移動する記録と記憶
──デザイン/アーカイブ/エスノグラフィー

水野大二郎(慶應義塾大学環境情報学部准教授、デザインリサーチャー)+松本篤(NPO法人remo研究員、AHA!世話人)+大橋香奈(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科博士課程)

──近年、「コミュニティ・アーカイブ」と呼ばれる草の根の活動が各地で行なわれています(コミュニティ・アーカイブについては同特集の佐藤知久氏の論考を参照)。情報環境や交通手段の変化によって社会の枠組みやコミュニティが複雑に流動化する現在、アーカイブの意義はどのように考えられるでしょうか。座談会では、生活空間の記録と記憶の継承のあり方をめぐって、デザインやエスノグラフィーの観点から考えます。

大橋香奈さんは、トランスナショナルな生活世界をテーマに映像民族誌的な研究方法を実践されています。また松本篤さんは、8ミリフィルムや古い写真を収集し利活用するコミュニティ・アーカイブの批判的実践を全国各地で行なわれています。デザインリサーチャーの水野大二郎さんは、これまでにスペキュラティヴ・デザインやタクティカルアーバニズムなど、10+1websiteでデザインの領域から都市空間に介入する方法論を示されています。まずは、参加型デザインや移動の社会学の観点から、水野さんに論点を示していただきたいと思います。

1 ユーザー自身がつくること

改変と継承のアーカイブ


水野大二郎──ファッション研究者、批評家である蘆田裕史くんと始めたファッションの批評誌『vanitas』第4号(2015)で「アーカイブの創造性」と題した特集を組みました。そこで特集記事としてドミニク・チェンさんにインタビューをしたのですが、彼は「アーカイブは『生きているもの』と『死んでいるもの』があること」、そして「改変と継承を前提にしたアーカイブの生成が重要であること」を指摘されました★1。このことは「アーキビストなしのアーカイブ」の状態と言いますか、Wikipediaのように多数のユーザー自身によって改変と継承を繰り返しなされていくイメージとして捉えることも可能でしょう。本日の鼎談前に頂戴した『コミュニティ・アーカイブをつくろう!──せんだいメディアテーク「3がつ11にちをわすれないためにセンター」奮闘記』(晶文社、2018)で紹介されている「わすれン!」の取り組みにも、利用者によって二次的な資料がつくられていくという話がありました。これは非常に共感するところですが、おそらくさまざまな課題も残されているのだろうと思います。n次創作性が広がっていくことはいいことですが、大局的に歴史をつくることと、n次創作をつくることとでは、アーカイブに対する利用者のモチベーションが違うのではないか。また、改変と継承が繰り返すなかで創作のモチベーションもだんだんと下がっていくのではないか。ユーザー自身が歴史をつくり、つなぎ続けていくことをどう動機づけていくのか、関心のあるところです。

参加型デザインの変遷


水野──ところで僕はファッションデザインのみならず、広くデザインにおける一般市民の包摂や参加に関する実践や理論も自身の研究対象として設定しています。高齢者や障がい者など、できる限り誰もが社会参画できるようにするための一連の製品やサービスの設計、方法論や理念のひとつとして「インクルーシブデザイン」があります。これを研究の対象としてやってきたのですが、今、改めて注目しているのがより広義の市民参加や協働を前提とする「参加型デザイン」(Participatory Design、パーティシパトリ・デザイン)です。『コミュニティ・アーカイブをつくろう!』でも、イヴァン・イリイチが引かれていたり、1960−70年代の政治的な文脈を背景にしているという意味で、参加型デザインと近しいものがあるなと感じています。

水野大二郎氏

参加型デザインには異なるいくつかの起源がありますが、一般的には北欧を中心に、工場のオートメーション化が加速し労働環境が劇的に変化する過程において、労働者と資本家の争いを調停するために考案されたと考えられています。最初は「協働デザイン」(Co-operative Design、コーポラティブ・デザイン)と言われていたものが次第に「参加型デザイン」と呼ばれるようになっていったわけです。

しかし、1970年代に政治的な側面を強く帯びた「北欧型」とは異なる、「アメリカ型」参加型デザインの萌芽が出てきます。そこでは主にエスノグラフィーなどの文化人類学的手法、あるいは認知プロセスを分析するための心理学的手法を用いてユーザーが製品やサービスの利用時に直面する問題を理解し、設計に反映させる手法が発達しました。それが今日、「ユーザー中心設計」(UCD、のちの人間中心設計)や「ヒューマン・コンピュータ・インタラクション」(HCI、あるいは単にインタラクションデザイン)と呼ばれる領域です。アメリカ型の参加型デザインはこのように計算機科学や情報学と工業デザインの組み合わせから、デザイン全般へと拡張する過程において登場した、と考えられるでしょう。

このように1970年代に急速な発展を遂げた参加型デザインは、建築分野でも叫ばれるようにもなっていきます。日本で知られている研究、実務者にはクリストファー・アレグザンダー、ローレンス・ハルプリン、ヘンリー・サノフ、ルシアン・クロールなどがいますね。建築ではさまざまな利害関係者──地域住民や自治体、企業など──を、どう巻き込み、合意形成を促し、建築的な設計に応用し、竣工後も長く維持管理できるか、といった問題があろうかと思います。その過程で設計対象(都市やランドスケープ、大規模施設など)、あるいは設計手法(定性的、定量的)、設計段階などに応じて建築における参加型デザインは分岐していったように思います。

しかし情報技術の発達により、2000年代以後、参加型デザインにおけるデザイナーの役割が変わってきているのではないか、と僕は見ています。問題当事者が問題の専門家として評価されるだけではなく、問題解決者になりはじめたためです。したがってデザイナーは問題解決最終案提示者としてのみならず、対立する利害関係者のあいだに入る調整役(ファシリテータ)や、スペキュラティヴな議論を誘発するための、あるいはワークショップや協働設計を運営するための道具作成役(ツールメイカー)、ひいては一般市民によるデザインを可能にする環境をデザインする支援役(メタ・デザイナー)になることも求められるのではないか。なお、ここまでの参加型デザインに関してはデンマーク・オーフス大学のディッテ・アムンド(Ditte Amund)らによる論文、「The early shaping of participatory design at PDC」を、新たな参加のあり方についてはオランダ・デルフト工科大学のリズ・サンダース(Liz Sanders)/ピーター・ヤン・スタッパーズ(Pieter Jan Stappers) による論文、「From Designing to Co-Designing to Collective Dreaming: Three Slices in Time」などが参考になるかと思います。

いずれにせよ「ユーザーとともに」設計することから「ユーザー自身による」設計へと参加のあり方が変わりつつあること、その背景にはインターネットを前提とした情報技術の発展がユーザー自身による設計を可能にし始めてきたこと、その結果としてデザイナーの役割が変わりつつあるのではないか、と思っています。例えばニューヨークのCUP(Center for Urban Pedagogy)があります。移民や難民が都市部で生きていくために露天商を営むにしても、英語を十分理解できないがゆえに変な場所で店を開けては法律や条例に違反し警察に捕まってしまいます。そこで、CUPは「店は歩道の端から何メートル離れていないといけない」などの細かな規則を調査し、その結果をできる限り誰が見てもわかるリーフレットにして無償でPDF配布していることで知られています。

このような多様な都市生活者の尊厳に根ざした公共政策的な問題を扱う点や、最終成果物は必ずしも解決案ではなく、あくまで自立支援や教育普及である点が、CUPの特徴だと思います。このような考え方はタクティカル・アーバニズムの普及にも応用されていると思いますが、その理由はデザイナーや建築家だけでは複雑で包括的な制度の設計に立ち向かうのが困難だからです。そこで、「自分の生活」という包括的な対象から問題を発見し、未来を思索し、試作を通して問題を漸進的にでも解決していくことができると面白いなと思っています。そこで僕は「不確実な未来に対して、できる限り多くの人が行動可能な何かをつくること」としての参加型デザインに注目しています。そこで専門家と非専門家による協働を高速で実践するにあたり、ユーザーの持続可能な動機づけが気になっているわけです。

移動前提社会をいかに捉えるか


水野──あと、特定の社会集団の構成員自身による活動に関しては、「移動前提社会」をどう捉えるかが重要かな、と思っています。現在、慶應義塾大学SFCでは社会学が専門の加藤文俊先生と、ランドスケープデザインが専門の石川初先生と3人で「モバイル・メソッド」という大学院科目を2015年から開講しています。1年目はジョン・アーリの『モビリティーズ──移動の社会学』(作品社、2015)を輪読しました。アーリは社会を液状化し輪郭のない状態ではなく、ある種クリーミーで流動的な状態と捉えています。移動があらゆる側面で社会の形成に影響を与えているのではないか、ということを理解したうえで、2年目はジャネット・サディク゠カーン前ニューヨーク市交通局局長の『Streetfight: Handbook for an Urban Revolution』(Viking、2016)を輪読しました。本書で多く触れられているタクティカル・アーバニズム的な歩行を前提とした都市の体験は、自動車や自転車によるそれとはまったく異なるし、歩行でもスマートフォンの有無で異なります。つまり、本書における「ストリートファイト」は多様ですが、そのひとつがモノ、情報問わず移動速度に関するものだと思います。

インターネットを含め移動手段が多様化した結果として面白い表現活動がでてきたことに明らかですが、移動前提社会ではコミュニティ・アーカイブをつくるための道具や対象者は爆発的に拡張したと思います。スマートフォンなどの情報技術の発展によって、いつでも誰でも瞬時に地理情報つきの写真や映像を記録、共有できる状態になったと思いますが、移動前提社会を構成するアーカイブをつくる「人」は誰なのか、そしてどういうデータを取得し、利活用すればよいか、といった点も今日伺いたいと思っていました。

文房具としての映像


松本篤──僕は、2003年からremo[NPO法人記録と表現とメディアのための組織]の活動に参加しています。remo自体は2002年に大阪市内で発足しています。2000年頃にはカメラ付き携帯電話が普及し始めたように、ビデオカメラやインターネット環境、PC環境が徐々に整い始めた頃です。映像メディアを介した「個人」の記録や表現、コミュニケーションがどんどん増え出したんです。そこでremoは、誰もが映像をつくったり、発信したり、読み解いたりするような、つまり、"文房具"として映像を使うことができるような環境づくりをしながら、日常の生活からアートまでの領域を扱おうと始まりました。まだYouTubeやSNSなどなかった頃のことです。 たとえば、誰もが映像に親しむことができるようなremoscopeというワークショップを考案、実施したりしています。

松本篤氏

僕はremoの活動に携わりながら、「個」の記録や表現のはじまりについて興味を持ち始めました。そこで時代を遡ってみると、昭和30〜50年代にかけて一般家庭にはじめて普及した8ミリフィルムという存在があることを知り、そのアーカイブプロジェクト、AHA![Archive for Human Activities/人類の営みのためのアーカイブ]を2005年から始めたんですね。アーキビストとしての専門的な知識やノウハウもまったくないままに。バーナード・ルドフスキーの『建築家なしの建築』(渡辺武信訳、鹿島出版会、1984)のように、いわば「アーキビストなしのアーカイブ」のような発想として始めたわけです。

8ミリフィルム収集作業の1コマ。フィルム提供者の自宅に映写機を持ち込む出張上映会(茨城県大子町、2012)

収集した8ミリフィルムの公開作業の1コマ。複数のファシリテータが来場者の声を拾いながら進行していく公開鑑賞会(『穴アーカイブ』、世田谷区、2015)


★1──『vanitas』No.004 特集=アーカイブの創造性(アダチプレス、2015)48頁



201805

特集 コミュニティ・アーカイブ──草の根の記憶装置


アーカイブを憎むな、アーカイブになれ
移動する記録と記憶──デザイン/アーカイブ/エスノグラフィー
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