それにしても何故、私たちは地下街を対象にフィールドワークを始めたのだったか
瀬山真樹夫 SEYAMA Makio
 


「地下街」は地面 の中にある。ということは、地下街から外にでることは出来ない。そこは、土の中だから。密実な地面 をくりぬいて作られる都市、つまりそこには「外側」がない。そして「外側」がないということは当然「内側」もないのだった。内側は、外側との関係において内側になるのである。私たちはここで、内側がない都市なんてあり得るのだろうか?などとつい考えてしまうが、そもそも「内側/外側」(あるいは「表/裏」「プライベート/バブリック」「都市/郊外」、、などなんでもよいのであるが)という分節の仕方自体、私たちが勝手に対象に対して与えている性質に過ぎないのであるから、当然そのような都市は成立するし、言い方を変えれば、これは私たちが都市を経験する、まさにその経験の仕方の問題なのである。そして、このような2項対立の図式では語れないあり方で成立している都市を歩くことは、翻って地上を生きる私たちの問題として有効なものであり、そこから現実的に都市を思考することが出来るのではなかろうか?なぜなら私たちの現実においては、都市も郊外も、内部も外部も、プライベートもパブリックも、はっきりとした区別 を持たずにただのっぺり、だらだらと地続きに繋がりながら成立しており(例えば、成城学園前は郊外なのか?経堂は?下北沢は?)、そのような現実は前述のような2項対立を単純に前提にしていては捉えきれないものであるから。またこの意味において、地下街を歩くということは私たちにとって「単に地下街を歩くこと」以上の意味を持ったものとして経験されるはずだ。

と、いうようなことを1年前の私は考えていたのだった。結論から言うと、私のこのような幼稚な仮説はフィールドワークの開始と同時に、当然のごとくあっさりと裏切られることになったわけだが、しかし、同時にその出発点において考えていた直感はおおむね正しかったという実感もある。そこで起こっていた事について、詳しくは各論考(リンク)を参照してもらうとして、ここでは少し感想を述べておきたい。








とりわけ印象深かった地下街はどこだったか、、と考えてみて、やはり初回の八重洲の完璧さに勝るものはないか、、いや須田町の佇まいの見事さは特筆に値するし、それより横浜にみられた連続性こそが地下街のなんたるかを体現していたようにも思えてくる。しかしそれを言うなら、しんちかのはかなさを挙げないわけにはいかないし、渋谷駅の雑踏の下に埋まっているしぶちかの奇妙な存在感、それになんと言っても新宿!地下街が空中にあるというこの発見は捨てがたい。ビルが埋まっていた池袋も印象に残っているなあ。と、いうわけで結局どこが一番などとはとても言えないのであった。それは、みな同じように地下街と呼ばれながらも、それぞれに全く異なる形式性を備えた場所であって、その意味においては地下街という名称のもとに一般 化することが出来ない固有の体験だったと言えるだろう。しかしその固有性は、同時に私たちがそこを意識的に歩くことによって発見したものでもある。私たちの旅は、意識しなければ単に「地下街」という名称の下にくくられてしまうもののなかで、微細な差を発見し、その発見の中から差に還元出来ない固有性を作り出す、地下街を一般 化からすくい上げる旅でもあったわけだ。








それにしても、ここまで多様な形式性を備えた場所が、これほど身近なところで発見出来るとは。(いや、この言い方は少しおかしい。正確には、「これほど身近な場所のなかから、ここまで多様な形式性を発見出来るとは。」という言い方のほうが正しい。)足を踏み入れるまでは、漠然としたイメージとしての対象でしかなかった地下街が、歩き回るごとにそのおもしろさ、奥深さ、捉えようのなさをあらわにし、私たちの謎は解けるどころか増える一方だったのである。とどのつまり、一般 化出来ない固有性を持った場所とは、謎そのものだったということか。発見された形式性は、この謎をたまたまある角度から眺めた時に現れたものでしかないことを忘れてはならない。そしてこの事がフィールドワーク、つまり場所においてものを考えることの意義でもあるだろう。とりわけ私のような怠け者にとっては、結局歩くことが思考そのものであり、また発見そのものでもあったわけである。 最後に強調しておかなければならないが、このフィールドワークは終わることはない。それは、私たちが街を歩き続ける限りにおいて続いてゆくし、それを続けることを可能にするための動機を私たちはこのフィールドワークで手にしたのだ。今や私たちが現実的に思考することを可能にする契機は、いたるところに潜んでいる。フィールドワークは続く。



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