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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<戸田穣
追悼
歴史家にとって、現在とはひとつの時代が歴史化していく過程でもあります。歴史化とは個人史から離脱し公共的な場へ移行することである以上、必然的にある種の痛みや葛藤がともなうものです。死は大きな痛みですが、『晋書』に「棺を蓋いて事定まる」というように、歴史化の契機となることは否定しえません。とりあえず、わたしが「戦後第一世代」と呼ぶ世代からも、今年また幾人かの人々が鬼籍に入られました。いまここで「戦後第一世代」とは、ひとまず終戦前後から数年のあいだに大学を卒業し社会に出た人々としておきますが、とにかく「戦後」を担ったまさに綺羅、星の如き世代です。ここに二人の方の追悼文を記すのはあくまで個人的な理由にほかなりません。個人的といっても、故人と面識があったわけでもありません。むしろ謦咳に接しお話を伺いたいと思いながらもかなわなかった、そうした理由です。
鈴木成文先生の訃報に接したのは、先生のブログ「文文日記」のエントリにわたしの名が出た直後でした。戦後の建築学史を辿りたいと思い、長澤泰先生にご紹介をお願いした矢先のことでした(わたしは鈴木先生の教科書と長澤先生の授業で建築計画を学びました)。先生が亡くなられたのは2010年3月7日のことです。
鈴木成文先生は1927年7月30日、東京にお生まれになりました。わたしは建築学科に学士入学する前に、フランス文学で卒論を書いたこともあり、成文氏よりも先に父・信太郎氏の名前を知りました。岩波文庫の鈴木信太郎訳を通じてマラルメ、ヴァレリー、ロンサールに触れ、またプルーストの訳者として弟の道彦氏を知りました。
鈴木先生は東京大学工学部建築学科に進まれ、吉武泰水先生の下で建築計画の研究の道を歩まれることとなります。LV、つまり「金曜会」(les Vendredis)と名づけられた研究会は、マラルメの火曜会(les Mardis)や夏目漱石の木曜会を思い起こさせますが、わたくしの接しえた戦後第一世代の人々で、それに参加した者ならば誰も皆、LVの興奮を熱く語ってくれました。建築設計の科学化・合理化。背後にはヒューマニズム。その初期の成果のひとつが公営住宅標準設計51C型です。布野修司氏が『戦後建築論ノート』(1981)のなかで、1950年4月28日と日付を確定しつつ記したLV、初期の吉武計画学の核心は、住宅に限らず、社会・生活のあり様と平面のあり方の関数=機能(function)として空間を解き、平面構成として空間を記述する形式そのものにあったように思います(布野氏の言葉を借りれば「平面構成主義」)。
鈴木先生自身、後年51Cの歴史的意義を総括され時代的な限定を与えておられますが、先生は、その後も計画学の可能性の平面の上に立ちながら、反省を重ね、その地平の拡張を試みて領域論を唱え研究を重ねて来られました。建築計画はその方法論のなかに内省的な機構をそもそも備えており、自らの学の反省を重ねてきた分野です。学問史においても、吉武先生は晩年『建築設計計画研究拾遺』(2005)を編み、鈴木先生もまた『51C白書──私の建築計画学戦後史』(2006)を纏めて、確かな道程を記されました。一方で内省の回路からは零れ落ちるものも必然的にあるはずです。単純にそれを外部と呼ぶことはできませんが、吉武氏はそれを「夢の場所」と呼び、鈴木先生にとっては父の代から受け継がれた大塚のお住まい、つまりは時間の堆積こそが、そのような場所ではなかっただろうかと考えたりしております。
大高正人先生は2010年8月20日に亡くなられました。その訃報は2011年に入ってから明らかにされました。わたしが現在所属する東京理科大学の山名善之研究室では、2011年開催のメタボリズム展(六本木・森美術館)をひとつのきっかけに、大高正人先生のお仕事の研究に取り組んでいます。メタボリストと規定される建築家のなかでも、とりわけ大高正人先生に関心のあったわたしにとっては貴重な機会です。一方で先生の体調がすぐれずお会いすることがかなわないのが残念でなりませんでした。 大高先生は、1923年9月8日福島県三春町に生まれました。東京大学大学院を修了した後、1947年に前川國男建築設計事務所に入所し、同志とMIDO同人を設立、《晴海高層アパート》(1958)、《国立国会図書館》(1961)、《東京文化会館》(1961)など前川の代表作となる作品を担当された後、1962年に独立されます。独立前の1960年に世界デザイン会議が開催。『Metabolism/1960──都市への提案』が発表されます。槇文彦先生と発表された、一連の群造形の作品群は建築の手法としてよりも、さらに都市の思想として受けとめられるべきものです。独立後は《坂出人工土地》(1967)や、《千葉県文化会館》(1968)にはじまる千葉文化の森(1965-66, 69)を皮切りにした長いキャリアのなかで、建物よりも思想を伝えたいと、自ら、作品集を編まれることのなかった大高先生でしたが、2005年に川添登氏と『メタボリズムとメタボリストたち』を編まれ、メタボリストの矜持を示されました。
しかし大高先生を、メタボリストとだけ規定するならば、おそらく大高先生の核心のひとつを見逃してしまうようにも思います。MIDO同人、五人の会、メタボリズム、計画連合と大高先生はつねにある種の連帯のなかにいました。そして60年代から継続的に関わっていくことになる農協農村コミュニティ計画や、多摩ニュータウン計画、さらに後年の横浜みなとみらい計画といった「街づくり」に連なる、コミュニティ計画の流れをみていけば、そこには、建築家同士の連帯から、コミュニティや街づくりといった地域計画・都市計画まで、人と人と、人と都市、人と大地の紐帯を結ぶ建築家像があります。つねに公の仕事に携わった大高先生の行き方は、多くの建築家が目指す階梯とも一線を画するものだろうと思います(無論、当時の各都道府県の公共建築の多くを担ったのが戦後第一世代であることは急いで付け加えなければいけません)。メタボリズムは世界建築史的な文脈でみれば60年代のアヴァンギャルドと認識されるのでしょうが、より遠く、国土計画を担うべき建築家の遺伝子を色濃く受け継いでいたのが大高正人という建築家ではなかったか、そんな気がしてなりません。
現在、こうした戦後の建築遺産が、その改修・保存を議論される(あるいは議論されぬままに取り壊される)時期に差し掛かっています。また多くの建築資料の保存(よりもむしろ保護というべきでしょうか)も喫緊の課題となっています。こうした歴史化の試練を潜り抜けようとしている、ひとつの去りゆく時代を前にして、現在はつねにあらずとの思いを強くしています。
遅きに失した自らの不明を恥じるとともに、いままた遅まきながら両先生の冥福をお祈りする次第です。
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左:鈴木成文『51C白書──私の建築計画学戦後史』(住まいの図書館出版局、2006)
右:『メタボリズムとメタボリストたち』(大高正人+川添登 編、美術出版社、2005)