地下・風景をめぐるノート(3)|野村俊一

電車/地下鉄の経験

地下に行くには、階段を使って地下道に降りたり、建物からエレベーターやエスカレーターで地階に降りたりと、いくつかの方法がある。
電車に乗るのも地下へ行く方法のひとつである。東京の鉄道網は異なる会社の路線が相互乗り入れを行なっている。高架を走っていた電車が地下鉄として地下に潜ることは珍しくない。電車にいながら地上から地下へ移動することができるのである。
また同一の地下空間に対しても複数の行き方がある。そして面白いことに、選択した行き方により同じ地下でも印象がまったく変わってしまうのだ。
今回は、電車/地下鉄での移動を通した地下風景の経験を考えてみたい。


電車が地下鉄になるとき
電車の中にはつり革、中吊り広告、座席のほか、床、天井、窓などの電車を構成する要素がある。車内には乗客がいて、会話を楽しんだり寝ていたりする。また意外に多いのが、窓の外を眺めている人たちである[fig.1]
窓からの光景は絶えず変化する。なぜなら電車は都市の隙間を高速度で駆けめぐっていくし、線路と建物はあまりにも近接している場合が多いからだ。近景が高速度で変化し続けるのである。さらに歩いているときと比べ一つひとつの建物の輪郭はぼやけ、窓が切り取る光景はアンフォルムなものとして経験される。細かいカラフルな光の束が網膜へリズミカルに飛び込んでくるという事態。そういうわけで光景を凝視することは難しい。都市が高密度になればなるほどこの局面は顕著になる。乗客は東京を一瞥するしかなく、散漫に接するのだ。色彩の感覚が持続するのである。
しかし、やがてこの事態は一変する。窓からの光景はまるでTVの電源を切ったかのように真っ暗となる。今までの夢心地から突然目覚めさせられるかのように光景が黒一色になると、窓は機能を果たさなくなる[fig.2]。窓を鏡に見立てて服装やヘアスタイルのチェックをする人を除き、窓は停車駅に着くまで関心の対象から外れてしまう(電源を切ったTVのモニターをずっと眺めている人がいないように)。そうなると乗客は広告や電車の込み具合といった身近な環境について、つまり窓が塞がれた車内の微細な様子についてより気になり始める。持参の本やウォークマンもそれに含まれよう。
蛍光灯に照らされた中吊り広告も人もその他の構成要素も、車内から見る限り静的なものだ[fig.3]。それらはたとえ意味を見出せなくとも客体化されやすく、また乗客の視線は定まりやすい。一瞥するしかなかった外の光景に比べたらなおさらである。同様に車内の空間自体も観察の対象になるだろう。そこは多少左右にうねうねと振れはするものの、長大かつ抽象的な空間として全体を知覚することができる。その代わり今度は、電車の「ガー」とか「ゴー」という音が動的な事態として際立ってくる。少なくとも、窓の黒い光景や車内の様子と比べたら気になると言えよう。音の感覚が持続するのである。



環境の差異という経験
 
これら二つの経験を比較してみよう。共通 しているのは、それぞれの動的な事態に対して客観的な善/悪、快/不快といった判断を下すのが難しいということだ。感覚の経験はそれらを再現描写=象形化することが困難だからである。
また、異なっているのは前者の経験では色による動的な情報について、後者の経験では音による動的な情報について、より注意が向けられていたことである。そして前者は地上を走る電車にいるとき、後者は地下を走る地下鉄にいるときによく遭遇する経験である。このように電車と地下鉄とでは観察者をめぐる環境の質が異なるのである。

この地上と地下それぞれの環境の違いは、電車や地下鉄に乗らなくても捉えることができる。例えば地上を車で移動するとフロントガラスを通して似たような経験を得ることができる。また地下道には窓がなく、特に大手町駅周辺の地下道には広告や通行人が時間帯に限らずほとんどないため多様かつ強烈な色彩の持続を得ることができない。構成要素がバラバラなため微細な状況の差異を読み取ることは無論可能だが、この地下道全体は均質かつ長大な場所であると想像することができるだろう。さらに移動しても光景がなかなか変化しないため、同一の場所にいるような感じさえ受けるほどだ。ゆえに全体は文字通り静的であるといっても差し支えない。しかし注意すると、自分の動的な足音などが気になってくるのも確かだ。ともあれ、地上と地下では感覚の矛先、もしくは知覚の選別対象が異なっている。

それでは、電車と地下鉄に乗って地上と地下を行き来することは何を意味していたのだろうか。こうは言えないだろうか。つまり電車は高速度で移動するため環境を高密度に圧縮し、その特質を顕著にさせる機能がある、と。
だとしたら、電車/地下鉄は地上と地下の違いを考えるための重要な道具でもあろう。電車がそのまま乗り換えなしに地下鉄となる例があるからだ。だからこそ質の違う感覚を同一の車内にいながら持続的に観察することができるのである。つまり電車/地下鉄は厳密なタイムテーブルや路線、さまざまな規律が定められたスペクタクル体験マシンである。と同時にそれは地上と地下の出入口であり、地上と地下の判断を可能にする特異点を探るための観測道具でもあるのだ。
 

「地上的地下」、「地下的地上」の地図作成に向けて
 
地上と地下を隔てる特異点を感覚の経験から探るということは、地上と地下の区別が観察者ごとに異なることを意味する。なぜなら感覚は諸個人に相対的であることを免れないからだ。そしてだからこそ、特異点には真理としての意味がないとも言える。各々の特異点に対する感想を私的な言葉で外在化しても、それは他者と共有されることが難しい。少なくとも、現時点でそれを体系化する言説を私は知らない。かろうじて共有されてしまうのは、そのような特異点を記す地図が不在だというネガティヴな思考である。にもかかわらず地下と地上の弁別は観察者ごとに差異をはらんだ実感として往々に行なわれるのも確かである。
この地上と地下それぞれの環境の差異についての実感はほかのケースでも得ることができる。例えば乗物から夜景を見るとき、乗物がトンネルに突入したとき、電飾が瞬き賑う地下街を漫ろ歩くときがそれである。そしてこのとき観察者は物理的な地上と地下の判断を超えたところで地上的、地下的な印象を得ているのではないか。つまり「地上的地下」、「地下的地上」という印象を。この地上と地下の特異点=出入口は自明な判断を超えて局所に散在しうるのではなかろうか。
この確実な実感のもと「地上的地下」、「地下的地上」の地図を作成することは可能だろうか。それがどのような様相を呈するのかは今のところ想像することができない。だが少なくとも言えるのは、それが都市を超越的に象形化した地図とは異なるだろうということである。
 
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