトノベルにおける人工知能表象が有していた鋭敏な特異性や独創性に比して、今日では(少なくとも管見の限りでは)むしろ既視感のある設定ばかりで、新機軸を感じさせるものはなかなか見当たらない。これはむしろ、近年の急速な人工知能の技術発展により、人工知能が遠い未来のファンタジーではなく、(シンギュラリティ問題がとかく人類に対する脅威として語られがちな傾向が如実に示す通り、多くの場合は不安を伴う)身も蓋もない日常的な現実となったからかもしれない。



★1──原作である士郎正宗のマンガ『攻殻機動隊』では、人間の身体と精神の関係や、サイボーグ 技術が可視化した「人間の定義、人間性の外縁」をめぐる思索的な問いが提起されているが、押井作 品とは異なり、「都市」への関心は希薄である。
★2──桑木野幸司『叡智の建築家:記憶のロクスとしての16-17世紀の庭園、劇場、都市』(中央公論美術出版、2014)pp.17-18
★3──桑木野幸司『叡智の建築家』p.14
★4──アライダ・アスマン『想起の空間:文化的記憶の形態と変遷』(安川晴基訳、水声社、2007)p.51
★5──フランセス・イエイツ『記憶術』(青木信義他訳、水声社、1993)pp.22-23参照
★6──Margaret Cohen. Profane Illumination; Walter Benjamin and the Paris of Surrealist Revolution. Berkeley: University of California press, 1993.
★7──アンドレ・ブルトン『ナジャ』(巌谷國士訳、白水社、1976)p.20,29
★8──同、p.68
★9──同、p.181
★10──同、p.185
★11──都市空間の中の放棄された場所、空虚で曖昧、不安定でそれゆえ開かれた可能性や自由を有する、「匿名の」場所の謂い。外国人が体験する都市経験や、都市写真などの中に現れ出る、都市の内部にありつつも「外部性・他者性」を帯びた空間その一例である。イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー「テラン・ヴァーグ」(田中純訳『Anyplace──場所の諸問題』磯崎新・浅田彰監修、NTT出版、1996、pp.128-134)



小澤京子(おざわ・きょうこ)
和洋女子大学准教授。表象文化論、都市-建築学。著書に『都市の解剖学──建築/⾝身体の剥離・斬⾸首・腐爛』(ありな書房、2011)、共著に『相対性コムデギャルソン論』(フィルムアート社、2012)ほかがある。⼈工知能については『現代思想』2015年12⽉月号に、「⼈造美女の系譜学──ポストヒューマン的テクノロジーのジェンダー化をめぐる文化的想像⼒」を執筆している。




サムネイル画像 by DocChewbacca/CC BY 2.0


201607

特集 建築・都市──人工知能という問題へ


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人工知能の都市表象
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