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特集:201101 2010-2011年の都市・建築・言葉 アンケート<

沢山遼

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荒川修作、針生一郎、大野一雄。戦後の文化動向を牽引してきた三氏の訃報に立て続けに接したことが印象に残っている。2010年に本格的に執筆活動を開始した私にとって、彼らの不在に自覚的にならずにものを書くことは不可能だった。三氏に共通しているのは、永久機関のように、最晩年に至るまで、仕事を終えることがなかったという点に尽きるだろう。それは、彼らが自らの身体を仕事場として、あるいは文化的な拠点として活動したことと無縁ではないはずだ。敗戦とともに転向、その直後に批評活動を開始した針生一郎は、主体の徹底的な客体化=物質化を自らに課したという。彼が生前よく語っていたように、それは吉本隆明的な個人主義の徹底とは対極にあった。主体の客体化によって精神と物質の対立を棄却すること、あるいはその緊張関係のなかに身を投じることは、客体的な他者、つまり民衆の論理へと接近することを意味していたからだ。戦後の文化動向を貫く〈身体〉という磁場は、物質としての人間主体によって遂行されていたのかもしれない。事物としての主体、事物としての他者を貫くものこそ、身体という枠だった。荒川修作、針生一郎、大野一雄は、自らの身体を行使することによって、不可能な他者=事物を媒介しようとしたのではなかっただろうか。彼らの仕事は、彼らが媒介しようとしたものとの裂け目とともに生じている。精神医学者の木村敏がかつて語ったように、内と外を腑分けする身体は、それと同じ構造によって建築という「虚構」を要請せざるを得ない。身体と建築とはともに内と外を分割する輪郭=枠として、亀裂を世界に生じさせるものだ。その意味でも現象的身体と建築を区別することがなかった荒川修作は──それ自体身体の容器である棺桶型の初期立体作品が文字通りの「枠」によって組み立てられていたように──初めから枠としての、亀裂としての身体を志向していたのだと感じる。建築としての身体、あるいは身体としての建築を私たちはそこに確認し、身体と建築とが破壊的に結合されることを直感しただろう。私たちはなによりもそこに、身体という建築の虚構を見ていたのかもしれない。
[2]
イヴ=アラン・ボワ+ロザリンド・E・クラウス著『アンフォルム 無形なものの辞典』加治屋健司+近藤學+高桑和巳訳 月曜社 2011年 
ただし「身体」や「物質」と言ったところで、実態概念ではあり得ない。ロザリンド・クラウスとイヴ=アラン・ボワの共著によって著されたこの著書で強調されているのもそのことだった。クラウスとボワは、不定形(アンフォルム)が実態概念ではなく、操作的(オペレーショナル)な概念であると述べている。ゆえに不定形とは「おぞましい」(クリステヴァ)ものとも異なり、批評的な操作によって顕在化される表象体系である。狭義には「美術批評」に分類されるものではあるが、マテリアルの生成過程こそを思考の照準とする建築や美術の批評にとっても本書の邦訳は待望のものとなるはず。


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