際を歩きにいく・足立区編
慶應義塾大学SFC石川初研究室では、「ランドウォーク」と称した街歩き/街観察を定期的に行なっている。多摩や港北、千葉などのニュータウンを集中的に歩いたり、国分寺崖線を歩いたり、横浜や丸の内のアーバンランドスケープを見歩いたりしたほか、首都圏出身の研究室のメンバーが自分の地元を案内する「地元シリーズ」も行なっている。地元シリーズはこれまで、日本橋人形町やたまプラーザ、東急こどもの国周辺などを歩いた。いずれも、当たり前だと感じていた風景に研究室のメンバーが「他者の目」で驚くことで、当人が地元の風景の特徴を再発見してゆく様子が興味深い街歩きだった。
「足立ランドウォーク」はそうした地元シリーズのひとつとして計画、実施された。この東京の「際」の街歩きのコースを計画し、集合した20名近いメンバーを案内したのは、足立区出身の学部4年の学生であった。彼は、足立の地域イメージがしばしば揶揄とともに否定的に語られることをいつも残念に思っており、一方で北千住の宿場町跡や西新井大師といったいくつかの特徴的なランドマークや街区を除けば、足立区の「その他の場所」の風景が麗しく魅力的であるわけではないことを認め、そのことに自分自身で困惑してもいた。
実際に3時間、北千住から西新井まで歩いてみると、たしかにこの地域には、物語るのが難しい「とりとめのなさ」があったが、この風景を単に歩行のスケールで眺めるのではなく、河川や高速道路や鉄道の規模やそれらを使って移動する速度のスケールで、あるいは住宅の横の隙間に置かれた鉢植えや住民の工作による自転車置き場をじっくり眺めるスケールで眺めてみることで、思わぬ「見知らぬ足立」が見えてくることがわかった。足立の風景のとりとめのなさは、このようなふたつのスケールの間を埋めるように広がっているようだった。
以下、それぞれのスケールでの足立風景を再発見した報告は、仙台出身の大学院1年生と、埼玉県出身で千葉県在住の大学院1年生が担当してくれた。
私たちは北千住駅から荒川を目指した。北千住駅の近くには、旧奥州街道・日光街道が線路と並行し、現在では宿場町の面影を色濃く残した商店街となっている[fig.1]。ほとんどの建物は現代のものに入れ替わっているが、一つひとつの商店は小さく、道幅も狭く、歩いていて心地よいスケールである。しかし、宿場町はほんの15分も歩くと突然途切れてしまう[fig.2]。旧街道は断ち切られたように消え、目の前には壁のように唐突に堤防が立っている[fig.3]。堤防の階段を登りきるとそこは荒川の土手の上である。見返すと旧宿場町の密集した屋根の連なりが見渡せる[fig.4]。しかしその街並みは堤防によって切られ、宿場町の断面が見えている。堤防の反対側はそれとはまったく異なる広大なスケールで荒川放水路とその河川敷が広がっている。
この突然の切断は凄まじい。一瞬、自分たちがどこにいるのか見失うような落差である。荒川の広大さは宿場町の持っていた歩行の空間スケールや歴史的な文脈をあっさりと消してしまい、代わりに目の前には鉄道や橋梁や高架道路や堤防など、巨大な構造物がむき出しに交錯している[figs.5, 6]。
街道と宿場町の急な切断は、荒川の建設の経緯に由来している。荒川は東京の洪水対策のために、1913年から1930年までの17年にも及ぶ大工事の末、もともと河川ではなかった地域につくられた放水路である。構造物としてあまりにも巨大であるために、いくつもの農村が移転を余儀なくされた。千住宿はその中心部こそ避けられたものの、建設前の明治の地図と建設後の地図を見比べると、宿場町の北側の1/4ほどが削り取られるように消えていることがわかる。地続きであった場所に脈絡なく通された巨大な水路のために、急奥州街道・日光街道をはじめ多くの道が切断された。その後に建設された鉄道や幹線道路の橋梁は、さながら実体を失った道の残像が抽象化されて描かれた線のようである。
周囲の街並みからすれば、荒川放水路の風景は「エッジ」というよりも広大な空洞のように感じられる[fig.7]。それは、放水路という施設の性格によるものだろう。放水路は洪水を防ぐためにつくられ、それ以上の意味は与えられていない。荒川は周囲の街に対して無関心なのである。大きな機能と使命を与えられているために、部分には意味が宿らない風景と感じられるのは土木構造物の特徴である。放水路の空洞には、鉄道や高速道路など、いくつもの土木構造物が顔を出し、無意味な物体が投げ出されているような無骨な表情を見せている。これが荒川放水路の河川敷の風景である。
私たちは土手の上をしばらく歩き、それから千住新橋の450メートルを東京の「外側」へ向けて渡った。それは、普段は高速度で通過するだけだった「エッジ」の、知らない一面を見るような体験であった。だが歩くうちに、意外にも私はこの東京の「際」の風景に親しみを感じ始めた。この空洞の風景のほうが、私に無関係な歴史が積まれている宿場町よりも、東北からやってきた上京者が頼りにできる余白をもっているように思えた。
「故郷」と「東京」をつなぐ記憶の断片は何度となく反復される映像として立ち現われる。廣木隆一監督による『さよなら歌舞伎町』(2015)の物語終盤、主人公である徹(染谷将太)は東京の生活に疲弊し、震災の被害を受けた地元・宮城県の塩釜へと高速バスに乗って帰る。「故郷」と「東京」の移動を象徴するものとして最後に映し出されるのは、有名なランドマークではなく利根川にかかる東北自動車道の巨大な高架橋、利根川橋だ。
荒川放水路とそれを取り巻く土木構造物の無骨さは、それが東京を洪水から守る基盤であるためだった。荒川放水路に限らない、数多くの水門や護岸堤防、防波堤や道路、港湾施設、空港など、東京はそういった「都市を支える無骨なもの」に囲まれ、その無骨な施設の連なりが東京の「際」をつくっている。それは、東京のなかで生活している間はあまり意識されないものである。だが、「お上りさん」の私にとって、その無骨さが最も「東京」を感じる風景なのである。
足立を歩くにあたって、街が「これといった特徴を掴みにくく、一言で語るのが難しい風景」であることは、ここを案内してくれた地元出身の学生から事前に聞いていたことだった。そのような街のとりとめのなさは何によるものか、またどのような要素がそのような風景をつくっているのか、それを観察することがこのランドウォーク(石川研では街歩きのフィールドワークをそのように呼ぶ)の目的のひとつであった。
そして、この街の風景はたしかに語りにくいものであった。街の様子は、郊外と呼ぶには都会であり、下町と呼ぶには郊外のような雰囲気である。中高層の建築物がほとんどなく、低層の住宅や商店、それに建材や鉄工などの小さな町工場もある。土地には余裕がなく、建物は隙間なく並んでいるが、いわゆる下町の木造密集地のような密度はない。農地は見られないが、建て込まれた住宅地の所々に駐車場となっている空き地や小さな児童公園がある。多くの道路は狭く、ゆるやかに曲がって入り組んでいる。そのため、街を広く見通すことが難しい。建築物、特に住宅の外観が一つひとつ異なっていて、バラバラである。これは建築年度の違いによるもののようである。築50年かと思われる木造の住宅の隣に、地中海風の意匠を施された新築の家が建っている。このため、街を歩いていると住宅地の風景がモザイクのように見えてくる。ともかく、街を何らかのコンセプトやデザインで統一的に計画し、つくろうとする意思が感じられない風景である。
不規則な道路や、大きさの異なる敷地が混在することの理由は、歩きながら手元のスマートフォンで、アプリ「東京時層地図」を起動し、旧版地形図を表示してみることで了解できた。梅田1丁目から5丁目にかけての土地は、隅田川の洪水原の低地にあった農村集落であった。明治19年に陸軍測量部によって製作された「迅速測図」[fig.10]を見ると、この集落は「梅田村」と表記され、辺りは広く水田となっている。水田に囲まれるように、畑地と屋敷が寄り添った梅田村の集落がある。当時、このあたりは微高地であったのだろう。現代の地図と当時の地図を重ねてみると、当時の集落の道が現代の住宅地内の道路にそのまま受け継がれていることがわかる[fig.11]。現代の、意味不明に曲がった道路も、明治時代の集落の形に重ねると、集落と水田の配置に合致して見える。実際、住宅地を迷い歩いたように感じていた私たちの経路も、じつはかつての村の中の道を辿っていたことが地図でわかった[fig.12]。
敷地や建物の不統一なことも、旧版地図を見てその由来が少しわかった。梅田村は家と家の間が広く、家と畑と水田が入り混じった、ややまばらな集落であったようだ。いくつかの時代の旧版地図を明治時代から現代まで時系列に見比べてみると、これらの敷地が敷地の大きさの単位で開発され、都市化されてきたようである。
つまり、梅田の住宅地の道路や敷地や建物のモザイク状の不統一は、旧梅田村の農村時代の複雑な土地利用と道がそのまま現在の都市のパターンに受け継がれたことによるもののようだ。
地図と歴史のスケールで街の風景に納得(?)したうえで気を取り直して歩き始めると、この地域の住宅や商店には建物周りのそこかしこにある興味深いものがあらためて目につくようになった。住宅の周囲は庭のような空間がほとんどなかったが、狭い隙間や玄関の前には植木鉢がびっしりと並べられ、草花が育てられている。アロエやシソなどの有用植物やハーブ類、球根の草花、低木の植木や盆栽など、植えられているものの種類は多様で、その配置や樹種の選択に住民の工夫が見られた。少し古い住宅の周りには、明らかに住民の自作による寄せ集めの木材による構築物から、プロの手による鉄骨を溶接してつくられたものまで、さまざまな工作レベルの物干し台や駐輪場やカーポートなどがつくられている。建築年代がバラバラであるために、一つひとつの工作物を見ていくと、木造の大工仕事からアルミの組立品、そしてポリカーボネートと金属パイプの一体型、というように、カーポートの素材や工法の歴史を追うことができる(石川初の指摘による)[figs.13-17]。
暑い中を1時間半ほど歩いた末に、私たちはショッピングモール・アリオ西新井に到着し、フードコートで腰掛けて振り返りミーティングを行なった。モールに到着し、わかりやすい意匠で人工的に整えられた、空調の効いた空間に入ったとき、少しほっとしたことを告白しなければならない。どれほど陳腐でありきたりでも、統一的なコンセプトとデザインでつくられた商業施設の屋内風景は、足立区梅田の住宅地のとりとめのなさと対照的であった[figs.18, 19]。
ショッピングモールは、街路を模してつくられている。この人工的につくられた街路は、旧版地図による解読や生活風景の観察などの余地をもっていない。私たちは単にモールの「統一的な街のデザイン」を眺めるのみであり、モールは私たちの視点を「モールがデザインされたスケール」に固定しているのである。
それに気づいたとき、私は、自分自身が街をそのようなスケールで眺めようとしていたような気がした。ショッピングモールの外の住宅地のとりとめのなさは、住宅地をモールのようなスケールで観察し、物語ろうとするときに立ちはだかった。そしてそれは地図のスケールや土地の歴史のスケールで、そして個別の住宅の些細な工作物のスケールで観察することで回避できた。私はいつの間にか、ショッピングモールやニュータウンやマンションのようなわかりやすい物語を街に期待するようになってしまっているのかもしれない。語りにくさを感じる原因は街を観察し記述する私の方法や態度にこそあったのだ。
「足立ランドウォーク」はそうした地元シリーズのひとつとして計画、実施された。この東京の「際」の街歩きのコースを計画し、集合した20名近いメンバーを案内したのは、足立区出身の学部4年の学生であった。彼は、足立の地域イメージがしばしば揶揄とともに否定的に語られることをいつも残念に思っており、一方で北千住の宿場町跡や西新井大師といったいくつかの特徴的なランドマークや街区を除けば、足立区の「その他の場所」の風景が麗しく魅力的であるわけではないことを認め、そのことに自分自身で困惑してもいた。
実際に3時間、北千住から西新井まで歩いてみると、たしかにこの地域には、物語るのが難しい「とりとめのなさ」があったが、この風景を単に歩行のスケールで眺めるのではなく、河川や高速道路や鉄道の規模やそれらを使って移動する速度のスケールで、あるいは住宅の横の隙間に置かれた鉢植えや住民の工作による自転車置き場をじっくり眺めるスケールで眺めてみることで、思わぬ「見知らぬ足立」が見えてくることがわかった。足立の風景のとりとめのなさは、このようなふたつのスケールの間を埋めるように広がっているようだった。
以下、それぞれのスケールでの足立風景を再発見した報告は、仙台出身の大学院1年生と、埼玉県出身で千葉県在住の大学院1年生が担当してくれた。
[石川初]
東京のエッジの素顔について
東京の「際」という言葉を聞いて私がまず思い浮かべたのは荒川であった。仙台出身の私にとって、「東京に来た」という高揚感を最も強く抱くのは、電車や高速バスが荒川を渡るときである。荒川を越えてから周囲の風景が一変するというわけではなく、実際は東京の市街地は荒川の遥か手前から始まっている。だが、鉄道や高速道路の橋で荒川を渡る瞬間の経験は強烈である。高速道路も鉄道も、荒川にかかる直前に向きを変えて垂直に横断する。東京タワーや東京スカイツリーのような象徴的なランドマークも東京を感じさせる。それに比べると、荒川はケヴィン・リンチの『都市のイメージ』に言う「エッジ」である。荒川はまるで都市の外堀のように、東京の輪郭をつくっている。ただし、これは東北から移動してくる私の印象であり、異なる背景をもった人には異なる風景として荒川は映るだろう。私たちは北千住駅から荒川を目指した。北千住駅の近くには、旧奥州街道・日光街道が線路と並行し、現在では宿場町の面影を色濃く残した商店街となっている[fig.1]。ほとんどの建物は現代のものに入れ替わっているが、一つひとつの商店は小さく、道幅も狭く、歩いていて心地よいスケールである。しかし、宿場町はほんの15分も歩くと突然途切れてしまう[fig.2]。旧街道は断ち切られたように消え、目の前には壁のように唐突に堤防が立っている[fig.3]。堤防の階段を登りきるとそこは荒川の土手の上である。見返すと旧宿場町の密集した屋根の連なりが見渡せる[fig.4]。しかしその街並みは堤防によって切られ、宿場町の断面が見えている。堤防の反対側はそれとはまったく異なる広大なスケールで荒川放水路とその河川敷が広がっている。
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- fig.1──旧宿場町の名残りを留めた商店街
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- fig.2──商店街の突然の終端
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- fig.3──荒川放水路の堤防
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- fig.4──堤防上から見る千住の街並み
この突然の切断は凄まじい。一瞬、自分たちがどこにいるのか見失うような落差である。荒川の広大さは宿場町の持っていた歩行の空間スケールや歴史的な文脈をあっさりと消してしまい、代わりに目の前には鉄道や橋梁や高架道路や堤防など、巨大な構造物がむき出しに交錯している[figs.5, 6]。
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- fig.5──千住新橋
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- fig.6──交錯する交通インフラ
街道と宿場町の急な切断は、荒川の建設の経緯に由来している。荒川は東京の洪水対策のために、1913年から1930年までの17年にも及ぶ大工事の末、もともと河川ではなかった地域につくられた放水路である。構造物としてあまりにも巨大であるために、いくつもの農村が移転を余儀なくされた。千住宿はその中心部こそ避けられたものの、建設前の明治の地図と建設後の地図を見比べると、宿場町の北側の1/4ほどが削り取られるように消えていることがわかる。地続きであった場所に脈絡なく通された巨大な水路のために、急奥州街道・日光街道をはじめ多くの道が切断された。その後に建設された鉄道や幹線道路の橋梁は、さながら実体を失った道の残像が抽象化されて描かれた線のようである。
周囲の街並みからすれば、荒川放水路の風景は「エッジ」というよりも広大な空洞のように感じられる[fig.7]。それは、放水路という施設の性格によるものだろう。放水路は洪水を防ぐためにつくられ、それ以上の意味は与えられていない。荒川は周囲の街に対して無関心なのである。大きな機能と使命を与えられているために、部分には意味が宿らない風景と感じられるのは土木構造物の特徴である。放水路の空洞には、鉄道や高速道路など、いくつもの土木構造物が顔を出し、無意味な物体が投げ出されているような無骨な表情を見せている。これが荒川放水路の河川敷の風景である。
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- fig.7──巨大な「空洞」に見える河川敷
私たちは土手の上をしばらく歩き、それから千住新橋の450メートルを東京の「外側」へ向けて渡った。それは、普段は高速度で通過するだけだった「エッジ」の、知らない一面を見るような体験であった。だが歩くうちに、意外にも私はこの東京の「際」の風景に親しみを感じ始めた。この空洞の風景のほうが、私に無関係な歴史が積まれている宿場町よりも、東北からやってきた上京者が頼りにできる余白をもっているように思えた。
「故郷」と「東京」をつなぐ記憶の断片は何度となく反復される映像として立ち現われる。廣木隆一監督による『さよなら歌舞伎町』(2015)の物語終盤、主人公である徹(染谷将太)は東京の生活に疲弊し、震災の被害を受けた地元・宮城県の塩釜へと高速バスに乗って帰る。「故郷」と「東京」の移動を象徴するものとして最後に映し出されるのは、有名なランドマークではなく利根川にかかる東北自動車道の巨大な高架橋、利根川橋だ。
荒川放水路とそれを取り巻く土木構造物の無骨さは、それが東京を洪水から守る基盤であるためだった。荒川放水路に限らない、数多くの水門や護岸堤防、防波堤や道路、港湾施設、空港など、東京はそういった「都市を支える無骨なもの」に囲まれ、その無骨な施設の連なりが東京の「際」をつくっている。それは、東京のなかで生活している間はあまり意識されないものである。だが、「お上りさん」の私にとって、その無骨さが最も「東京」を感じる風景なのである。
[伊藤隼平]
語りにくい街へのアプローチ
千住新橋を渡ってから私たちが歩いたのは、橋の北詰の足立区梅田1丁目から西新井栄町1丁目のアリオ西新井というショッピングモールまでのおよそ3キロメートルほどだった。足立区のほぼ中央に位置するこのエリアには、平坦な土地に低層の住宅が密集して建っている。道が意外に入り組んでいて曲がっており、多くの交差点が直角でなく、迂闊に歩いていると方向を見失うような場所であった。私たちは迷うように歩きながら、西新井駅方面に向かった[figs.8, 9]。-
- fig.8──千住新橋北詰の街並み
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- fig.9──足立区梅田の住宅地
足立を歩くにあたって、街が「これといった特徴を掴みにくく、一言で語るのが難しい風景」であることは、ここを案内してくれた地元出身の学生から事前に聞いていたことだった。そのような街のとりとめのなさは何によるものか、またどのような要素がそのような風景をつくっているのか、それを観察することがこのランドウォーク(石川研では街歩きのフィールドワークをそのように呼ぶ)の目的のひとつであった。
そして、この街の風景はたしかに語りにくいものであった。街の様子は、郊外と呼ぶには都会であり、下町と呼ぶには郊外のような雰囲気である。中高層の建築物がほとんどなく、低層の住宅や商店、それに建材や鉄工などの小さな町工場もある。土地には余裕がなく、建物は隙間なく並んでいるが、いわゆる下町の木造密集地のような密度はない。農地は見られないが、建て込まれた住宅地の所々に駐車場となっている空き地や小さな児童公園がある。多くの道路は狭く、ゆるやかに曲がって入り組んでいる。そのため、街を広く見通すことが難しい。建築物、特に住宅の外観が一つひとつ異なっていて、バラバラである。これは建築年度の違いによるもののようである。築50年かと思われる木造の住宅の隣に、地中海風の意匠を施された新築の家が建っている。このため、街を歩いていると住宅地の風景がモザイクのように見えてくる。ともかく、街を何らかのコンセプトやデザインで統一的に計画し、つくろうとする意思が感じられない風景である。
不規則な道路や、大きさの異なる敷地が混在することの理由は、歩きながら手元のスマートフォンで、アプリ「東京時層地図」を起動し、旧版地形図を表示してみることで了解できた。梅田1丁目から5丁目にかけての土地は、隅田川の洪水原の低地にあった農村集落であった。明治19年に陸軍測量部によって製作された「迅速測図」[fig.10]を見ると、この集落は「梅田村」と表記され、辺りは広く水田となっている。水田に囲まれるように、畑地と屋敷が寄り添った梅田村の集落がある。当時、このあたりは微高地であったのだろう。現代の地図と当時の地図を重ねてみると、当時の集落の道が現代の住宅地内の道路にそのまま受け継がれていることがわかる[fig.11]。現代の、意味不明に曲がった道路も、明治時代の集落の形に重ねると、集落と水田の配置に合致して見える。実際、住宅地を迷い歩いたように感じていた私たちの経路も、じつはかつての村の中の道を辿っていたことが地図でわかった[fig.12]。
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- fig.10──関東平野迅速測図
引用出典=農研機構「歴史的農業環境システム」/Kashmir3Dで表示+当日の軌跡ログデータ
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- fig.11──今昔マップ首都1927-39
引用出典=谷謙二「今昔マップ on the web」/Kashmir3Dで表示+当日の軌跡ログデータ
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- fig.12──空中写真(最新)
引用出典=地理院地図/Kashmir3Dで表示+当日の軌跡ログデータ
敷地や建物の不統一なことも、旧版地図を見てその由来が少しわかった。梅田村は家と家の間が広く、家と畑と水田が入り混じった、ややまばらな集落であったようだ。いくつかの時代の旧版地図を明治時代から現代まで時系列に見比べてみると、これらの敷地が敷地の大きさの単位で開発され、都市化されてきたようである。
つまり、梅田の住宅地の道路や敷地や建物のモザイク状の不統一は、旧梅田村の農村時代の複雑な土地利用と道がそのまま現在の都市のパターンに受け継がれたことによるもののようだ。
地図と歴史のスケールで街の風景に納得(?)したうえで気を取り直して歩き始めると、この地域の住宅や商店には建物周りのそこかしこにある興味深いものがあらためて目につくようになった。住宅の周囲は庭のような空間がほとんどなかったが、狭い隙間や玄関の前には植木鉢がびっしりと並べられ、草花が育てられている。アロエやシソなどの有用植物やハーブ類、球根の草花、低木の植木や盆栽など、植えられているものの種類は多様で、その配置や樹種の選択に住民の工夫が見られた。少し古い住宅の周りには、明らかに住民の自作による寄せ集めの木材による構築物から、プロの手による鉄骨を溶接してつくられたものまで、さまざまな工作レベルの物干し台や駐輪場やカーポートなどがつくられている。建築年代がバラバラであるために、一つひとつの工作物を見ていくと、木造の大工仕事からアルミの組立品、そしてポリカーボネートと金属パイプの一体型、というように、カーポートの素材や工法の歴史を追うことができる(石川初の指摘による)[figs.13-17]。
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- fig.13──大工仕事と既製品のハイブリッドによるガレージの屋根
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- fig.14──手製の扉
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- fig.15──大工仕事による物干し台と屋根
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- fig.16──手製らしい駐輪スペース
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- fig.17──アパート1階の小さな庭園
暑い中を1時間半ほど歩いた末に、私たちはショッピングモール・アリオ西新井に到着し、フードコートで腰掛けて振り返りミーティングを行なった。モールに到着し、わかりやすい意匠で人工的に整えられた、空調の効いた空間に入ったとき、少しほっとしたことを告白しなければならない。どれほど陳腐でありきたりでも、統一的なコンセプトとデザインでつくられた商業施設の屋内風景は、足立区梅田の住宅地のとりとめのなさと対照的であった[figs.18, 19]。
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- fig.18──ショッピングモール外観
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- fig.19──ショッピングモール内観
ショッピングモールは、街路を模してつくられている。この人工的につくられた街路は、旧版地図による解読や生活風景の観察などの余地をもっていない。私たちは単にモールの「統一的な街のデザイン」を眺めるのみであり、モールは私たちの視点を「モールがデザインされたスケール」に固定しているのである。
それに気づいたとき、私は、自分自身が街をそのようなスケールで眺めようとしていたような気がした。ショッピングモールの外の住宅地のとりとめのなさは、住宅地をモールのようなスケールで観察し、物語ろうとするときに立ちはだかった。そしてそれは地図のスケールや土地の歴史のスケールで、そして個別の住宅の些細な工作物のスケールで観察することで回避できた。私はいつの間にか、ショッピングモールやニュータウンやマンションのようなわかりやすい物語を街に期待するようになってしまっているのかもしれない。語りにくさを感じる原因は街を観察し記述する私の方法や態度にこそあったのだ。
[西野翔]
石川初(いしかわ・はじめ)
1964年生まれ。登録ランドスケープアーキテクト(RLA)。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科/環境情報学部教授。著書=『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』(LIXIL出版、2012)。共著=『READINGS〈2〉ランドスケープ批評宣言』(LIXIL出版、2002、2006[増補改訂版])、『今和次郎「日本の民家」再訪』(平凡社、2012)ほか。
伊藤隼平(いとう・じゅんぺい)
1994年生まれ。慶應義塾大学SFC大学院石川初研究室在籍。横浜国立大学教育人間科学部卒業。雑誌『文鯨』編集部。
西野翔(にしの・しょう)
1993年生まれ。慶應義塾大学SFC大学院石川初研究室在籍。東洋大学理工学部建築学科卒業。