en[縁]:アート・オブ・ネクサス──「質感」と「リズム」の建築

篠原雅武(哲学、思想史、都市空間論)+今村水紀×篠原勲(建築家、miCo共同主宰)+伊藤暁(建築家、BUS共同主宰)+金野千恵(建築家、teco共同主宰)+能作文徳(建築家、能作文徳建築設計事務所主宰)

コンパクトであることの詩性

篠原(雅)──「to Japan for bringing the poetry of compactness to alternative forms of collective living in a dense urban setting」というビエンナーレ財団の講評文をどう受け取ったか、皆さんにお聞きしたいと思います。まず、「コンパクトであることの詩性(poetry of compactness)」とあります。これは、建物が簡潔に建てられることで醸し出す、モノが発する詩性を受けとめてくれたからこそのコメントとも言えます。抽象的な記号性にはおさまらない、モノの水準です。とくにmiCo.の《駒沢公園の家》(2011)や能作アーキテクツの《高岡のゲストハウス》(2016)[fig.8]が出展された「モノの縁」のところで、そう感じてもらえたのかなという気がします。
「密集した都市環境での集合的な生活のための新しい形式(alternative forms of collective living in a dense urban setting)」という部分は、明らかに「人の縁」の《ヨコハマアパートメント》や《食堂付きアパート》(仲建築設計スタジオ、2014)、《LT城西》(成瀬・猪熊建築設計事務所、2013)[fig.9]などの作品を指している。おそらくそういう集合的な生活様式が、建築のモノとしての簡潔さ、細やかさのようなものと連関して受けとめられたのでしょうね。たんに「collective living」の形式があるだけでなく、その生活が生じさせている雰囲気に何らかの詩性を見出してもらえたということのように考えました。

fig.8──能作アーキテクツ《高岡のゲストハウス》展示

fig.9──成瀬・猪熊建築設計事務所《LT城西》展示

伊藤暁──他国の展示を見てあらためて肌で感じたのは、ヨーロッパでは難民が大きな社会問題になっているという点です。日本ではそれほど報道されませんが、イタリアのテレビでは四六時中難民のニュースをやっていましたし、実際に難民をテーマにした展示も多かった。
難民に適切な住宅を提供できなければ街がスラム化してしまうので、その対策がヨーロッパで大きな関心事になっています。一方、南米ではアラヴェナのソーシャル・ハウジングの取り組みのように、すでにあるスラム環境の改善が課題だと思います。いずれにせよ、「密集した都市の状況(dense urban setting)」とありますが、欧米には、都市がある程度の密度を持つとスラムに近づいていってしまうという感覚があるんじゃないでしょうか。
それに対して日本は、集合と密度の問題がスラムに直結していません。そのことが審査委員には「collective living」の別のあり方として映り評価された気もします。だから、「dense urban setting」というものに対する認識のズレが背景にあるのかもしれません。

能作──たしかに第三世界と言われる地域の現実はものすごく厳しくて、見ていて辛くなってくるところがある。だからこそ、日本館を見ると「poetry」を見出せたのかもしれません。
一方で、ヨーロッパでも空き家の問題があります。私たちが出展した《高岡のゲストハウス》は、祖母がひとりで暮らす空き部屋だらけの家をゲストハウスに改修するものですが、展示を見た人から「空き家問題に対してこんなにユニークな解答があるのか」「日本独特で面白い」と言ってもらえました。ヨーロッパの建物は堅い骨格をもっているがゆえに、空き家をリノベーションするときに内側だけを変えるしかない。日本は木造建築が基盤になっているので、既存の木造の骨格は付け足したり動かしたりしやすい、自由度の高い柔軟性があると捉えられたのではないかと思います。

篠原(雅)──私は第三世界のスラム化の問題と、日本も含めた先進国で起こっている人口減少の問題というのは、区別して考えたほうがいいと考えます。西沢大良さんは、「新型スラム」という議論を提唱しています(「現代都市の9か条──近代都市の9つの欠陥」『新建築』2011年10月号、新建築社)。日本で見られるような空き家とか商店街の空洞化というのは、第三世界で起こっているようなスラム化と別次元の話なのではないかと指摘していますね。第三世界で起こっているスラム化は、基本的には労働人口が農村から都市に流れていくことに起因するもので、エンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)に見られるような先進国が19世紀に経験した産業化に伴うスラム化の現代的な再来です。しかし、今の日本で起こっているのは、そういったスラム化とは根本的に違う。この西沢さんの認識は、正しいと思います。で、じゃあ何が違うのかということを、私たちは考えたほうがいいのかもしれません。おそらくは、後に触れるスペイン館が、そのあたりのことを考えているのではないかと思いますが。

集合的な生活のための新しい形式

今村──この講評文にある「collective living」というのを、狭義の「集合住宅」だけではなく「集まって住むこと」と広く解釈すると、先の一文は日本館全体に対する評価のような気がします。
講評文にある「urban setting」という言葉については、12組の作品を説明するコンテンツとして、広域を扱った模型2つが《駒沢公園の家》(東京都)[fig.10]と《食堂付きアパートメント》(東京都)[fig.11]とともに都市部の作品だったために、すべての作品が都市または都市近郊という印象を与えた可能性があると思いました。それからもうひとつ、ものすごい意訳なのですが、あの日本館という場の構成──展示が混みあった状態──を「urban setting」と捉えることもできるのかなと。ほとんど個人的な感想かもしれませんが(笑)。

fig.10──今村水紀×篠原勲(miCo.)《駒沢公園の家》展示
©Anna Nagai

fig.11──仲建築設計スタジオ《食堂付きアパートメント》展示

篠原(雅)──コンテクストを体感させていくものとしてあの展示があったと考えるなら、その指摘は正しいと思います。言葉でコンテクストを説明してしまったら、説明と展示がうまく噛み合わなくなったり、あるいは言葉で説明しすぎてしまって、展示における「モノ」性の把握への妨げになったりしたかもしれませんが、余計な言葉をあえて切り捨てることでうまくいったこともあるでしょうね。

金野──一方で、「神山町プロジェクト」(徳島県)[fig.12]、《馬木キャンプ》(香川県)[fig.13]、《高岡のゲストハウス》(富山県)や403architecture [dajiba]の静岡県浜松市での活動(《渥美の床》ほか、2011-)[fig.14]など、地方で展開されているプロジェクトは、集合のあり方やつくり方において都市部と全然違うアプローチになっていて、そのことを十分に伝えられなかったのは大きな課題かなと思っています。

fig.12──BUS「神山町プロジェクト」展示

fig.13──ドットアーキテクツ《馬木キャンプ》《美井戸神社》展示

fig.14──403architecture[dajiba]《渥美の床》ほか展示

篠原(勲)──アラヴェナのステートメントにある「pertinence」を、私は「適切さ」と訳していて、今回の12組の作品の(問題に対する)建築のつくり方の評価として「適切」と言うのは違和感があったのですが、篠原さんが先ほど「丁寧さ」と訳されたのを聞いて、なるほどと思いました。建築も展示も、日本は「丁寧さ」においてやはり飛び抜けていたのではないでしょうか。他の国は難民やスラム、戦争など、抱えている問題の位相が全然違うので、「丁寧さ」より「適切さ」の印象が強く、それが辛さにつながっているのだと思いました。

篠原(雅)──アラヴェナのステートメントは、ちょっと強気な言い方になって恐縮ですが、いろいろな展示を見ていてしっかり受け止められていないようにも感じました。世界中に難民問題や土地投機のような問題はあるのかもしれないけれど、この問題をそのままデータで提示しても、それは社会政策や都市問題の社会学的なプレゼンになってしまう。ドイツ館や韓国館がそうなっているように思いました。それは建築の展示ではないと思います。じつは最初に発表されたステートメントを素直に読むと、「建造環境の質」を高めるとか、「住むためのささやかな場所」を探し求めるということがあって、それに対応するものとして見たとき今の建築がどうなっているのかを見てみたいということだったと思います。それをつくるのが日々難しいものになっていっているという状況があるわけです。
そうした状況を踏まえて、「against scarcity: inventiveness」と「against abundance: pertinence」ということが言われている。つまり、お金をガンガン掛ければいいものができるかと言えば、そうではないのではないか、ということです。金がなくても「ささやかな場所」をつくらなくてはならない、そこに工夫が求められる、その工夫につきものの困難を提示する。そうやってアラヴェナの問題提起を捉え、貧困や難民などの社会問題の一環として、それと素朴に直接つなげて建築を捉えるということをやってしまうと多分間違えると、じつは私は最初から考えていました。大変な状況にあるのは大前提で、そこでどれだけ「inventiveness」や「pertinence」を発揮できるかを見たいとアラヴェナは言っているのであって、だったら皆さんがやっていることをそのまま見せればいいわけです。

201608

特集 ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展──「en[縁]」の射程


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