シリコンバレーの解決主義

エフゲニー・モロゾフ(作家、リサーチャー)

エフゲニー・モロゾフ
「シリコンバレーの解決主義」の読み方

竹内雄一郎

ITの世界では、開発者つまりエンジニアが普遍性を勝手に想定することが多い。国境や地域差といったものはたいして重要視されず、まったく同一のサービスが、当たり前のように全世界でロールアウトされる。InstagramだってTwitterだって、サービスの内容を国ごとに細かく変えたりはしていない。ITエンジニアはすでに世界を本質的にはフラットなものとして捉えており、それは地域ごとの個別対応にはコストがかかるから、といった消極的な理由からだけではない。ITエンジニアの方法論や考え方、より正確に言えば彼らのメッカであるシリコンバレーの方法論や考え方で世界中を覆い尽くすことが、紛れもなく正しいことだと考えているのだ。シリコンバレーの起業家はすぐに自分たちのアイデアが「世界を救う」などと口にする。それは半分は方便だが、もう半分は本気だ。シリコンバレーの象徴する効率性、民主性、先進性、グローバリズム──それらは全人類にとって普遍的な価値なのだ、という信念が彼らにはある。コンテクストを超越した、万人にとっての最適解が存在するかのようなこうした態度は、建築や都市計画の専門家には奇異で乱暴に映るだろう。

IT業界がつくるものが他愛のない暇つぶし用のスマートフォンアプリくらいのものなら、アプローチが多少未熟であってもたいした問題ではないかもしれない。しかしITはこれまでにメディアを変え、小売を変え、コミュニケーションを変え、そして次の標的として金融を、政治を、都市をつくり変えようとしている。このようにITの影響力が増大していくなかで、シリコンバレーの視野狭窄的な楽観主義、理想主義は痛烈な批判を浴びるようになっている。以下の記事でインタビューに答えているエフゲニー・モロゾフは、そうした批判の急先鋒だ。記事中で触れられている彼の著書『To Save Everything, Click Here: The Folly of Technological Solutionism』(PublicAffairs, 2013)は、シリコンバレーの生み出す「hype」をただ享受し、踊らされ続けることを望む人には無用の長物だろう。しかしITが今後どのように社会を刷新していくのか、そこでどのような新しい価値が生まれ、何が失われていくのか、望ましい技術開発の方法論とはどのようなものか、こうした事柄について自分の頭で考えることを望む人にとっては必読の書だ。

シリコンバレーの解決主義

エフゲニー・モロゾフ

私はベラルーシ出身です。そこで育ち、人生の最初の17年を過ごしました。首都ではなく、とても小さな炭鉱の町の出身です。私の家族は全員炭鉱で働いており、多くの時間を地下で過ごしています──私だけがなんとかそこから逃げ出したのです。権威主義に関しては、ベラルーシが1995年以降ひとりの指導者〔アレクサンドル・ルカシェンコ大統領〕の支配下にあることは、もちろん周知の事実です。そこでの政治的状況は必ずしも羨望に値するものではなく、米国の一部の識者の言葉を借りると「ヨーロッパの独裁国家の最後の砦」としばしば表現されています。

私は非常に間接的にテクノロジー業界で働き始めました。私はTransitions Onlineという非営利団体で働き始めましたが、それは主に表現の自由やプロフェッショナル・ジャーナリズムに関心のある、しかしまた旧ソビエト連邦の民主主義や人権にも興味を持っているとも言える、西側の非政府組織(NGO)のひとつでした。そこでの私の任務は、どのように彼らの新しいメディア戦略を構築するかを見出すことでした。もちろんベラルーシ出身の私は、当初それらの新しいツールの可能性に心を踊らせていました──なぜなら(ベラルーシでは)「ほかのものは全部試した」と言える状況だったからです。

私たちはNGOも試したし、政党も試したし、民族主義運動を起こそうともした──ベラルーシにおいてはすべてが試され、失敗したのです──そこに、この新しいテクノロジーがやってきたのです。人々を動かすためにテキストメッセージを使い、従来のメディアでは議論できないこともブログを使って論じることができ、携帯電話の力を頼りに情け容赦なく警官を捕まえることができる。つまり2005年から2006年頃は大いに盛り上がっていたのですが、その理由のひとつには、先に述べたような当時の東欧の政治状況がありました。セルビアで革命が起こり(ブルドーザー革命、2000)、その数年後にウクライナで革命(オレンジ革命、2004)、そしてその前にはグルジアで革命(バラ革命、2003)が起こりました。東欧では何かが起ころうとしており、私たちは大いなる希望を持っていました。そして私は、自分の希望をテクノロジーに託したのです。

その後、私の東欧的気質のもうひとつの面が優勢になりました。補足しますと、私は4年間ブルガリアで過ごし、そこで教育を受けました。そしてブルガリアはほかのバルカン諸国と同様にシニシズムで知られています。2006年から2007年の間のある時点で私のシニカルなブルガリア的気質が優勢になり、自分たちが使っていたツールやプラットフォーム自体を疑うようになったのです。その理由のひとつには、これらのものは現場で起こっていること、そして現場でそれらのツールを使っている人たちにほとんど変化をもたらしていないことがわかったからです。しかしまた私は、実際に一部の国の政府は、政府として広めたい類の「真実」を拡散するためにブロガーを雇って教育し、新しいかたちのセンサーシップやサイバーアタックに従事することによって、人々を密かに見張り、宣伝活動を行なうためにこれらのツールを積極的に利用していることに気づきました。つまり、デジタライゼーションの裏側を見たのです。もし私たちがこの事態を現状のままにしておき、インターネットの力をただハッピーに楽しく賞賛するだけならば、真相を見失ってしまうでしょう──そして残念ながら、その真相とは、一部の政府は(それによって)力を得ているということなのです。 世界を良い方向に変えるかもしれないという期待を込めたユートピア的なプロジェクトとしての一面、それと同時に善意のある提案がすべてひどい結果に終わるということを見せようというディストピア的でシニカルな面、これら両方がともかく一体となって、私の最初の著作が生まれました。この本は、NGOで働いた者として、また現場での初期の介入案を多数見てきた者として、そしてベラルーシとバルカン半島に住んだ者としてのプロフェッショナルな経験に頼るところが大きかったと思います。

私の次の本は『To Save Everything, Click Here: The Folly of Technological Solutionism』(PublicAffairs, 2013)というタイトルで、この本は『The Net Delusion: How Not to Liberate The World』(PublicAffairs, 2012)の続編とも言えるものですが、ここでは私の関心は権威主義国家や権威主義政府から離れて、自由民主主義国家をさらに詳細に考察しています。何が自由民主主義国家をうまく機能させているか、そしてなぜそれらの国家は政治的・社会的にうまく機能しているのかを理解しようとしています。本を書き始めた時、「新たなプレーヤーが登場した」という直感が働きました。そのプレーヤーはシリコンバレーの面々──私たちの世界でテクノロジーによる介在があまりに進んだために、にわかに影響力を得たギーク、エンジニア、技術者、イノベーターたちなのです。彼らは新たなエリートですが、ある意味で認知されていないエリートと言えるでしょう。


また、彼らは一般的な商業系のプレーヤーとはかなり異なるという予感もありました。彼らは単にハンバーガーやコーラをどんどん売りたいだけのコカ・コーラやマクドナルドなどとは違い、実際に世界を変えたい──しかも、より良い世界に変えたい──と思っています。すべてのエンジニアはそれぞれ、どのようにそれを実現するかについてのアイデアを持っています。そして彼らはその手段もツールも持っています。私たちはテクノロジーや情報が関与するいかなるイニシアチブも有益だとみなす傾向があり、それによっていくらか社会における偏見が少なくなるということは、彼らにとって幸運なことです。より多く情報を持っているかぎり、自ずと物事はより良くなる──なぜなら、より多くの知識を持っているからです。これはずっと前の啓蒙時代にまで遡る、テクノロジーに関する偏見です。テクノロジーは私たちを自然から解放してくれる偉大なものであり、私たちは世界の重荷から自由になるために、もっと力やエネルギーを注ぎ込んでそれを活用しなければならない──すでにテクノロジーや情報に関する偏見があるため、私たちはある意味プレーヤーとしては、それらを批判することはずっと少なくなりがちです。

私が気づいたことは、シリコンバレーでは世界をより良い場所にするための努力が持続されているということで、これこそ私が総じて「解決主義」と呼ぶものです。しかし、その本質を本当に理解するためには、彼らがどのようにそれらの問題に取りかかり、定義するかを知らなければなりません。私の議論の一部として、今やシリコンバレーは実際に存在していないかもしれない問題を解決するための力を得ているという論点があります。彼らは、「政治には偽善があるから政治は悪い。政治には派閥があるから政治は悪い。もしわれわれがすべてをオープンに、透明にしさえすれば、もしわれわれが人々をもっと誠実にして、政党を直接的民主主義に取り替えることができさえすれば──今ではすべてのことについて携帯電話で投票できるし、携帯電話を使ってすべての情報を読むことができるので、実際にありえることですが──民主主義は自ずと改善されるだろう」と考えているのです。それはギークが立てている仮説のひとつです。そしてその仮説を正当化する根拠は単に彼らの民主主義に対する考え方だけでなく、彼らが私たちの独特な歴史的段階をどのように捉えているか、ということにもあります。彼らは、Wikipedia、オープンソース・ソフトウェア、Google、そしてFacebookが成功したので、私たちは完全に新しいルール、習慣、機関を有する新しい社会の一端にいると考えています。だから、10-15年前、あるいは20年前には常軌を逸していると思われていた提案の多くが、突如として正常に見えるようになったのです──なぜなら、私たちは次の断絶を覚悟しているからです。

私たちは教育界や知的生産の世界でも断絶を見てきたし、政治、犯罪撲滅の世界、あるいは消費者を医者へ行かせる代わりに実際に消費者自身が自らの健康を監視し自己診断する医療の世界など、ほかのどこでも断絶は起こることを予想しています。それは媒介者をなくすことであり媒介者は悪であるという考え方なので、シリコンバレーの多くの人たちにとっては素晴らしいことです。世界がよりフラットになれば、人々がより住みやすい場所になる──これがシリコンバレーの定式なのです。


翻訳=坂本和子

Title: "Silicon Valley Solutionism", in LITERAL MAGAZINE 34 (http://literalmagazine.com/silicon-valley-solutionism/)
Author: Evgeny Morozov © 2015

エフゲニー・モロゾフ(Evgeny Morozov)
1984年、ベラルーシ生まれ。情報技術の政治的、社会的影響を研究する作家、リサーチャー。TEDフェロー。主な著書=『The Net Delusion: The Dark Side of Internet Freedom』(2011)、『To Save Everything, Click Here: The Folly of Technological Solutionism』(2013)

坂本和子(さかもと・かずこ)
翻訳家、建築家(一級建築士)。東京都生まれ。武蔵野美術大学建築学科、コロンビア大学GSAPPで建築を学ぶ。設計業務と建築教育に従事したのち、現在は建築・デザイン分野の翻訳、編集、展示企画等を手がける。http://www.kazukosakamoto.com


201802

特集 戦術的アーバニズム、Wiki的都市──場所と非場所のタクティカル・アーバニズム


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