第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割

吉田有里(アート・コーディネーター、港まちづくり協議会事務局員/MAT,Nagoyaプログラム・ディレクター)+古橋敬一(港まちづくり協議会事務局次長)+青田真也(アーティスト、MAT,Nagoyaプログラム・ディレクター)+野田智子(アートマネージャー、MAT,Nagoyaプログラム・ディレクター)+西澤徹夫(建築家、西澤徹夫建築事務所主宰)+浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ主宰)+森純平(建築家、PARADISE AIRディレクター)

プロジェクトからプログラムへ

浅子──今後の活動についても教えてください。

吉田──MAT, Nagoyaの構想段階では私たちの活動のそれぞれに対して「プロジェクト」という言葉は使わずに、終わりのない持続的なイメージを込めたかったので「プログラム」という言葉を選択しました。しかし、ボートピアの予算が減っていることもあって、一つひとつめどを付けながら進めていくのが現実的だという方向性になってきています。「アッセンブリッジ・ナゴヤ」自体は5年計画なので、まずはそこがひとつの区切りになると思います。

浅子──ひとつのプロジェクトが仮に1カ月というタイムスパンの出来事だとすると、プログラムという言葉からはどのくらいの時間をイメージしているのでしょうか。

野田──最初は10年というような漠然とした数字がありました。まちづくりの人たちと一緒にやっていくなかで、変化や効果を考えたときに、1年や3年ではなにもわからない。10年あれば、3歳だった子どもが13歳になる。そのくらいのタイムスパンで捉えたいんです。

浅子──みなさんが同世代であることのよさがある一方で、次の世代についてどのように考えているかを教えてください。

吉田──MAT, Nagoyaの活動や「アッセンブリッジ・ナゴヤ」の運営に関わってくれたり、手伝いに来てくれる若い世代の人たちにもバトンを渡せるような仕掛けや仕組みを考えていく必要を感じています。

青田──自分たちの活動を続けることと、それをどう受け継いでいくかを考えることの両方を並行して進めるのは大事ですが、なかなか難しいと感じています。そもそも、若い人が減っているという状況もあります。

浅子──そもそも、若いボランティアはいるのでしょうか。また、ボランティアを育てるような活動はされているのでしょうか。

吉田──「港まちづくり協議会」に来てくださるボランティアの層は、アートに興味のある壮年の方たちです。ですから、イベントの受け付けをお願いするなど、現場に近いスタッフとして手伝ってもらっています。

青田──アート・プログラムに対してのボランティアはいません。専門性が高い場合が多く、人によって頼めることと頼めないことがあるというのが大きな理由です。ただこの地域は幸いにも美術大学が複数あり、美術大学の学生さんにアルバイトとして手伝いに来てもらっています。自分もそうでしたが、こういう現場でアーティストの仕事に触れることが、その後の活動に大きく影響するのではないかと思います。

古橋──やはり、育てることを前提にボランティアを集めるなんて大それたことは難しいです。それには、頼む側と頼まれる側の双方に課題があります。

吉田──どちらかというと、アルバイトの子たちに対しては、スキルアップをしてもらうことを意識しています。ここでの経験を経てここに残ってくれるという人もいますね。もちろん、そういった人との関わりや成長は、長期的でないと見えてこないことかもしれません。

まちづくりとアートの未来

浅子──そろそろ最後の質問としましょう。具体的な場所をもつことの意味や、まちづくりとアートの関係の可能性、あるいは限界について聞かせてください。

吉田──場をもつことの大変さはありますが、出会う人の数やできることの幅は広がります。展示やイベントは場があってはじめて成立するもので、このビルくらいの規模でも十分にいろいろなことができるし、キッチンなどの機能があればさらにできることが広がっていきます。

古橋──「ポットラック・スクール」という、街について考える会を開いているのですが、先日、美術家である山城大督さんに来ていただきました。「アートとまちづくりの窮地──山城大督の試みと作法」[fig.09]というタイトルで行なったのですが、アートとまちづくりの関係やその可能性については、明確な結論が出なかったんです。まちづくりの一環としてアートが取り入れられてしまってるような風潮がありますが、当事者たちが盛り上がっていても、端から見ると面白さがわからないこともあるはずです。真剣に考える人ほど、「盛り上がりさえすればまちづくりは成功だ」というパラダイムから抜け出す必要性を感じているはずです。これからのまちづくりは、新しい価値をつくるというよりも、いままで紡いできた歴史から価値を再発見したり、その場所の固有性に価値を見出していくことのほうが大事だと思います。

fig.09──「アートとまちづくりの窮地──山城大督の試みと作法」(「ポットラック・スクール2017」第5回)の様子
写真提供=港まちづくり協議会

浅子──まちづくり自体がリノベ―ションのようなものになるというわけですね。

古橋──そのタイプのまちづくりをするときに、面白いものを見出すことのできる人間や、それを評価できるリテラシーをもった人々がいないといけないわけです。だから、建築家やアーティストがそういうところに絡んでくるケースは、面白いと思っています。

野田──そういう面白さを見つけるのがアーティストたちなんだと思います。山城さんがトークの時に「アートは100年以上残っていくけど、まちづくりは残らない」と断言していたのが印象的でした。「あなたはそのどちらに関わりたいのか」と問われるような言葉だと感じました。アーティストの批評性と街はもしかしたら相性がいいのかもしれない。もう少し砕いて言い換えると、街への批評という切り口で作品化されたものが、街との関わりにおいて、アートができることのひとつではないかと思うのです。

吉田──作品が街を直接変えるわけではなくても、存在やアイデアが街に活かされることはあります。でもそれは受けとめる人があってこそです。宮田さんは手芸部のおばあちゃんたちがいたのが大きかった。やはりそういう意味でも、人同士を繋ぐことが必要だと感じます。

西澤──まちづくりのゴールとはなんなのでしょうか。

一同──ないですね。

浅子──都市計画は右肩上がりのときの近代主義的な仕組みで、まちづくりは縮退時代のものというイメージがありますね。

古橋──まちづくりは本来、官治的都市計画への「反対運動」から脚光を浴びたものです。つまり、いまとはあり方が異なりますが、近代化の頃からすでにあったものです。それが1980年代になると行政に取り込まれていった。まちづくりという語は中身が流動的で、時代や文脈によって変わります。いまの時代においてどうなのかをきちんと定義していく必要があるのかもしれません。

西澤──いまあるものを新しく評価し直す、そういうことしかできないのかもしれないし、それが面白いと言えるのかもしれないですね。

古橋──空気を読んで、こういう方向に進めましょうという合意形成を大切にするのがまちづくりだとしたら、100年後には残らないというのが山城さんの見方です。それに対してアーティストは「私はこうしたい」とつくったものが時代に揉まれつつも後世に残っていくと信じている。たしかに、誰かのため、みんなのためということばかり強調するのは嘘くさい。僕もそう思います。ただ、みんなのお金としての公金はそういう人には流れにくくて、みんなのためにやりますという態度の人でないと預けにくいのも現実ですよね。

浅子──アートとまちづくりが重なったときに気になるのは、「正しいこと」しかできなくなるのではないかということです。ともすれば、まちおこし的なアートイベントに翻弄されるがあまり、アートのもっている性質がごっそり抜け落ちかねない。

青田──最終的には、まちづくりに関わるなにかということでの美術ではなく、純粋に美術ということが自律できるようなプログラムになればと思います。それは美術至上主義という話ではなくて、その状況でも美術関係者だけでなく、観に来る街の人がいるという過程をつくり出すのが、MAT, Nagoyaの使命だと思います。

古橋──一見するとまちづくりに関係のないことであっても、「どうぞやってください」と言えるほどの寛容性を示せたら、それこそが、まちづくりの成功と言えるでしょうね。

浅子──現在、社会が貧しくなるにしたがい、多様性がどんどん損なわれつつあると感じています。同時に、多様性を認めるのは大事なんだけれど、そうすると多様性を認めない人たちの意見をも認めないといけないというパラドックスもあり、難しいですよね。

吉田──価値観を共有したり多様性を受け入れることがMAT, Nagoyaのテーマのひとつです。ふだんからアートを見ない人に、作品を見て、芸術批評を好きに語ってもらい、「ポットラック新聞」に掲載したことがあります。飲み屋で「一丁前に語っちゃって」とからかわれたらしいのですが、「いや、アートはいろいろな意見があっていいんだ」と反論したそうです。そういった意見の多様性を受けいれられる街に成熟していく過程として、アートにできることがあるのではないかと考えています。

[2018年2月19日、港まちポットラックビルにて]

吉田有里(よしだ・ゆり)
1982年生まれ。アート・コーディネーター。MAT, Nagoyaプログラム・ディレクター、港まちづくり協議会事務局員。芦立さやかとともに「YOSHIDATE HOUSE」を運営した後、「BankART1929」に勤務、「あいちトリエンナーレ」のアシスタント・キュレーターを経て、名古屋の港まちをフィールドにしたアート・プログラム「Minatomachi Art Table, Nagoya[MAT, Nagoya]」のプログラム・ディレクターを務める。

古橋敬一(ふるはし・けいいち)
1976年生まれ。港まちづくり協議会事務局次長。名古屋学院大学、愛知淑徳大学、名古屋芸術大学非常勤講師。博士(経営学)。商店街の活性化まちづくり、愛知万博におけるNGO/NPO出展プロジェクトなどに関わった後、「港まちづくり協議会」において名古屋市港区西築地エリアのまちづくり活動に携わる。

青田真也(あおた・しんや)
1982年生まれ。アーティスト。MAT, Nagoyaプログラム・ディレクター。主な個展に「Shinya Aota 2014」(青山|目黒、東京、2014)、「Solo Exhibition」(Hebel_121、スイス・バーゼル、2017)「青田真也|よりそうかたち」(Breaker Project、大阪、2018)など。主なグループ展に「あいちトリエンナーレ2010」(愛知、2010)、「日常/オフレコ」(KAAT神奈川芸術劇場、2014)、「MOTアニュアル2014」(東京都現代美術館、2014−2015)などがある。
http://www.shinyaaota.com

野田智子(のだ・ともこ)
1983年生まれ。アート・マネージャー。MAT, Nagoyaプログラム・ディレクター。無人島プロダクション、NANJO and ASSOCIATESにて、アーティストのマネジメント、作品販売、国際美術展の広報業務などに携わった後、個人事務所「一本木プロダクション」を設立。アーティスト・ユニット「Nadegata Instant Party」メンバー。
http://ichipro.jp

西澤徹夫(にしざわ・てつお)
1974年生まれ。建築家。株式会社西澤徹夫建築事務所主宰。作品=《東京国立近代美術館所蔵品ギャラリーリニューアル》(2012)、「映画をめぐる美術──マルセル・ブロータースから始める」展会場構成(2014)、《西宮の場合》(2016)、「京都市美術館再整備工事基本設計・実施設計監修」(共同設計=青木淳建築計画事務所)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=浅子佳英)ほか。

浅子佳英(あさこ・よしひで)
1972年生まれ。建築家、デザイナー。2010年東浩紀と共にコンテクスチュアズ設立、2012年退社。作品=《gray》(2015)、「八戸市新美術館設計案」(共同設計=西澤徹夫)ほか。著書=『これからの「カッコよさ」の話をしよう』(共著、角川書店、2015)『TOKYOインテリアツアー』(共著、LIXIL出版、2016)、『B面がA面にかわるとき[増補版]』(共著、鹿島出版会、2016)ほか。

森純平(もり・じゅんぺい)
1985年生まれ。建築家。東京藝術大学建築科助教。PARADISE AIRディレクター。


201803

連載 学ぶこととつくること──八戸市新美術館から考える公共のあり方

第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割
第5回:YCAMの運営に学ぶ
地域とともにつくる文化施設の未来形
第4回:学ぶ場の設計から学ぶ──
ラーニング・コモンズと美術館
第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方
第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践
第1回:森美術館からの学び
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