いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを
──経験知、生活知の統合をめざして

南後由和(明治大学情報コミュニケーション学部専任講師、社会学、都市・建築論)+貝島桃代(筑波大学准教授、建築家、アトリエ・ワン)

展覧会メディアの批評性

南後由和氏

南後──情報化とグローバリゼーションの連関についても、globeという文字どおり、地球をめぐる地理学的想像力と結びつけて、位置関係を把握しながら捉え返していく視点は重要ですね。ところで、雑誌が休刊していく一方で、建築を取り巻くメディアで何が勢いづいてきたかというと、展覧会だと思うんですね。とりわけ2000〜2010年代にかけては、建築に限りませんが、ビエンナーレなどの芸術祭が国内外で乱立するようになりました。音楽のCDは売れないけれど、フェスの動員数は増えている状況があるように、同時代的現象として、雑誌は売れないけれど、展覧会の動員数は増えるということが起きました。国内でも森美術館、東京国立近代美術館や金沢21世紀美術館などの建築専門ではない美術館が大規模な建築の展覧会を開催するようになりました。また、東京の国立近現代建築資料館やフランスのポンピドゥ・センターなど、建築のアーカイブへの注目も高まりました。ソーシャルメディアへの依存度が高くなった時代だからこそ、模型やドローイングというリアルなモノに直接触れられる機会への欲求が高まったからだといえるかもしれません。2018年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展に関しては、貝島さんがキュレーターをされた日本館の展示が典型でしたが、厚みあるリサーチと連動したアーカイブ型の展示がある一方で、スケールの操作によって空間をわかりやすく読み取れるスイス館の展示「ハウスツアー」のような体験型の展示が目立ち、展示のタイプの二極化が進んでいる印象を受けました。

貝島──アートの分野でさまざまな地域でビエンナーレやトリエンナーレが盛んになったのが2000年頃ですね。アトリエ・ワンも『ペット・アーキテクチャー・ガイドブック』(ワールドフォトプレス、2001)を出版したことをきっかけに、アート展に呼ばれるようになり、そうした流れに巻き込まれていきました。アートからすれば建築などの外側の領域と交わることで、社会化・政治化の深度を得ることにもなったかと思います。一方で、もともと社会のなかに建っている建築が美術館に入ることで、建築家としての思想が表現化されます。アトリエ・ワンとしては、脱作家性を求め、社会的なものをつくっているつもりでしたが、同時に、われわれの思想も関心を持たれるようになってきた。今振り返ってみると、ヨーロッパでは建築家の作家としての哲学や美学に対しても高い関心があるので、ある意味人間中心主義的な評価だったんだなと理解できるのですが、当時はその反応を不思議な現象だと思い見ていましたね。

また建築展の可能性で言えば、もともと建築は土地に根ざしたもので、現物を見るためには世界中を回らないといけないわけですね。その点、模型などを展示することで気軽に建築を体験できる展覧会は、新しい建築メディア・都市メディアとして認知されてきている。ワークショップもそうしたメディアのひとつだと思うんですね。私も東日本大震災の復興活動で、石巻で牡鹿漁師学校などをやっているのでとりわけそう感じるのですが、情報を得るだけでなく、具体的に使えるスキルを身につけたいという欲求が出てきていると思うんです。高度に専門化した知識や技術としての建築を、もう一度社会や生活のなかに下ろして、日曜大工のような、あるいは村祭でやぐらを建てるような感覚を呼び起こす。いまはそういうメディアが求められていると感じるんですね。自分で自分のことができるようになることを目指すわけですから、ある意味では健全化しているともいえるでしょう。

また私自身もこちら側のリソースを出していく一方的なレクチャーだと、擦り切れていく感じがするので、ワークショップをやったり、学生たちに宿題を与えてやってきてもらったことに応えたり、自分たちがやれることをシェアしてみたり、自分の経験だけでなく相手の経験も含めてインタラクティヴに働きかける仕組みをつくれないかと考えています。例えば読書会のようなことをやって、みんなで同じ本をシェアして話し合ったり、批評文を書いて発表してもらい、情報を身体に叩き込むということをやってもらう。ウェブメディアによって情報が拡散していく流れがあるとしたら、それとは逆の統合の方向に振り切ってみるのもいいのではないかと思っています。

マルチディシプリナリティ、インターディシプリナリティ、トランスディシプリナリティ

南後──いまのお話は、最近僕が関心をもっている「トランスディシプリナリティ(Transdisciplinarity)」というアプローチと重なるところがあります。今日は最初にコンスタントの話、次に「10+1」の話をしましたが、両者に共通するのは「学際性」です。コンスタントは、絵画というディシプリンが基底にあって、そこから彫刻や建築模型や地図というさまざまな領域を横断していった人です。「10+1」にしても建築の専門誌ではなく、社会学、地理学、表象文化論や文化人類学など、さまざまなディシプリンの書き手が参加した学際的な批評誌でした。

日本語だと、すべて「学際性」という言葉で一緒にされてしまいがちですが、英語だと大きく3つに区別されます。1つ目は、「マルチディシプリナリティ(Multidisciplinarity)」です。これはある問題への取り組みに対して、社会学や建築学など複数のディシプリンが導入されるのですが、各々のディシプリンの概念、方法、評価の仕方は維持されたままで、それぞれがバラバラに並んでいるだけの統合なき協働です。マルチディシプリナリティでは、ディシプリンの境界は保たれたままです。2つ目は、「インターディシプリナリティ(Interdisciplinarity)」です。これは情報化や環境問題など、複雑で全体像が見えない共通の課題に向けた、複数のディシプリンの多様なレベルの統合による協働です。インターディシプリナリティでは、ディシプリンの「間」への着目があります。そして3つ目が、「トランスディシプリナリティ」です。これはインターディシプリナリティと同様、複雑で全体像が見えない課題に向けたアプローチですが、複数のディシプリンの概念、理論、方法、考察の高度な「統合」と新しい枠組みの創出に加え、非専門家のステークホルダーの経験知や生活知をも「統合」していく協働です。インターディシプリナリティとの最大の違いは、従来は専門家とみなされてこなかった人たち──先ほどの貝島さんの話にあったようなスキルをもった、あるいはもちたいと思っている非専門家の人たち──の経験知や生活知も統合していくという点です。トランスディシプリナリティの実践は、ディシプリンの境界の越境や書き替えを伴います。

ただし、トランスディシプリナリティにはパラドックスがあります。trans、つまり越境や逸脱はディシプリンの境界が明確化されたうえで、初めて可能になるので、トランスディシプリナリティは必ずしもディシプリナリティを排除するものではなく、むしろその確証を伴うということです。先ほど貝島さんが紹介された、ドイツの『Archi+』におけるドローイングの学際性の話でいえば、まさに建築家と他分野のドローイングの方法や慣習の違いなどを比較することによって、建築家のドローイングという「ディシプリナリティ」の固有性が際立つということです。ディシプリナリティの境界を明確化する作業は、本質主義のようなナイーヴな後退を意味するわけではありません。イギリスの地理学者アンドリュー・バリーらが『Interdisciplinary: Reconfigurations of the Social and Natural Sciences』(Routledge、2013)という本のなかで指摘するように、しばしばディシプリナリティの均質性は「閉鎖性」、インターディシプリナリティやトランスディシプリナリティの異種混淆性は「開放性」と結びつけて理解されてきました。ここでいうディシプリナリティの「閉鎖性」とは、単一のディシプリン内における型へのはめ込み、因習的作法の反復、現状の体制への批判意識の欠如などです。ですが、ディシプリンの境界は、固定的なものではなく、関係的で再編成のさなかにあり、歴史的に変容を遂げながら深化してきました。逆に、インターディシプリナリティやトランスディシプリナリティも開放性のみと結びついたものとしてあるのではなく、研究の方法や対象の限定、分析や提案の「統合」に向けた収斂などの、「閉じる」作業を必要とします。

じつはコンスタントもキュレーター的感覚をもった人で、展覧会では鑑賞者を受動的な存在から能動的な存在にtransさせるためのさまざまな工夫をしていました。僕のなかでは、ニューバビロンに関する研究と、建築のメディアや展覧会に関する関心はつながっています。ちなみに、先ほどの「学際性」の区分でいえば、「10+1」とは、特集の組み方によって、時に「マルチディシプリナリティ」であり、時に「インターディシプリナリティ」であったメディアといえるかもしれません。優劣の問題ではありませんが、今後は「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアのあり方も追求したいですね。

貝島桃代氏

貝島──ティム・インゴルドがアバディーン大学の大学院で複数のディシプリンの学生を一緒に教える「4つのA」というプロジェクトをやっています。「4つのA」というのは、建築(Architecture)、芸術(Art)、人類学(Anthropology)、考古学(Archaeology)のことですが、参加している学生全員にドローイングを描かせて、都市リサーチをして、提案していくというプロジェクトです。それはおもしろいと思うのですが、ただティム・インゴルドは社会学者ですから、提案をするうえでの実践的なスキルをもっていない。むしろ学生たちのやっていること自体を参与観察によってリサーチしているところがある(笑)。

私はデザインする立場なので、いろんな意見を調整しながらみんなでつくっていくことは単純に楽しいし、そういうところにこそ建築メディアの可能性を感じるんですね。建築は時間もかかるし面倒くさいし高い専門性も必要とされ、多くの人が関わらないとできないものです。わたしには、メディアとしての建築があり、その実現のプロセスを通して社会が醸成されるイメージがあります。建築はゴールではなくてあくまでもメソッドです。ドローイングもそのひとつといえます。しかしそう考えると、ウェブというのはメディアとしての建築を表現するものとしては、あまり適していないようにも感じるんです。本はまだ実体感があるのでいいのですが、建築がウェブに載るときに、それが本来もっている面倒くささのようなものが消えてしまうのではないか。ウェブやソーシャルメディアの全体が見渡せない感じは都市の複雑性に合っているように思いますが、建築の面倒くささをどうウェブで表現できるのか、まだイメージできないところがあるんですね。

南後──イェール大学教授のケラー・イースターリングが『Medium Design』(Strelka Press、2018)というコンパクトな本を書いていますが、マーシャル・マクルーハンのメディア論やブリュノ・ラトゥールのアクター・ネットワーク理論を参照しながら、さまざまな関係性が織り込まれたメディウムのデザインについて論じています。ここでいうメディウムとは、コミュニケーション手段としてのメディアにとどまらず、思考の枠組み、オブジェクト間の関係性、アクター間の相互依存性、次なる行為の可能性を提供する環境などを指します。このようなメディウムとして建築をデザインしようとする態度は、いま貝島さんがおっしゃったこととシンクロしているように思います。また、ウェブとの関係でいうと、アトリエ・ワンのおもしろさは、旧来型のメディアと新しいメディアの「差分」に、鋭敏に反応しているところにあると思うんですね。「メイド・イン・トーキョー」は90年代にウェブが浸透していく過渡期のプロジェクトで、ガイドブックという旧来型のメディアのフォーマットをうまく活かしつつ、新しいメディアであるウェブの集合知のようにコンテンツが積み上がっていく参加型の仕組みをつくっていました。貝島さんが最近やられている建築の民族誌は、CADやBIMなどが身体化されている学生たちに手描きのドローイングがもっている可能性に触れさせ、その「差分」を浮かび上がらせています。

貝島──「差分」はおもしろい言い方ですね。人間はそんなに自由なわけではなくて、メディアや環境に束縛されている。だからこそ、自分がやっていることのなかにハマりきるのではなく、つねに外を意識しながら、内部と外部を行ったり来たりして仕事をしたいと思っているんですね。ドローイングの何が一番おもしろいかというと、描いているときでもパッとその外に立って見渡せるじゃないですか。ところが、ウェブはそうもいかなくて、使うか使わないかの切り替えくらいしかできない。使いながら全体を見渡せる外側に立つということができないわけです。結局、批評的な視座をもつということは、メディアの内側にいながらにして外側に立つということだと思うんです。

近年はスイスに呼ばれていろいろとやりたかったことをやらせてもらっているのですが、スイス在住は今回がわたしにとって3回目なんですね。1回目1996年は学生のときで、そのときはスイスのことをひたすら勉強しました。2回目2005年では、アトリエ・ワンが設計した小住宅のつくり方を、ETHのネットワークをベースに、世界中の24都市の建築家と協働して、学生たちにチャレンジしてもらいました。3回目の20017年からは、もっとスイスを深掘りしようと思って、スイスと日本の社会的なコンテクストの比較を通して建築について考えています。それらはまったく違うものですが、照らし合わせてみることで、まさにそれらの「差分」によって批評性が得られるのではないか。その違いを横断するなかで、次のクリエイションが生まれるかもしれない。これは「メイド・イン・トーキョー」のときから言っていることですが、私はまったく別のものをぶつけてみたときに生まれるハイブリッドなものや、何かと何かの「あいだ」にいるという感覚に現代性を覚えるし、ずっと関心をもっているんですね。

私と塚本由晴で、早くリタイアして東京をガイドする旅行会社でもやろうかという話をしています(笑)。ハーヴァード大学やコロンビア大学ではスタジオの課題にあわせて研修旅行があり、研究補助金が出ていたり、ETHではセミナーウィークという、テーマを決めて学生たちと建築や都市を研究する研修プログラムがあります。日本は言葉の問題などがあって半鎖国状態ですが、世界の端に位置しながらこれだけ独特な文化をもった国なわけですから、世界の役に立つこともあるかもしれない。もちろん提供するだけではなく、われわれが得ることもあるはずです。これからの建築メディアは旅行会社と提携してコンテンツをつくっていくのも手かもしれませんよ。私は各地にある郷土資料館が好きで、昨日もたまたま三島の郷土資料館に行っていたのですが、その場所に紐づいたいろいろな文化があって、それが建築や道具として形として残っている。そういうものを体験的に理解できるのは、何より楽しいことだと感じます。いま、メディアが多様化し、旧来のインターフェースに加えて体験それ自体の価値が見直されていると感じます。それぞれのリテラシーを楽しみ学びにつなげていくことが、これからのメディアのかたちなのだろうと考えています。

[2020年1月13日、アトリエ・ワンにて]


南後由和(なんご・よしかず)
1979年生まれ。明治大学情報コミュニケーション学部専任講師。社会学、都市・建築論。東京大学大学院学際情報学府博士課程単位取得退学。著書=『ひとり空間の都市論』(ちくま新書2018)、編著=『磯崎新建築論集第7巻 建築のキュレーション』(岩波書店、2013)、『建築の際』(平凡社、2015)、共著=『モール化する都市と社会』(NTT出版、2013)、『商業空間は何の夢を見たか 1960〜2010年代の都市と建築』(平凡社、2016)ほか。

貝島桃代(かいじま・ももよ)
1969年生まれ。筑波大学准教授、スイス連邦工科大学チューリッヒ校(ETHZ)建築の振る舞い学教授。建築家、アトリエ・ワン。最近の作品=《ハウス&アトリエ・ワン》(2006)、《みやしたこうえん》(2011)、《BMW Guggenheim Lab》(2011)、《Rue Ribiere》(2011)ほか。著書=『空間の響き/響きの空間』(2009、LIXIL出版)、『Behaviorology』(Rizzoli、2010)、『WindowScape 窓のふるまい学』(フィルムアート社、2010)、『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』(2010、LIXIL出版)、『A Primer』(Walther Konig、2013)、『建築の民族誌』(TOTO出版、2018)ほか。


202003

特集 [最終号]建築・都市、そして言論・批評の未来


独立した美術・批評の場を創出するために
いまこそ「トランスディシプリナリティ」の実践としてのメディアを ──経験知、生活知の統合をめざして
リサーチとデザイン ──ネットワークの海で建築(家)の主体性と政治性を問う
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