ドイツの記念碑と共同想起の現在
──《ホロコースト記念碑》とコンペ案から

深沢秀一(キュレーター/リサーチャー)

2005年に建設された《ホロコースト記念碑》は、巨大なパブリック・アートの公園だ。ドイツでは、歴史の想起を促進する社会的役割を担うことがアートに求められており、《ホロコースト記念碑》はその実証実験のひとつと見ることができる。本稿ではこの記念碑の設計思想や、竣工前後の社会の反応、ほかのコンペ案などを参照しつつ、ドイツ社会における記念碑と共同想起の現在を概観する。

《ホロコースト記念碑》の設計思想

ドイツは記念碑大国だ。新旧大小合わせておよそ80万あると言われる★1。その最新のひとつに、2005年に完成した《虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑》、通称《ホロコースト記念碑》がある。首都ベルリンの中心、ブランデンブルク門の真南のおよそサッカー場2面分の敷地に建設された。2,711本のコンクリート製の柱がマトリクス状に整列する巨大なパブリック・アートの公園であり、「石碑の広場」とも呼ばれている。柱は、奥行2.38m×幅0.95mで統一され、柱と柱の間は幅0.92mの通路となっている。高さのみ0.3mから4.7mのあいだで異なっている。ここを訪れた人は、低い柱の上に座ったり、柱と柱の間を歩いたりして、思い思いに散策することができる。




この造形はコンペで選ばれた。設計者の建築家ピーター・アイゼンマンは、コンペ企画書で、現代におけるホロコーストの共同想起のあり方を考察し、「ホロコーストの想起は、けっしてノスタルジーであってはならない」と問題提起をしている★2。彼は、この記念碑を体験の場とするよう提案した。訪れる人に「生の体験」を提供することで、過去を思い出にしない「生の想起」のきっかけとする。この記念碑は、いつ、どこからでも出入りすることができ、どの方向に向かって歩いてもよく、いつまでもいてよい。柱はマトリクス状に規則正しく配置されているが、中に踏み入れれば、不安定さや不規則さを体感する。それは「定まった意味のない場(This is a place of no meaning)」である。

完成すると、この造形はさまざまな解釈を生んだ。例えば、柱は墓石や棺桶を、整列する様は戦争記念碑や軍人墓地を連想させ、虐殺されたユダヤ人には墓がないことを連想させる。灰色という色は、焼却され、水に流され、あるいは穴に埋められたユダヤ人の遺灰を連想させる。案内標識がなく、柱の高さは変わり、床面は歪んでいる空間は、訪れる人に不安と孤独を感じさせ、犠牲者への共感を促す、など。しかし、アイゼンマンにとって重要なのは機能である。想起の場として、リアルな体験を提供できているかどうか。時代を超えて機能し続けるかどうか。

この記念碑は、完成直後から、大勢の人々が思い思いに過ごす場となった。子どもたちは鬼ごっこをし、若者たちはピクニックをする。世界各地から訪れる外国人観光客は、好きなポーズで写真を撮り、SNSで公開する。実際に訪れると、のどかな風景という印象を受ける。現場には案内標識や情報板が設置されてはいるが、あまりにさりげないため、ほとんどの人が気づかない。知らずに偶然ここを訪れた人は、これが《ホロコースト記念碑》なのか、そもそも記念碑なのか、遂にわからないままでいるかもしれない。

遊ぶなどとんでもない、不道徳だ、そもそも説明を充実させるべきだ、など不満は多いが、アイゼンマン自身はこの状況を歓迎している。企画の意図と違う体験を促しているのではないか、これが果たして想起を促すことにつながるのか。完成5年後の2010年に、アイゼンマンはインタビューで「もちろんだ。これでいい。墓地や教会や、ほかの公共広場も、同じ風景ではないか」と即答している。そもそも、この記念碑は犠牲者のためではなく、ドイツ人のためにつくられたのであり、そして、現在のドイツ人は過去のドイツ人が行なったホロコーストに責任がない。その前提を自覚できれば、誰でもこの記念碑でくつろぐことができるだろう、と★3

記念碑に対する社会の反応

《ホロコースト記念碑》は完成直後からベルリンで最も人気のある観光地のひとつとなり、いまも国内外から大量の人が訪れる。記念碑の地下に備えられた資料展示室「情報の場」は、ベルリンの人気ミュージアムのトップ10に数えられている。年間47万人以上を集客し続け、2016年には累計入場者数500万人を突破した★4。この知らせを受けて、アイゼンマンは満足しつつ、《ホロコースト記念碑》は10年前だから実現可能だった、いまなら反対が多くて実現できないだろう、と発言し、話題になった★5

観光地として人気があるだけではない。この記念碑は時代を反映して話題になり続けている。例えば、2017年にはアート・プロジェクト「Yolocaust」が登場し、世界中で報道された。記念碑ではしゃぐ観光客のセルフィーがインスタグラムなどのSNSに大量にアップされているが、「Yolocaust」はそれらの写真を当時の強制収容所の収容風景とコラージュしてネット上で発表し、ホロコーストと記念碑と想起のあり方を問い直した。公式サイトは現在、コンセプトと実施後の反応をまとめたプロジェクトの記録として公開されている。画像は公式サイトから削除されたが、ネット上で報道されたため、いまでも画像検索をすれば見ることができる。

また、同年11月には、《ホロコースト記念碑》の複製がつくられ、大騒動となった。ドイツのEU離脱や移民受入反対を唱えて台頭した右派政党AfD(ドイツのための選択肢)の政治家ビョルン・ヘッケが、《ホロコースト記念碑》は「ドイツの恥だ」と発言したことに対して、アーティスト集団ZPS(英=Center for Political Beauty)が抗議のアクションとして、彼の自宅前の敷地を借り上げ、そこに《ホロコースト記念碑》のミニチュアを柱24本でリメイクした★6。政治家は裁判を起こしたが、「このアクションは造形もその作用も含めてアートとして認められる」という判決理由により敗訴した★7。ミニチュア記念碑はいまも政治家の自宅前に設置されたままにある。

このように、《ホロコースト記念碑》は完成から13年経ったいまも、直接的に間接的に社会に想起を促しているが、その機能の根幹はアートである。アートは、その存在自体が大いなる問いであり、時代を超えて、体験する人に多種多様な解釈を促し、考えるきっかけを提供する。このアートの作用が、パブリック・アートでは公共空間で広く市民に向けられる。さらに記念碑では、歴史というテーマを設定し、想起を促す。こうしてアートの社会的機能が発揮されるのが記念碑であり、「生の体験」から「生の想起」を促す共同想起の装置である。

そもそも想起とは、自発的で自律的な発想と想像であり、それは思考と対話に、そして現実の行動に反映されていく。これはアーティストの作品創造プロセスと重なっている。なお、記念碑に呼応した「Yolocaust」もミニチュア記念碑も、アーティストによるプロジェクトである。社会に想起を連鎖するのもまたアートの作用である。

想起の現在とアートの社会的機能

しかし、アートは創造行為であり、その想起の喚起には、歴史の曲解や捏造という危うさが本質的に潜んでいる。他方、歴史教育の現場では「歴史の事実を正しく知る」ことが重要である。この両者を、対立や矛盾がないように互いに重ね合わせることが、第二次世界大戦の実体験者が失われつつある現代社会の──過去の体験と切り離された世代の──前例なき課題である。《ホロコースト記念碑》というパブリック・アートは、現代において記念碑が、そしてアートが担いうる社会的機能の実証実験でもある。

《ホロコースト記念碑》のアート・コンペティション(=造形コンペ)には、500以上の提案が集まった★8。そのなかで注目された作品案は、前述した課題を認識し、解決を試みている。例えば新技術の活用や応用・開発、共同想起の機会と場の日常化、強制収容所跡地・資料館・ミュージアムをはじめとする各種関連施設・機関との連携強化など、共同想起を促すほかの活動と方向性を共有している。これらの作品案のコンセプトとその問題意識は、記念碑計画を巡る議論を活性化させた。コンペの全提案は議論の記録とともに記録集としてまとめられ★9、その後に建設された記念碑のみならず、博物館や強制収容所跡地、資料センター、歴史政策立案★10に至るまで、分野領域を超えて広く参照されている。

以下に、当時注目された提案のうち、3つを紹介する★11。なお、提案の番号とそれに続く紹介文は本文のために付記したものであり、コンペの公式情報ではない。

提案1──メディア・テクノロジーを活用し、人々の想起を記録し続け、展示し続ける

概要]敷地内に39本の照明灯を立てる。それらは「なぜホロコーストは起こったのか」という問いを投げかけている。訪れる人は、その問いに対する答えを地面上に書きつけることができる。書かれた言葉はすべて記録・保存される。敷地内には、展示と討論のための施設を付設する★12

解説]この記念碑は、日々訪れる人が記した言葉を記録し続ける。そしてそれらを展示し続ける。ネオナチによる歴史修正主義的なホロコースト賛美や、時の政治体制に対する批判が書かれることも想定しているが、あらゆる回答を、価値判断なく記録して残すことで、ありのままの社会を反映させる。回答の変遷も、後の時代の共同想起につながっていく。提案者はアーティストのヨッヘン・ゲルツ。

提案2──記念碑の新設はせず、日常生活空間に歴史を想起する場を埋め込む

概要]建設予定地は使わない。代わりにアウトバーン(高速道路)の一部分を、長さ1kmにわたり、昔ながらの敷石で舗装する。そのエリアの手前には、通常の高速道路の標識と同じ体裁で「虐殺されたヨーロッパのユダヤ人のための記念碑」と掲示する。作品名は『書き換え』。建設予定地は売却し、その資金で少数派差別反対の財団を設立する★13

解説]コンペの与件であった建設予定地を完全に無視した提案。以下コンセプト抜粋「車は敷石の上をゆっくりとしか走ることができない。そこで体に感じる振動を想起と結びつける。アウトバーンは1930年代と1950年代にドイツ経済を支えた。その意味で、ドイツ社会の一貫性を象徴している。また、アウトバーンはヒトラーの『功績』であるが、その記憶は受け継がれず、われわれの経済とバカンスはまったくスムーズに流れている。しかし、その流れが1kmの区間、速度制限を受けることで、アイデンティティの一貫性が見せかけであることに気づかされる」。提案者はアーティストのルドルフ・ヘルツと写真家のラインハルト・マッツ。

提案3──記念碑の新設はせず、保存された「歴史の現場」をつなげるハブを用意する

概要]ベルリンの中心部に位置する建設予定地に、バス・ターミナルを設置する。そこから、アウシュビッツをはじめとする国内外の強制収容所跡地や、現在も保存されているナチスの犯罪現場を結ぶ定期バスを運行する。乗車券売場や待合室のほか、国家犯罪の歴史資料を提供する建物を付設する★14

解説]共同想起のために記念碑を建設する発想自体に疑義を唱えている。記念碑よりも、現存する「歴史の現場」を重視し、強制収容所跡地や歴史博物館を始めとする諸施設との交通手段を用意する。建設予定地はホロコーストの直接の現場でない。しかし、ベルリンはナチスによるすべての犯罪の始点であり、つまり象徴的には全強制収容所への始点である。提案者はアーティストのレナータ・シュティー、フリーダー・シュノック、芸術史家ベルント・ニコライ、ドラジカ・プオウスキーの4名。

さて、《ホロコースト記念碑》のアート・コンペティションが開催されたのは20年以上前である(1994/1997)。当時と現在の最も大きな違いに、情報産業の発展がある。いまはモバイル、VR/AR、ビッグデータや画像解析など、テクノロジーが歴史の想起に積極的に活用されている。最新技術の登場と社会への普及浸透は、すでに共同想起の実践における前提となっており、ひるがえって現代社会における「記億」と「想起」をめぐる「記念」のあり方を改めて考えるきっかけとなっている。


参考文献
☆1──《ホロコースト記念碑》 日本語公式リーフレット(PDF)
☆2──米沢薫『記念碑論争──ナチスの過去をめぐる共同想起の闘い 1988〜2006年』(社会評論社、2009)→《ホロコースト記念碑》建設の経緯と論争に関して最も詳細な日本語文献。翻訳論文が充実。
☆3──Ute Heimrod, Günter Schlusche, Horst Seferens, Der Denkmalstreit - das Denkmal?. Die Debatte um dasDenkmal für die ermordeten Juden Europas. Eine Dokumentation, (Philo, 1999)→『記念碑論争──記念碑とは何か?』計画の立ち上がりからコンペ造形案決定までの公式資料、コンペ資料、各種論考をまとめた基礎資料集。


★1──(独)シンポジウム記録リーフレット「どれだけの数の記念碑が必要か?」(交通建築都市開発省、2012)。
★2──Eisenman Architects mit Richard Serra、☆3 p.881。
★3──(独)アイゼンマンのインタビュー「なぜホロコースト記念碑で遊んでもいいのか」(ベルリナー・モルゲンポスト紙、2010.5.5)。
★4──(独)「ホロコースト記念碑:500万人目の来場者」(ドイチュ・ヴェレ、2016.1.22)。
★5──(独)「アイゼンマン:いまだったらホロコースト記念碑は実現しないだろう」(モノポール誌、2016.10.26)。
★6──(独)「活動家集団、ビョルン・ヘッケの家の玄関前にホロコースト記念碑を建設」(フォーカス誌、2017.11.22)。
★7──(独)「ドイツの司法判断下る:政治家ヘッケに対するアクションはアートとみなされる」(ヴェルト紙、2018.3.22)。
★8──コンペが2回開催された経緯は☆2に詳しい。
★9──☆3を参照。
★10──例えば(独)「連邦における歴史関連施設の運営方針の更新──責任をより強く自覚し、記憶をより深めるために(文化・メディア省諮問委員会担当)」(連邦議会、2008.6.19)。
★11──☆2 第4章「記念碑芸術コンペ」。各提案の原文は☆3を参照。
★12──Jochen Gerz、第2回コンペ案。第1回コンペは不参加。☆2 p.90/☆3 p.883。
★13──Rudolf Herz / Reinhard Matz、第2回コンペ案。第1回コンペにも参加したが、その提案を破棄して新規に提案。☆2 p.100/☆3 p.907。
★14──Renata Stih / Frieder Schnock / Bernd Nicolai / Dragica Puhovski、第1回コンペ案。11位入賞。☆2 p.74/☆3 P.286。

深沢秀一(ふかざわ・しゅういち)
Studio KIKIRIKI代表。科学コミュニケーション研究所フェロー。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修了。 カールスルーエ芸術大学大学院課程修了。近年の企画=『きみたちの魔法──化学「新」発見』(日本化学会、2011)、企画展『警視庁全職員が選んだ首都140年の十大事件』(警視庁、2014)ほか。


201808

特集 記念空間を考える──長崎、広島、ベルリンから


彫刻と建築の問題──記念性をめぐって
ドイツの記念碑と共同想起の現在──《ホロコースト記念碑》とコンペ案から
記念碑を内包する記念碑──《ノイエ・ヴァッヘ》の空間と意味の変遷
このエントリーをはてなブックマークに追加
ページTOPヘ戻る