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  . 堀井義博
Fig.05 クリックで拡大


Fig.06


Fig.07


Fig.08


Fig.09


Fig.10


Fig.11










Fig.04をのぞき、すべて筆者撮影
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高速ズームでフレームを一気に縮める。クロース・アップ。

この建造物の中を歩いていると、そこかしこに、この建造物の物質的な成り立ちを知らしめる痕跡が目に付く。写真[Fig.05]のような、あたかも縫い合わせた傷跡のようにさえ見える、鉄板同士を溶接した大きなビードである。

さらにこの写真[Fig.06]には、ほぼ平行する溶接痕が見えると思うが、このような痛々しくさえある残骸は、ほぼ間違いなく次のような事実を物語っている。すなわち、当然発生するであろう鉄の歪みを予測しつつ細心の注意を払って施工されたには違いないだろうが、しかしなお、その形態の複雑さ故に予測しきれなかった部分——つまり、隣り合う部材同士が不幸にして合わなかった事実の痕跡なのだ。それで生じてしまったスキマに違いない。それを埋め合わせるための継ぎ接ぎ。

現場に足を運んで筆者が最も感心したのは、実は、こうした生々しい部分を彼等はけっして隠さなかったという事実だ。この建造物に関する限り、そのような部分というのは、アラ探しをするまでもなく、行けばそこかしこで見ることができる。場所によっては手で触れることさえできる[Fig.07]

そして、こうした生々しい物質性の露出が、なんでもかんでも化粧で(=仕上げで)誤魔化してしまう建築現場のうさんくさい習慣が生み出す、ノッペラボウでペッカペカのツンツルテンな、奥行きにも厚みにも欠けた建造物への堕落から救っている。その傾向は、公共性の強い建築物ほど顕著になるから、横浜でのこうした決断はとりわけ際立つ。

言い換えれば、この一見痛々しく見える傷跡が、この夢のような構築物とわれわれの現実世界とのつなぎ目として作用しているのだ。たんに鉄板同士を縫い合わせているだけではなく、夢のヴィジョンとわれわれの現実とを縫い合わせてもいる。

鉄骨で造られる建築の現場を知っている人ならわかるだろうが、概念上は「平滑」であるはずの鉄の部材も、現実のそれらはけっして平滑ではない。鋳造時に生ずる細かい粒状のザラツキや、微妙にうねる不陸が、多彩でメラメラとした表情を1枚1枚の鉄板に与えている。そして、ここではそういった鉄の特性が、耐火塗装によって惜し気もなく晒されているのである。

さらに些細な話をすれば、写真[Fig.08]を見ればわかる通り、手摺り子にはなかなかの工夫がある。というのも、独特の空間の形状ゆえに、均一なタテ桟でもヨコ桟でもうまく割り付けることができないし、かといって場所にあわせて割を変えると、全体としては雑然とした印象を与えてしまうことになる。しかし実現された仕組みは、ある種の仮想ポリゴン(厳密にはポリゴンではないが)を作り、その先端のセグメントを手摺りとして通す、というような解決になっていて、このために、あらゆる傾斜角を持つ床や壁(もしくはその類似箇所)に対して均等にマージンを取りつつ、かつ、一貫した仕組みで手摺りを設置することを可能にしている。

あえて惜しいと感ぜられた点をいくつか挙げるとするなら、まず、安全のため(というよりも、安全を保証するため)には仕方がなかったのかもしれないが、屋上の歩行禁止区域が意外に多いということ。市民の散策路としての屋上のほとんど(実はこの建造物の最大の「プログラム」とは、だから内部にではなくその外表面にある)が、ウッド・デッキというなんとも通俗的でロマンチックな仕上がりになったことに不満を持つ同業者も多いかもしれない。しかし、だからいっそのこと、それらの歩行禁止区域は、どうせなら全て緑化しておけばよかったのではないか、とさえ思う。そうすればさらにロマンチックになっただろう。が、緑化するのと違って、細かい面で分割すること(=ウッド・デッキで仕上げること)は、この建造物の成り立ちを控えめに伝えてもいる[Fig.09, 10]

一方、もし緑化してしまうと、むしろ「きぐるみ」のように曖昧な曲面でその本質を隠してしまうことにもなる。だから「近くに緑豊かな山下公園があるのに、それと競合するものを作る必要はないと考えた」という設計者による表向きの説明は、実に誠実な見解でもあり、かつ、まったくの眉唾でもあるという、まったく憎めないコメントだ。また、そうした理由が想像付かなくもないが、エントランス部分で用いられた、意味不明な折れ曲がるガラスのファサードも少々過剰だとは思う[Fig.11]

鉄が主要構造材として用いられている建築物のことを普通は「鉄骨造」というが、骨は骨でも、この建造物では内骨格というより外骨格として用いられている。外骨格という語が、昆虫や甲殻類の体のような構造を指し示すために存在しているとしても、それはあくまで、われわれ人類のように内骨格を持つ生物の仕組みと比較するために用いられる表現に過ぎない。「骨」は内部に埋もれているものだ。その一方で、外骨格は「殻」と呼びうる。この建造物では「骨」は露出している。だから僕はこの建造物を「鉄骨造」ではなく、あえて「鉄殻造」もしくは、略語で「S造」というように、たんに「鉄造」と呼びたい。