20世紀の遺産から考える装飾
蝶番としての20世紀の遺産
石岡──21世紀に入り、コンピュータの計算可能性が非常に高まり、理念的にはずっと研究されてきたAIも、多くの分野でついに実用的に使えるレベルになってきたという状況があります。この『10+1』というメディア自体も紙からウェブへ移行しています。私自身としても、この今の劇的な変動が確かにあり、それを際立たせるような方向で思考を進めたいと考えていますが、他方では、現在起きている変動の多くの部分は過去のさまざまな活動に根ざしているし、遺産をそう簡単に捨てることはできないのではないか、という両義的な意識がつねにあります。今回紹介してきたように、コロミーナとウィグリーにしても、マノヴィッチにしても、20世紀の遺産を再考しつつ、今世紀の新たな状況を捉えようとしているわけです。
21世紀を生きるわれわれには「今までとはすべて変わった、白紙還元が可能だ」というような20世紀人のような尊大さはありません。今の建築デザインの状況を見ていても、わりとみんな過去を踏まえる手続きを取らざるをえなくなっているような気がします。建築家もかつてのアヴァンギャルドの熱狂に対してはおおむね冷めていますし、失敗を反復しないようにしたいわけです。クレバーな人であるほど大きな宣言をしませんし、蛮勇な宣言をやるには、今は知が集積しすぎていますから。そう考えるとフランク・ゲーリーやレム・コールハースは相対的に蛮勇の人だと思いますね。
このように考えると、20世紀は、とりわけ19世紀との切断をほぼすべての芸術分野の人たちが意識したという異常な時代だったと言えますし、そのことを今から捉え直すとするなら、それはどういうものになるでしょうか。
砂山──マニフェストの時代だった20世紀に比べて、今の日本ではモニュメントへの批判が徹底されています。特に2000年代の構造改革以降、都心では大規模な開発がいくつも行なわれていていますが、あまりアイコニックなものはつくられないし、ことさら目立たないような建物であれ、着実に都市を変化させています。やはり建築家に比べて、ディベロッパーが力を持っていますね。2020年の東京オリンピックへ向けて、現場の人手が足りていないという状況もあります。
石岡──装飾ということを考えると、大きな、グローバルな状況を、ローカルなところからロマンチックではないやり方でどれだけ突き崩せるのかという賭けが重要だと思います。パブリック/プライベートの政治性にどのように建築家が取り組むか、それを変えていくところに可能性があるような気がします。
日本では、そもそも西洋ほどアーティストや建築家への尊敬はなく、職人イデオロギーのほうが強いと思うんですね。製造業が衰退している流れもあるなかで、「ものづくり」という言葉にむしろ警戒したほうがいい。伝統とは、言ってしまえば、ある種のPDCAサイクルをたくさん回している蓄積を無視しえないわけですが、裏返せば単にそれだけだとも言えると考えています。相対的に使いやすいリソースとして、ある文化圏の固有性や土地の記憶、風土があり、その限りにおいて、伝統たりえると思います。そのように考えれば、「民族」や「本質」を問うことなく、地域の固有性とユニバーサルな特質を調停できるはずです。「日本的」とされる多くの特質についても、そうした仕方でその魅力と限界を捉えていくと良いのではないかと思います。
砂山──「ものづくり」という言葉の短絡なロマンチシズムには警戒したほうがよいという石岡さんの指摘には同意しつつ、映像的なイメージから現前する物、そして建築的機能を、情報というくくりでデータ的に思考する形式をして、デジタル以後の職人性と考える場合、そこは肯定していきたいですね。遺産や伝統という意味では、《エルプフィルハーモニー・ハンブルク》は、古い倉庫の上に、新しい建物をボンと載せた構成です。冒頭で《ロースハウス》の話がでましたが、20世紀の遺産として図と地がバチっている《ロースハウス》が、《エルプフィルハーモニー・ハンブルク》ではデジタルを介して、情報的な物の見方でドライに捉え直されているように思います。ノスタルジーや技術的イノベーション至上主義にも陥らずに、デジタル以後のマテリアリズムをうまく組み合わせ、あらゆる性質をハイブリッド化せずに同居させているという印象です。これは、ポストモダン的な手つきとも言えますが、そこには確実に情報化以後のエステティクスと技術力が働いています。ポストモダン時代の装飾から少し時間が経ち、あらためて情報技術を介した実装的な議論が可能になった今、20世紀的な議論や遺産もひとつの「データ」として取り扱いつつ「現代は装飾だ」とか言いながら、われわれが生きる時代の艶めかしさは探し求めていきたいと思っています。