いま地域の変化を許容し、価値を認めること
──文化的景観の課題と可能性

杉本宏(京都造形芸術大学教授)+清水重敦(京都工芸繊維大学教授)+川村慎也(四万十市教育委員会)+惠谷浩子(奈良文化財研究所研究員)

都市の文化的景観
──世界遺産の町、宇治市が直面した転換点

杉本宏──私も川村さんと同様に考古学が専門です。昭和58(1983)年に宇治市に入庁し、文化財専門職員として文化的景観に関わってきました。考古学から文化財行政に就職するのは当時珍しくなかったかと思います。その背景には右肩あがりの経済成長と人口増によって、日本各地で農地が急速に宅地へ変わってゆき、遺跡の発掘が急増した時代の流れがあります。

80年代前半は宇治市でも人口が増えはじめ、伝統産業である宇治茶の衰退とともに伝統的な中心市街地の周縁部で茶畑が戸建て住宅やマンションに姿を変えていきました。こうしたなか、私は茶畑の下に埋もれていた遺跡を発掘調査する仕事に取り組んでいたのですが、宇治の伝統産業である宇治茶生産に辛い未来があることをいやでも気づかされました。

昭和62(1988)年の竹下内閣による「ふるさと創生」事業によって、日本全国の町が未来を考えざるをえない転換期のなかで、宇治市は伝統産業の宇治茶から『源氏物語』のまちづくりへと、舵取りを変えていきました。平安期創建の平等院には多くの観光客が訪れており、こうした歴史的な観光資源を活かしたまちづくりへと舵を切ったのです。その後、平等院と宇治上神社が平成6(1994)年に世界遺産「古都京都の文化財」の構成資産になり、4年後には源氏物語ミュージアムもオープンしました。

バブル経済が終わりに近づいていたころ、宇治の町中で大きな茶問屋の土地が売りに出され、マンションが建てられることがありました。伝来の大きな土地にある茶工場や家屋を売却し、古くから続いた茶問屋さんが郊外へと移転していきました。宇治は戦時中、幸いにも空襲を受けなかったので伝統的な町並みや古くからの茶問屋が多く残っていました。しかしこのころになると、日本の経済成長を背景に当時の都市政策の流行にのって近代的な町へと転換する動きが目立ちはじめました。宇治の市街地は建物の高度制限がなかったため、高いビルを建てることが可能でした。そしてここは世界遺産バッファゾーンの隣接地でした。宇治の市街地は交通の便がよく、バブル崩壊後もしばらくは経済が活発だったことで、茶関係産業が下降しつつ伝統的な町並みの虫食い状態が進行しました。この時に事件が起きます。平等院が世界遺産になった翌年、町中に45mのタワーマンションが建ち、鳳凰堂の背景にその姿が現れたのです[fig.7]。借景が大きく阻害されました。この件が私も含め、町の人たちにたいへん大きな気づきを与えます。

町中の町家や茶問屋を壊して新たにマンションを建設する場合、ここは埋蔵文化財包蔵地なので法に基づいて発掘調査をします。そうすると平等院と同時期の平安貴族の邸宅遺跡が発見されます。宇治の成立ちを知る貴重な遺跡であり学術的にも重要です。しかし多くの場合、発見遺跡の内容を記録してマンション建設は進みます。開発にともなう遺跡の保存は難しいのです。つまり、町中の高層マンション建設は世界遺産の景観阻害要因になるだけでなく、土地の由来を担保する遺跡を壊し、町の伝統的な風情も壊す。さまざまなものが同時に大きな影響を受ける。さまざまなことが関連し合っているわけです。そしてその原因に伝統産業である宇治茶の衰退があるわけです。宇治市は『源氏物語』のまちづくりを標榜しましたが、それだけを特出しするだけではだめなんです。しかし、このように考える人は少なく、町の発展のために近代的な市街地へと転換してゆくことを是とする意見が市役所でも多数派でした。景観を守る法律も当時はありません。平等院などの文化財だけでなく、宇治の町そのものを価値付けしながら、全体的なコントロールが可能になる取り組みが必要でした。そのとき、突如として文化的景観という制度が登場したわけです。

文化的景観は、当初は農山村漁村の景観から国の取り組みがはじまった関係で、都市部の景観である宇治の場合は、文化的景観よりも景観法への取り組みが先行します。世界遺産平等院の借景問題を教訓に、都市計画法に基づく高度制限や景観法に基づく景観計画の導入することができました。建物のデザインコントロールと高度制限を行うことで世界遺産地区を守ろうとしたのです。最初のうちは教育委員会が文化的景観、都市整備部が景観法としてそれぞれ別に進めていましたが、後に一体的に取り組むことになりました[fig.8]

fig.7──平等院の背後に現れた高層マンション(その後、植栽で遮蔽された) 撮影=惠谷浩子

fig.8──「宇治の文化的景観」全覧図、『都市の営みの地層──宇治・金沢』(文化的景観スタディーズ04)、pp.40-41より 作成=奈良文化財研究所景観研究室
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文化財行政の強みは町を形づくる歴史的要素に価値付けできるところです。そしてこの価値を踏まえたうえで住民に景観の規制を了解してもらわなければ、良好な景観をつくり維持することはできません。総合行政としての取り組みが必要です。そこで教育委員会や都市整備委員会だけでなく他部局の担当者も加わり、議論が進められるようになりました。この議論を通してどのように「町の要素を取り上げる」と宇治らしく良くなるかが明らかになっていきました。例えば、観光部局と話をすると、現在の宇治の観光はどうしても平等院一極の観光に負うところが大きいため、観光要素をより広げてゆく必要があるわけですが、そのための方向付けが必要になる。その時に、斜陽化しつつある宇治茶を何とかしようという発想が、部局を超えて共有されてゆくわけです。宇治茶の衰退が、伝統的で個性的な町並みを変え、茶畑がどんどん失われてゆく。そこに気づいた人たちと文化的景観に取り組むことで改善に向かえるのではないかと考えたのです。

通常、文化財の保護対象となる時代は江戸時代以前です。宇治の場合、文化的景観の構成要素の調査対象になりうるのは近代以降で、古くても明治時代に建てられたお茶の製造工場施設などしか残っていませんでした。文化的景観ではそんなに古くなくても生業の個性を表出していれば価値を認めるということでした。近代の建物群もその範疇に充分含まれるわけです。幸い清水先生・恵谷さんはじめ奈良文化財研究所の協力を得ながら文化的景観の調査ができたことで、徐々に町の歴史的な重層性や関連性が明らかとなり、何を守れば宇治らしさが伝えられるのかが分かってきました。大正期のレンガ製茶乾燥炉などは、以前は誰も価値があるとは思ってもみませんでしたが、今では伝統的な宇治の個性を担ってきたものとしてとても重要視されています。

こうして宇治市は宇治茶を守る施策へと転換を図ります。伝統産業を再生させないかぎり、未来はないと皆が気づいたのです。文化的景観の調査を通じ、宇治市の形成過程について皆で理解を深めながら、町を形づくる要素に価値を与えていきました。こうして平成21(2009)年に重要文化的景観の選定を果たします。

選定後は、改造されていた伝統的な茶問屋の家屋をかつての姿に修復する事業がはじまり、宇治茶の個性的な景観が再生されています[fig.9]。このような修理や修復は制度的な意義のひとつではありますが、最も大きなことは、道路のように町の形をも変えてしまいかねない要素をどうコントロールするかでした。宇治市では数十年前に市街地に幅の広い都市計画道路を縦横に造り、町全体の近代化と交通利便を高める計画を立てていました。これが本格的に実施されたら古い町の骨格が全壊してしまう。そこで重要文化的景観の選定を申請する際に、この都市計画道路の見直しを行いました。この結果、平成24(2012)年にかけて選定地区内で3本の都市計画道路を廃止にし、1本を見直しました。簡単に実現したかのように説明しましたが、実際にこうしたことを行うのはとてもたいへんです。そして、これによってまちづくりの方向性が大きく変わったのも事実です。

町並みを守るうえで道路の存在というのは切り離せない問題です。茶問屋が軒を連ねる宇治橋通りは、市街地のなかでもにぎやかなエリアです[fig.10]。この通りは京都府道です。古い宇治の町家の個性で、軒が道路にまではみ出すことがあります。現状不適格で、修理などのときには軒を切り詰めることになる。しかしそれは宇治の個性を失うことになり、町が生き生きとした姿を取り戻すための障壁になっていました。この解決手段は京都府管理の京都府道から宇治市が管理する宇治市道へと管理者を変えることでした。市としては管理する道路が増えるため財政的には望ましくないのですが、それと引き換えに地元ならではの柔軟な対応ができるメリットがあります。こうした観点から、京都府の担当部局と意見交換しながら宇治橋通りを宇治市道へと移管してもらうことができました。ここでのポイントは都市計画に関係する人たちが、宇治の町の価値を共有しながら、ひとつのアイデアを結実させたことでした。このように文化的景観の活動は、他の部局を含めて町全体へと波及するものになったのです。文化財だけではなく都市計画にも大きな課題を投げかけますので、時には反発もあります。しかし学ぶ機会をつくりながら、個々に頭を柔らかくして取り組んだ結果が現在の宇治市です。

杉本宏氏
もちろんできなかったこともあります。茶農家さんを訪ねるとよく言われます。「杉本さんは町の景観を守ったり、町家を直すことはしてくれたけれど、宇治茶で儲ける方法は示してくれなかったね」と。どうしたらもう一歩先に進めるのか、それは私も知りたいことです。景観で食べていける、そんなモデルケースの登場を待ち望んでいます。

fig.9──修復が完了した旧焙炉場の建物。『都市の営みの地層──宇治・金沢』
(文化的景観スタディーズ04)、p.53より 撮影=惠谷浩子

fig.10──観光客でにぎわう宇治橋通り 撮影=惠谷浩子

変化するものの価値を認めること

惠谷──町を守ることが杉本さんにとって遺跡を守ることにつながっていると改めて感じました。町の伝統産業を守るだけでなく、文化財と人とのつながりも含めた全体を守る活動だったのだと理解しました。

杉本──鎌倉や平安京の跡を継ぐ京都などの歴史都市を見ていて感じることですが、古いものと引き換えに新しい町に更新されてゆくまちづくりは、やはりなかなか寂しい面があります。両立が良い。遺跡を守る側からすれば、ボリュームの大きな開発を受け入れなければよく、それがコントロールできれば地域の遺跡は守られます。

惠谷──四万十川の流域の場合、川を診る人がいる状況は人の移動があまりないからこそありえるように思いました。一方、宇治市は人の流出入が激しいほうで、そうなるとこの地域づくりは自分たちには合わないといった価値判断が住民のなかに定着しにくいと思うのですがいかがでしょうか。

杉本──古くからの住民と新しい住民では、たしかに実感は異なると思います。とはいえ新住民も町を診ています。自分が移り住んだときの宇治の町の好ましい感じが記憶されていて、そこからの変化には抵抗感を持つようです。その点は旧住民も新住民も同じことで、一人ひとりが「宇治らしさ」の価値基準を持っている。ですから変化はある程度許容されても、新たに大きなマンションが建つのはやはり違和感を持つし、反対運動も起こります。

清水──「価値」の話が出ましたが、文化的景観の制度には地域に価値を与える側面もありますね。日本の行政機関のなかでこうしたことができるのは文化庁しかありません。宇治市では国からの価値付けが地域づくりにとても有効に働いたことが窺われました。

杉本──そこに文化的景観と景観法との違いがありますよね。景観計画をつくるために町の成り立ちや「らしさ」を読み込む作業は行われているはずですが、景観法があくまで規制に留まる。価値付けできることの意義はとても大きいと思います。

清水──文化的景観で行われる価値付けは、地域の人たちが制度に頼らず活動するための指針にもなるものだと思います。それなくして初手から制度として運用も含めた考え方をすると、おそらく文化的景観の価値付けとはまったく異なるものになるでしょう。価値付けは選定における最終段階の、非常に難易度の高いワンステップなのですが、それを行うことで文化的景観は独自の制度になっています。

編集──文化的景観の選定を通じて、皆少しずつ頭が柔らかくなったというお話があり、これもまた文化的景観の効用なのではないかと感じました。価値が認められたことを諸手をあげて喜ぶのではなく、地域の人たちも含めて馴染んでいくプロセスを経る。川村さんからは、四万十川はそもそも住民の生活基盤であるというお話がありましたが、身近なものの価値をじっくり見極める時間があるからこそ地域づくりにも着実に反映されるようにも思いました。

杉本──文化的景観の選定に際して、その価値を本質的に理解するとまではいかなくとも、どうすればもう少し踏み込んだ地域づくりまで手を伸ばせるかを考えていた人も、多くはなかったと思います。宇治はお茶のような伝統産業もあれば、宇治川のような美しい自然要素もあります[fig.11, 12]。また、文化的景観の修理は普通の文化財とは少し異なり活用を踏まえた修理となる。それやこれやで議論するようになります。時間をかけて価値を自分たちで咀嚼していくうちに共有されていくのでしょうね。

惠谷──文化的景観の効果は、直火ではなくじわじわと温まっていくものという感触があります。まるで漢方薬のような。

清水──価値付けの行為が必ずしもまちづくりに直結しない、ギャップがあるところがこの制度の利点でもあり弱点でもあると思います。つまり価値を与えた後、それを記憶し続ける作業が行われる。 文化財の場合、「型」や「技術」など、扱う問題を限定して保護されるため、世の中の変化が除外されることになるのですが、それに対して文化的景観は対象が明確ではない。というよりも、変化するものの認識に踏み込もうとすると文化的景観しかないんです。変化する部分も価値を認める立場から触れることができるので、そうすると将来に向けた地域づくりを考えるためのある種の枠組みになる。

杉本──文化的景観がややこしいのは、この用語が「制度」としての文化的景観を指す場合と「理念」としての文化的景観を指す場合があることです。これは市民に説明するときに使い分けが難しい。一方で、「地域らしさ」のめざす方向性をわかりやすく提示でき、過去から現在、そして未来へのビジョンにつながる、とてもユニークな考え方でもあります。文化的景観は一般的な指定文化財とは違い、私たち市民の目線で語れる感じがあります。

清水──宇治では伝統産業としての宇治茶と、保存活動としての文化的景観という2本の軸がありました。このように産業と景観が結びつくケースはめずらしく、そこが宇治の固有性を表していて、景観には産業の内容が現れていると言えます。

杉本──その点で宇治は成功したのではないかと思います。文化的景観に取り組むなかで、世の中も宇治茶の魅力を再発見し、それが追い風になりました。

清水──このようなケースを一般化すると伝統産業の話に置き換えられますね。地域に住み続けるためには食い扶持の確保が必要ですが、文化的景観を保護することで結果的に景観で食べていけるようになればいい。しかし、杉本さんがお茶屋や農家の人たちに言われたように、景観だけでやっていくのは現段階ではなかなか難しい。それが可能になって初めて、景観の保護と産業が結びついたと言えるのではないでしょうか。

fig.11──茶園での手摘み作業の様子 撮影=惠谷浩子

fig.12──茶工場での作業の様子 撮影=惠谷浩子


201902

特集 文化的景観の現在地
──四万十、宇治、伊庭、中川から「地域らしさ」の射程を測る


文化的景観15年で問われてきたもの
いま地域の変化を許容し、価値を認めること──文化的景観の課題と可能性
インフラと文化的景観──「伊庭内湖の農村景観」にみる地域らしさ
建築と文化的景観──北山杉の里・中川の調査研究を通して
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