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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<

星野太

『わたしのすがた』(考案:飴屋法水)

http://www.festival-tokyo.jp/program/ameya/about.html

飴屋法水の『わたしのすがた』は、「演劇を脱ぐ」という昨年のフェスティバル/トーキョーのテーマをもっとも顕著に体現するプログラムのひとつだった。にしすがも創造舎とその近隣の廃屋を用いた同作品は、演劇というよりも都市を舞台としたインスタレーションに近いものであり、ここでの主題である「2010年で印象に残った、都市や建築を語る上での人・建築作品・言葉・発言・書物・映像・メディア・出来事」に対するコメントの対象としても不適切ではないように思われる。ただし、以下の記述は狭義の「作品」そのものに関するものではなく、「わたしのすがた」を通した一人称的な作品/都市の経験の記述に近いものであることをあらかじめお断りしておく。
「わたし」は2010年11月18日(木)ににしすがも創造舎で受付を済ませ、16時にその場所を出発した。ところが、出発地点で手渡された第二の目的地までの地図の縮尺がうまく把握できず、不覚なことにも道に迷い、あろうことか滝野川方面まで移動してしまう。ちなみに、西巣鴨と滝野川という二つの住所は、電車での移動を主とする渋谷区在住の「わたし」にとってそれまでまったく別の場所としてインプットされており、西巣鴨を歩いていると思ったらいつのまにか住所表記が滝野川に変わっているという経験は、この時点で「わたし」に深い混乱をもたらした。その後15分ほど西巣鴨・滝野川周辺をさまよっているあいだ、「わたし」の頭の中にはさまざまな疑念が去来した。この地図そのものがひょっとすると出鱈目なのではないか、「わたし」のまわりにいる買い物帰りの人々や、散歩中とおぼしき老人たちはもしかすると皆この作品の出演者なのではないか。さらに質(たち)の悪いことに、ふと遠くをみると演出家の飴屋法水自身がそのあたりをぶらぶらと歩いている。これはいった何の冗談なのか。
ともあれ、最終的に「わたし」は第二の目的地である廃屋を発見し事なきを得るのだが、そのチェックポイントとなる建物でも現実と虚構がつねに入り交じったような演出がなされており、冒頭の深刻な混乱は一向に収まる様子がない。時間を重ねるにつれ、この作品には通常の意味での「出演者/パフォーマー」は存在しないのだということが徐々にわかってくるのだが、作品の中でそれが明示的に示されることはない。演じる者の不在はただほのめかされるだけにとどまり、ひとたびそれが反転すると、身の回りに見えるあらゆるものが虚構に思えてくる。「わたし」の場合、出発直後に生じた混乱によってそれが増幅された感はあるものの、これはおそらく多くの鑑賞者が抱いた印象でもあるだろう。その感覚が一挙に解放されたのが、最後の目的地へと通じる白山通り沿いの長い移動である。このとき、閑静な住宅街から大通りに出るという、普段ならば何の変哲もない移動にともなう場所の知覚が一挙に更新された。ちょうど日が落ちる時間帯だったということも手伝ってか、ある程度は見慣れているはずの白山通りの車の往来が、何かとてつもなく不気味なものとして立ち現れてきたのだ。
武藤大祐(ダンス批評)が指摘する通り、最後の建物でいささか耽美的な着地点が用意されていたことに、作品としての若干の不満がなかったわけではない。けれど、「わたし」自身がもつ「都市のすがた」を昨年もっとも大幅に更新した出来事が『わたしのすがた』であったことは確かだ。その幾許かの要因が、先にも触れたような順路の失認という「わたし」自身の不注意にあったことは否めない。しかし、普段見慣れているはずの都市の知覚、ないし経験がこうも易々と更新されるという事実は、スペクタクル化の一途をたどる一部の建築や美術作品にいささかうんざりしていた「わたし」に新鮮な驚きをもたらしてくれた。知覚を圧殺するようなスペクタクルでも、祝祭的な雰囲気に満ちた作品巡礼でもない、ミニマルな知覚の変容をもたらしうる出来事がひとつでも多くこの身に降りかかることを、今年も楽しみに待ちたい。

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