「切断」の哲学と建築
──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性

千葉雅也(哲学者)+平田晃久(建築家)+門脇耕三(建築家)+コメンテーター:松田達(建築家)+モデレーター:平野利樹(東京大学大学院隈研吾研究室)

平田晃久プレゼンテーション
切断の哲学は新しい建築を生むか?

平田晃久氏
今回のシンポジウムのテーマを聞いたとき、じつは嫌な予感がしたんです。というのも私が大学院を出て実務を始めた1997年頃、「アルゴリズムを用いた建築の連続的様相をどこで止めるか」という類いの「切断」について議論されていたんです。妙にまことしやかに聞こえるけれど、私はほとんど退屈な議論だと思っていました。先ほどの千葉さんの言葉を使えば「ファルス」的な切断、つまりある種の作家性の発露としての切断の話でしかなかった。しかし千葉さんの著書を読んでみると、これがすごく面白い。千葉さんの思想と私の考えていることがどのように結びつくだろうかと、楽しみにしてきました。私からはいくつかの作品を紹介しつつ、そこで考えてきたことについて発表します。

台湾の住宅プロジェクトとして取り組んだ《architecture farm》(2008)[fig.14]は、アルゴリズム的なつくり方をした建築のひとつといえます。自然界の法則を数学的に抽出した「ひだの原理」を用いてはじめに椅子を制作し、続いて同じ原理で一連の住宅群を系統樹的につくりました。まず、ひだをもつひとつの面でパブリックとプライベートの領域を分け、それを徐々に部屋状に展開し、どんどん分岐させ、住宅にしていきました。もとの図式は単純で、かたちの原理を幾何学的に置き換えているだけです。その意味ではパラメトリック・デザインに近いアプローチともいえるでしょう。ただしここで重視していたのは、建築それ自体がもつ たね のような原理と、他者としてのプログラムが出会うということでした。そのモデルとして「はじめに樹があり、その下で人がくつろぐ」というイメージがあります。樹は人のことを考えてその姿になったわけではなく、光合成をすることしか考えていません。けれども人はそこに心地よさを見出す。つまりもともとは他者だけれども、そこに関係が発生するということに関心がありました。

fig.14──平田晃久《architecture farm》
写真提供=平田晃久建築設計事務所

こうしたことを考えているうちに思い至ったのが「からまりしろ」の原理です。空間の内部をコントロールするという20世紀的な建築概念ではなく、何かがからまっていく余地やきっかけを作ることを建築の根本的な概念に据え、新しい建築の原理をつくれないかという問題意識からスタートした考えです。生き物の世界に目を向けると、木の枝に鳥の巣がからまっていたりするように、あるものが別のものにからまっていることが多いことに気づかされます。子持ち昆布もそのひとつで、よく見ると魚の卵が海底の海藻にからまっており、その海藻も海底のデコボコした岩にからまっていて、さらにこの岩も下の地層にからまっている。ここで重要なのは、「他者性」と「階層性」の2点です。先ほどの樹と人の関係の話と同様、魚と卵、昆布と海底もまた、もともとは他者だけれども結果的に関係性が発生したものとなっています。さらに、「魚の卵」「昆布」「岩」の間には階層構造があります。特にこの階層性は非常に建築的な原理だといえるのではないかと思っています。私の建築はこの図式にほぼ縮訳されると言うことすらできます[fig.15]

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からまりの階層性と〈切断〉

冒頭にお話しした台湾の《architecture farm》のように、 たね のような原理に対して他者としてのプログラムを出会わせて建築を作ることによる新しい人間と建築の関係性には、いまだ一定の可能性を感じています。
しかし先ほどの千葉さんの話を受けて考えてみると、これはある意味でベルクソン=ドゥルーズ的な連続性の議論にとても近い話に聞こえなくもない。実際、これらのプロジェクトを進めていくうちに、ある種の不自由さを感じるようにもなっていました。あまりにもひとつの原理にすべてが統合されすぎると息苦しい感じがしてくる。もっとバラバラでもよいのではないかと。それは千葉さんの言う〈切断〉と一脈通じるところがある。
「バラバラなものが共存する」という状態は、現代における建築の理想像のひとつといえるでしょう。しかし単に多様なものがバラバラと存在しているだけでは、それは単純な並列でしかありません。それはたとえるなら、ひとつのお盆の上に並んださまざまな異なるお菓子のようなものです。しかしこの場合、その背後にある「お盆」は、均質な連続空間の概念に基づく近代的建築になってしまいかねない。そうではなく、現代にふさわしい異質なものの共存の形成として、建築を考えたいと思っています。そして「子持ち昆布」のダイアグラムに示されている他者的な階層構造は、それにひとつの答えを与えるものだと思っているのです。そこでは魚卵/海藻/岩というそれぞれ異なる出自をもつ他者同士が出会い、かつ階層を成していました。そして異なるもの同士の界面にはある種の断層──切断面といってもいい──が存在していました。にもかかわらず、全体としては有機的な秩序がそこに生まれている。この切断面を内包した階層構造のモデルが、〈からまりしろ〉という考え方のもつ、もっとも面白い可能性のひとつではないかと、最近考えているのです。
そのなかで《tree-ness house》(2009-)[fig.16]のプロジェクトは、これまでとは異なる試みをはじめるきっかけとなりました。東京の大塚に現在建設中の住宅で、「からまりしろ」の構造を小規模に反復させたものとなっています。原理としては「木の幹」「枝」「葉っぱ」の3つの要素からなる図式をもとにしていて、はじめにでたらめに箱を積み、そこにひだ状の穴をあけ、さらにそのまわりに植物をからめるという、独立した3つの操作を組み合わせてつくりました。普通に箱を積めば簡単に構造体を作ることができ、機能的にも解きやすいものになるわけですが、そこにひだ状の開口をあけることで、身体や外部との関係性が生まれるようにしています。さらに植物をからませ、一本の木のような状態にしていく。全体として連続した様相を持つけれど、箱と開口と植物はまったく別のものなので、連続していない様相ももっているわけです。この頃は、こうした混在感によって自由な建築に近づけることができるのではないかと考えていました。

fig.16──平田晃久《tree-ness house》
写真提供=平田晃久建築設計事務所

現在、台湾で進めているデパートのプロジェクト《Taipei Complex》[fig.17]も、似たような考えからアプローチしています。しかし、《tree-ness house》より一層他者的な異なる出自をもった秩序同士が、階層的にからまり合うという方法論を先鋭化しています。亜熱帯気候の植物に囲まれた場所で買い物をするというイメージから考えはじめたものですが、台湾のエナジェティックな状況に対してひとつの建築的形式のなかで整合性のある解答を考えていても面白くないと思いました。そこで、これまでのアルゴリズム的な方法論を括弧に入れて、〈からまりしろ〉のもつ階層性の面白さだけを追求した案を考えています。階層構造の要素は何だってありうる。そこで、ありきたりのものだけを階層構造的に組み合わせると何が起きるかということを実験的にやっています。使用する技術も原始的で、コンクリートによるラーメン構造のストラクチャに土をかけ、その上に小屋のようなペントハウスを建てているだけです。「階層」という言葉だけを聞くと保守的に思われるかもしれませんが、単純で一般的な要素だけであっても、それらが十分に他者的に出会った〈からまりしろ〉的階層構造を作ると、見たことのない建築的様相を提示するのではないかという仮説を立てながら進めています。

fig.17──平田晃久《Taipei Complex》
写真提供=平田晃久建築設計事務所

他者の介入による〈切断〉

最後に紹介するのが、群馬県太田市で取り組んでいる《太田市美術館・図書館》(2017)[fig.18]です。太田市が駅前活性化を目的として主催したプロポーザルです。いくつかの箱の周りにスロープを渡し、都市と建築を連続させていくというのが当初の提案でした。ただしプロポーザル後に市民ワークショップを開くことがひとつのプログラムになっていました。そこで私たちはワークショップというものについて、もう少しポジティブに捉えたらどうかと考えました。これまでの設計では、事務所内で所員と議論しながらスタディを進めていたわけですが、このときは市民の議論の場にスタディ模型を数個もっていき、その中から待ったなしで選んでもらった案を共有し、次のステップに進むというワークショップを数回行ないました。所内で進めていくだけなら一度決めたことでも再検討できるわけですが、ここでは一度決まるともう戻れないという状況を意図的につくり、短い期間のなかで基本設計を進めました。建築的に具体的かつ重要な決定もしていて、その過程で何百個もの模型が産出されました。
fig.18──平田晃久《太田市美術館・図書館》
写真提供=平田晃久建築設計事務所

「ワークショップを通じて建築を皆で作る」というと、ある意味でポリティカル・コレクトネス的な話にも聞こえるかもしれません。そうした側面を抜きにしてはつくれないということが事実としてある一方で、このときのワークショップは私たちにとって、政治的な正しさとはまったく異なるレベルで建築を更新しうるきっかけを与えるものになったと感じています。さまざまな人がエージェントとなり、それぞれの観点をもとに決定していく過程そのものが、つまるところ私にとってのある種の「切断」であったということです。とにかく穴だらけになったり、風が吹くから角が出るような形態にはしないことになったり、丘を思いきり削ったりもしました。実際、プロポーザル時の模型写真と比べてもかなりワイルドになっていますね。事務所の内部だけで閉じたトータリティを考えていたそれまでのプロジェクトとは異なり、複数の時間軸を巻き込み、異質なものが入り込むうちに、どこまでが自分たちのアイデアであったのかがわからなくなるような建築になったと思います。
ここでの他者と共有しながら「切断」をするという経験は、建築を作るプロセスそのものが「からまりしろ」のような階層構造をなし、そのまま断層として現われてくるような、新しい建築の姿を予感させるものだったと言えます。現在の取り組みはまだ建築の範疇にあるものだといえますが、これを原理的に突き詰めていけば、建築がいまだ見ぬものへと変わっていくのかもしれません。

以上、これまでの活動を簡単に振り返ってみました。冒頭でお話ししたとおり、建築の仕事を始めた当初はファルス的とも言える切断論に違和感を持っていたので、連続的にやってみることで面白い建築を考えようとしていました。ところがそうしたベルクソン=ドゥルーズ的な連続性だけの話にもやがて閉塞感を覚えるようになってしまった。そのような経緯もあり、千葉さんの著書と今日のお話はとても刺激的でした。これからの議論とどう結びつくのかまだわかりませんが、楽しみにしております。

201612

特集 建築とオブジェクト


「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性
即物性への転回とその規則
(奇妙で不可解な)オブジェクトへの回帰
銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築
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