July 9, 2009 04:43 PM
2007年9月10日(月)[晴のちにわか雨] |旅行記
大島調査3日目(岡田村泊)
参加者:中谷、大高、飯尾、菊地、石川、福島、坂東、石垣、武田、戸田、山田、森本
7:00頃
各々、起床
8:00
朝食
9:00
午前ミーティング
9:30
調査開始。
武田、山田は岡田村の家々の屋根形状を最終確認。
10:00頃
建築家の福島氏が岡田港に到着。
福島氏は早速、坂東、石垣、戸田とともに
9日に実測させてもらった家の向かいの家へ。
ここも実測させてもらう。
菊地氏が聞き取りをし、大高氏が撮影。
中谷先生、飯尾氏、森本は役場へ。
10:30頃
武田、山田は、とあるお宅の前へ。
前日に戸田、山田が見つけていた民家だ。
外観は新しく見えるものの、平屋寄棟造りの民家。
中谷先生から、「聞き取りしてみたら?」と言われていたこともあって2人で挑戦。
縁側から挨拶すると、おばあさんが出てきてくれた。
・家の歴史:茅葺き→トタン→S52に現在のものに建替え
・岡田村の大火の話
・村の連帯:お嫁さんの行き来。他の家との交流。
などを聞き取る。
11:00頃
武田、山田は聞き取りしたお宅の前で石川氏と合流。
今の岡田村スケッチと、現在の岡田村を見比べながら歩く。
すれ違う人にスケッチを見せてみるも、どこのスケッチかは、わからないと言う。
皆言う。場所の特定は難しそうだ。
しばらくすると、突然のにわか雨。
港近くにある、食事処大吉の隣の建物の軒下で雨宿り。
すると、石川氏つぶやく。「そうか。水のフローだ」
屋根勾配に水の流れを重ねると、ツリーで繋がった水の流れがわかるとの小レクチャー。
11:30頃
雨が小降りに。石川氏は家族のもとへ。
武田、山田は岡田村の高台から海まで歩いて、雨水の流れを確認。
13:20
各班、調査を終え集合。
岡田港前、川崎売店2階にて食事
明日葉天丼(780円)
昼食後、坂東、石垣は熱海経由で大阪へ戻る。
14:00
舟吉本館に移動。
宿のご主人から聞き取り。ご主人の紹介で島の郷土史家の先生も来てくださった。
・村のなかでも、海側は地の住民の住む場所。新しい入植者は住めない。
・40年くらい前までは村ぐるみの漁業行なっていた。
・昔の岡田は半農半漁。
・産業構造の変化(漁師→遊魚船→民宿)
・元町は大きい町で、閉鎖的。岡田は小さいが開放的な気質。
・岡田村の祭事。宿のご主人は総代。
など聞き取る。
16:00
飯尾氏、本業の都合で、島を出る。
16:40
聞き取り、一時解散。
18:00
夕食
19:00
ゲストハウスに戻り、翌日の予定などを打ち合わせ。
20:00頃
舟吉本館に再集合。
お酒や、島の魚をおつまみにいただきながら、
宿のご主人のお話を聞く。
岡田村の祭事の映像を見せてもらう。
23:00頃
夜も更けたので調査隊はゲストハウスへ。
就寝。
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-- Posted by mdr
July 9, 2009 04:15 PM
2007年9月9日(日)[曇]|旅行記
大島調査2日目(岡田村泊)
参加者:中谷、大高、飯尾、菊地、石川、坂東、石垣、武田、戸田、山田、森本
今日は岡田村2日目。今もスケッチした岡田村の構造を調査する。
6:30
起床
森本の携帯電話に菊地氏から連絡が入る。岡田港に到着したようだ。
7:00
菊地氏、舟吉ゲストハウスに到着
8:00
舟吉本館にて朝食
白米、生卵、のり、焼き魚、お吸い物など
9:30
ゲストハウスに戻って、当日ミーティング
・午前中、学生は『日本のコミュニティ』棚田の図を目標、参考に岡田地区の石垣の残存状況を調査。
・中谷先生は、学生の指導と岡田村を概観。
・飯尾、菊地、大高班は、大島に吉阪隆正建築が残っているか調査。
10:00
調査開始。
石垣は玉石を積んで造られている。
(1)玉石を積んだだけのもの
(2)隙間を土で埋めたもの
(3)隙間をコンクリートで埋めたもの
(1)→(2)→(3)の順に変化していったのだろうか。
アスファルト舗装された道に面した石垣は、(3)がほとんど。
途中、森本、戸田は中谷先生と合流して、岡田村の1件のお宅の内部を見せてもらう。
舟吉のおじさんはとても顔が広く、その紹介でお宅を見せてもらうことができた。
12:30
午前の調査、終了
13:00
昼食
そうめんを自炊する。具は麩。おつゆは氷で割る。1人あたり305円。
14:30
午後の調査開始。
武田、戸田、山田は岡田村の住宅の屋根形状を調査。
岡田迂回道路で囲まれた区域の屋根を調べる。
坂東、石垣、森本は、午前中に中谷先生が訪問したお宅の実測調査。
中谷先生、菊地氏、飯尾氏は、その家のご主人に聞き取り調査を行なう。
大高氏は岡田の景観や調査風景を撮影。
16:40
調査終了
18:00
夕食(舟吉本館にて)
白米、イモ天、明日葉と海老のかき揚げ、刺身、そうめん、おすまし
19:00頃
中谷先生と学生でミーティング。実測班の調査報告
・調査の目的→今のスケッチにある民家の特定は難しそうだが、実測した家の敷地形状や家の形は今のスケッチのものに似ている。他にも、似たような状況の家がいくつかある。
→屋根が変わっても、目に見えないところで、昔からの構造が残存していることを示す。
・平屋寄棟の民家は、屋根だけ変化して内部は変わっていないことが多い
・実測させてもらったお宅では、配置図、平面図、断面図をとった(岡田村の民家の典型例として)
20:00頃
全体ミーティング開始
20:40頃
石川氏合流。
大島には家族で来ているそうだ。
・中谷、菊地班→民家所有者の聞き取り内容報告。
・大高、菊地、飯尾班→吉阪建築の報告。かつては、クダッチ、差木地、元町などに存在したが現存しない。残っていると考えられるのは、大島町立中学校。
・全員の自己紹介
・翌日の予定→午前中は、元町にある大島町役場へ行き、吉阪建築の資料を探す
→石川氏は、岡田村を学生とともにまわる
→14:00から、舟吉のご主人のお話をうかがう。
23:00頃
散会。就寝
石川さんは、島の東側のバンガローへ一時戻る。
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-- Posted by mdr
July 9, 2009 04:00 PM
2007年9月8日(土)[曇]|旅行記
目指すは伊豆大島。瀝青会初の離島調査である。
この旅行から、民俗学者の菊地暁氏や建築家の福島加津也氏も新メンバーとして参加するほか、
中谷先生の異動にともなって、早稲田大学の学生も新加入した。
出発当日に伊豆大島を台風が通過するアクシデントに見舞われながらも、
決行を2日ずらして、まだ台風の影響の残る伊豆大島を目指した。
7:20
東京竹芝桟橋に中谷先生と早稲田学生が集合(武田、戸田、山田、森本)
売店で島の調査協力者へお土産を購入
7:50
東海汽船のジェット船「夢」が出航
船内は、朝からビールを飲むおじさんや、自転車レースに出場する団体など様々な乗客で
混み合う。
10:10
伊豆大島、岡田港に到着
前夜に大型客船で竹芝桟橋を出航していた大高氏と合流
その後、今回の調査中、お世話になる民宿へ。道中、今和次郎のスケッチと見比べながら、岡田村の様子を見てあるく。ところどころに、古い民家や、今のスケッチにもある石垣が残る。
10:30
民宿舟吉に到着。貸し切りの2階建ゲストハウスへ案内してもらい、簡単に打ち合わせ。
11:30
大阪の石垣さん、坂東さんが熱海からの船で到着。皆で迎えに行く。
岡田港前の「一峰」にて昼食。
・べっこう寿司1000円
・地卵プリン150円など
13:00頃
トヨタレンタカーで車を2台かりて、郷土資料館へ。保存されている、伊豆大島の伝統的な民家を見学
その後、島を一周。
・岡田→元町→野増→差木地→波浮→島の東側→岡田
・元町と波浮の間には、島一周道路沿いに、地層断面が。バス停の名前は「地層断面前」
16:00頃
MDRの飯尾氏到着
ゲストハウスで休憩。海で泳いだ。
18:00頃
夕食(舟吉本館にて)
19:00頃
ゲストハウスに戻り、打ち合わせ
・今の「見聞野帖」読解
・吉阪隆正の伊豆大島元町、復興計画について
・堀口捨己設計の大島測候所について
など
その後、就寝
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-- Posted by mdr
October 4, 2007 05:12 PM
2007年7月8日 (土)[晴]
和歌山調査2日目(田辺市、稲成村)
参加者:中谷・御船・石垣・久保・坂東
7:50
起床
8:00
朝食、出発準備
9:20
田辺港へ出発。今が港から入ったとすると、この辺りから来たのだろうと予測。
9:30
天神霊園横から港風景を撮影。
10:00
昨日の約束どおり南方熊楠顕彰館へ。
前川氏がいろいろと調べてくれていた。データベースから藤岡長和氏の資料を集めてくれた。
・藤岡長和、南方熊楠の手紙
はじめの1920年の2通が要となるのであったが、今に行き着く手がかり見当たらず。
・南方熊楠の持っていた名刺……今なし、柳田もなし。
・柳田國男との関係について調べる。
日記の原本、読み下しのコピーなど資料をいただく。
11:50
田辺市立図書館到着。田辺市について調べる。
12:15
図書館出る。昼ごはん屋を探す。
12:50
カフェ「ロク」にて昼食。
14:00
稲成村「荒光」(あらびか)到着。荒光は昨日も少しだけ散策したが、斜面にひしひしと民家が立ち並び、石垣の美しい、一見して古い村だとわかるところだった。特に南側は細長い敷地が多く、今がスケッチに残している間取りに合致するものがあるのではと予想した。
村のふもとの酒屋さんのおばさんが、この町の長老を紹介してくれる。長老の繋がりでたくさんの民家を訪れ、聞き取りをすることができる。スケッチと似ている家はいくつか見られたが、決定打がなくいまいち納得がいかない。2番目に見た民家に間取りの確認に行くことにする。
15:30
2番目の民家の持ち主のお宅に到着。間取りはおそらく合っているだろうとのこと。記念写真を撮り、大変お世話になった長老にお礼を言い、お別れする。
16:00
帰路につく。中谷・御船は後ろの座席で2番目の民家が今のスケッチと一致するか、写真を見ながら議論。
16:30
「梅の駅」にて休憩。それぞれ梅干、ソフトクリーム買う。
18:00過ぎ
和歌山市内に入る。
18:15
元西本組本社ビルを見る。
18:30
南海和歌山市駅にて、中谷と別れる。
18:50
日産レンタカーに到着。荷物をまとめ、駅へ徒歩で向かう。
19:00
JR和歌山駅到着。近鉄で買い物をして帰るという御船と別れ、3女史は帰宅。
南方熊楠の日記がかなりのキーポイントになるものであったが、今の名前は残念ながら出てこなかった。和歌山部分は今ノートが少なく、事前準備がもう少し必要であった。
新宮の部分はまったくなく、『日本の民家』に載っている「熊野の家」もスケッチが今ノートから抜けている。新宮がどうかも曖昧であったので、今回は新宮はパスすることになった。
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-- Posted by mdr
October 3, 2007 08:19 PM
2007年7月7日(土)[曇ときどき晴]
和歌山調査1日目(和歌山市西栗栖、田辺市泊)
参加者:中谷・御船・石垣・久保・坂東
9:00
JR和歌山駅東口出口集合(御船・石垣・久保・坂東)。
日産レンタカーにて NISSAN TIDA(5人乗)を借りる。
9:05
中谷が遅刻のため1時間程待ち時間ができる。御船の仕事場である重要文化財中筋家住宅を見学。
10:15
南海和歌山駅にて中谷合流。
10:30
和歌山市西栗栖到着。自転車に乗っていた西栗栖の長老にお話を聞く、途中から隣家の奥様が出てこられて一緒にお話を聞く。西栗栖の近くに、昭和40年代インターチェンジが建設され、土地を売った土地代や保証金で、かなり儲かったらしい→たくさんの家が新しく立て替えられた。
今ノートの民家を土地形状や家屋年数などで予想しいくつか訪れ話を聞くが、特定できない。
13:00
「らーめん マルヨシ」にて昼食。チャーハンセット(チャーハン、ミニラーメン)700円。
[中谷]明治末期、南方熊楠が合祀反対運動を行なっていた。関係しているのではないか。
13:40
栗栖出発。
15:00
田辺市到着。事前に予想した稲荷村に向かうも、新しい家ばかり。違う場所ではないだろうか。困る。
とりあえず、近くに南方熊楠顕彰館、旧自邸があるため、行ってみることにする。
15:10
今と同じように、港から熊楠館に行く(港の駐車場に車を停め、歩いて熊楠館に向かう)。南方熊楠顕彰館(〒646-0035 和歌山県田辺市中屋敷町36番地)到着。田辺市教育委員会の前川氏にいろいろ資料を見せていただく。
・南方熊楠の日記(大正9年9月3日あたり)
→「今和次郎」の記述は見つからない。
→しかし、日記のなかに「藤岡氏」という名前を発見。
→「藤岡氏」は『日本の民家』にも登場する名前である。
今と南方の直接的な繋がりは発見できなかったが、「藤岡氏」を通しての間接的な、かすかな繋がりで繋がっている。
・南方熊楠に関する資料、文献。
・稲荷神社の写真→合祀反対運動が行なわれた神社である。南方繋がりで稲荷へ行ったのではないか。
明日の朝10時に再度南方熊楠顕彰館へ来る約束をして、自邸の見学へ。
南方熊楠旧自邸(顕彰館に隣接している)見学。
18:30
美吉屋旅館到着。
19:00
居酒屋てんてんで夕食。反省会と明日の予定確認。
21:10
旅館到着、お風呂、就寝。
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-- Posted by mdr
September 26, 2007 04:30 PM
2007年5月31日 (木)[曇のち晴]
旧三宅集落調査(大阪府松原市)
参加者:清水・久保・坂東
11:20
大学出発。14:00に近鉄松原駅集合だが、その前に松原市民図書館へ行くことにする。
11:35
JR杉本町駅発。JR阪和線170円
11:50
天王寺着
12:11
あべの橋駅発。近鉄南大阪線250円
12:29
高見ノ里駅着。市民図書館へ地図を複写するべく向かう。高見ノ里はかなり小さな駅だった。図書館への地図を見ながら歩く、道が狭く合っているか不安になりながらもとにかく車が通る道まで北上。この辺りは地図を見ても分かるように昔からため池・沼地が多いのだが、さっそくため池を横目に通りすぎる。
突き当たりの道は地図で見ると大きな道路だと思っていたが、意外と狭い。しかし、ここのメインストリートのようだ。その道を東へ進むと、松原市民図書館へ辿り着く、その付近にも池あり。
12:40
松原市民図書館着。ここはゼンリン地図を所蔵しておらず、『吉田地図』なるものを見せてもらう。ゼンリンと違って、区画割りが示してある種類のもので建物の形が分からない。他に適当な地図もないので、仕方なく該当部を検討。
13:00過ぎ
図書館にて久保と合流。『吉田地図』該当部31枚、松原市施設案内図を借りA34枚3部コピー。
13:25
松原市役所都市政策課。白地図1/2500=2枚、1/10000=1枚、研究のため無料でいただく。徒歩で集合場所の河内松原駅へ向かう。
14:00
河内松原駅着。清水先生合流。
今日はとにかくスケッチの場所を確認してみようという趣旨のもと調査開始。駅より北上し、徒歩にて三宅集落へ向かう。松原は下町という雰囲気が溢れていた。結構若いお母さんも、あの大阪ならではの「さすべえ」を自転車に挿して走っている。「さすべえ」を使いだす年齢の境界線はどこか?など、これぞ考現学だなと調査に直接関係ない議論をしつつ進む。
途中、ひとつめの大きな貯水池「海泉池」を通りすぎる。現在はどのような用途なのか、見た目は美しいものではない。対岸に異様な球形の建物あり、「道夢会館」という看板が出ていた。一同苦笑い。
14:30
屯倉神社(屯倉と書いてみやけと読む)到着。この神社より北側が、今のスケッチにも残している旧三宅集落になる。
・ 旧集落のエッジに着目、今のスケッチとの比較(坂東)
・ 条里・区画整理の道に着目(久保)
・ 集落の真ん中を南北に走る道が鍵の手に曲げられている。これは意図的(清水)
・ 集落内に条里の道と斜めに走る道が入り混じる。この斜めの道は河岸段丘と関係があるのでは(清水)
という仮説を立て、集落内に入る。
まず、鍵の手に曲げられた道を進む。異様な曲げられ方。清水先生が言うに、こういう意図的に曲げることによって、領域を生み出す効果があるそうだ。周囲には異様に土地の広い民家が立ち並ぶ。昔の地主か。ここは何かの産業で有名なのかどうか。と話ながら河岸段丘によると思われる斜めの道に入った。
15:00
西大海池、東大海池到着。
東大海池の南部分は埋め立てられ、「山崎製パン」の工場と化していた。あとは一見池がそのまま残っているように見えたがよくみると、西大海池は「大海ゴルフセンター」という名前が付いている。池の西岸より、おじさんが並び、池に向かって打ちっ放しの練習をしていた。その名の通り大海に向けて打ち放すゴルフ練習場となっていた。なんだか、どことなく残念な気持ちになりつつ、三宅集落探索に戻ることにする。
近くのローソンにて地図1部を再びコピーし、集落周辺を巡るルートへ戻る。
屯倉神社まで戻る。そこから、三宅集落の西のゾーン(先ほどの鍵の手の道により意識的な領域を示すであろう部分)へと入っていく。すると、どうも真宗の寺院が多く点在している。なるほど、寺内町だったのか(清水)。寺内町だとすると、条里の道と入り交じる斜めの道、水路は濠の形跡なのではないか。
今がプロットした三宅集落の西端には新池という細長い形をした池があった。そこへ辿りつくと、新池は埋め立てられ、「SUNPLAZA」という名の大型スーパーへと変わっていた。
そこから少し北へ行くと、新池よりもひと回り小さな池があった場所があるが、そこもまた工場へと姿を変えていた。池は細かく分譲されるのではなく、ほぼそのままの形で工場やスーパーへ売り払われているのはなぜなのだろう。寺内町の濠説に拠って、水路を辿ることにし、さらに集落の外周を回る。だがかなり狭い水路だったので、堀とは呼べないかもしれない。
集落の外周からまた集落内を歩き、寺のほうへと向かった。すると集落内の十字路で道が少しずれている場所があった。なぜずれているのか、意図は何なのだろうとみんなで悩む。
その後、集落内の寺4つを確認(3つは真宗だった)して調査を終了することにした。
16:30
調査ひと通り終了。タクシーにて戻る。
17:00
大阪市大着。建築デザイン研究室にて、調査のまとめを話し合い。
[今後のまとめの方向性]
■集落形成史
集落の中央にうねりの道が走るのは、アメのビニールの包みの関係と同じではないか。ある土地の中にまとまった空間があるとその端に何か分かりやすいもの(曲げ)を置く。
実は寺内町構造をもった計画的な農村集落だった。
寺のグリッドエリアは、条里からもってきていた。
■なぜ今は三宅を調査したのか
当時の地理学者に紹介されたのではと推測。
■河岸段丘説
東西南北に走る村の道のなかにひとつ斜めの道がある。これは河岸段丘か?
村落と川というテーマその関連性をさぐる。
■散村との比較
この三宅集落のスケッチは『日本の民家』において「集村」の例として挙げられ、埼玉県大間木の散村と比較されている。
埼玉県大間木の散村では、その後の開発も点在するように行なわれていた。それは、大間木では地主が自分の土地の中でできるだけ遠くの場所を売っていたからである。
一方、三宅集落の集村では、集落に近い場所から開発が行われ、集落が膨張するように埋めるようにできていた。この違いは何なのか。
■池埋め立て問題
田んぼが宅地化され、貯水池としての必要性を失った池は埋め立てられ、工場などが建てられたりする。よって、形がそのまま残る。
所有権問題・入会地問題・集落形成ミニ開発問題が絡んでくる。
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-- Posted by mdr
September 26, 2007 04:03 PM
2007年4月29日(日)[晴]|旅行記
暗峠調査(大阪─奈良間、生駒山)
参加者:清水先生、御船先生、中谷先生、ゆく君、荻原さん(MDR)、飯尾さん(MDR)志柿さん(建築家)、福井さん(志柿建築事務所)、北浦さん(アセテート)、長野さん(大阪工業大学M1)石垣、坂東、久保
9:00
近鉄奈良線枚岡駅集合
清水先生、御船先生、中谷先生、ゆく君、荻原さん、志柿さん、福井さん、北浦さん、長野さん、石垣、坂東、久保が集まる。
今和次郎は、大阪から奈良へ行く暗峠の入り口、枚岡の地籍図を細かく書き残している。今日は主に、なぜ今がここの地籍図を書いたのか、その意図を探ることにする。また今のスケッチ、水車が現存しているかどうかも見ていく。
まず枚岡駅を北へ進み、次に川沿いを西へ歩く。川の形よりここは、今の書いた地籍図Ⅲの辺りと思われる。
地図を見ると川沿いに工場がいくつかある。そこで川沿いにあるひとつの製線工場を訪ねる。工場を所有する家の奥さんが出てきて下さり、工場を案内してくれる。針金造りには石灰が必要らしく、工場に入ると、石灰が舞って中が真っ白になっていた。
10:00
今度は旦那さんが出てきて下さり、この辺りのお話を話して下さる。
[工場経営者さんからの聞き取り]
この辺は伸線業が地場産業である。現在も社会見学のため、小学生がこの製線工場に見学に来ている。河内の引抜き屋と呼ばれた。
おじいさんの代から針金造りを始めたそうで、大正6年頃にはすでに開業していた。昔工場は今より上流にあったが、昭和33年に現在地に移転してきた。
昔は伸線機の動力として水車が沢山あった。しかしだんだんと、電力化され水車はなくなっていった。
川沿いの水車小屋には、石垣を積んだ樋台(トユダイ)から水車に水を送っていた。水車はもう見られないが、樋台の跡は残っているかもしれない。
伸線機が電力化されても、廃水のためには工場は川に隣接しているほうがよかった。サンセンといい、塩酸、硫酸を使う。昔は廃水で公害問題も起こったが、今は浄化処理をしている。
始め針金工場は3〜4軒ほどだった。各工場は大阪の問屋に属した。針金工場が増えてくると、問屋が各工場を仕切っていた。黄銅組合という組合があった。
昔の針金は非鉄金属が主であった。銅や真鍮だった。三角や四角断面の異形線も作った。線の断面形はダイスの形で決まる。
今の地形図スケッチに描かれた大きな池は溜め池か。かつては溜め池があったがもう残っていない。
飯尾さんが合流。続いて川沿いのもうひとつの線材屋さんの側を歩く。
たまたまおばあさんが家の前で掃除をしていたので話を聞く。このお宅はこの春工場を閉め、壊してしまったそうだ。またこの家には水車の跡らしき、といが残っている。
さらに川沿いを歩くと、もっと大きな伸線工場や新興住宅地を確認。やはり産業の動力変換がこの町の開発に大きく影響を及ぼしているようだ。
川沿いを離れ、北へ。中学校の側を通り、308号線の五角交差点へ。
旧なら街道を歩き、枚岡引抜工業の側を通る。
11:30
「寿し魚繁」「どじょうや食堂」の二カ所で別れて昼食。
12:30
もう一度最初の工場経営者のお宅を再訪問し、暗峠を途中まで案内していただく。
この辺りが今の書いた地籍図IIIと思われ、小規模な伸線工場がまだひとつ残っている。しかし、川沿いに今のスケッチの水車がないか探すが、石垣の樋など跡さえ確認できず。
ここからは暗峠の急斜面を登り続ける。
だが、これ以降今の暗峠のスケッチは見られないことから、おそらく今は暗峠を登ってないと思う。
途中暗峠をはずれ、豊浦山池へ。池の形からどうやら、この辺りが今の書いた地籍図IVようだ。
おそらく、今は地籍図IV─伸線産業が始まる前の農地、地籍図III─水車で伸線産業が始まる傾斜地、地籍図II─水車での伸線産業が広がる平地、地籍図I─機械へと転換していった伸線産業のひろがる平地、となっていると思われる
ここで北浦さん、ゆく君とお別れをする。
髪切を通り、旧暗峠から新暗峠へ出る。
峠の茶屋お休み処すえひろで休憩。
でる暗峠の奈良側を下る。
でる南生駒の荻原町の家が今の書いた大和造の家に似ている。
だが、今がわざわざ南生駒駅にきたとは、このスケッチからは思えない。
たぶん生駒駅近くのどこかの民家を暗峠山中の家としたのではないか。
南生駒駅から電車で200円生駒駅へ。
17:00
生駒駅ぴっくり通りはずれ風花にて晩ご飯。『10+1』四国編の話しあい。
[清水先生・御船先生から『10+1』四国編の執筆概要を話していただく]
四国編ではなぜ民家を簡単に発見できたのか、その縁について。教育委員会を通すと町の地主層を紹介され、人づてに行くと町の歴史を支える人=自作農にあたる。今の調査対象となった自作農が、四国の調査方法とピタリと合ったのではないか。
・今の調査対象は中農/小農だった⇒暗峠も中小企業を調べている。
・7月に『日本の民家ゼミ』のフォーラムを行なう予定。
20:10
店を出て、解散
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-- Posted by mdr
September 21, 2007 01:55 PM
2007年1月18日(木)[晴]|旅行記
四国調査10日目(高知県上川口、東京へ)
参加者:大高、中谷
10:00
黒潮町(もと大方町)役場の教育委員会の方とコンタクト。
10:20
喫茶「やすらき」で集合、地区町のところに出向いて古老の話を伺う。
昨日の結果と矛盾なく補完。以下だいたいの話。
・昔は「上」がなかった。
・昔からここら辺は漁村。
・子どもの自分には藁葺きが5、6軒は残っていたと思う。
・今のスケッチはあの家かもしれない(後に昨日の家と同じことが判明)。
・昭和35年頃堤防ができる。それまではグリ石の浜から家まで地続き。
・今の書いたような小さい家が昔はいっぱいあったと思う。
・6帖で蚊帳を吊って寝た。
・網の補修で前庭を使った。
・寄り合いの時は広い家を使った。
・真水──共同井戸はなく、井戸のある家からもらい水。
・風呂──同じくもらい風呂。
・大工──素人に毛の生えた程度の大工ならいた(「一文大工」)、修理師もいた。家の修理はだいたい自分でやった。
・ロ漕ぎの舟から「焼き玉エンジン」(2気筒、重油)に変わった。
・漁場は昔から近海。魚は豊富。たまに遠洋に参加する人もいたが少ない。
・昭和の航路は清水、河上口、州崎、高知。
・野菜は作った。
・半農半漁という感じ。
・着るものは機織りした。
・薪とりが大変だった。
・ほとんど現金収入なしだったが結構楽しく暮らせた。
などを聞き取る。
以上、昨日の民家に相違ないことを再度確認した。
10日間という長期の四国調査を終え、東京への帰路につく。
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-- Posted by mdr
September 7, 2007 03:19 PM
2007年1月17日(水)[晴]|旅行記
四国調査9日目(高知県上川口、泊)
参加者:大高、中谷
9:00
南国市を出発。
10:00
56号線沿いの喫茶ウエストロードで朝食。早目に着くので自力で対象家屋を探してみることに。
12:00
上川口に到着。喫茶「やすらぎ」にて昼食。頃合いを見て女主人に相談。浜沿いの商店の亭主を紹介される。
13:00
商店訪問、港に直面。主人によくしていただき候補と思われる2、3件を訪ね、また近所の人も巻き込む(どうやら名士みたいだ。また探偵ナイトスクープ状態でもある)。
13:20
今のスケッチした間取りに増築した状態にきわめて告示している小屋を発見。
「六二 土佐の漁家」
現在管理を行なっている主人がそこで縄縫いをしていた。中谷、間取り採集、大高撮影。
その他の話(主に商店の主人から):海路が発達していた。ただし浜が砂浜でなくグリ石の砂浜だったので、沖合の汽船から伝馬船に乗り換えて入港した。商店が発着場正面。該当家屋はそこから東に浜沿いに歩いて50mほど。
喫茶「やすらぎ」で会った方から『ふるさと上川口』という本を拝借。
17:00
作業終了ホテルさんルートにチェックイン。
18:00
車で付近の回転寿司に行ってみる。あまりおいしくなかった。はやめにそれぞれの部屋に戻る。
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-- Posted by mdr
September 7, 2007 03:02 PM
2007年1月16日(火)[曇]|旅行記
四国調査8日目(高知県南国市、高知市泊)
参加者:大高、中谷
8:30
中谷、浜松町のチサンホテルで寝坊。浜松町駅のモノレールまで走りまくる。
9:25
滑り込みセーフでJAL高知行き。
10:50
高知空港着、大高と落ち合う。
11:30
南国市教育委員会の田淵氏へ挨拶。
13:00
同教育委員会へ出向く。ご案内いただくご夫妻(オナガドリの保存を手がけているそう)から、御免町周辺、篠原 (現おおそね甲)周辺の待ちの成り立ちについて聞き取り。『レトロ南 国』という古写真を集めた本を購入。白地図も無料でいただく。
14:00
ご夫妻のご案内でおおそね甲の中心部にある古い家並びの残るところを散策。事前に教育委員会にて、今の絵にある敷地に似た家屋を同定してその確認作業となった。今和次郎の描いた家をほぼ確定する。「六十三 土佐の農家」。
池部分に土蔵新築、門左の便所小屋が風呂付の小屋に増築。納屋構法に増築。土間部分を生活部に拡張。2つ隣の古い家 に入ることができ、中を見学。「くみじ」という潅漑用水を利用した生活用の水場を見せてもらう。橋が架かっていて面白い。大高撮影多し。
16:30
ご夫妻撮影。田渕氏にお礼をお伝えして作業終了。
17:00
高知市内の筆山荘にチェックイン。中橋通り、2人で夕食と呑み。
23:00
就寝
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September 7, 2007 02:56 PM
2007年1月15日(月)[晴]|旅行記
場所:四国調査7日目(松山市)
参加者:御船、大高、石川、石垣、坂東
7:30
起床
8:00
朝食
9:00
出発→ファミリーマートに寄る、備品購入。
9:30
松山市役所へ。地図1/2500を2枚、古地図(S39)1/3000を2枚購入。
10:40
石川合流。
11:00
教育委員会へ。市史全13巻を拝見、必要部分だけいただく。
12:20
うどん屋「手打ちうどん播州」にて昼食。
13:30
素鵞公民館でお話を伺う。
・バイパス(S52)ができてから大きく変わった。
・昔は牛を大体飼っていた。
・瓦葺きが多い。
・土塀よりも垣が多かった。
・小作が多い。
・松山城附近は戦争で焼けたが南は残って道がせまいところが多い。
・ バイパスに土地を売って周りに家を建て始める。
・
3:00過
小阪附近を案内してもらう。
16:30
公民館のみなさまにお礼を言い、別れる。
石川、御船は松山空港から帰宅。石垣・坂東は就職活動のため、レンタカーにて帰路に着く。
大高はその足で高知へ。
17:10(以下、大高ひとり旅)
帰投組と別れたあと松山道から高知道をたどるルートで高知へ向かう。
当初33号線での山越えを考えていたが、枝松にて地元の方が止めたほうがいいというようなことをおっしゃっていたのでルートを変更。
17:30
SAで給油。松山道は山麓を走る道で天空がひらけているのでGPSの受信状態も良かったが高知道に入ると山脈を突き抜ける道であるためトンネルが多くGPSも位置をロストしがち。
19:00
高知道、南国SAで休憩。東京を発ってから通算で1372km走行(大高車)。
19:15
南国SAを出発。ほどなく高知ICで高速を下り、高知市内に入る。
20:30
ホテルに到着、本日の行動終了。
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-- Posted by mdr
September 7, 2007 02:51 PM
2007年1月14日(日)[晴]|旅行記
四国調査6日目(徳島県西祖谷山村・一宇、松山泊)
参加者:中谷・清水・御船・大高・飯尾・石垣・坂東
7:30
起床。朝食。今日の予定の打ち合わせ。
8:30
ふくや旅館出発。とても寒く、車の窓に霜が降りている。国道32号線を吉野川に沿って遡り、JR祖谷口駅を過ぎ、昨日調査した川崎地区の手前から、県道32号線に入る。祖谷川に沿ってどんどん上る。
9:00頃
出合地区通過。ここは今が立寄り、スケッチ一点を残している。道に面した茅葺民家を描いたものだ。それらしい1軒を認めつつも、道が狭いため徐行するのみで通過して、西祖谷山村へ急ぐ。山あいで車の対向が難しくカーヴが多い県道32号線をひたすら走る。
9:35
合併前の西祖谷山村中心部の一宇地区に到着。
9:40
吉野川を挟んで一宇地区を見渡す位置にある、祖谷ふれあい公園で車を降りる。対岸には、山の斜面に形成された一宇の集落がよく見えた。
今の西祖谷山村のスケッチには、集落の全景と2軒の家の平面・外観がある。しかしなぜかスケッチには、西祖谷山村までしか記載がなく、字名が記されていない。つまり西祖谷のどの集落の家かはまったくわからない。
9:45
ひとまず祖谷ふれあい公園のすぐ西にある、道の駅に立寄る。
道の駅で情報収集し、作戦会議。観光案内マップも収集。気の早い面々は土産を買いこんだ。それが幸いで、道の駅土産物店の女性より、老人ホームに行って、古老から話を聞いてはどうかと提案され、近くの老人ホームの場所を教えてもらう。
10:00
老人ホームに到着。清水がさっそくトイレ掃除をしていた職員の方に調査の趣旨を説明し、いきなりよく知っている人を紹介してほしいとお願いする。職員の方は突然のお願いにもかかわらず快く対応して下さり、われわれはすぐに事務室へ通された。しばし待つと、しっかりした足取りでひとりのおばあちゃんがいらっしゃった。
まず今の集落スケッチをお見せする。そのおばあちゃんはしげしげと見て、「一宇や」と言った。ちょうどわれわれがいる地区なのだという。
中央に大きく描いてある家はオドイというらしい。この峰はどこ、この谷筋はどこ、と言った具合に非常に明晰に教えていただいた。
その他この地域についていろいろ教えていただく。最後にもう一度スケッチを見てもらい、どこの家か聞くと、なんだか自分の家と似ているという。しかもすぐ近くに建物は現存しているという。よかったら見てみるかと言ってくださり、さっそく見せてもらうことに。
11:00
おばあちゃんの案内で御宅へ移動。老人ホームのすぐ南であった。いまは息子さん夫婦がお住まいで、交渉に行ってくれる。難航しているのか、少し待ったあと、息子さんが、出てきてくれた。
中谷が趣旨を説明し、話を聞き始める。家は外から見ると、屋根には瓦型のトタンがかぶされ、外回りも改造されていて、今和次郎のスケッチとは合わない。しかし付属屋の位置関係は合っている。
「間取り図ならあるぞ」と息子さんがかつて描いた平面図を出してきた。下手部分の間取りはスケッチと違うが、上手はスケッチと一緒だ。期待が高まる。
家にあげてもらう。正面縁側の柱は取り替わっていたが、本屋の柱は古いのが見えた。さっそく清水さんがスケッチと照合。石垣が古い柱の配置をチェック。なんと合っている! 一同はげしく興奮。小屋裏にも入らせてもらう。何と驚くべきことに、今の断面図とまったく一緒なのであった。あまりの偶然的、運命的な出会いに、一同感動。
12:15
お昼どきになったので御宅を出た。祖谷名産のひとつはソバである。教えてもらった蕎麦屋へ向かう。
12:30
蕎麦屋「祖谷美人」で昼食。美味ではあったが、昨日の昼食のほうが、太く野趣があって、いかにも祖谷ソバらしかった。13:10に店を出る。
13:20
祖谷ふれあい公園に再び行く。
少し歩き一宇地区を一望できる高所を探す。今スケッチとよく合うことを確認。一宇を撮影し、10s分ほどで出発する。県道45号線で峠を越えて大歩危へ抜け、吉野川に沿って国道32号線を下り、清水の帰途のバスに間に合うよう池田へ急ぐ。
14:20
高速バス池田バス停到着。清水、大阪行き阪急高速バスに乗り込む。たった出発8分前の危うさ。われわれは実にツイていた。
14:30
池田ICより松山自動車道で松山を目指す。
16:30
松山ICを下りる。夕刻で混雑する松山の街中を抜け、明日の目的地、旧素我村(松山市小坂、枝松地区)へ向かう。
地区を徒歩で散策。
ほとんど古い家は残っておらず新興住宅が建ち、畑やマンション、産廃置き場があったり、実に都市近郊らしい雑多な景観が広がる。
17:30
車に乗り空港へ。
18:00
松山空港着。中谷、大阪へ向かう。残留組は、御船、大高、石垣、坂東の4人に。
18:20
民宿松山着。この民宿は世界各地の彫刻やレリーフが置いてあり不思議な雰囲気をかもし出している。
19:00
昨日に比べ、総勢4人の寂しげな夕食となった。釜飯と刺身であった。その後、めいめい就寝。
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September 7, 2007 02:31 PM
2007年1月13日(土)[晴]|旅行記
四国調査5日目(徳島県三縄村・中西/川崎、池田泊)
参加者:中谷・清水・御船・大高・飯尾・石垣・坂東
8:00
阿波池田、ふくや旅館にて朝食。
9:30
池田の本町通を散策。
今は、池田では袖ウダツを持つ町家の正面のスケッチをひとつだけ残しており、それが本町通の町家と睨む。
歩いている人はほぼゼロ。町家は、明治期にタバコ産業で好況を呈した時期のものが多数あり、重厚。今のスケッチした町家は見つからず。
10:30
旧三縄村中西集落へ。池田から車で10分程度。吉野川沿いにわずかに広がる緩斜面に集落形成。
今は、小農、中農の住宅を1件ずつ詳細に実測している。
現在は、茅葺きの家は数件しかなく、一部に新道も通されている。
数件の古老を尋ね、質問するも、要を得ず。今のスケッチに「周囲に古墓地あり」と記すのを手がかりに、山の上のほうにある高戸星(ことぼし)集落ではないか、との助言もあったが、墓地が住宅より上にあり、位置関係が異なるため、違うことが判明。
郵便局付近の墓地をそれとみて、捜索。聞き取りによれば、近辺に数件の茅葺農家があったことが判明。これら3軒のうちの1軒を調査したものと推定。
産業は、かつてはタバコであったが、昭和初期頃以降は養蚕。現在は養蚕を行なう家もなく、今の頃とは産業構造が2回変わっている。
12:30
「そばや」で昼食。十割そば。極太。野趣にあふれる。
13:20
池田に戻り、飯尾合流。
喫茶「21世紀」へ。純喫茶系洋風インテリアに、BGMは演歌。戦略会議。
14:00
今が次に訪れた旧三縄村川崎へ。
おそらく、今のスケッチブックで最も迫力のある集落風景が描かれる集落。西祖谷川と吉野川が合流する地点にある。車で近づくにつれ、集落が山腹の高いところまで形成されている様が見え、一同興奮。
川の対岸から今のスケッチポイントを探してみる。道路より10mほど上に、そそられる石垣の台があり、登る。ほぼ今のスケッチどおりのヴュー。
川崎のスケッチはこの1点のみで、川を渡らねばならないことから、今は川崎には行っていないと判断。しかし、誘惑に耐えかねて瀝青会は川を渡る。
集落は、遠くから見たのとは異なり、結構な急斜面。
旧坂の連続だが、老人がそこかしこを杖をついて歩いている。脚の構造が違うらしい。ただし、徒歩の人は車道を使いつつも、ショートカットルートをどんどん進み、下りの場合は車とそれほど下りる時間が変わらなかったりする。
今の時代には、住宅はほぼ、オブタなしの茅葺建物だけだったらしい。現在は、数棟の茅葺建物を残すが、瓦葺が主流。
道路沿いに点在する建物には、崖からせり出して建物を造り、地階を奧に引き込んで設け1階を束立ちで外に張り出す、懸造のようなものが数棟見られる。
1棟は、道路沿いに所在し、町屋のような風情だが、なぜか懸造で、わざわざ不安定な構造をとっているかに見える。しかし、これは、後に車道が通されたために町屋のような風情になっているものと判明。元は急斜面に張り出した懸造だった。交通は生活だけでなく、風景をも変える。
16:00
その後、もう1棟の懸造町屋を訪問。割烹着のおばあちゃん2人が、厳しい顔で、外で何かを炊いており、90年前の風景かと見紛う。
御船、おそるおそる声をかけると、すんなりと迎え入れられた。
外で炊いていたモノは、干芋用のサツマイモと判明。干す前も美味。このあたりでは米があまりとれず、サツマイモは古くからの主食だったよう。
住宅は、斜面に石垣を築き、1階を大きく張り出して、地階と束で支える懸造。建物下は急斜面の畑が続き、地形を最大限に生かした建築形式であることがわかる。昭和初期に、近隣の大工に建ててもらったとのこと。
建物の妻側を斜面から大きく突き出し、屋根を軽く反り上げ、束のみで軽く持ち上げる様は、まるで空に向かう発射台のよう。ここにもやはり、陸上交通の最奧で、それとは異なる交通の論理に基づく文化が根付いていることを確認。
16:30
川崎を出て、池田に戻る。中谷、清水、飯尾は、立ち飲み屋で情報収集を継続。池田の町の現況について聞く。
18:30
ふくや旅館にて夕食。川崎の話で盛り上がる。
20:00
入浴後、就寝
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-- Posted by mdr
September 7, 2007 02:08 PM
2007年1月12日(金)[晴]|旅行記
四国調査4日目(徳島県石井町、池田町泊)
参加者:中谷、清水、御船、大高、玉江、石垣、坂東
8:00
起床
8:30
松の屋旅館にて御船合流
9:00
松の屋旅館出発
9:10
朝食(マクドナルド、ソーセージエッグマフィンセット380円、ホットコーヒー飲み放題)。
全員で今ノートについて相談・会議 藍の作り方、藍小屋に関する記述の読解。
マクドナルドに行くまでにあった石井町公民館へ行って、石井町についてみんなで勉強することにする。
10:15
石井町中央公民館
石井町史などを全員で手分けして見る。地元の94歳の生き字引のような方がいるという情報を図書館の所員さんから聞く。(連絡とれず)。
玉井幸絵さん(香川のコンサルタント)合流。
11:00
石井町中央公民館に先生方を残し、石垣と坂東は石井町役場に白地図を購入しにいく。
白地図2枚(300円×2) 石井町史上巻下巻(5000円×2)。
役場の方から、教育委員会を紹介されたため、役場の裏にある教育委員会へ行ってみる。
こちらの研究内容、主旨などを説明すると快く対応してもらう
石井町教育委員会 壱岐氏のご好意のもと、現在でも藍農家を行っている農家に連絡をとっていただけることになる。快く承諾していただき、本日の13:30にお宅に伺うことになる。
12:30
公民館付近の旧街道を散策していた先生達と連絡をとり、合流する。
清水先生は何度も調査を行ってきているだけあって、民家への入り方がうまいらしい。「こんにちは〜」と言いながら、敷地内に入っていき、民家の方とお話をするそうだ。たぶん今もこんな感じでたくさんの民家の人たちと話をし、家の細かい部分までスケッチをとらせてもらったのだろう。
今のスケッチの中にお店らしいものが一軒を発見。スケッチのものと暖簾の店名が少し違っていたが、せっかくなので、この店で昼食
きつねうどん400円、ここのさば寿司がとてつもなくおいしい。
午後からの行動を決める。
教育委員会の紹介で藍農家の班(中谷、石垣、坂東)
旧街道を散策する班(清水、御船、大高、玉江)に別れる。
[藍農家班]
13:00
教育委員会で壱岐氏と待ち合わせ。
13:30
藍農家到着。
13:45
遅れて旧街道班であった大高氏が合流。先程言っていた民家は今のスケッチのものとは一致しなかったようだ。
外山様宅の藍の寝床を見せていただく。小屋を入るとつんと鼻にくるにおいがした、アンモニアのにおいだそうだ。発酵中の藍をさわらせてもらうと、湯気がでていて暖かい。
また、寝床の土の地面に白いほこりのような膜が張っていた。これをあつめると爆薬になるそうだ。
14:30
藍農家出発。
[旧街道班]
13:00
清水、御船、玉井の3名で行動。大高氏発見の、今スケッチブック記載の中農屋敷らしき物件を見る。敷地形状は似ているが、居住者に聞いたところ、否定。本屋が桟瓦葺で、改造がなく思われる点も一致せず。残念。
13:30
昼食をとったうどん屋が、今スケッチブック記載の町屋の後身とみて、当主に聞き取り。現在の建物は10年ほど前に建て替えたもの。当主の記憶があいまいなため、古写真も確認してもらったが、不明。昭和21年に嫁入りした当主の母に聞き取りをするため、入院先の病院を訪問。聞き取りを行なう。
14:30
大高氏発見の中農住宅(今スケッチのものとは別物と判明)の隣に、小農クラスの規模を持つ四方蓋住宅があり、外観見学。雰囲気はスケッチとよく似る。間口が少し広く、敷地へのアプローチも異なる。別物だろう。
全体の印象:青石を徹底して用いるところに、地域の特質を見る。町屋が建ち並ぶ地区ではあるが、1枚裏に四方蓋農家が建ち並び、産業の基礎が藍にあることが明確にわかる。町と農村が近接し、混じりあっている。
14:45
重要文化財である田中家住宅を見学。
田中家住宅で飼われている犬が坂東におしっこをかける。田中家の奥様が事細かにお話しをしてくれる。
16:20
田中家出発(ウィングロード[清水運転、御船、石垣、坂東]、ルノー[大高、中谷])。
17:30
徳島県池田町、ふくや旅館到着。
旅館を入ると、真ん中に三角の中庭があり、そこに鯉が泳いでいる。
全体の平面形体が三角形の変わったつくりになっている、旅館の女将さんはムーミンのミーに似ている。
18:30
夕食。懐石料理のようなもので、お腹いっぱいになる、先生方はお酒を飲む。
本日のまとめをしながらご飯を食べる。
20:30
お風呂。
2:30
就寝
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-- Posted by mdr
September 7, 2007 01:45 PM
2007年1月11日(木)[晴]|旅行記
四国調査3日目(日和佐、石井町泊)
参加者:中谷、清水、大高、石垣、坂東
8:00
起床・朝食
9:30
打ち合わせ
10:20
日和佐町役場庁舎へ。「六一 南阿波の漁家」税務保険課で所有者確認。
「公図」土地台帳(海部郡日和佐町役場)より。
11:00
日和佐城へ。窓からの眺めあまり良くない(入場料大人200円、学生100円)。
11:15
鞆浦へ向かうが、時間がなくなり途中で引き返す。
12:00前
セルフのうどん屋で昼食。
13:00
公民館で喜田さんと待ち合わせ、喜田さんのご紹介によって古老の方に聞き取りを行なえることになる。
13:10
桜町通りのお宅へ
おもちゃ屋さんの奥を入るお宅・書斎は風情ある魅力的なたたずまい。
御自身が書かれた本をいただく。興味深い本だ。
14:00
漁業協同組合の方に聞き取り、写真を撮らせていただく。清水合流。
15:30
再び「六一 南阿波の漁家」確認。
15:45
街歩き ドラム缶にコールタールの壁のクリーニング屋に感動。
16:00
公民館をあとにする。ウィングロード:清水・石垣・坂東、ルノー:大高・中谷
18:00
石井町到着。松の家旅館
18:30
「とり一」にて夕食。
20:00
旅館に戻る。
2:30
就寝
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-- Posted by mdr
August 7, 2007 08:37 PM
2007年1月10日[晴] |旅行記
今日は日和佐町1日目。漁村の発展について聞き取りし、待ち歩きをする予定である。
7:20
起床
7:30
朝食
9:45
中谷、石垣、坂東、美波町立日和佐公民館着、公民館の方と打ち合わせ
・90年前とどう変わったかを聞ける方を紹介していただく
・日和佐の発展と漁村(日和佐浦)の発展を聞きたい
・家の建て方、寄り合い、漁村がどのように発展していったのか
・コールター塗りの民家に入りたい → 2軒くらいあるのでは
という希望を伝える。
10:10
美波町文化財委員の方にお話を聞く
・今が訪れた頃、遠洋・沖合い漁業(九州五島列島)が盛ん、最長期であった。このとき漁村のみすぼらしい家も立派になった
・街道筋の家は獲ってきたものを縁側に並べる
・あわい=狭い路地のこと
・漁獲物(イカ あじ かつお たちうお)現在沿岸漁業
・共同井戸がある
・今の時代は海から運搬していた
などを聞き取る。
11:00
公民館の会議室を借り、これからの打ち合わせ。大高氏合流
・変容、衰退していても他の息吹をみつける
・単に廃れているだけではない
・漁村は連結で都市や遠隔の地の影響をうける
・ラディカルな風景 漁師の暮らし
などに焦点を当てる。
12:20
「はしもと食堂」にて昼食。日替わりバイキング840円(麦飯、味噌汁、その他おかずバイキング)
その後市役所にて、1/10000 1/2500地図を研究のため無料でいただく。
車で日和佐浦を散策。アオウミガメ、アカウミガメを触らせてもらう。
13:40
公民館到着
13:50
日和佐に住んでおられる年配の方2人にお話を聞く。
・昔は今の採集した家のようなものが一般的であった。外枠はそのままで内側を改造している
・九州遠洋漁業が盛んで、若者は九州へ出稼ぎにいき、夏の船のドック期間中に切り上げて帰ってくる
・このあたりは魚が獲れず、生活が厳しい
・神奈川の玉の島に日和佐の植民地2、3000人行っていた
・遠洋漁業壊滅状態、石油ショック・200海里経済水域より
・現在は外国に頼っている(まぐろ)
・沿岸漁業も苦しい状態
・現在(あみ、一本釣り、トローリング)
・最近は若者が釣船を使ってレジャーを始めている
・コールターを塗ること:漁村(木船)に塗っていた。コールターの専門店があった
・漁村と農村の共同体について:漁業組合、ひとつの場所から共同で漁獲する、おしあげ、漁獲域に制限(よく獲れるところは交代で)
・整理=船での生活の知恵である
・日和佐は土地が少ないため、半農半漁はすくない
などを聞き取る。
14:30
街歩き
縁台(ばったり将棋)が有名であちこちに見られた。獲ってきたものを並べているところもある。
『世間遺産』発見!! 昔の銭湯、今は集会とかに使われている
コールター塗りの民家もいくつか発見
海岸沿いを歩いて、公民館へ戻る帰り道、日本の民家の家を発見する! 公民館に報告
・持ち主に連絡を取っていただく。明日アタックすることにする。
16:30
ホテル着、入浴
18:00
夕食
20:00頃
就寝
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-- Posted by mdr
June 8, 2007 03:18 PM
2007年1月9日[晴]|旅行記
今日からいよいよ四国調査のはじまりである。
10日間で四国4県をまわり、瀝青会メンバーも参加日は異なるがほぼ全員参加する予定である。旅行日数も参加人数もこれまでで一番多い大調査である。日々、新たなメンバーを加えつつ、異なった視点で四国を調査できるなんて幸せな旅になりそうだ。
15:50
・大阪市立大学出発
・中谷宅に寄る
・近くのファミリーマートにて電池(4本200円)120分テープ(220円)購入
16:20
・今回旅に参加できず、学校待機の久保より電話がかかる
・調査1日目にお世話になる日和佐町の担当者が変わったことがわかる
・何度か電話を交わし、明日朝10時に公民館に行くことを決め電話を切る
車中
・御船先生、石川先生と最後の合流の確認
・『10+1』の飯尾さんから10日、11日の旅に参加するとの申し出
──「桃太郎」の鬼退治のように仲間がだんだん増えていく
20:00
・ホテル千羽到着
・周りに晩ご飯を食べるようなところがなく、ホテルで出していただけることになる
・ホテルの部屋の間取りが変わっていて、みんな驚く
20:40
・晩ご飯
・明日からの調査にむけて、気合いを入れる
21:40
・お風呂
・就寝
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-- Posted by mdr
September 10, 2006 05:45 PM
2006年9月10日[晴]|旅行記
甲州街道補足調査
最後に、前回行なった甲州街道フィールドワークの補足調査を行いました。『日本の民家』「郊外町の生成」(ダイアグラム4)のモデルとなった大久保町は現在どのように変化しているのでしょうか。
10:00
JR四ツ谷駅集合(坂東・久保・中谷先生到着)。徒歩で新宿歴史博物館(03-3359-2131)へ。
10:40
新宿歴史博物館到着(飯尾氏と合流)。
▼2F 閲覧室にて、地図探し。職員の方にさまざまな本を紹介していただき、今のスケッチブックに記載された当時の番地の現住所を特定していただいた(地図で見る新宿区の移り変わり、淀橋・大久保編から)
【職員の方に紹介された本】
[大久保関係]
・『地図で見る新宿区の移り変わり 淀橋・大久保編』(購入済)
・『地図で見る新宿区の移り変わり 索引編』(購入済)
[甲州街道関係]
・中西慶爾『甲州街道』(木耳社、S47年出版)
・『甲州道中 歴史の道/歴史の道調査報告書第五集』(東京都教育委員会)……都庁にあり
12:00前
メディア・デザイン研究所で打ち合わせおよび昼食。
中谷先生が今のスケッチブックの崩し字を解読しなおす。
13:30
メディア・デザイン研究所を出発し、タクシーにて大久保へ向かう。
14:00
JR新大久保駅にてカメラマン大高氏と合流。徒歩で調査地へ向かう。調査地の街区は韓国料理屋の入るマンションとなっていた。
15:30
カフェ「SASA」にて、調査後打ち合わせ。場所が合っているであろうことを確認。
16:00前
中谷先生は帰宅、飯尾氏、大高氏、坂東、久保で「軍艦マンション」屋上に上り、調査地周辺の写真を撮る。
16:30頃
飯尾氏・大高氏と別れる
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-- Posted by mdr
September 1, 2006 12:42 PM
2006年9月1日[雨のち晴]|旅行記
甲州街道調査最2日目
『日本の民家』再訪、内郷村・甲州街道編もついに最終日となりました。今日は甲州街道を通り、相模湖をもう一度垣間見た後、大阪まで一気に帰ります。長くて疲れもしましたが、本当に楽しかったです。
7:00
起床
9:00
中谷先生、石垣、久保、坂東、広瀬で、新宿ワシントンホテル近くの喫茶店「タヒチアン・ノニ・カフェ」にて朝食。
9:30
坂東と広瀬は、三井ビル地下駐車場に車を取りにいく。中谷先生、石垣、久保は、荷物をホテルより運び出す。
10:00
新宿ワシントンホテルにて合流。その後大高氏と合流し、甲州街道を通って、中央自動車道経由で相模湖に向かう。
10:45
相模湖の西側に到着。石川氏の指摘により、29日に推測した今和次郎スケッチの場所を再度検討する。国道20号途中と確認したが、あいにくの雨できれいに撮影できない。後日大高氏が個人的に撮影しにくることになった。
11:00
大高氏をJR相模湖駅まで車で送り、別れる。その後近くの相模湖東ICから、中央道に乗って大阪に帰る。
12:00
お昼は双葉SAの「レストラン山交」にて。お土産の「信玄餅」を買う。
13:00
双葉SAを出発。車中で、90年前の民家調査団「白茅会」に対する、現代のわれら民家調査団の名前を検討した。なかなか煮詰まらずに終わる。
15:00
内津峠PAにて休憩。ガソリンを給油。
17:00
京滋バイパスと名神の大山崎ICで高速道路を降りる。途中で石垣を下ろす。
17:30
大山崎ICにて再び名神に乗る。大阪梅田近辺ですこし渋滞気味になる。
18:45
途中で中谷先生と別れ、久保、坂東、広瀬で大学に向かう。
19:15
大阪市立大学工学部の研究室へ調査に使った荷物(研究室備品)を返却する。
19:40
久保、坂東は、各々の家に帰る。広瀬は、レンタカーをニッサンレンタカー(長居)に返却する。
22:00
広瀬も家に帰り、就寝。
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August 31, 2006 03:46 PM
2006年8月31日[晴]|旅行記
甲州街道調査1日目
今日は、今和次郎が甲州街道をモデルに、郊外町の生成過程を描いた『日本の民家』「郊外町の生成」ダイアグラムを検討していくことにする。今は新宿から代田橋までの甲州街道をモデルにしているので、われわれも新宿からフィールドワークを開始することにした。
7:00
起床
8:00
中谷先生、石垣、久保、坂東、広瀬 ワシントンホテル出発。ドトーで朝ごはん。
9:00頃
1/2500東京周辺白地図を手に入れるため都庁に向かう。日本橋の「ぶよお堂」にて取り扱っているとのこと。手に入らず、後日頼むことにする。
9:30頃
ワシントンホテルの駐車場があまりに高いので、他に移す(ワシントンホテルの駐車場7000円/一泊程度。別の駐車場2000円程度)。
10:00
ワシントンホテル3階ロビーでランドスケープデザイナー石川氏、大高氏、建築家福島氏と合流。
▼今和次郎著『日本の民家』「郊外町の生成」ダイアグラム(1)(2)(3)(4)が、現在の甲州街道のどのあたりかある程度目星をつける。
▼玉川上水と甲州街道、電車等のできた順番を確認しあう。
10:30頃
ワシントンホテル出発。甲州街道に出てすぐ、玉川上水跡の公園へ。諦聴寺を越えて、明治神宮参道へ出る。甲州街道を通り、山手通り交差点へ。交差を重ね続ける甲州街道上のインフラ(高速道路)の姿に興奮した。
歩きながら、今のダイアグラムについて話し合う。
▼ 今は短冊状の宅地形成を意識して「郊外町の生成」描いたのか? それとも原始的な集落の発展を描いたのか?
▼ 今のスケッチブックから(工学院大学の方々の配慮により今スケッチブックの甲州街道部分を持参)、ダイアグラム(4)は甲州街道を外れた大久保町辺りであると思われる。
▼ なぜ青海街道ではなく、甲州街道だったのだろう? 青海街道はすでに発展していたので、発展途中の甲州街道を見たかったのではないか? しかし、甲州街道は高低差のある街道で、青海街道の発展とは大きく異なっていたと思われる。甲州街道の最終的な発展形態ダイアグラム(4)に、甲州街道を外れた大久保町の立面図を転用した理由はそのあたりにあるのではないか?
川跡らしき道を通り、甲州街道をはずれ、水道道路を西へ歩く。
幡ヶ谷商店街を通り、もう一度甲州街道に向かう。幡ヶ谷商店街は大阪にはあまり見られない商店街で、路地沿いに形成されたような形をしていた。
12:30
幡ヶ谷商店街内の洋食屋さんで昼食。再び今のダイアグラムを検討。
▼今のスケッチブック158より、ダイアグラム(2)(4)に「新設工場」と「新興住宅」という文字を発見。再度ダイアグラム(1)(2)(3)(4)の場所を特定する。
▼今のスケッチブックから、ダイアグラム(4)に描かれた家は神社ではないか?
13:30
幡ヶ谷の清岸寺前へ。後背地が区画整理されている。おそらくここがダイアグラム(3)と思われる。
笹塚駅前商店街へ。つつみジュエリーが今のスケッチにある氷屋ではないか。おそらくここがダイアグラム(2)と思われる。
甲州街道をはずれ、代田橋の神社へ向かう。
15:30
喫茶chubbyで歩いた時感じた事を確認しあう。
▼今のスケッチブックから、今は代田橋まで電車で行き、そこから新宿へ向かったと判明。
▼おそらく今は代田橋駅を降りた後、神社のそばを通り、代田橋をわたって甲州街道へ出たと思われる。
▼神社のスケッチが、『日本の民家』では民家に転用されている?
▼今のダイアグラムは厳密に街道沿いを描いたというより、理念を描いているのだろう。
17:15
電車にのって新宿へ。電車代130円。新町へ。戦災後は団地となり、当時の面影は見られない。また玉川上水跡が駅前の公園となっている。
18:00
夕飯。さくら水産にて。
▼後日大久保の住所特定。
21:45
解散
22:00
ワシントンホテルにて先生と反省会。
23:00〜
学生同士で反省会。広瀬の卒論を話し合う。
24:00
反省会終了
25:50
日記を書いて就寝。
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August 29, 2006 07:07 PM
2006年8月29日[晴]|旅行記
旧内郷村調査2日目
今日は内郷村全体のフィールドワークだ。今の描いた景観スケッチは、現在どうなっているのだろうか。
6:45
起床
7:30
中谷、石垣、久保、坂東、広瀬、宿泊先の辻堂団地を出発。
10:00
JR相模湖駅にてカメラマン大高隆氏、MDR飯尾氏、INAX出版高田氏と合流。
10:30頃
まずは津久井湖ダムへ向かう。車を有料駐車場に停めて、主人をインターホンで呼び出すと、目的に興味を持たれ船を出してもらうことに。主人の先導する船に2艘つなげて乗り込む。
最初は津久井湖北東へ行き、周囲の石垣や橋跡や耐火煉瓦製の揚水用の建造物跡、道志川と津久井湖の境の標等を確認する。また主人に昭和40年代まであった沼本集落(津久井湖に沈む)
の様子とその跡地を教えてもらう。さらに昭和40年代民家があった頃の写真を見せていただく。冬は夏より5mくらい水位が上がるそうだ。
12:00
上陸後、ランドスケープデザイナー石川初氏と連絡が通じる。どうやら当方の携帯が電波の届かない範囲にいた様子。道志橋に来られていたのですぐ合流。
12:15
412街道沿いの付近のうどん屋で食事。午後の予定を話しあう。石垣、久保、坂東組は、昨日取り残した配置図完成のために、再度民家へお邪魔することに(次回別行動班の日記公開)。残りのチームは、今の書き残した景観スケッチの場所を探し、そこに訪れることにする。また増原村の俯瞰写真を撮りに帝京大学薬学部(周囲で一番高い位置にある)に訪れることを決める。
食事完了後、早速今和次郎のスケッチを見せる。大高氏の推測と石川氏のカシミールによる分析によって、先ほど船で通過した、道志川と津久井湖の境周辺と推測。
やや視点が高い位置にあったので、ボートには乗らず、陸から同じシークエンスが見えそうなところを探す。いくつかためした後、標の立っていた上の民家を訪問し、そこからの撮影許可
をもらう。ただ崖の縁で、生茂り木にかくれて全く同じようなシークエンスは撮影できなかった。
15:30
帝京大学薬学部を訪問。事務所で許可をもらい図書館屋上から増原村を撮影。
17:00
相模湖駅の町営駐車場に車を止め、近くの喫茶店「ほさか」にて本日の結果を報告。後日の甲州街道の調査方法を検討。石垣、久保、坂東チームと合流。
18:00
解散。大高氏を含め大阪市大チームは新宿ワシントンホテルに向かう。
20:30
ワシントンホテルにチェックイン。
晩飯は大高氏推薦による新宿のさぬきうどん屋にて。1時間ほどで解散。
ワシントンホテルに帰り、就寝。
[写真:大高隆]
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August 29, 2006 02:31 PM
2006年8月29日[晴]|旅行記
旧内郷村調査2日目(別行動班日記)
29日昼食後、石垣、久保、坂東は配置図補完のため再度民家を訪問する事にした。
その別行動を回想してみる。
12:15
民家造りのうどん屋で食事。おろしうどん食べる。
午後の予定話し合う。石垣、久保、坂東は配置図をとりに民家へ行くことにする。
14:00
民家3訪問。とてもやさしく迎えてくれる。昨日の聞き取りの補足をしてくれる。
配置図を描き始める。実は奥まで庭が続いていて、道や川が造成されていたことに驚く。
15:30
描き終えて、お菓子をいただく。今度は個人的に遊びにきてねと言ってくださった。
16:00前
民家2に行く。その家のおじいちゃんが、木の名前をひとつずつ教えてくれる。
17:00
民家2の配置図を終える。きゅうりや干し柿、せんべいをいただく。きゅうりが特においしかった。
おじいちゃんに火星の写真と切り絵図の写真をもらう。
17:30頃
民家2出発
18:00前
JR相模湖駅前の喫茶店ほさかにて、中谷らと合流する。次回甲州街道の調査について話し合う。
以降29日の「旧内郷村調査2日目」に同じ。
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August 28, 2006 02:08 PM
2006年8月28日[晴]|旅行記
旧内郷村調査1日目
当方は、工学院大学蔵書今和次郎のスケッチブックを用いることによって、今和次郎が訪れた民家を特定することができていた。そして、約1カ月前、各民家に、教育委員会を通して聞き取りと簡単な間取りを取らせていただくようお願いしていた。本日はその民家3軒をまわる予定である。
6:20 起床
7:30 中谷、石垣、久保、坂東、広瀬、当方の車にて宿泊先である辻堂団地出発。
10:00 JR相模湖駅にて、津久井教育課土井永好先生、カメラマン大高隆氏合流。当方の車と土井先生の車2台で旧内郷村へ向かう。
10:30 1軒目の民家に到着。土井先生立ち会いのもと、ご主人と奥様にお話を伺う(中谷、石垣)それと同時に、民家と周辺敷地の歩測実測(久保、坂東)、ビデオカメラ撮影(広瀬)、カメラ撮影(大高氏)を各々進める。聞き取り後、御主人の案内で増原集落を歩く(土井先生、中谷、大高氏)。
12:30 阿津川食堂にて昼食
13:10 2軒目の民家に到着。『日本の民家』にて所有地全景が紹介された民家である。一軒目と同じ要領で聞き取り、実測調査を行なう。代々御家に伝わる「所有敷地切絵図」を拝見し、あまりの迫力に感動。
15:25 3軒目の民家に到着、本日最後となる聞き取り、実測調査を行なう。敷地が大変広く、実測に苦労する。
17:30 土井先生にお礼とお別れを告げ、大高氏には明日の約束をし、解散。帰路にて、晩ご飯(ほかほか弁当)、明日の朝食(コンビニ)購入。
19:40 辻堂団地到着。晩ご飯と反省会。
22:00頃 図面の書き直し。
25:30頃 就寝。
[上2点 写真:大高隆]
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-- Posted by mdr
August 27, 2006 06:55 PM
2006年8月27日[晴]|旅行記
2006年8月、『日本の民家』再訪ゼミの今年度初の旅行が行なわれることが決まった。期間は8月27日から9月1日までの6日間。行き先は3カ所、「神奈川県旧内郷村」「埼玉県旧大間木村」「甲州街道」だ。このゼミが始まってから、2回目の旅となるが(『10+1』No.44、中谷礼仁「準備編」参照)、前回よりもかなり長く、旅の苦労も一塩だろうと思われた。
この旅をまず簡単に紹介させてもらったところで、回想していくことにする。
まずは、大阪から関東へ向かわなければならなかった。
12:00
大阪市大から中谷、石垣、久保、坂東、広瀬の5名でレンタカーに乗り、神奈川を目指した。民家調査ということで実測用具など荷物が多く、車でなければ便が悪いのだ。今日の宿泊先は、湘南の公団辻堂団地(http://danchi100k.com/file0073/index.html)、大阪からの所用時間は予定7時間である。
14:30
御在所SAにて昼食。うどんなど、各自500円程度。
湘南までの道は長い。道中、さまざまな話をしながら向かった。明日から始まる調査のこと、うまくいくか、どのような人々が待っているのだろうかなど。富士山の近くを通り過ぎようとしたとき、それまで気持ちよく晴れ渡っていた空が陰り始めた。明日からの天候が気になる。
ようやく湘南に近づき始めたころ、車が混み始めた。予定時刻が刻々と延びてゆく。湘南は大阪よりも涼しく、潮の香りがしていよいよ違う土地に来たのだと実感が湧く。
20:00
大阪出発から早8時間、辻堂団地に辿り着いた。
明日の準備、打ち合わせをして明日に備えた。このメンバーでの調査は初めてである。ついに旅は始まったのだった。
[写真:大高隆]
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