世界とのインターフェイス
──グーグルマップの社会学をめぐって

若林幹夫(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)+松岡慧祐(奈良県立大学地域創造学部専任講師)

物への偏愛、物質とデータ

若林──これまでの地図にはマニアやファンがいます。私もきれいな地図の本を何冊かもっています。地図は美的な対象としても見られてきました。グーグルマップの本質に関わることかもしれませんが、パーソナルにカスタマイズできるグーグルマップの場合、「グーグルマップマニア」はあり得るのでしょうか。それぞれの人にとって「いま・ここ」の特定の目的におけるグーグルマップが存在するというシステムなので、印刷された地図のような個別の作品性がなく、マニアを生み出すようなフェティシズムの対象にはなりにくいのかなと思うのですが。


松岡──グーグルマップのヘビーユーザーであるということと、そのマニアであるということは、意味が違いますよね。システムのファンであること=グーグルマップのファンであるということだと思います。ストリートビューが好きで街歩きとか路上観察の延長線上で使っている人はいます。グーグルアースもそうですね。また、グーグルマップのデザインやインターフェイスが好きという人もいます。じつは最近グーグルマップのデザインが一新され、パッと見ではわからないのですが、見る人が見れば違いがあります。道に輪郭があったのがなくなっていたり、フォントや色使いが変わっていたりします。そういったシステムのアップデートを楽しんだり、話題にしたりしている層はいますね。


若林──フェティシズムやマニアには具体的な物が必要です。コラムニストの小田嶋隆さんはビートルズのCDがリマスターされる度に買ってしまうそうですが、それは情報としてのコンテンツへの愛と同時に、それが収められたメディアやその付属物であるジャケット、ブックレットなどに対する「物への偏愛」があるからです。時刻表マニアは鉄道の運行時刻についてのデータが好きなのではなく、そんなデータを一定の形式で表象し、物質化した時刻表の本が好きなのです。ところがグーグルマップの場合には、データはその都度読み出されては消えてしまうので、マニアの対象になりにくいと思います。
また、マニアにとっては偏愛の対象を語る場があるかどうかも関係しています。マニアの世界には一定の公共性の空間があります。例えば地図マニアは古地図が出回る市場や、古書店が彼らの場所になっていますし、切手には切手博物館がありというように、現物を見て語り合うことができる場があります。


松岡──システムの変化に対して、気付く人は気付くところにマニア的な喜びがあったり、語りが起こります。そこに物への偏愛があるわけではありませんが、データであるがゆえのネタは生まれます。例えば、グーグルはエイプリルフールに期間限定でグーグルマップをドラクエ風のドット絵にするなどのネタを仕込んでいて、それを毎年ひそかな楽しみにしている人は少なくありません。あるいは、最近デザインが変わったときにツイッターなどのSNS上で「変わったよね」と語り合う空気はありました(笑)。


若林──それは結構重要ですね。マニアやフェティッシュは物の世界に存在しますが、対象自体がデータ化されると、語りが流通する場所もインターネット上になるということですね。


松岡──グーグルマップはインターネット上であればリンクしたり埋め込んだりできます。ですから、実際にひとつの場所に集まらなくても脱場所的な空間の中で語ることができます。むしろインターネットには、物理的な場所よりも開かれた公共性があり、語りの場として適しているとも言えます。例えば、自分で地図を面白くカスタマイズしたら、それを広く拡散し、共有することもできるのです。それはフェティシズムとは言いにくいですが、地図をめぐるネタをつくり、拡散する場が新しく生まれているということなのかもしれません。


若林──そうすると、昔の住宅地図や区分図は美術品になっていくのかもしれません。つまり、新しいメディアが出てくると古いものが美術品になります。「何年版のこの色使いがいいんだよ」「ここに間違いがあってさ」みたいな(笑)。グーグルマップは新しくなると古いバージョンが見られなくなってしまいますが、それはマニア化にとっては障碍になるのではないでしょうか。


松岡──グーグルマップもなんらかのかたちでアーカイブが蓄積されるとよいのですが。東日本大震災の被災地の写真がアーカイブされた「未来へのキオク プロジェクト」というサイトでは、震災前後のストリートビューを時系列で見ることができたり、平安時代の古地図をグーグルマップに重ね合わせる「平安京オーバレイマップ」という立命館大学アート・リサーチセンターの試みもありますが、グーグルマップ自体の過去のかたちは残っていません。


「未来へのキオク プロジェクト」
https://www.miraikioku.com/

「平安京オーバレイマップ」
http://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/heian/

若林──ところで、地図は国家やオーソライズされた出版社などの専門家がつくる権威を持っていましたが、グーグルマップやオンライン上の地図はそれを民主化したのですね。誰もが情報を書き込めて、新しい地図をつくることができます。


松岡──そうですね。「〈地図〉から〈マップ〉へ」というのは、マップそのものが民主化する流れであり、さらにそれがデジタル化されています。従来マップをつくるにはそれなりにデザインの力が必要でしたが、グーグルマップのプラットフォームは、情報をプロットすれば誰でもマップをつくることができ、脱専門化しています。


若林──でも同時にグーグルマップのアーキテクチャのなかに閉じているわけですよね。


松岡──そうですね。マップをつくるといっても、結局はグーグルが用意したプラットフォームの上でしかないわけです。その意味では、マップの二次創作と言ってもいいかもしれません。


若林──かつて、自分たちでホームページを手作り的につくっていた時代がありましたが、いまはフリーソフトもあり、ブログやSNSのフォーマットも用意されているので誰でもそれなりのものがつくれます。地図の世界でもそうした変化が起きているのですね。


松岡──マップはやはり手描きのほうが自由度は高いですし、自分でつくっているという意識を持つことができます。グーグルマップには自分のデザイン性や思想を入れ込むことはできません。そこにつまらなさがあるのかもしれません。いまは、お店のホームページにグーグルマップが埋め込まれ、アクセスマップとして利用されていることが多くなっていますが、以前のほうがお店ごとにヴァリエーションがあって味わい深かったように思います。


若林──ロラン・バルトの『表徴の帝国』(新潮社、1974)に地図の話が出てきます。日本の道路には名前がないので、目的地を表現するときにみんな手描きで地図を描いてくれると。バルトが現代の日本に来たら、あのような記述はなかったですね。


松岡──地図を描くのは難しいことですが、ある種の快楽がありますね。それは世界を編集し、デザインする行為だと言えます。僕は苦手ですが、やはりイラストを描くのが得意な人は上手ですね。大学でマップをつくる授業をやっていますが、概ね男子はダメです。女子は相対的にイラストを描く力があり、字もきれいなので、マップをつくることと親和性が高いと思います。一方、男性は一般的に地図を読むのは得意だと言われています。地図マニアにも男性が多いイメージですね。あたりまえですが、地図を描くことと読むことは、まったく違う営みであるということです。


若林──『話を聞かない男、地図が読めない女』(主婦の友社、2002)というベストセラーがありましたね。


松岡──あれは先天的ではなく後天的な影響が大きいと思いますね。僕のゼミ生には、グーグルマップさえうまく読めないという男子学生がいる一方で、地図が大好きという女子学生もいます。結局は、男性にしろ女性にしろ、どのような環境のもとで、どのように地図と関わってきたかという経験が重要なのではないでしょうか。その意味で、地図は人間や集団が獲得していく文化なのだと思います。


201611

特集 地図と都市のダイナミズム──コンピュテーショナル・マッピングの想像力


設計プロセスにおける情報マッピング
WebGIS・SNS・ビッグデータが描く都市の諸相
世界とのインターフェイス──グーグルマップの社会学をめぐって
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る