建築史のフロンティアを求めて──建築教育は何をめざすのか?

村松伸(総合地球環境学研究所/東京大学生産技術研究所)

藤森照信とその時代

2010年3月16日、藤森照信さんが東京大学生産技術研究所での最終講義を行なった。現在日本で最も著名な建築家のひとりであるものの、最終講義では、日本近代建築史研究の黎明期を巧みな話術で語って、生産技術研究所大ホールいっぱいの観衆を大いに沸かせた。だが、その話のなかでぼくが記憶に残ったのは、やっと東大を「卒業した」という安堵感と、そして、東大建築学科が保持していた、歴史に裏打ちされた自信と穏やかさ、和やかさに満ちた最盛期への崇敬と感謝の念であった。
先代の村松貞次郎先生が退任されたのが1985年、それから四半世紀、藤森さんの在職の最後のほうで、ぼくが助教授、教授へと昇任したとは言え、生産技術研究所(以下、生研)の建築史講座は、藤森照信さんを中心に回っている。東大で言えば、本郷でも、稲垣栄三先生がほぼ同じ時期に退任し、2009年3月までの間、鈴木博之氏が建築史講座を仕切った。日本が経済成長の最も豊穣な果実を堪能した時期、1985年から2005年ほどまで、東大の建築史は、藤森・鈴木で回っていたのである。ちなみに、早稲田の中川武氏、東工大の藤岡洋保氏、京大の高橋康夫氏は、ほぼ同じ世代の建築史研究者として、やや異なった世界、異なった振舞い方でありながら、同様にこの時代を支えていた。
藤森さんが建築史研究にもたらしたもの、あるいは、教育における作風は、ひとことでまとめてみれば、「自由闊達」であった。本郷から助手として生研に移った時、ぼくはその雰囲気の違いに驚嘆したものだ。生研には、悪く言えば、無法地帯のような自由さがあり、一方それは良く言えば、何ものも拒まない風通しのよい清々しさであった。藤森さんは、建築史家であったが、現在は、むしろ建築家としてよりよく知られている。あらゆる方面(音楽は違ったようだが)への関心の広さは、目利きとしての自分の眼、身体に対する強固な信頼と同時に、鉈のような力強く、本質を一撃する力に裏打ちされている。近代建築史研究、路上観察、設計活動とどの分野においても世間から大いに注目された。
ぼくたち学生や弟子は、藤森さんからフィールドワークの重要さ、異分野への武者修行、誰にでもわかるような単純明快さを学んだ。しかし、藤森さんの大らかな学風と山のような成果を、そのまま神格化して継承するつもりは、ぼくたちにはもうとうない。才能はもちろんのこと、置かれた社会や時代の環境はまったく異なる。藤森さんの東大での期間はまさに日本経済の最盛期で、豊かで寛容な社会と伴走していたと言っていいだろう。それが、最終講義での、感謝の言葉に表われている。

私たちの時代──建築史がおかれた環境

だが、ぼくたちの時代、21世紀はそうではない。世界はいままさに激動の最中にある。各地でテロは起こり、貧困は相変わらず存在し、感染力が強い疫病がひたひたと世界に拡大しつつある。勃発しているのは天変地異だけではない。経済はここ半世紀とはまったく異なった状況にある。地球環境、世界政治、世界経済についてあらゆる場面で喧しい議論がなされている。だが、中国、インド、ロシア、ブラジルなどの台頭で世界のシステムが一挙に変わり、従来の知では対応できなくなりつつある。
そんななか、従前の建築史は一体なにをするのだろか。ぼくはどんな研究、どんな教育をして、建築界、さらにもっと広い世界に貢献できるのだろうか。いままでのやり方はほとんど役に立ちようがない。ぼくが、日本ではなくアジアの近代建築史の研究を行ない、路上観察とは距離を置き、藤森さんの設計活動にはノータッチだったのは、あえて異なる時代状況に、異なる対応をすべきだと考えたからだった。日本で建築史研究が誕生したのは、国民国家を可視化する装置の保証(国宝などの認定と修復)とそのデザイン(歴史主義建築)、さらに先進事例の学習(西洋建築、近代建築の事例紹介)のためであった。日本の近代建築の黎明期にいたっては、つまり、コンドルの時代、建築史こそが建築教育そのものだった。しかし、現在、建築史は過去の栄光をしゃぶり尽し、疲弊の極地に位置している。優秀な学生たちは設計を選択し、やや設計に自信のない学生たちが、しかたなく建築史、都市史を選ぶ。建築史、都市史のプロになろうとするものは、残念ながら、よほどの変わり者か、建築史オタクに過ぎない。くりかえすが、建築史は衰弱し、激動する世界に立ち向かうにはあまりにも非力だ。

メガシティが地球環境に及ぼす影響(地球研、メガ都市プロジェクト)

建築史の使命

建築史(都市史も含む)の使命とは何か。幸いなことに、あるいは、皮肉なことに、ぼくはこの問いについてずっと考えざるをえなかった。日本人であるのに、日本の建築でもなく、「学ぶべき」西洋の建築でもなく、アジアの建築の歴史を選んだからだ。しかも、多くの人が憧憬を持つ古代の文明遺産ではなく、何も評価が定まっていないアジアの近代建築を、よりによって研究の対象にしたことによる。なぜ、ぼくは、アジアの近代建築を研究するのか、それが何の役に立つのか、自問自答を続けていかなければ、あるいは、卑近な比喩を使えば、自分でリングを作り、自分でルールを作らなければ、ゲームは成立しない、というようなものだ。
建築史の使命、もっと広く言って、歴史学の使命は、「教訓」、「継承」、「洞察」、「省察」、「規範」の5種のキーワードで示すことができる。「教訓」は、歴史から直接学ぶこと、建築でいえば、過去の意匠を借りること。「継承」は、過去の事象やものの価値を認め、修復して、未来に受け渡す。「洞察」は、現在生じているさまざまな現象の理由を過去に遡って発見すること。「省察」は、過去に存在した現象を観察しながら深い思索を行ない、思考を鍛えること、そして「規範」は、歴史のなかから選択した事象をもとに、今後進むべき基準を作ることである。
従来の建築史は、「教訓」(歴史主義)と「継承」(保存、修復)、そして、「規範」(通史)を主たる任務として、時として「省察」的役割を担った。藤森さんの種々の著作や建築作品は、建築家以外の一般のひとびとの建築理解を深めることに大いに貢献したが、通常建築史が奉仕するのは、作り手である建築家に向ける以前に、建築史界という狭いコミュニティの建築史研究者だけを対象とするのがもっぱらである。これが建築史を衰弱させる最大の理由なのであった。

建築史が建築を変える──建築史のフロンティア

現在、ぼくは、京都にある総合地球環境学研究所と東京大学生産技術研究所の2つを行ったり来たりして、研究や教育を推進している。東西2つの拠点で実施しているさまざまな研究や教育活動の根底にあるのは、建築史を通じて現実の社会が抱える問題に貢献したいという意欲である。同時に、それは建築史研究のフロンティアの開拓である。その精神こそが、研究をともにしている学生たちの野生を刺激する教育につながるとの確信がここにはある。その研究、教育活動をいくつか簡単に紹介してみよう。
1つめは、都市の統合的理解の開発である。えてして建築史的な都市史は、街区の設計や保存(継承行為)に役立てるための研究に特化してしまっている。しかし、都市というのはとても複雑であり、建物やインフラなどの建造環境だけでなく、自然、ひと、食料、大気、水、土などから構成されている。また都市を動かすのには、ガバナンスに目を向ける必要がある。ぼくたちは、この多岐にわたる都市の複雑さを、多くのディシプリンの助けを借りて、解こうとしている。総合地球環境学研究所で今後5年続くぼくのプロジェクトは、メガシティと地球環境の関係の解明であるが、まさにこの都市の統合的理解の手法を開発しようとしているのだ。最近、出版した『シブヤ遺産』(バジリコ、2010)は、東大の研究室の学生たちとともに、渋谷をいかに多面的に分析するかのささやかなパイロットプロジェクトであった。
2つめは、都市リテラシープログラムの構築。東京大学生産技術研究所の近くにある上原小学校6年生と都市の理解の仕方を共に学ぶ活動を毎年続け、今年で6年目となる。都市を良くするためには、自分の都市に責任を持って介入する仕方を学ぶ必要があるとぼくは考えている。その子供版が、上原小学校。今年は、東大の大学院の授業としても認められた。大人版は、福島県須賀川市で行ない、プログラムを作って、日本、世界に普及させようと考えている。

左:村松伸+東京大学生産技術研究所村松研究室『シブヤ遺産』
右:「ぼくらは街の探検隊」ポスター。今年は、6月4日(金)午後10時から生研で発表会が開催される

3つめは、全球都市全史研究。1つめが、都市の普遍的原理の分析であるとすれば、この全球都市全史研究は、地球上の全都市を人類の発生にまでさかのぼって観察しつつ、個別性の理解を深めることによって、都市とは何かという問いに肉薄しようとするものである。ある地域のある時代にのみ近づくのではなく、一度全体像を鳥瞰してみたいという誇大妄想がかった研究である。多くの研究者は、偏った地域、偏った時代の都市について克明に調べてはいるものの、その基盤となる都市については通俗的理解にとどまっている。1つめとこの研究によって、都市を理解するための「規範」を作ることができるだろう。
4つめは、アジアの都市遺産のデータベース作成である。アジアの多くの国で、建築や都市の遺産の詳細なリストは明らかでない。多くは植民地であって、その時代の構築物をどのように評価すべきか、方針さえ定まっていない。ぼくたちは、そのリストを現地のひとびとと協同で作ることをここ30年行なってきている。村松貞次郎さん、そして、藤森さんが行なってきた日本の近代建築のリスト化を継承するもので、現在アジアの成果をウェブ上にデータベースを構築し、世界中の公共の知恵として公開しようとしているのである。
5つめは、アジア建築通史の構築。アジアには遺産のリストがないのであるから、建築の通史があると考えること自体が不可思議である。さらに、地域を統合したアジア全体の建築や都市の統合的な歴史は、いまだかつて存在しない。それを構築し、主要な言語(英語、中国語)で発信することは、アジア全体、そして世界への知の貢献であると考えている。そのために、世界を精力的に飛び回り、ライフワークとしてこのミッションを成し遂げようとしているのである。
こうしてみると、ぼくが現在、研究、教育双方の一環として行なっていることは、建築史研究の「洞察」、「省察」、「規範」に集中している。たしかに、こういったことで、果たして、現在世界で巻き起こっている多種多様な動きに対応していけるかは心もとない。でも、ぼくにとって最も重要なことは、次世代の教育である。2つめの都市リテラシー構築も教育の一環であるが、それを含めて、どんな状況に直面しても対応できる、図太い胆力、統合する知力を、自分の学生に学んで欲しいと思っている。建築史は設計の添え物ではなく、建築史こそが、建築、都市を考える理念、哲学の構築する唯一の学問領域である。つまり、コンドルの時代に倣って、建築史は、建築学の王様に復帰しなければならない。
実は、この考えは藤森さんが保持していた価値観そのものであり、その意味では、ぼくは同じ相撲をとっているのかもしれない。やっぱり、藤森さんを超えることはできないと、この歳になってますます強く感じている。藤森さんが考え続けたことを「宿題」として、あと10年、ぼくは東大でがんばるつもりだ。この「宿題」を達成して、ぼくの「卒業」式に出席したい。その時は、ともに研究、教育にかかわった若い同士に囲まれて。


むらまつ・しん
1954年生。総合地球環境学研究所教授、東京大学生産技術研究所教授。建築史、都市史、都市環境文化資源開発学。著書=『上海──都市と建築 1842−1949年』、『中華中毒──中国的空間の解剖学』、『象を飼う──中古住宅で暮らす法』『シブヤ遺産』など。


201005

特集 建築・教育 2.0


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