第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践

坂本小九郎(宮城教育大学名誉教授)+西澤徹夫(建築家、西澤徹夫建築事務所主宰)+浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ主宰)+森純平(建築家、PARADISE AIRディレクター)

新しい美術館に向けて

浅子──中学校の教え子との交流は現在も続いていますか。

坂本──ある人もいれば、ない人もいます。昔から思ってきたことですが、美術教育とは絵描きや版画家を育てることとは必ずしも一致しないんですね。そこで学んだ一人ひとりが新しい人生に向かい、版画表現のもつ人間と人間を温かく結びつけるという信念をもって生きていくようになればよいと私は考えます。版画教育がすべてではなく、人生のある時期の小さな小さな出発点にしか過ぎません。
当時教えていたころは子どもたちの作品を家に持ち帰り、家の壁一面にべたべたと貼って、作品のよい点やもっとよくなる点について、一晩中考えたものでした。そして、次の日に作品をつくった子どもたちにその内容を伝えるわけです。「君の作品を夕べ見ていたが、夢に出てくるくらいこの部分はいいと思った」と。すると子どもたちも、褒められた部分の彫り方、表現、主題が画の全体にまで広がっていくんです。そういうやり方ばかりしていましたので一度にひとつのことしかできない私が自分で絵を描くようになったのは退職してからのことです。
新しい美術館は無名の人、これから成長していく子どもたちも忘れずに大切にしてほしいと願います。それこそ今日の地方の美術館の魂としてふさわしいのではないでしょうか。そのためには美術館の学芸員の方々もがんばってください。
J・R・R・トールキン(1892−1973)の「ニグルの木の葉」(1947)という児童文学の短編を読んだとき、自分の版画に対する考えと同じことが書かれているなと感じました。大きな油絵を描いている絵描きが、隣に住んでいる貧しい人の家の屋根に穴が空いて雨漏りしているのを修理するために、自分が持っている大きなキャンバスの一部を破って屋根をカバーするんです。けれども強風でカバーが破けて遠くに飛んでいってしまう。それからしばらくした後に絵描きが長旅から帰ってきたとき、かつての破れて飛んでいった絵の一部がきれいな額縁に入れられて美術館に飾られているのを発見して驚くという話です。つまり絵がボロボロになったとしても、それが美しい作品であるかぎり、その一部分だとしても元と同じくらいの価値があるのだということです。そのような美しいものを見つける目こそがやはり大事だと思います。私の空想ですがそう思っています。

西澤──一部を抜き出しても作品であるということは、先ほどの共同制作の版画の話にも通じていますね。

坂本小九郎氏

坂本──そのとおりだと思います。私はそれらのことを子どもたちの作品からすべて教わりました。
ある人が私に言いました。「隠れた多くの人々のための美術館をつくりたい」と。八戸市美術館での教育版画展にはじつに多くの人々が来られました。同じ展覧会には沖縄からも2、3名ほど来てくれましたね。
それから、私たちの版画は大田耕士さんを通してニューヨークなど世界中を回ったんです。世界中に開かれたそういうこともやれる美術館だといいですね。驚いたのは、ひとつの県、地方以上に東北地方や外国に住んでいる人のほうが私と子どもたちの版画のことを知っているということです。権威の垣根を取り払って発掘した作品を広めていく仕事を、美術館がどこまでできるかが重要になると思います。
著書『版画は風のなかを飛ぶ種子』のタイトルも、大田さんの「版画はたんぽぽの綿毛のように風の中をとぶ種子のようなものだ」という言葉からとられています。つまり美術の表現は、人と人とを温かく結びつけていくものだということです。とくに版画は何枚も刷れるわけですから、その表現は無数に飛んでいき、荒れ地に根をおろし、黄色いたんぽぽの花を咲かせることができる。そのような考え方は、私が版画について一番言いたいこととまったく同じものでしたから、私がこの大田さんの言葉を使うときは自分の考えを話すのと同じような気持ちで喋ることを心がけています。
だから新美術館の名前を「風のなかを飛ぶ種子美術館」にしてもよいのではないでしょうか。

西澤──僕たちが八戸市新美術館のコンペに臨むにあたって最初に掲げたラーニングセンターのコンセプトは「種を蒔く。実らせる。成長を促す。収穫する。そしてまた新たな種を蒔く」というもので、これは坂本さんがおっしゃられた種子のお話とかなりつながっていると思います。僕たちもそのような種子を育てていく場所をつくっていきたいと思っています。

坂本──それはいいですね。そのような場所になるとうれしいですね。みなさんにはきょうの話のなかからなにかを摑んでもらって、新しい美術館のあり方を考えていただければそれでいいと思います。いまは未来に希望をもつことが苦しい時代ではありますが、逆にそうであるからこそ、少しでも希望を伝えられる美術館になれば、私もこれまで生きてきた甲斐があると思っています。
私自身、退職後に家内から「我慢しないで今度はあなたの仕事を好きなようにやりなさい」と言われていたこともあり、いまは自宅で油絵を描いている最中です。結局、子どもたちと歩んだ、地域と歴史と私の生き方の延長線上を歩んでいます。私を訪ねてくる昔の教え子たちは、「先生は八戸の地域のことや子どもたちの集めた昔話などをいまも引きずって歩いているのですね」と言っていました。八戸の新美術館が完成したときにそれらの作品もみなさんにぜひ見てもらえたらと思います。
このほかみなさんに伝えたいことは、美術館の構造です。私ははじめ八戸の地域で風土、海、岩などのなかで労働に励む人々を子どもたちと表現しました。そして海に伝わる伝説や海で命を落とした人々の物語を、海の底深く下りていきました。そこから空に飛び上がる美しいうみねこの翼に託して子どもたちの希望を表現しました。やがて東北の民話、宮沢賢治の作品を紙芝居形式で奥へ奥へ進むかたちで物語を表現しました。この流れは私が宮城教育大学に行ってからも学生たちに受け継がれ、絵巻形式、壁画形式、ついには天井壁画というかたちにまで発展しました。これを私は大学の研究紀要で表現活動の「時間と空間の座標系をもとめて」(宮城教育大学紀要『イメージ体験の座標系を形成する表現』第29巻[平成6年]版として発表したもの)にまとめました。表現体験、作品を見る観点、流れ、こうした座標系が美術館の体験構造になることを願い、私の話をしめくくります。ありがとうございました。美術館の完成を楽しみにしております。

[2017年8月17日、盛岡市中央公民館にて]

坂本小九郎(さかもと・しょうくろう)
1934年生まれ。宮城教育大学名誉教授。著書=『虹の上をとぶ船----八戸市立湊中学養護学級の版画教育実践』(あゆみ出版、1982)、『版画は風のなかをとぶ種子』(筑摩書房、1985)ほか。

西澤徹夫(にしざわ・てつお)
1974年生まれ。建築家。株式会社西澤徹夫建築事務所主宰。作品=《東京国立近代美術館所蔵品ギャラリーリニューアル》(2012)、「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」展会場構成(2014)、《西宮の場合》(2016)、「京都市美術館再整備工事基本設計・実施設計監修」(共同設計=青木淳建築計画事務所)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=浅子佳英)ほか。

浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀と共にコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。著書=『これからの「カッコよさ」の話をしよう』(共著、角川書店、2015)『TOKYOインテリアツアー』(共著、LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(共著、鹿島出版会、2016)ほか。

森純平(もり・じゅんぺい)
1985年生まれ。建築家。東京藝術大学建築科助教。PARADISE AIRディレクター。



201712

連載 学ぶこととつくること──八戸市新美術館から考える公共のあり方

第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割
第5回:YCAMの運営に学ぶ
地域とともにつくる文化施設の未来形
第4回:学ぶ場の設計から学ぶ──
ラーニング・コモンズと美術館
第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方
第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践
第1回:森美術館からの学び
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