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特集:201301 2012-2013年の都市・建築・言葉 アンケート<

門脇耕三

●A1
2012年は、以前からの関心事であった「縮小の時代」の様相が、まだまだおぼろげながらも、自身のなかでずいぶん整理された年だった。この1年、都市やそこで生きることの今後の姿について、さまざまな分野の識者と多くの対話や議論を積み重ねてきたが、その背後には、いずれも「縮小の時代」というキータームが見え隠れしていた。
ところで、縮小の時代とはいっても、都市の様相に関していえば、「都市自体が縮小する」というイメージは適切ではない。縮小するものの代表は人口であるが、インフラや建物といった都市構築物のストックの総量が変わらないとすれば、人口一人あたりのストックはむしろ増加するのであり、都市空間は相対的には拡大していると見なすことさえできる。
このように、縮小時代にあって、構築物のストックや都市空間は余剰に向かうため、そこで暮らす人間の行動原理や価値観は、拡大時代とは根本的な転換を遂げるだろう。たとえば、ストックや空間が不足している時代、すなわち拡大の時代には、それを排他的に支配すること、つまり「所有」することが価値を持つが、縮小の時代に「所有」されたものが魅力を生むことはない。ストックや空間に余剰があるのだとすれば、排他的である時点で、それに目を向ける必要はないからだ。だから縮小の時代には、ストックや空間が多くの人に開放され、その利用可能性が潜在的に担保されていることこそが価値を持つ。ものや場所を「シェア」すること、つまり共有することへの関心の高まりは、これを如実に反映しているといってよいだろう。事実、筆者が建築家の成瀬友梨・猪熊純らとともに企画した連続シンポジウム「シェアの未来」(企画:シェア研究会有志、2012年4月から7月にかけてコワーキングスペース「THE TERMINAL」にて開催)は、企画者が建築と都市の専門家で構成されていたにもかかわらず、建築や都市に携わる観客は全体のなかではむしろ少なく、幅広い層からの参加者を集めるものとなった。
2012年に発表された日本の建築作品を眺めていても、「空間の開放性」や「緩やかで自律的なコミュニティ」がテーマとされていたものが多かったように感じるが、これも同じく、「空間の利用可能性の増大」というキータームに連なるものだと理解できる。また、最近発表される建築作品は、建物単体からだけではその評価を正しく下せないものが、ますます増えているように思える。新たに開発された土地に建物が新築されることは今や少なく、多くが既成市街地の老朽化した建物の建替えであるから、その来歴なども含めて作品を見ることが、怠れなくなってきているのだろう。つまり最近の日本の建築作品は、ハイパーコンテクスト化している。
2012年に発行された建築専門誌では、年末に『SD』誌と『ディテール』誌が相次いで建築のエレメントに関する特集(『SD2012 特集=構築へ向かうエレメント──構法と建築家の言葉』および『ディテール195号 特集=これからの、ニッポンの、ディテール力。』)を組んだことが特に印象的だった。『SD』誌の特集は筆者が企画・構成を担当したものであるが、今にして思えば、この2つの特集に象徴されるような「モノ」としての建築への関心の高まりは、建築作品のハイパーコンテクスト化と無縁ではないように思える。建物の細部は建築の豊かな発現に大きく関わるが、これを繰ることなしに、情報量が膨大となった周辺との関係を取りなすことが困難となっているのではないか。いずれにせよ、ここしばらく続いた建築の抽象化や図式的表現への傾倒に、揺り戻しをかける動きを感じている。

『SD2012 特集=構築へ向かうエレメント──構法と建築家の言葉』/『ディテール195号 特集=これからの、ニッポンの、ディテール力。』

●A2
建築表現の行方に加えて、縮小の時代における人の振る舞いかたに関心がある。
拡大の時代は、人の総数に対して空間が不足している時代であるから、そこでの人間の行動には、多くの空間を占拠することがないように、身を縮こまらせるような圧力がかかる。また、実空間ばかりではなく、社会的空間においても、人は所与の居場所に留まろうとする傾向におかれることだろう。対して縮小の時代は、空間が余剰の時代であるから、そこでの人間の行動原理は、広大な空間を埋めつくさんと、自在に動き回るようなものとなるだろう。
むろん、これは比喩的で、かつ直感的なイメージの域を出てはいないものであるが、しかし案外的はずれでもないのかもしれない。縮小の時代を論じた都市論や経済学に関する言説には、このイメージに符合するものをいくつか見つけることができる。たとえば建築家の馬場正尊は、余剰となった住宅と発達した交通インフラを前提としながら、都心と郊外、あるいは東京と地方といった二者択一にとらわれず、複数の場所を拠点とする流動的な居住のあり方を、著書『都市をリノベーション』(NTT出版、2011)で提唱しているし、エコノミストの藻谷浩介は、コミュニティデザイナーの山崎亮との著書『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』(学芸出版社、2012)において、経済が大きく成長し、豊かさが日本の隅々にまで行き渡った後に訪れた「ライフステージに応じて移住」でき、個々人がそれぞれの意志で、違ったタイプの幸福を選択できる現状を、肯定的に評価している。

馬場正尊『都市をリノベーション』/藻谷浩介+山崎亮『藻谷浩介さん、経済成長がなければ僕たちは幸せになれないのでしょうか?』

では、このイメージがそれほど間違ってはいないと仮定して、もう少し論を進めてみよう。拡大時代の実空間や社会的空間がもたらす「所与の居場所に留まろうとする圧力」は、空間の全体構造からもたらされるものであるから、人の比喩的な「居場所」における振る舞いかたも、全体から必然的に、つまりトップダウンによって導かれる。なお、ここでいう「社会的な居場所」とは、つまりは社会的役割のことであり、そこでの人の振る舞いかたは、誰もが了解可能な社会的慣習や規範に準拠したものとなる。一方で、縮小の時代の行動原理は、全体から必然的に導かれるものとはならないから、自身の固有のリアリティに基づいた、自己準拠的なものとなるだろう。この文章とはやや文脈が異なるので、詳しくは原文を一読いただきたいが、この二種の異なる振る舞いを明確に論じたのが、哲学と表象文化論を専門とする研究者、千葉雅也の小論「かっこいいとはどういうことか?」(ウェブサイト『ISETAN INTO THE FUTURE』、2012)であり、そこで千葉は、前者を「類型に頼って効率的に=考えなしに判断する」「野蛮」なもので、後者を「思考せねば」ならない「文明的でありかつ野性的」なものと評している。
人が「文明的でありかつ野性的」に振る舞う社会。これは極めて魅力的だ。しかし千葉自身も指摘するように、現在は「人々が、何らか『平均的』とされるライフスタイルを、ますます『強迫的』に反復するよう強いられている状況」であるようにも見える。むろん、これは社会がより複雑なシステムと化していることなどとも無縁ではないのだろうが、とりあえずのところ、この状況は前時代の亡霊がもたらす慣性のようなものであると筆者は捉えている。しかし本当のところ、この社会はいずれの方向に舵を切るのか。引き続き注視していきたい。

●A3
東日本大震災の被災地には、「アーキエイド」(東日本大震災における建築家による復興支援ネットワーク)の活動などを通じて、筆者自身も関わり続けている。筆者が関わっているのは、主に漁村部の集落の復興に関してだが、その心情は、つねに葛藤に満ちているというのが正直なところだ。東北の漁村部は、最も過疎化が進行する地域であり、震災はこれに拍車をかけたわけであるが、現状では、こうした地域に多大なインフラ投資が行なわれようとしている。
ところで、拡大の時代とは違って、縮小の時代における人間の行動原理は、実空間や社会的空間の全体構造から必然的に導かれるものではないから、そこではいわゆる「大きな物語」、つまり誰もが共有できるような価値観が機能しない。槇文彦は、これと同様のことが建築界でも起きていることを、論文「漂うモダニズム」(『新建築』2012年9月号)において指摘している。ここで「誰もが共有できる価値観」とはモダニズムのことであり、槇によれば、かつてのモダニズムは誰もが乗っている大きな船のようなものであったが、現在のモダニズムは得体の知れないポタージュ化した大海原そのもので、そこにわれわれは無数の小舟のように、めいめいに漂っているのだという。つまり建築は、今や「何でもあり」となった。しかし大きな物語が瓦解した現在でもなお、「道で転びそうになる人を見たら(...中略...)思わず支える」ような感覚は共有できることを、経済学者アマルティア・センの言葉を引きながら、槇は示唆している。
アーキエイドには、それこそ日本を代表する建築家が、しかも多数、発災直後から継続的に関わり続けている。この驚嘆に値する建築家たちの努力は、まさに「転びそうな人にとっさに差し伸べられた手」なのであり、従来的な建築家像を覆さんばかりの献身的な姿を間近で見続けて、筆者はただただ感嘆する。しかし過疎地への過剰投資の是非に関する議論は、この「とっさに差し伸べられた手」が正しいものなのかを問うようなものだ。むろん、こうした議論は、手を差し出すことそれ自体に疑義を呈するものではない。問われているのはその手の差し伸べかたなのであるが、果たして「とっさに」、かつ「正しく」手を差し伸べるなんてことが可能なのだろうか。
ひとつだけはっきりしているのは、傍観者であっては何ごとも起こらないということだ。2013年、より複雑化し、ますますこの先が見えづらくなるだろう状況にあって、われわれは目をこらしながら、とにかく世界に関与し続けねばならない。ただし、あくまで自己のリアリティに準拠しながら。
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