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新水場の風景 日本人はいつからか、神社や寺の水場に賽銭を投げ込むようになった。いっぽうで水は日本人にとって常に克服の困難な超越的存在であり、またいっぽうでは富をもたらす至福の存在でもあり続けてきた。水場の賽銭の起源については定かではないが、少なくともこの奇妙な慣習は水が神的な超越感覚を日本人に強く与えつづけてきたことを物語っているのかも知れない。 時には洪水や津波という形で水は猛威を奮い、文字通り私たちの生活を一瞬にして飲み込んでしまう。この脅威に対して日本人は水難よけの神として各地に水天宮や海神を設け、いっぽうで灌漑用水などを防護する水神をも祀った。水に対する日本人の感受性は、荒々しい自然水系とともにそれに大きく依存する農耕文化を併せ持つことでいっそう複雑かつ深遠なものへと醸成されていったのかも知れない。 農産技術、そして土木技術が大きく発達した現代において、水の脅威は前近代にくらべ著しく克服された。そして、水を崇め奉る宗教的儀礼はその起源の認識とは切り離された形で存在し続けている。水場に投げ込まれた賽銭ひとつひとつにはそれぞれの人々の思いや願いが今でも強く込められているが、日常生活の中でも水場に神の存在を体感し得た前近代に比べれば、現代のそれは甚だ形骸化しているといえるかも知れない。そしてこのような現象の形骸化と内的意味の希薄化は、その現象なり行為が文化的・芸術的な風韻を獲得する契機ともなりうる。 現代の私たちは水場に与えられた神の存在をただ直感的に素直に受け止め、水場の美しさや爽快さにまでも注意を注ぎこむだけの心的余裕をもちあわせている。そしてその光景が写真家という第三者的な目を媒介として私たちの目に触れるとき、ついには神的な意味までもがそぎ落とされる。 最後にそこに残るのは、純粋な風景としての水場、そしてそこにちりばめられた賽銭の美しき無数の光の束のみとなるのである。 岡田昌彰(近畿大学理工学部社会環境工学科講師)
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