20世紀の遺産から考える装飾

石岡良治(早稲田大学文化構想学部准教授)+砂山太一(京都市立芸術大学美術学部特任講師)

技術発展による労働、遊戯──20世紀後半のアメリカにて

石岡──ヨーロッパにおける近代建築運動は、第二次世界大戦前を境に、その主流がアメリカへと移っていきます。具体的にはナチスによるバウハウスの閉鎖と、ヴァルター・グロピウスやミース・ファン・デル・ローエのアメリカへの亡命があります。
第二次世界大戦以降、つまり、20世紀後半のアメリカを考えるときに、ミースとチャールズ&レイ・イームズ夫妻を比較したビアトリス・コロミーナの「イームズ自邸についての考察」(『10+1』No.18、1999)は大変興味深いと考えています。積極的に解釈すれば、《イームズ自邸》(1949)が20世紀後半のデザインや建築、生活のあり方、労働や遊びといったものを捉え直すモデルであるという論です。ミースの《ファンズワース邸》(1951)のような全面ガラスによるむき出しのインテリアではなく、《イームズ自邸》はさまざまな小さなパネルによる外壁があり、内部も家具や絨毯、そしておもちゃなどのたくさんのオブジェクトで飾られています。イームズ夫妻は映像作品も数多く、そうしたさまざまなデザイン活動のなかで、映像と建築、インテリアとエクステリア、おもちゃと実物のあいだを自由自在に、遊戯的に行き来しています。
他方では、冷戦という背景があり、フィルムが武器として機能したという情報戦争の側面も見逃せません。彼らによるマルチ・スクリーンの映像は、ソ連で上映され、アメリカの技術や生活の優位を誇示するプロパガンダでもありました。

石岡良治氏

砂山──イームズ夫妻の映像作品を見ると、技術自体ではなく、そのイメージのデザイン、情報デザインに取り組んでいますね。

石岡──さらに1945年のENIAC発明以降のコンピュータ時代の到来も捉えています。IBMのために1968年に構想し、1971年に実現された展覧会が元になった『コンピュータ・パースペクティブ:計算機創造の軌跡』(筑摩書房、2011[原著=1973])は、インターネットも予期されていませんし、巨大なコンピュータがだんだんとパーソナルになるというくらいの認識なので、古いと言えば古いのですが、情報のデザイン、インフォグラフィックという意味でもとてもよい本だと思います。1970年代の本がわざわざ日本で文庫化されて復刊し、今なお売っているというのもおもしろいですね。
イームズ夫妻にとっては、生活、労働、余暇、遊戯といったものが混じり合っていますが、そうしたあり方の全面肯定には現在では警戒が必要でしょう。「労働は喜びである」というのは、ブラック企業的なやり口に容易に結びつきます。そういう意味でイームズ夫妻は、経済成長が格差を縮めることができた、ある種幸福な時代に活躍したと思います。

砂山──近代以前には、単純な労働は、人間や動物を動力としていましたが、産業革命以降、機械に置き換えられました。1833年にイギリスで初めて人間の労働条件や労働時間が定められた工場法が制定されます。機械生産のプロセスにおいても、まだ完全な自動化・機械化は無理だったので、人間の単純労働を機械的に計算し、生産性を算出できるように数値化したというわけです。そのような機械生産的、合理的システムのなかで規格化が起こり、職人の手による装飾は、合理化できない余計なものとしてなくなっていきました。

石岡──デザインと労働時間、人工(にんく)や人日(にんにち)といった人件費の関係ですね。

砂山──ジャン・プルーヴェは、デザイナー自らが生産システムを抱えることで、そうした問いを調停しようとしました。合理性を保ちながらも、大規模生産による規格品とは違うあり方を目指したと思います。
1990年代以降、コンピュータの活用によって、デザインと労働、労働と装飾のあり方も変わっていきました。そうしたことに最も積極的に取り組んでいる建築家のひとりがフランク・ゲーリーだと思います。ゲーリーはデザイナーでありながら、自身の造形を建築としてつくり起こすためにエンジニアリング会社「ゲーリー・テクノロジーズ」を立ち上げています。ゲーリーは、航空機や機械の設計のためのソフト「CATIA」をアレンジし「Digital Project」という自らの設計に特化したソフトウェアをつくりました。そうすることで、《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》(1997)のような非常に複雑で立体的な造形を、設計から製作段階までコントロールし実現させています。

石岡──飛行機で使われていた技術というのがよいですね。飛行機は飛ばなければ即人が死ぬという意味で、建築の比ではない厳しさがあるがゆえに研ぎ澄まされてきた技術です。

砂山──もっと遡れば、CADもシミュレーションもすべては軍事技術から始まっています。建築よりも進んでいた技術を取り込んだわけです。Digital Projectは例えばザハ・ハディッド・アーキテクツのような設計事務所も使っています。

石岡──ジョージ・ルーカスによる「インダストリアル・ライト&マジック(I.L.M.)」が明らかに映画産業を変えたように、ゲーリー・テクノロジーズのイノベーションによる恩恵が大きいということですね。

砂山──建築制作における情報化は、一般的な次元では、CAM(Computer Aided Manufacturing)技術、つまりコンピュータ数値制御の木材プレカットが当たり前になってきているという点で、着実な変化をもたらしていると思います。CAD/CAMの開発はともに1950年代に始まり、1990年代におよそ汎用化します。2000年代に意匠設計の現場で大々的にコンピュータを活用した建築家のなかには、ゲーリーのほか、ザハ・ハディッド、ダニエル・リベスキンドなど、それまで「アンビルトの建築家」と称されていた人たちがいます。彼らは特異な造形ボキャブラリーを生成する目的で、コンピュータの利用を具体的に推し進めました。
コンピュータを活用した設計手法はここ20年でほぼ確立されてきました。コンピュータの計算力を使い、構造力学的な合理性や、熱力学や流体力学などを応用した環境条件を、具体的な変数として扱いながら建築形態をつくり出す手法です。つまり、高度な計算によって、それまで難しいとされていた、建築物の装飾的な形態と機能的な合理性を、同時に考えることができるようになったというわけです。さらに、デジタル技術の進展は設計のみならず、ファブリケーション、実際の建築物制作にも影響しています。数値的にCADデータとして設計された建築形態は、そのままCAMデータ、つまり部材の制作データとしても使用することができます。CAD/CAMを介した設計生産プロセスは、職人的な手仕事でしかカバーできなかった部分も担えるようになり、「デジタル・クラフト」や「デジタル・アルチザン」という言葉が使われています。
近代の建築やデザインは、産業との関連で機械生産を前提とし、その枠組みのなかで意匠を発展させてきました。同時に、民芸など手づくりによる生産は、機械生産と相対的に価値づけされ領域化されていきました。1960年代以降のカウンターカルチャーに端を発するDIY文化は、手仕事と機械生産のハイブリッドにあたるようなもので、個人が機械や流通のシステムをうまく活用しながら独自の生産と消費の生活様式をつくり出すものだと考えています。そして、近年の人工知能やデジタルファブリケーションなどの生産への応用は、工場生産の完全自動機械化の傾向を持つとともに、「ものづくり革命」などの言葉で表わされるようにDIY的な言説も発展させてきました。
このように労働と生産のシステムが変わりつつあるなか、装飾論も現代のものにアップデートする必要があると思います。これは、労力を提供することによって報酬を得ていた人間からAIや機械が労働の機会を奪うのではないか、また一方で、人間はこれまでの労働とは違ったかたちでお金を生むことができるのではないか、という社会的な議論にもつながります。

砂山太一氏

石岡──現代ではウェブメディアの普及によって、認知労働という考えが広まりました。つまり、一見遊んでいるように見えるさまざまな行動も経済活動であるという状況が一般化されたわけです。そうした状況そのものは現代生活における条件ではありますが、アテンションや興味、情動が即賃金に換算されるということの全面化には、息苦しさもあるでしょう。
マリオ・カルポ『アルファベットそしてアルゴリズム:表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』(鹿島出版会、2014)には、「手による製造」「機械による製造」「デジタル技術による製造」という3つの時代区分が挙げられていますね。冒頭では、1971年の金本位制の廃止の話があったのが興味深かったです。技術的にはコンピュータの発達があり、政治的には新自由主義の台頭です。1979年にはイギリスのサッチャー政権の誕生があり、イラン革命による原理主義的な宗教復古運動が始まります。中国は鄧小平による改革開放政策によって、市場経済に乗り出してきます。冷戦終了後の1990年代ではなく、それに先立つ1970年代に現代の始まりを見る視点は重要だと思っています。例えば1997年に開館した《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》は冷戦後のグローバリゼーションの流れのなかに位置づけられるわけですが、現在のマーケットや文化戦略が地域の固有性を均しながら進んでいく傾向を、「デジタル技術による製造」という、冷戦中に成立していた状況から批判的に考察する必要があると思います。


201804

特集 装飾と物のオーダー
──ポストデジタル時代の変容


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