移動する記録と記憶
──デザイン/アーカイブ/エスノグラフィー

水野大二郎(慶應義塾大学環境情報学部准教授、デザインリサーチャー)+松本篤(NPO法人remo研究員、AHA!世話人)+大橋香奈(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科博士課程)

2 場所と生活を記録する方法

──移動前提社会や複雑なコミュニティでは、場所の記憶のような抽象的で視覚化され得ないものを把握することは、より困難なことだと思います。そうした対象の記録のあり方を、いくつかの異なる角度から考えてみたいと思います。

まなざしの差異と相互作用


松本──場所の記憶というものは、じつは非常に複雑なものです。人はこれまで移動を繰り返してきました。例えば、戦時中、多くの人々が「内地」を離れ、「外地」や占領地に移住しました。戦後、南国パラオから引き揚げてきた人々が、宮城県の蔵王に集団で入植しました。彼らはその場所を「北原尾(きたはらお)」と名づけて暮らしはじめました。北のパラオという意味です。ある場所の記憶は、いろんな場所の記憶が混ざっているのではないかと思います。

水野──アーリは『観光のまなざし』(法政大学出版局、2014)で、観光客と地元住民がもつ「まなざし」の差異と、その相互作用に関する話をしていますね。これに輪をかけるかのように、たまたま通りかかった人から短期滞在の人、長期滞在中の人、生まれてから一度もその場所を離れていない人まで、ある場所の記憶をつくる人、方法、対象などはじつはものすごい多様ではないか。このことを実証するにあたり、映像は非常に有効かもしれません。同じ社会に暮らしていても一人ひとりの移動性は異なります。だから映像メディアは生活動線を空間、時間軸で記録できるという点において大変有効だと思います。

移動の社会学と文化人類学の方法


大橋香奈──私自身の実体験として「コミュニティ」という言葉を具体的に感じられない、地域を想像できないということがあります。私の家族は祖母の代から引越しが多く、私自身も国内外で20回ほど引越しを重ねてきました。そんな育ち方をしたので、いわゆる地域に根ざした「コミュニティ」を思い描くことができないんです。そのなかで、家族のかたちの変化や、自分自身を根無し草のように感じていた経験から、「移動」と「家族」の問題、「どこが『ホーム』なのか」あるいは「『ホーム』とは何か」ということに関心を抱くようになりました。そのときに、ジョン・アーリの『社会を越える社会学』(法政大学出版局、2011)や『Mobile Lives』(Routledge、2010[訳書=『モバイル・ライブズ──「移動」が社会を変える』〈遠藤英樹監訳、ミネルヴァ書房、2016〉])という本に出会いました。定住を前提とした価値観や仕組み、境界によって枠づけられた社会ではなく、それらを越えていくさまざまな「モビリティ(移動、移動性)」に注目し、移動する主体が何を経験しているかを捉えようとする「移動の社会学」と自分の関心が重なりました。

大橋香奈氏

人類学者のブロニスワフ・マリノフスキーのように、ある島に入り込んでそのなかのコミュニティを理解するようなエスノグラフィーは、固定的な社会では有効だったと思うんです。だけど、さまざまなものが流動的になって、個々の生活があまりにも多様になってきたとき、同じ場所にいても、そこにいる人びとが同じ「コミュニティ」に属しているとは言えないし、同じ「文化」を共有しているとは限らない。人類学者のジェイムズ・クリフォードは、文化にしてもアイデンティティにしても、純粋で真正な固有の根源「ルーツ(roots)」がありそれが重要だと思いがちだが、あらゆるものは断片的で混淆的な組み合わせで成り立っているとして、その多様な要素のつながり、関係の経路としての「ルーツ(routes)」をたどることが重要だというようなことを述べています★2。また、アブ゠ルゴッド(Abu Lughod)という人類学者は、「文化」という概念を使わずに、特定の場で生活している個々人にフォーカスしたエスノグラフィーを書くことを提唱しました。個々人の生活を理解するなかで、そこに反映されているローカルなものだけではなく、グローバルなものも見えてくる、という考え方です。この特集に論考を寄せている佐藤知久さんが、グローバル化、メディア化、個人化が進む現代において、エスノグラファーはどのようにフィールドワークすればよいのかについて、議論を整理し、『フィールドワーク2.0』(風響社、2013)にまとめています。

トランスナショナルな生活世界を記録する


大橋──私は自分自身の体験にもとづいた関心とこうした議論をふまえて、この4年間、国境をまたがるトランスナショナルな「家族」関係を営んでいる人びとの生活を研究してきました。人、モノ、資本、情報、イメージがかつてないほど国境を越えて移動するようになり、別々の国で暮らしながらも結びつく「家族」は年々増加しています。彼/彼女が生きる生活世界を理解することは、高度に移動的な現代を生き抜くための基盤となる、「家族」についての知を創造することにつながると考えています。

留学のために移住してきた香港出身の女性、ビジネスを始めるために移住してきたネパール出身の男性、就職目的で移住してきたイギリス出身の男性、結婚を理由に移住してきたペルー出身の女性、高校生の時に母親が仕事のためにベトナムに移住し自らは日本でひとり暮らしをしている日本人男性の5人の生活を、それぞれ1年間かけて調査しました。「生活」や「家族」を理解するために、日常的に繰り返し行なわれている実践、「ライフイベント」のような節目、予期せぬ出来事が起きた時に「家族」がどのように立ち現われるのかを見たかった。そういう瞬間に居合わせるには、少なくとも1年間は必要だろうと思ったのです。それぞれの「トランスナショナルな生活世界」のありようを、映像と本人による語りを用いて調査して、各対象者と協働して5つの映像を制作しました。その後、5つの独立した映像を束ねた民族誌的ドキュメンタリー『移動する「家族」』を完成させました。

1年間の調査期間中に実施した参与観察やインタビューにもとづいて、対象者と協働的に構成したストーリーを、本人の選択した言語・本人の声で語り直してもらい、それをナレーションとして使用しました。そのナレーションに合わせて、1年間の調査期間中に対象者の生活のさまざまな場面に参加・同行して撮影した映像と、各対象者から提供された生活の記録や写真を組み合わせて編集し、各対象者との確認作業を経て、完成としました。全編、日本語と英語で理解できるよう字幕をつけています。「トランスナショナルな生活世界」を扱っているこの映像自体が、国境を越えられるようにするためです。実際、完成した映像は、世界各国で暮らす各対象者の「家族」にもすぐに確認してもらうことができました。

「トランスナショナルな生活世界」は、複雑で混淆的です。言葉による対話や一方的な観察だけでは想像が及ばず、理解が難しい部分がたくさんあります。映像を使えば、相手の生活空間、そこにいる人やそこにあるモノ、そこで結ばれている関係、そこで行なわれている実践の「質感(texture)」を記録することができるし、それを共有して一緒に観たり、解釈したり、感じたりできます。キャロライン・ノウルズとポール・スウィートマンが『ビジュアル調査法と社会学的想像力──社会風景をありありと描写する』(後藤範章ほか訳、ミネルヴァ書房、2012)で指摘しているように、写真や映像のような視覚的データは、調査者と調査対象者の双方によってつくることができるし、双方を、さらには観た人とのあいだをつなぐコミュニケーションの装置としても機能します。

映像作品の冒頭に登場するジョイスは、香港出身ですが、国籍はカナダです。彼女は、香港もカナダも「自分の場所」ではないと感じています。ひとつの地域に根ざして生活している人からは、そのような彼女の感覚は理解しづらいと思います。でも、彼女の生い立ちの写真を観ながらストーリーを聞き、彼女が現在暮らしている生活空間の映像を観ることで、彼女の感覚を少し想像できるようになると思います。

ジョイスの自宅の本棚には母語の広東語の本はない
[大橋香奈『『移動する「家族」』(2018)より]

異化すること、借りること


松本──僕も大学院の修士課程では、文化人類学を専攻していました。参与観察を通して他者を理解する、つまり、異文化を理解することが人類学の伝統としてひろく共有されていますが、僕の関心は「異文化」ではなく「異化」というキーワードにありました。金子光晴という詩人が『絶望の精神史』(光文社、1965)という本を書いています。彼は戦前・戦中・戦後にかけて身の回りの人の思想や行動がどんどん変わっていく様子を冷徹に記しています。自身の見慣れている場所を、まったく違った場所として見ていく、その金子の手つきや態度に興味を持ったんです。つまり、参与観察という方法を、遠く離れた異文化を理解する手法としてではなく、今自分のいる場所を違った見え方から理解していく手法として用いることにリアリティを感じたんですね。

人類学への興味のもうひとつは、「参与観察される現地人が、人類学の"言葉"を習得するとどうなるんだろう」という、「借りる」という感覚です。その「借りる」という感覚は、「アーカイブ」や「アート」に対しても感じているものです。記録を収集、公開、保存、活用するといったアーカイブのプロセスを借りながら、そうではないかたちがどうやってつくれるのか。誰かに与えられた制度や道具のなかで、どうにかやりくりできる場所をいかにつくれるのか。所与の景色を自分の景色としていかに見ることができるのか。その技術に関心があります。誰かが記録したものに入って、そこに書かれていない違う側面を見出していくこと。その発想のあり方そのものがアーカイブ的だと思いますし、「読む」行為に自分の関心があることにつながっています。

社会にひらくための方法


大橋──研究の世界では、研究の成果が「論文」というかたちで「学会誌」や「論文誌」に掲載されることが重視されます。「学会誌」や「論文誌」のようなアカデミックなアーカイブは、専門家をはじめとした限られた人によって更新され、使われます。研究成果を高度に専門的な知識や用語を用いた論文だけで表現し、研究をアカデミックなコミュニティのなかに閉じて発展させることの意義や、そのようなアプローチが必要な分野や場面があることは否定しません。しかし、研究のテーマや目的によっては、論文だけではない方法で研究を社会にひらくことで、多様な解釈を生み出し、研究を発展させたり、人びとの生活に役立てたりできるのではないかと思います。この問題意識は、参加型デザインやコミュニティ・アーカイブの話に通じる気がします。

私は、自分の映像民族誌的研究の成果である作品を、多様な場で上映して、観た人のリアクションを直接に受け取って、研究にフィードバックさせるプロセスを踏んでいます。当初は、映像作品を完成させて国際会議や映像祭で発表することを、研究のひとつのゴールだと思っていました。でも、博士研究の進捗報告の場で、日本におけるファブラボの発起人である田中浩也先生に、研究を「社会にひらく」ことを考えるようにとアドバイスいただき、考えが変わりました。

私は「家族」というテーマを扱っていますが、「社会学者であればひとつの結論を出すべきだ」と言われることもあります。でも、一研究者が「家族とはこうである」と唯一絶対的な「真理」など導き出すことはできないのではないかと思っています。むしろ、「家族」のような概念は、みんなが自分自身で定義し、「家族」だと思っている人、「家族」になりたい人とのあいだで対話し、了解し合えることが重要ではないか。そういうことを考える場をつくるために、映像作品を使いたいと思うようになりました。

「ラボラトリー」としての上映会


大橋──上映会には必ず私が立ち会って、参加者に映像に記録された5人のパーソナルなストーリーを見てもらいます。アートベース社会学の岡原正幸先生が、他者の経験を「なぞる」という営みは、アートによって豊かなものになりえると述べています★3。私の研究では、ドキュメンタリーフィルムというビジュアルアートの技法を用いて制作した映像作品を観て、調査対象者の経験をなぞってもらいます。そのうえで、参加者に「自分にとっての家族とは何か」と考えてもらって、リアクションやコメントをもらいます。私が上映会の参加者に期待していることは、先ほど松本さんがおっしゃった「誰かが記録したものに入って、そこに書かれていない側面を見出していくこと」に通じると思います。私は参加者が見出したことを受け止めて、それを研究に反映させる。私の指導教授である加藤文俊先生は、調査研究の遂行においては、人びとの日常生活が展開される現場での「フィールドワーク」、それを抽象度の高い概念で説明するための「コンセプトワーク」のあいだを行き来する必要があるとしたうえで、その橋渡しをする実験的な環境として「ラボラトリー」を位置づけています。私にとっての上映会は、フィールドワークの成果である映像作品を用いて、「家族」という概念の新たな解釈の可能性を検討するための「ラボラトリー」だと思っています★4。そこに研究者のみならず、多様な参加者を招き入れることで、研究を社会にひらきたい。そのために、私自身が映像を持って旅をしながら各地で上映会を開催する「モバイル・ラボラトリー」を構想して、実践しています★5

おでん屋の中の学習塾「陽向舎-hinataya-」主催の上映会の様子[提供=陽向舎-hinataya-]

自分自身で書くこと


松本──映像が民主化されていくことでモビリティといった概念が捉えやすくなり、一人ひとりがエスノグラフィーの書き手になっていくことの可能性はあるだろうなと思います。1980年代にジェイムズ・クリフォードやジョージ・マーカスが編集した『Writing Culture』(University of California Press、1986[訳書=『文化を書く』〈春日直樹ほか訳、紀伊國屋書店、1996〉])は、エスノグラフィーを書く側、書かれる側のポジションについて大きな問いかけをしました。それに呼応するかたちで、さまざまな実験的なエスノグラフィーがその後出てきました。あのムーブメントで何が成果だったのか、何が残された課題なのか。AHA!の活動を続けてきて、今あらためて、協働で書く、読む、語るということの可能性と限界を考えさせられます。

大橋──水野さんのインクルーシブデザインに関する論文では、エスノグラフィー的調査手法として、ユーザー自身が調査者になることによってユーザーの経験知を抽出するために「カルチュラル・プローブ(文化的探索機)を採用したとあります。

通常カルチュラル・プローブは、ノートやビデオカメラ、カメラ、地図などの道具をタスクセットとして、ユーザーに手渡し、自ら特定の出来事やその時の感情、周辺環境と自分の関係などを記録してもらい、ユーザーの生の生活や感情を把握する手段となる。
カルチュラル・プローブは仮説をたてて検証するのではなく、不確定要素としてのユーザーの「経験」に潜在する知を抽出することを目的とした。ユーザーの日常的実践に潜む、創造性から本質的な課題を探る。その結果に対して、的確な分析が必要であるが、多くは予想にしなかった驚きを与えてくれるものであり、デザインするためのインスピレーションを多く与えてくれるものとなる。★6

水野──デザインには科学的で体系的な解法がないことを、ホルスト・リッテル(Horst Rittel)らが1970年代初頭に「Wicked Problem(意地悪な問題)」や「ill-structured Problem(定義しづらい問題)」という言い方で指摘しました。デザイン独自の問題にどのように取り組むか、これは今日まで至る課題です。その過程においてユーザー、すなわち問題の当事者こそが問題の専門家であるとされ、問題の当事者であるユーザーを設計の初期段階から巻き込むデザイン手法が多数開発されました。カルチュラル・プローブも、問題の専門家たる当事者が問題の本質を探るために、被験者が自らの生活を創造的に記録するための道具として開発されたものです。このことをふまえて「家族のあり方は結論づけられない」という先ほどの話に接続させると、離散的家族のための住居を設計するにあたって、調査協力者としてその家族の各構成員にカルチュラル・プローブをやってもらうことは可能でしょう。「あなたにとって家族を表象するもの」をコメントつき映像で撮影してもらう、などです。そうして集められた映像から、最終的に調査協力者が考える「家族」のあり方を解釈して形にする、といったことも可能かと思います。


★2──詳しくは、ジェイムズ・クリフォード『ルーツ──20世紀後期の旅と翻訳』(毛利嘉孝ほか訳、月曜社、2002)を参照。
★3──岡原正幸「アートベース社会学へ」『哲學』第138集(三田哲学会、2017)、1-8頁
★4──加藤文俊「『ラボラトリー』とデザイン:問題解決から仮説生成へ」『KEIO SFC JOURNAL』第17巻第1号(慶應義塾大学湘南藤沢学会、2017)、110-130頁
★5──http://yutakana.org/fotm/host-a-screening/
★6──水野大二郎、森村佳浩、浅野翔「インクルーシブデザインによるソーシャル・インタラクションの設計可能性についての素描」『21世紀社会デザイン研究学会学会誌』Vol.4(21世紀社会デザイン研究学会、2012)



201805

特集 コミュニティ・アーカイブ──草の根の記憶装置


アーカイブを憎むな、アーカイブになれ
移動する記録と記憶──デザイン/アーカイブ/エスノグラフィー
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