地下設計製図資料集成

地下設計製図資料集成

地下の植栽について
瀬山真樹夫 SEYAMA Makio



八重洲地下街に足りないものは何だろうか。都内で最も巨大な地下街であるここには、レストラン、本屋、薬局、レンタカー屋、郵便局、古本屋、銀行、公園(広場)、医院、花屋、ギャラリー……その他およそ街の要素と呼べるようなものは、住宅以外全てそろっている(あまつさえ「大使館」という名前のカフェすらあるのだった)。また、地下2階レベルにおいて駐車場から首都高速道路に連結することで[fig.1, 2]、首都高のインターチェンジとしての機能も備えており、さらには首都高から直接車を寄せることができる車寄せ(バスターミナル?)まで完備している。とりわけこの「首都高速道路と連結している」という事実は、この地下街を見るにあたって重要な要素であるように思われる。なぜなら、都市高速道路は近代の都市計画において最も重要な要素として扱われてきたもののひとつであり★1、それがこの地下街に連結している事実が、この場所をひとつの「都市」としてみなすことをより現実的なものにするように思えるからである。

ところで、本サイト先月号の松田達の論考「地下空間化する地上空間」にもあるように、われわれは地下を「外部に出られない空間」として経験している★2。それは、どこまで行っても計画管理された内側でしかない場所であり、それ故にその場所を都市とみなすことができるという事実は示唆的だ。なぜなら、近代における都市とは「その外部の位 相を自らの内部領域としてもつ社会であるために、社会の他の領域に対する外部性が、都市という社会の内的な属性として現われ」★3 ざるをえないような場所であり、だとするならば地下空間をモデルにすることで、近代の都市がもっている形式について端的に思考可能であるように思えるからである。さて、われわれはこの、完全に統御されているように見える人工的な都市のフィールドワークにおいて、何を発見することができるのだろうか。そして、おそらくそこで出会うことになるであろう予測不可能な現実性、それこそが地下空間の外部と呼ばれるはずである。例えばそれは「自然」と呼ばれるような性質をもったものであるのかもしれない。

地下の植栽
地下街に自然はあるのだろうか。通俗的な意味で自然を捉えるならば、それは生い茂る木々だったり、流れる川だったりといったイメージとして想起されるのだろうか。その意味では、今回リサーチした八重洲地下街において、ところどころ効果 的に配置されていた棕櫚竹、ドラセナ、アレカ等といった植栽は、地下街に自然を導入するアイテムと考えてよい。実際、八重洲地下街において植栽を管理しているフラワーショップの店員は、これら植栽について「人工的で無機質な風景の中に、安らぎと潤いを与えるような(つまり人工的でない)効果 を期待されている」と話していた。もちろんこのような効果は直ちに否定されるべき性質のものではないし、あるいはテクノロジーの進歩によって、地下における植栽環境はますます地上のそれと変わらないものへと変化してくことも容易に予想されるだろう★4。しかしこの「安らぎと潤いを与える」ような効果 とは別のレベルにおいて、それら植栽がどれだけ巧妙に地上のそれを偽装しようとも、結果 的にはそれらはあくまでも人工的に管理されているということに留意するべきである。そこにおいては自然は「人工的『ではないもの』」として(つまり人工を前提として)想定されざるをえない。われわれはフィールドワークにおいて、地下街の中をベゴニアの鉢植えを積んだカートを押しているおじさんに遭遇したのだが[fig.3]、おじさんが植栽を交換してゆく手つきは、まるで古くなった蛍光灯を取り替えるようなものではなかったか。地下街の植栽は、まるでそれ自体が街を構成する部品のひとつであるかのように、随時交換、更新され続けている。もちろんこれは比喩に過ぎないが、地下に置かれた植栽には常にその——機械の部品の——ようなイメージがつきまとうというのも、また事実である。ありていに言ってしまえば、地下街に置かれた植栽ほど「不自然」なイメージを帯びるものはない。そしてまたこのことは、それら植栽がそこで生活する人々に対して「安らぎと潤いを与える」というような効果 とは矛盾しないのである。

地下街に置かれた植栽は、それが「自然」を表象するものであるがゆえに、逆説的に「不自然」なイメージを帯びてしまう。ここでは、地下街という「人工物」に対して、植栽という「自然」を導入するというような考え方はもはや意味をなさない。つまり植栽を用いることで、地下に「自然」を導入するためには、現在我々が経験しているイメージとは全く別 種のテクニックが必要だ。それは、地下街に外側から「自然」を持ち込むのではなく、地下街それ自体を「自然」そのものに反転してしまうような可能性である。それがどのように実践されるものであるかはここでは即座にはわからないが、あるいはそれは量 に還元される類の質をもったものであるかもしれない。例えば、完全に制御不可能な量 の植栽で覆われた地下空間の風景が出現したとき、その経験は我々にとってどんなものになるのだろうか。



★1——『都市計画教科書』第2版(都市計画教育研究会編、彰国社、1998)
★2——https://www.10plus1.jp/underground/text/matsuda/01/ma2da01.html
★3——若林幹夫「社会学的対象としての都市」
(『都市と都市化の社会学』岩波書店、1996)
★4——例えば東急建設は、地下50メートルの大深度地下実験場内に
調査用花壇を設置、 地下空間緑化技術の研究開発を進めている。
http://www.const.tokyu.com/tec/civil/undgreen.html
 
 
 
 
 
 
 
 



八重洲地下街map

fig.1
高速車寄せ
fig.2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ベゴニアのカート
fig.3
 
 
 
 
 
 
 
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