まちづくりと「地域アート」──「関係性の美学」の日本的文脈

星野太(美学、表象文化論)+藤田直哉(SF・文芸評論家)

美的・政治的判断と「地域アート」


藤田──なるほど、よくわかります。「地域アート」というものが広く「文化」を発展させるうえで有効に作用しているのは確かです。地方にこれまでになかった人材が集まり、交流しているのですから、日本全体で広い意味での「文化」の力は増大しているし、この調子で行けば、50年とかの単位で考えれば、日本の文化水準が総合的に上がっていくということも期待できる。
中国語としての語源では、「文字(漢字)」を根付かせることが「文化」ですから、「カルチャー」とはちょっと歴史的に背負っている言葉のニュアンスが違いますね。日本における日常の用語法でいうと「文化」というと高級な感じがしますが、ぼくはヤンキー文化も、貴族文化も、どっちも文化としては対等という見方をしたい。それぞれの生活に根付いたそれぞれの文化があるわけです。それは尊重したい。しかし一方で「芸術」と言うときには、価値判断を考慮に入れています。それはある意味で残酷な垂直軸の評価を導入してもいいと思っています。
ぼくは「芸術」には、もうすこし「理念」とか「超越性」とか、「芸術」には「文化」とちょっと違う力があると思うんですよね。それはロマン主義的な信仰なのかもしれないですが。そういう期待を、背負っていくべきだと思う。
こういうことを言うのは、どちらかというと現在の文化批評というのは、さまざまな序列を無化して、並列化させて論じるような手法が一般化してきているように感じるので、その気風に抗って、という側面もあるのですが。

星野──相対主義的な判断に覆い尽くされている現状に対しては、個人的には両義的な感情を持っています。たとえば、一方に「美」や「芸術」の固有性があるとする立場がある。実際そのようにしか言えない「何か」は確かに存在するように思われる。しかし、「これは凄い」と判断している自分の趣味判断すら、つきつめれば歴史的な形成物なわけでしょう。そうなってしまうと、「美」や「芸術」をめぐる判断においては相対主義的な立場しかとれなくなる。しかしこうした相対主義を封じるべく超越的な力学がふたたび導入されるとき、それが行き着くのはファシズム以外にありません。ファシズムの成立前夜において、いつまで経っても合意に至らない議会制民主主義の逡巡を、カール・シュミットは「政治的ロマン主義」と呼びました。そのような決定をひたすら先送りにしていく状況に、超越的な「決定」を呼び込むような垂直的な原理が「美的ファシズム」だった。だからといって、もちろん相対主義の上にあぐらをかいていてよいわけではありません。ですが、そのような美的ファシズムの回帰に抗するためには、やはり大いに逡巡をともなったネゴシエーションが重要になってくるのではないでしょうか。そこで超越的な原理を持ち出さずに合意形成の次元に粘り強くとどまりつづけることが、ファシズムを回避する唯一の手段だと考えます。

藤田──ファシズムへの懸念というのは、お互いに共有していることかと思います。ある種の巨大な流れが情念的に形成されていくときに、水を差していったり、違う見方があると指摘するような、嫌われる行為をするなんてのは、ファシズム的な空気へのちょっとした抵抗であるというような気持ちがあります。
「超越的な原理」についてですが、多分ぼくの言い方がまずいのでしょう。それが本質としてあるとはぼくも思っていません。が、「美」なり「芸術の固有性」という目標自体を設定しなければ、議論の共通基盤すらなくなってしまう。「美」や「芸術」という言葉の中身は、その言葉を用いる人間の考えが変われば、身も蓋もなく変わるでしょう。多分、現に変わりかけていて、「関係性の美学」と言うときの「美」の中身は、つながりの快楽に現場レベルでは素朴にすり替わっている。
ぼくは、日本にもしファシズムが起きるのだとすれば、ドイツのように、垂直的な美や崇高さから来るのではなくて、空気や同調圧力のなかから立ち上がってくるものではないかと思っています。例えば、炎上などがそれで、「下からのファシズム」とでも呼ぶべきものですね。地域アートが国策で「役に立つ」ことを中心的な価値にしていくと、「役に立たなければならない」というメンタリティが醸成される。そしてその空気のなかで、義理人情やしがらみに異論や批判ができなくなる。そのことのほうが、この国のなかではまずいことだと思うのです。
だから、過去の権威の反復ではない、自分自身の美的判断・価値判断を、それぞれが疑い、議論をしながら、自分自身で見つけて言葉にしていかなければならないのではないかと、ぼくは強く主張したい。もちろん、それぞれが違う答えでいいんです。各々が自分なりに辿り着いたそれぞれの作品の味わい方を提示しあって学び合うほうが、世界が豊かになるはずです。 本日は、ぼくの「前衛のゾンビたち──地域アートの諸問題」を入り口に、とても幅広いお話ができて楽しかったです。ありがとうございました。


[2014年10月7日、LIXIL:GINZAにて]




星野太(ほしの・ふとし)
1983年生まれ。美学、表象文化論。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。東京大学大学院博士課程教育リーディングプログラム 多文化共生・統合人間学プログラム(IHS)特任助教。共著=『ラッセンとは何だったのか?』(原田裕規編、フィルムアート社、2013)、『Contemporary Art Theory』(EOS Art Book Series 001、2013)など。 翻訳=クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」『表象05』(月曜社、2011)など。

藤田直哉(ふじた・なおや)
1983年生まれ。SF・文芸評論家。東京工業大学社会理工研究科価値システム専攻博士後期課程修了。「消失点、暗黒の塔──『暗黒の塔』第5部、6部、7部を検討する」(2008)で第3回日本SF評論賞・選考委員特別賞受賞。著書=『虚構内存在』(作品社、2013)。共編著=『floating view 郊外からうまれるアート』(トポフィル、2011)、『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(南雲堂、2013)など。


201411

特集 コミュニティ拠点と地域振興──関係性と公共性を問いなおす


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