ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築
──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ

仲山ひふみ(批評家)

トラブルの複数の名

批評家のマーク・フィッシャーはその著書『資本主義リアリズム』のなかで、現代の政治文化の出口(イグジット)なき状況を端的に言い表すべく、「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」という古い警句を引いている。この印象的な台詞は、フィッシャーによれば、アメリカのマルクス主義批評家フレドリック・ジェイムソンがかつて発しスラヴォイ・ジジェクによって広められたものであるそうだが★1、私たちはその出所についての文献学的興味を掻き立てられると同時に、そこで述べられている「世界の終わり」とは具体的にはいかなるものなのかという意味論的な問いを立てずにはいられない。「世界の終わり」とは、巨大隕石が降ってきて地球に衝突したり、どこかの国で核ミサイルの発射ボタンが押されたりして、人間社会が回復不可能な打撃を受けたり、種として絶滅したりすることを指しているのだろうか。あるいは、遺伝子組み換えと突然変異の結果生まれた新種の超強力なウィルスが猛威を奮ったり、人間を超える知能を獲得した汎用AIが反乱を企てたりするとか、そういったSF的アポカリプスのことを言わんとしているのか。「世界の終わり」は、そうしたさまざまに考えられる破局の(言うまでもないが実現の可能性にかなり幅がある)シナリオのうちどれかひとつのことであるかもしれないし、それらすべてのことであるのかもしれない。とはいえ、こうしたすべての破局の可能性のうちで現在のところ最も現実味を増してきていると感じられるのは、地球温暖化と気候変動、それに伴う予測不可能な諸帰結を物語るタイプのそれであるということは誰しも否定しないだろう。第二次産業革命と近代的熱力学の大いなる発展を見た19世紀のヨーロッパをまさに生きた人物であるカール・マルクスは『資本論』第一版序文にて「死者が生者を捉える le mort saisit le vif」というフランス語の古い慣用句を引いているが★2、近過去の実在的諸条件の存続による現在の行為の諸可能性の拘束を言わんとする、このありふれた一文の真理は依然として失われていない──いまや私たちの思考(としての生産活動)が生み出した熱こそが私たちの思考をその根底において捉え、離さなくなっている。あたかも耳にこびりついて離れなくなった旋律の断片、イヤーワームのように、環境危機とそれをめぐる諸言説とは、私たちの時代にとってのまったき悪夢であると同時にその想像力の最も強力なベースライン、リズムトラックともなっている。

実際、矛盾など何ひとつないのだ。たとえば一見したところスマートフォンの世界的普及はレアメタルの使用や膨大な電力消費その他によって環境に深刻なダメージを与えているように思われる。だが実際にはラジオや新聞などの既存メディアの維持に必要とされていた諸々の物質的資源の消費削減にも貢献していて、全体としてはそれほどの脅威ではないと言われている★3。他方で、再生可能エネルギーの代表格である風力発電は、超低周波の騒音を生じたり野鳥など周囲の生態系に悪影響を及ぼす関係で、近年その施設を海洋上に移す動きを見せており、しかしそれが別種の環境破壊を誘発する可能性や維持コスト増大の点で懸念をもたれているといった話もある★4

内在的観点からすれば問題とその解決は、いつでも別の問題の発生とトレードオフの関係にある。最終審級における収支はつねにプラスマイナスゼロだ。宇宙にとって、人間は存在していてもいなくても変わらない(ニーチェがとっくの昔に気づいている)。存在するのが疲れることであるならば、さっさと楽になってしまえばいい(ベケット風に)。ゼロになることへの衝動(フロイト風に)。それは矛盾でもなんでもないのだ(そのとおり)。「資本主義の終わりよりも世界の終わりを......」と言いたくなるのも当然である。実際そちらのほうが楽なのだから。資本主義が続く限りトレードオフの地獄は終わらない、ならばトレードオフの真理そのものである「世界の終わり」へと赴くほうがまだしも「生産的」ではないか──ここで、どちらの選択肢が楽かを教えてくれる快楽計算(あるいはむしろ苦痛計算)がまさに資本主義的思考の尺度を通じてなされている点に注意しよう。それでもなおたんに楽になるのではなく、楽になることの意味について考えよと命ずるのが古代から変わることのない倫理学の普遍的な格率である(倫理学もまた決まり文句によって事に当たる)。

以上の言葉はそのほぼすべてが極論である。しかし私たちの日常会話がしばしばこのような極論の応酬によって構成されることもまた事実である。極論は「気候変動と異常気象で最近自律神経やられ気味」の私たちがこの世知辛い世の中で「生をやっていく」うえで欠かせない、言語論的な「ライナスの毛布」なのだ。極端なことを言うことを許してくれる慣用句なしに生きるぐらいなら、死んだほうがましだ(本当に死んでもかまわないのかなどという野暮な質問はどうか控えてほしい)。

慣用句、決まり文句、イディオム。そのような性格は、リーマン・ショック後の世界的不況により金融資本主義崩壊論が儚くも流行した2008年以後の状況を横目で睨みつつ江湖に放たれたフィッシャーの前述の著書(原著は2009年)が、その冒頭に滑り込ませた例のフレーズ「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」にも等しく認められるところのものである。構築すべきオルタナティヴのイメージもなく、資本主義の端的な終わりを言祝ぐ人々が想像しているものは、じつは世界の終わりなのではないか......。そこまではっきりとした当てつけの意図があったかどうかはわからない。が、いずれにせよ現実において「世界の終わり」はこれ以上ないほどはっきりと、わかりやすく戯画化されたかたちで到来する。2017年1月、前年のアメリカ合衆国大統領選挙におけるドナルド・トランプの当選が正式に決定される。それとほぼ時を同じくして、慢性的なうつ病に苦しめられていたマーク・フィッシャーは自死を遂げる。たしかに彼がかつて「世界の終わり」を語ったのは、80年代イギリスにおいて保守党党首マーガレット・サッチャーが推し進めた新自由主義改革、「この道しかない」のスローガン──「資本主義以外の選択肢を想像することができない」という「資本主義リアリズム」の立場を最もよく示すスローガン──によって確立された、現状の社会政治的構造(ジェイムソンが論文「ポストモダンの二律背反」で描き出した世界でもある)をファンダメンタルに相対化するためにほかならなかっただろう。その限りで「世界の終わり」という文字列はアイロニーとしての喚起力をもち、ポストトゥルース以前の(広義の)ポストモダン的文化のリテラシーに属しつつ、資本主義リアリズムの精神が実際にはいかにリアルでないかを(いわばポストモダンの「死せる想像力」に対して)告発する役割を担わされていたとも言える。だが「死者が生者を捉える」という慣用句が、それ自身死者でも生者でもないにもかかわらず亡霊のようにその真理性を失わずに反覆され続け、また一方では私たちの思考が生み出した「熱」が私たち自身の思考をゾンビのように包囲し続けているということが事実であるならば、「資本主義の終わりよりも世界の終わりを想像するほうがたやすい」というこの決まり文句、イディオム、ミームの力にしても、私たちはそれを資本主義そのもの、さらには世界=自然そのものにさえ優越するコナトゥスあるいは潜勢力をもつものとして(思弁的に)仮定してみたくなる誘惑に抗えないのではないか。このイディオムあるいはミームの発明者(あるいはむしろ確認可能な最初の配布者)であるフレドリック・ジェイムソンが予見していたとおり、ポストモダンとはたんなる歴史上のスタティックな時代区分でも芸術上の一様式でもなく、「後期資本主義の文化的論理」そのものなのであり、しかもそうでありながらこの論理は老いゆく資本の身体から超然と分離したひとつの遺伝的実体を有しているがゆえに、それ自身の死さえ乗り越えて生き残る「非死者 undead」(ジジェク)のパラダイムともなっている。ポストモダンの非生気論的ミームは資本の公理系によって統御されているわけではなく、さらには内世界的なものでさえない、ある根源的にカオス的な宇宙のなかを彷徨する猛り狂った原子そのものなのではないだろうか。

トランプの勝利、すなわちポストトゥルースの時代の幕開けとともにフィッシャーは命を絶った。が、「資本主義の終わりより......」というイディオムの不気味な繁殖力は、左派と右派の別を問わずあらゆる社会集団にそのダークな激しさによって帯電させられたリビドー的な流れを備給する。「世界の終わりのほうが......」という呟きは真理なき時代の空気のなかに放散し、その言葉に独特の批判的機能を付与したかの批評家の死さえもおのれの器官なき身体のカオスモス的パッチワークに組み入れながら、みずからの意味論的実現を目指しその流通=循環の語用論的プロセスの純粋にして呵責なき加速を開始するであろう。かくしてポストモダンの「幽霊」が逝去し、ポストトゥルースの「ミーム」が誕生する。それは「想像しやすいもの」の予測不可能な仕方での勝利であり、天使たちの七つのトランペットが奏でるショッピングモール風ミューザックである。

あえてぶっきらぼうに定式化してしまうと、加速主義は資本主義的思考の諸限界を定めるミーム−原子の運動に固有な時間の理論であり、それ以外の何ものでもない。フィッシャーがその後見人であったと言われるイギリスの左派加速主義(ニック・スルニチェクとアレックス・ウィリアムズ)もまた、未来というカテゴリーの復興、絶えざる技術革新がもたらす労働時間の削減による普遍的解放を謳うなかで、「資本主義の終わりより......」というあの決まり文句をアイロニーとしてではなく、ユーモアとして思考するための方法を探っていた★5。そのためにはある本質的に新しい種類の時間の理論を、制限時間内に──そう、私たちが生きるこの時間の尺度を、「私たちにとって」のものではない時間、人間なしでの時間、「世界の終わり」の後でも続く時間の尺度に変換するための理論を──見出さなければならなかったというだけの話である。

私たちのトラブルに与えられたいくつもの名。それらは互いに内的な、概念上の、ほとんど聴くことのできない韻を踏み始め、共鳴し始め、「熱」を帯び始める。 ホラーの冷たさだけが、相対的な独立性を保ちつつ、この「熱」を測ることができるだろう。測るそばから新たに生み出される「熱」ばかりは避けられないとしても。仮想通貨はマイニングのための膨大な計算を要求する。AIは深層学習のための膨大な計算を要求する。地球温暖化の進行を予測する気候シミュレーションもまた膨大な計算を要求する。計算せよ、計算せよ。サーバールームはいずれ冷房なしでは誰も立ち入れない無人の小さなジャングルと化すだろう。そのうち、世界そのものがひとつのサーバールームと化すだろう。そして、世界は、この「熱」に塗られたサーバールームのなかでわずかな騒音とともに(あらかじめ、それ自身が始まる前から)静かにその終わりの時を迎え(てしまってい)る。

***

「世界の終わり」はもはや資本主義の必然性をアイロニカルに相対化するための一時的なフィクションではなく、環境危機あるいはむしろ「人新世」として、「この」世界の偶然性をユーモラスに絶対化してみせるための永続的なドラマとなる。フィッシャーの師に当たる哲学者ニック・ランドはこのような資本主義の回路そのもののうちに取り憑いた自己現働化するイディオムのことを「超信 hyperstition」と呼んだ★6。人新世がなぜフィクションの、あるいはハイパースティション(それをボードリヤール的な意味での「ハイパーリアリティ」に近いものとして解釈することも可能だろう)の問いと結びつけて考えられるべきなのかについては、以下で私たちが行う考察がその部分的な答えを導き出すはずである。

***

思弁から離れ批判へと向かうためには、私たちはまず自身が用いる語彙の検討から始めなければならない。

かつて環境破壊や地球温暖化と呼ばれていた現象は、近年では特に「環境危機」「生態学的危機」「気候変動」あるいはまた「人新世」と呼ばれることが増えてきている。それは、当初の課題に対する科学的知見が蓄積されるに伴い、困難の所在がより明確化されてきたことの表れであると解釈できるが、同時にそれ以上に、何かが「問題である」とはそもそもどういうことかという問いに関する哲学的反省が──懐疑論者たちからの攻撃も含む社会政治的な文脈のなかでの論争に巻き込まれることで──このトラブルの当事者である私たちのあいだで深められてきた結果でもあるように思われる。私見では、温暖化の問題は、他のすべての問題と密接な関係をもっているという点で特殊だと言うことができる。というのも、増大する「熱」が地球環境にもたらす諸帰結への対応が、私たちにさらなる経済活動と生産活動(化石燃料の消費によって主に賄われる)とを要求し、それによって新たな種類の「問題」の登場が準備されるといったことが、今後繰り返し起きると予想されるからだ。加えて、近年の異常気象(気候変動)と地球温暖化との関係、さらに地球温暖化と人為的な温室効果ガス排出との関係については、最新の研究成果においてその因果性の度合いを評価するための手法が確立されてきている★7。しかし諸問題が(海洋プラスチック問題など地球温暖化と直接の因果関係がないものも含めて)そのように多様な領域にまたがり、かつ相互に絡まりあっているのだとすれば、なおのことそれらを「地球温暖化」の一語に象徴的に集約させるわけにはいかないという話にもなる。こうして「環境危機」という語がより中立的かつ包括的なものとして選ばれることになる。

環境危機が「危機」と呼ばれている事実そのものから、2つのことが指摘できる。まずこの「危機」は空間−時間的規模において私たちが歴史上体験したいかなる「危機」よりも巨大なものであるにせよ、少なくともその内包的意味のレヴェルにおいては「私たちにとって」のものでしかないということ。絶滅が迫りつつある、抵抗せよ、というスローガンが叫ばれるとき故意に曖昧にされているのはこの点である(気候その他の環境条件の急激な変化が一部の生物の大量死と連鎖反応的な絶滅を引き起こし、結果として人間の生存可能性が著しく損なわれるといったシナリオも考えられるとはいえ)。「危機」の解決ないし解消がありうるとしたら、それは何よりもまずこの未来のイメージが「私たちにとって」の困りごと、一種の「症状」であると捉えられたうえで然るべき精神分析的治療が施され、それとパラレルに物理化学的(地球科学的)次元でのさまざまな対策──むろん基本的にはGHG排出削減と「脱炭素化」のための地道な法整備や技術導入であり、必ずしも気候工学のような派手な解決策を想定しているわけではない──が立案・実行されるというかたちでしか起こりえないであろう。第2に、環境危機が与える不安と恐怖の心理的動揺は、近代あるいはポストモダンの社会が技術的かつ制度的に確立した、安心と安全(セキュリティ)の論理の生理的不動性と鏡映しの関係になっているということである。日常的に繰り返される「危機」の注意喚起は、かえって変化への意識を鈍麻させる。眼に映る安逸な日常は、リスクを回避するための絶え間ない非人称的な計算と、その計算に主観的に介入することへの無意識的忌避によってこそ支えられている。「危機」を無視することはそれを排除するための最良の手段である、という子どもじみたレトリックこそが典型的にポストモダンな社会文化的システムの真理の表現なのであり、そのようなセキュリティの弁証法はあらゆる非日常的外部性の徴候をその大いなる日常性の閉鎖回路のうちに取り込んでしまう。ここにヴェイパーウェイヴと呼ばれるデジタル文化の突然変異的表象や、あるいは先述の加速主義が、いわゆる「存亡リスク」をめぐる社会的に見てまともな言説の★8、現代におけるダークなカウンターパートとして登場してくる背景がある。

さて、「環境危機」という名づけは諸問題の複雑すぎる絡まりあいを包括的に指示することには成功したが、「危機」の一語が含まれていたことによって、「問題であること」の本質が「私たちにとって」という観念論的主観性の契機にすべて還元されるかのような誤った印象を与えてしまうという欠点も有していた。この欠を補うべく登場したのが「人新世(アントロポセン)」という名称である。気候学者パウル・クルッツェンにより提唱された、完新世に次ぐこの新たな地質年代区分は、18世紀末の産業革命以来、化石燃料を消費し続けている人間の諸活動の自然環境への影響の大きさを考慮すべく作られたものであり、そこには「人類学/人間学(アントロポロジー)」と同様に意義素としてギリシア語の「人間(アントロポス)」が含まれている。だが、そうした語源学的類推から期待される意味に反して、このキーワードにおいて真に意図されているのは、環境問題全般を考えるに際しての人間中心主義的な視点の放棄であり、先に述べたような「私たちにとって」の審級の主観主義的絶対化の拒否であるのだ★9。すなわち、人間がいまや、伝統的には「人間=文化」と対立する独立したカテゴリーと見なされていた「世界=自然」と一体をなしており、その2つを切り分けて思考することがほとんど意味をなさないような状況のうちに生きていることを告げ知らせるものとして、逆説的にこの「人新世」という名は選ばれている。そこではブリュノ・ラトゥールの「アクターネットワーク理論」が好んで描き出すように★10、あらゆるものが他のすべてのものとつながりあい、程度に違いはあれど相互に影響を及ぼしあっていて、良い出来事も悪い出来事も事実上予測不可能な仕方でどこか別のところへ波及していく可能性をもっている。人間「と」世界との対称的関係の基礎は掘り崩され、非対称的な、ひとつの視点からは全体をけっして見渡すことのできないネットワークが代わりに浮上してくる★11。人間は、いわばそのような喜ばしくもタフな現実を抱えた「地球システム」の一員として、ついに自己の厄介な有限性を再認せざるをえなくなったというわけなのだ。

より踏み込んで言うなら、環境問題を「私たち」が生き残るうえでの問題と捉え、「危機」と呼ぶことは、「人新世」がもつ本質的な洞察のダークな繊細さから逃れることを意味する。すなわち「私たちこそがこの本質的に解決不可能であるかもしれない危機を招いたのであり、しかも原理的に言っておそらくは今後も、この種の危機を私たちみずからの手で再び招き寄せてしまう可能性がきわめて高い」という過酷な認識から逃げることを。クルッツェン自身が、地球温暖化の緩和に関して、成層圏への硫酸エアロゾルの散布による「太陽放射管理」といった気候工学(ジオエンジニアリング)的アプローチを強く提唱しているという事実を忘れないようにしよう。逃避するのではなく、凝視するという選択肢がある(左派加速主義者としての、あるいは同じことだが、カント的啓蒙主義者としてのクルッツェン)。後者を選ぶことで、何が見えてくるのだろうか。これが一過性の状態ではないこと、つまり「危機」と呼ばれるべき状況ではまったくないらしいことが見えてくるのである。だから最近の著作でラトゥールが以下のように嘆く素振りを見せていても驚くには当たらない。「それにしても、「〔生態学的〕危機」について語ることは「これもいずれは過ぎ去る」とか、この危機は「すぐに追い越される」と言って私たちを安心させる別のやり方に過ぎないだろう。これがたんなる危機であったなら! そうであってくれたならば! 専門家は私たちに〔「危機」ではなく〕むしろ「変異 mutation」について語るべきだと教えてくれる。私たちはひとつの世界に馴れ親しんでいたが、いまや別の世界に足を踏み入れかけており、変異しつつあるのだと。「生態学的 ecological」という形容詞についてもまた、私たちはあまりにもしばしばその言葉を、私たちを脅かすトラブルから私たち自身を隔たらせておくための手段として、安心のために用いている。〔......〕私たちはちょうど20世紀の人々が「環境 environment」について語るときのように振る舞っている。彼らはその言葉を、張り出し窓に隠れて、離れたところから考察された自然の諸存在を指し示すために用いていた。しかし今日では、専門家によれば、私たちの誰もがみな内側で、私たちの小さくて特別な実存の人目につかない部分で、〔私たちの食生活や土地使用や衣類選択について直接に警告する〕これらのニュース放送の影響を被っているというわけなのだ」★12

 ここにきてようやく私たちは、私たちが「トラブル」と呼ぶものの正体が、あらゆる問題が他の問題と結びついて内在的なトレードオフの関係となり、解決のための思考を開始するための入口も出口もなくなるような状況であることに漠然とではあるが気づき始める。特定の問題や危機が重要なのではなく、むしろそれらがあまりにも複雑に絡まりあい、ホーリズム的な「一なるトラブル」を形成してしまっていることこそが問題なのである。思考の行為それ自体が絶えず当の思考の可能性の条件に跳ね返ってきてその書き換えを行うため、ある意味では、それが本当に「一なる」ものであるかどうかさえ確言できない。切り口があまりにも多く、しかもそのどれを選んだとしても全体の解決の決定打にはまったくなりえないことが予想され、残るのは先取りされた甘い疲労感だけとなる。科学と反科学が対立しているのではない。科学がそれ自体のうちで、これまでけっして聴かれたことがない種類の大いなる認知的不協和のノイズを奏でようとしているのだ。かくして不確実性と予測不可能性とが私たちの伴侶、あるいは友となる。さて、この友とどのように付き合うべきだろうか──このあまりにも多くの名をもつ友と。



★1──以下を見よ。マーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』セバスチャン・ブロイ+河南瑠璃訳、堀之内出版、2018年、9−10頁。
★2──カール・マルクス『資本論(一)』向坂逸朗訳、岩波書店(岩波文庫)、1969年、15頁。
★3──「iPhoneは大量の電力を消費するが、実は地球環境の保全に貢献している」、『WIRED.jp』、 URL = https://wired.jp/2019/08/08/iphone-environment-consumption/. (最終アクセス:2019年12月10日)
★4──「風力発電は環境コストの増加に耐えられるか?」、『国際環境経済研究所』、URL = http://ieei.or.jp/2019/09/sugiyama190925/.(最終アクセス:2019年:12月10日)
★5──以下を見よ。Nick Srnicek and Alex Williams, "#Accelerate: Manifesto for an Accelerationist Politics", in Robin Mackay and Armen Avanessian (eds.), #Accelerate: The Accelerationist Reader, Falmouth and Berlin: Urbanomic/Merve, 2014, pp.347-362.
★6──「超信」は「迷信 superstition」に合わせた訳語案。なおランドはこの用語をある実験的なテクストのなかで、クトゥルフ神話と擬似民族誌のあいだの隠された関係性についての思弁に没頭する一人の虚構的人物の口から語らせ、定義している。「私たちがフィクションに興味をもつのはそれが同時にハイパースティション──この言葉は私たちが造語したもので、みずからを実在的なものにする記号論的生産物のことを指している──、つまり回帰を告げる旧支配者からの暗号通信である限りでのことにすぎない〔......〕これこそがクトゥルフ系フィクションの両義性──あるいはループ──である。誰が書いているのか、そして誰が書かれているのか?」Nick Land, "Origins of the Cthulhu Club", Fanged Noumena: Collected Writings 1987-2007, Ray Brassier and Robin Mackay (eds.), Falmouth: Urbanomic, 2011, p.579.
★7──2013年に公開されたIPCC第五次報告では、地球温暖化が人為的な温室効果ガスの排出によるものである可能性は「きわめて高い」(95%以上)とされる。異常気象と地球温暖化との関係については、いわゆる「イベントアトリビューション」の研究手法が注目されている。以下を参照。塩竈秀夫「【最近の研究成果】2010年南アマゾン旱魃に関するイベント・アトリビューション研究」、『地球環境研究センターニュース』2013年6月号、URL = http://www.cger.nies.go.jp/cgernews/201306/271008.html.(最終アクセス:2019年12月10日)
★8──人類の存亡リスク(Existential Risk)をめぐる学術的研究の蓄積は、超汎用AI(super artificial general intelligence)の実現可能性をめぐる思考実験などで知られるニック・ボストロムが率いるケンブリッジ大学の「存亡リスク研究センター」などを中心に国際的にも目立つようになってきている。とりわけこの語の案出がなされたボストロム自身による古典的論文のなかでの「存亡リスク」の可能な四つの類型の提示は、「世界の終わり」をめぐる諸言明に意味論を与えるための早期の重要な試みのひとつだと評価できる。だが一方で、そのような「まともな」企てを破壊し尽くすのが「世界の終わり」というものの実在論的かつ言語論的なポテンシャルであるとも私たちは直観する。以下を見よ。Nick Bostrom, "Existential Risks: Analyzing Human Extinction Scenarios and Related Hazards", Journal of Evolution and Technology, Vol. 9, No. 1 (March 2002). また複数の論者による、環境危機も含めたグローバルな破局のリスクの検討としては以下の論集が参考になる(「友好的AI」の概念の発案者であるエリーザー・ユドコフスキーやマインド・アプローディングに関する議論で知られるロビン・ハンソンといった研究者らの寄稿が目を引く)。Nick Bostrom and Milan M. Cirkovic (eds.), Global Catastrophic Risks, Oxford and New York: Oxford University Press, 2008.
★9──「環境危機」という概念に対して「人新世」が突きつける脱人間中心主義的な反論については、以下を参照。クリスティフ・ボヌイユ、ジャン=バティスト・フレソズ『人新世とは何か──〈地球と人類の時代〉の思想史』野坂しおり訳、青土社、2018年、37頁以下。
★10──たしかにグレアム・ハーマンが述べるとおり、ラトゥールの存在論的立場は「あらゆるものが他のあらゆるものと関係する」という意味での純粋な全体論(holism)とは区別されるべきだろう。だが私たちとしてはむしろラトゥールの(自然と人間との近代的分割を失った)「ハイブリッド」概念がもつ手に負えない絡まりぐあいのほうに注目したい。以下を参照。Graham Harman, Prince of Networks: Bruno Latour and Metaphysics, Melbourne: re.press, 2009, p.47.
★11──人間と世界の対称的な関係モデルを「近代」の特徴とし、非対称的なそれを「非近代」の特徴とするのはラトゥールの基本的な考え方だ。以下を参照。ブルーノ・ラトゥール『虚構の「近代」──科学人類学は警告する』川村久美子訳、新評論、2008年。
★12──Bruno Latour, Facing Gaia: Eight Lectures on the New Climatic Regime, Catherine Porter (tr.), Cambridge, UK: Polity Press, 2017[original French version 2015], p. 8.


201910

特集 建築・都市・生環境の存在論的転回


ポストモダンの非常出口、ポストトゥルースの建築──フレドリック・ジェイムソンからレザ・ネガレスタニへ
建築の制作論的転回〈前編〉
建築の制作論的転回〈後編〉
生環境構築史の見取り図
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