アトラクションの郊外──ポストモダン都市、名古屋

長谷川一(明治学院大学文学部芸術学科准教授/メディア論)

〈アトラクション〉の日常

『アトラクションの日常
──踊る機械と身体』
今夏『アトラクションの日常──踊る機械と身体』(河出書房新社)と題する著書を上梓した。「奇書」「いろんな意味で見たことのない本」など、誉められているのか呆れられているのかはわからないが、とにかくそんな評価を頂戴している。特定の領域や制度の内側に立てこもるガチガチの「研究」ではないし、数多く登場する映画や絵本や小説なども、分析の対象としてというより、分析の道具として用いている。折り目正しい人文学的な作法を尊重する向きからすれば、たしかに少々変態気味であるかもしれない。
たとえば目次。開けば「乗り込む」「セルフサービスする」「くりかえす」「同期する」「夢みる」などといった動詞が目に飛び込んでくる。それらひとつひとつが章タイトルだ。むろんそれなりの必然性がある。そこで捉えようとしているのは、日常生活のさまざまな場面において、身体のふるまいが機械の運動と協調することで形成されるシステムの様相だからだ。それは、固着したり物象化したりしたモノではなく、動的なコトであり、したがってその捕捉にはそれなりの方法論の開発が不可欠である。そしてそのようにして生起する身体─機械の協調運動系のことを、この本では〈アトラクション〉とよぶ。
〈アトラクション〉の具体例をあげれば、セルフサービスである。スーパーマーケットやコンビニエンスストアに入るとわたしたちは、とくに意識することもなく一定の行動パターンを実践する。入口でカゴやカートを拾い、しかるべき周回ルートを歩いて商品をながめ、手にとってはカゴに収めたら、レジにならんで会計を済ませ、購入した商品を袋に詰める。この間、客はそのふるまい方について明示的な指示をうけることは一切ない。店舗内はさまざまなノウハウにもとづいて入念に設計されており、それが暗黙のうちに客の身体に働きかけてはいるが、だからといって単純に客が建築の統御下におかれているわけでもない。重要なのは、客の側もまたみずからこの仕組みに参与し、投企していることだ。あまつさえ、そこに快楽まで見出しもする。
セルフサービスのこうした様相は、テーマパークのライド系アトラクションのそれと、そのパターンにおいてまったく同一である。〈アトラクション〉とは、身体と広い意味でいう機械との双方がそれぞれ固有の運動を調停調節しつつ歩み寄り、協調的なひとつの運動をつくりだしてゆく過程そのものであり、わたしたちの日常世界の各所に見出すことができる。だからテーマパークとは、たんによくできた遊園地をいうのではない。それはいまや世界のモデルなのだ。わたしたちは、わたしたち自身が生きて死なねばならないこの日常世界を、テーマパークを規範とした空間として改変しつつある。
ほかにもこの本にはあれこれ仕掛けがあるのだが、ここでは深入りしない。詳しくはぜひ本をお読みください、と宣伝かたがた記しておく。

「郊外」の名古屋

ところで、こんな奇特な本の執筆を後押しした最大の力は、たぶん名古屋である。そこは、わたしが生まれ、大学に入るまで育った街だ。もはや名古屋で過ごした時間よりも、離れてからの年数のほうがずっと長くなっている。それでも成長期を過ごしたこの街は、さまざまな形でわたしのものの見方の原点に関係しているにちがいない。
名古屋には〈アトラクション〉が溢れかえっている。いま日本でもっともテーマパークにちかい街が名古屋である、とあえて別言してもよい。それは、名古屋という都市がどこまでも「郊外」で埋め尽くされていることと関係があるだろう。
「郊外」とは一般に「都心」や「旧市街」との対比において成立する言葉であり、東京ではその図式がよく当てはまる。名古屋にももちろん栄や名駅のような中心部はあるが、しかしそれは都市論で「郊外」に対置されるべき場所としての「都心」ではない。中心であろうが周縁であろうが、名古屋はおしなべて「郊外」なのである。実際に街を歩いてみれば、そこには東京にみられるような機微とよべる陰影はほとんど感得されないことに気づかされるだろう。片側だけで五車線もある車道。幅員五メートルはあろうかという広大な歩道。隅々まで行き届いた区画整理。がらんとした街なみ。路地など影も形もなく、個人経営の小規模商店が多数集積した商店街とよべるような場所も、大須のような例外を除けば、現在ではほとんど存在しない。
そもそも歩く人間の姿を見かけることさえ少ない。市内だけで二百二十五万以上の人口をかかえているとは信じられないほどだ。もとよりこの街は徒歩で生活するように建造されていないのだ。街並みは映画撮影用のセットみたいに奥行を欠き、思いもかけないものに行き当たるような「発見」は期待できず、散歩や街歩きの愉しみを見出しにくい。名古屋には植草甚一や永井荷風の育つ余地は極小である。
移動手段はもっぱら自家用車であり、移動にはたいてい目的が随伴している。均質で水平に拡がった広域内に点在するポイントをつなげ、自家用車を駆ってそれらを経めぐってゆくような行動パターンが、この街にもっとも似つかわしい。そして、そうしているかぎり、居心地はけっして悪くない。むしろ心地よいといったほうがよいくらいだ。あらかじめ決められた手順を決められたとおりに実行し、反復を重ねてゆくという意味において、このパターンはテーマパークのライド系アトラクションそのものであり、それ自体〈アトラクション〉なのである。

「郊外」の彼方へ

「郊外」だけからできた街、名古屋のこうした特徴の基盤をなすのは、街を構成する個々の要素にたいして、それがあたかも巨大な書き割りででもあるかのように、ひとつの意味だけが貼りつけられていることであり、そこから身体性と物質性とが拭い去れられていることだ。そこでは解釈したり書き換えたりするような類の「主体」は一切要請されておらず、したがって齟齬も軋轢も失敗もない代わりに──いや、だからこそ──「発見」や「創造」も成り立ちえない。あちこちに張りめぐらされた無数の〈アトラクション〉にからめとられ、自閉してゆく無時間的な空間である。
その無時間性は、あらゆる「郊外」が通有する非歴史性とかかわっている。といっても、それは必ずしも「郊外」が歴史をもたないという意味ではなく、ある時点においてそこが理念にもとづいて根こそぎ改変されてしまったことに起因している。それまでの歴史が徹底してリセットされることで時間的に分断されたあと固有の時間をもちえないのは、理念が永遠のものであり、永遠とはつまり無時間的であるからなのだ。
〈アトラクション〉に溢れた「郊外」のポストモダンな様相は、しかし今日ひとり名古屋にのみ認められるものではない。バイパス、駐車場を付帯したチェーン方式の店舗、ニュータウン、小規模開発住宅地、商品化住宅や建売住宅、マンションと称する集合住宅、そしてそこに生起する特有の身体的ふるまいという形をとって、日本の各所はこれら名古屋的なるものによって塗り込められつつある。それは、あるひとつの「郊外」が無数に複製され実装されているのだと理解することもできよう。その意味で、いまや名古屋こそ「最先端」であるといわれなければなるまい。わたしたちは、名古屋的なものを媒介として、おのれの期待の純度そのままの水準で、世界を制作し直そうとしているのだ。
一九八〇年代以降さまざまに語られてきた都市論の多くにおいては、東京を基準に据えることが前提されていた。気がつけば、その外側はすっかり「郊外」として造成され、モデルであったはずの東京がむしろ唯一の例外とされかねない状況に陥っている。いや東京のその中心部でさえ、そのじつ無数の〈アトラクション〉に侵食されている。いまやその力学から自由な人間は、おそらく皆無にちかい。
「郊外」とは、ある特定の地域の集合や、そこに共通する属性をさすだけでない。同時にそれは、わたしたちに物事の理解の仕方を提供する一個の枠組であり、そこに生まれ育つ者にとっては、好むと好まざるとにかかわらず、そこから歴史を紡いでゆかねばならない条件でもある。
いうまでもなく、「郊外」とはプラスティックな荒野だ。だが、そこに生まれ育ったという事実だけを根拠に「郊外」を肯定ないし否定したところで、ほとんど無意味である。それでもなお、どうにかして「郊外」を捕捉してゆかねばならないのだとしたら、わたしたちにできるのは、「郊外」を外側から論評するのではなく、「内側」からあらためて批判してゆく方途を探すことを措いてほかにない。「郊外」に産まれ、みずからその再生産にいそしみながら「郊外」を生き、そうして「郊外」で死なねばならないわたしたち自身の生を肯定できるのだとしたら、その彼方でしかないだろう。

撮影=長谷川一

はせがわ・はじめ
1966年名古屋生まれ。東京大学大学院情報学環学際情報学府博士課程単位取得満期退学。現在、明治学院大学文学部芸術学科准教授。メディア論。著書『アトラクションの日常──踊る機械と身体』(河出書房新社、2009)、『出版と知のメディア論──エディターシップの歴史と再生』(みすず書房、2003)ほか。


200908

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