グラデュアリズム──ネットワークに介入し改変するための方策

谷繁玲央(東京大学大学院)

0 解題「グラデュアリズム」

2018年12月号の『建築雑誌』の誌面上に「建築のグラデュアリズム──始まりも終わりもない建築へ」という論考を執筆した。長らく建築家による明快なステートメントが失われているなかで、現在30歳前後の建築家たちの仕事に、小規模なプロジェクトを時間的・空間的に繰り返し着実な社会改良を目指すような姿勢を見出し、「グラデュアリズム(漸進主義)」という言葉を与えた。具体的な建築家としてはVUILDの秋吉浩気氏やモクチン企画の連勇太朗氏、浜松を中心に活動する403architecture[dajiba]などを念頭に置いている。先述のテキストは彼らの実践を生存戦略の一種として矮小化することなく、歴史的位置付けやこれからの展開の可能性を考えるものだった。

本論考は、筆者自身が提言した「グラデュアリズム」という言葉──まだ対象とする建築家たちにも賛同を得ていないこの小さなアイディア──を解題しながら、理論的に補強・拡張していく試みである。

これから多少の遠回りをするので、先に道のりを示そう。まず(1)建築家のステートメントが有効ではなくなった理由として建築をめぐる脱政治的な状況を確認し、(2)ハウスメーカーの住宅を例に現代の建築の風景が作り出される過程の複雑性を指摘する。(3)こうした風景から疎外された建築家たちによる批判がその複雑性を十分に拾えていないことと、(4)新たなまなざしの方法としてアクターネットワーク理論(以下ANT)の必要性を示す。(5)そしてANTを社会改良の理論として読み換えるために技術媒介論を取り上げる。(6)最後にANTや技術媒介論などの新たなまなざしを通して、建築の諸関係を再編するための戦術としてグラデュアリズムという方法を再び提示したい。

いまなぜ「グラデュアリズム」なのか。どのように展開することが可能か。あるいは建築家の職能論として提出した「グラデュアリズム」をいかに建築に携わるさまざまな主体による諸運動の連帯へと発展させられるか。こうしたいくつかの問いに対して、理論的な迂回路を辿りながら答えていきたい。

1 「建築家の職能」論 ≠ 建築論

建築家は「建築家とは何か」を長らく議論してきた。布野修司氏によれば建築家はその時代に合わせて社会改良家・技術者・芸術家などのさまざまなあり方を提示してきた。100年以上前に社会改良家としての建築家像を提示した岡田信一郎、建築非芸術論の野田俊彦、その批判として登場する新興芸術運動である分離派などの来歴を見れば、近現代の日本に限定してもこの問いが長く議論されていることがわかる★1

なぜ建築家たちが「建築家とは何か」を議論してきたのか。それは「建築家とは何か」という問いがそのまま「建築とは何か」「建築はどうあるべきか」というより根源的な問いを意味してきたからだ。この問い同士の短絡は、建築家が諸制度の立案者であり、新しい技術の開発者であり、建築の審美性を希求する唯一の職能であるというようなテクノクラシーの時代では必然的なものだ。

しかし、現代は建築家がテクノクラートではなくなって久しいし、建設行為の産業化や新自由主義の台頭という過程を経て、建築の諸問題が政治的な意思決定ではなく市場経済の規定力によって解決されるという脱政治化された状況にある ★2。こうした状況下では「建築家とは何か」=「建築はどうあるべきか」という図式は成立しないし、建築家のステートメントが新たな建築の方向性を指し示すという枠組みも有効ではない。ここで重要なのは建築家が意思決定の空間から疎外されていったことではなく、かつ建築家の代わりに民主的な意思決定を行う新たな主体が現れたわけでもないということである。

2 建築の風景の担い手

戸建が立ち並ぶ郊外住宅地やタワーマンションが聳える湾岸部、再開発が繰り返される都心などさまざまな建築の風景の生成が、建築家の仕事とは無関係に繰り広げられている。こうした風景がいかに作り出されるかを知るのは容易ではない。筆者が研究するハウスメーカーの住宅を例にその複雑性を指摘しよう。

住宅街を歩けば、(研究対象なので当然ではあるけれども)商品名を言い当てることができる住宅もある。しかし、それらはヒット商品や外装材に特徴あるもので全体のごく一部である。商品名はおろか、会社名もわからないものが多い。実際、ハウスメーカーが供給するプレハブ住宅は新設住宅着工戸数の全体に対して約15%を占めるに過ぎない★3。日本の戸建のおよそ4分の3が在来木造であり、その担い手の半分は地場の中小工務店である。そして窯業系サイディングに覆われてしまえば、外観からそうした供給体の違いは一見してわからない。つまり、ハウスメーカーの住宅が少数派であるというだけでなく、住宅生産の多様な担い手の存在が判別しづらいのが現状だ。

建築家・石山修武氏らによる1980年代の「商品化住宅」批判★4はこうした住宅産業自体が不透明になっていく過程を背景にしている。彼らの批判が示す「商品化住宅は消費者がカタログから選ぶだけ/労働者が指示通り組み立てるだけだ」という見立ては消費社会において住まい手も作り手も主体性を失ったという重要な指摘である。しかし、実際にはメーカー住宅に対して多くの住み手が愛着を持っているし、職人たちはさまざまな独自の工夫をしながら生産している。どのようなプロセスを経てその住宅を建てられたかを十分に検討せずに、「消費社会」という大きなフレームを与え主体性がないと判断してしまうこと自体に、住宅産業の連関から疎外された当時の建築家の立場が映し出されている。

こうした現実の建築の風景に対して、建築家を含む建築に携わるさまざまな人々がアプローチするために必要なのは外側からの批判ではなく、その内側に入り込み、連関自体を注視することではないだろうか。

3 ひとつの住宅ができるまで

ここで一度、あるハウスメーカーの注文住宅がどのような意思決定を経て、設計・生産されるかを考えてみよう。まずひとつの商品がカタログに掲載されるまでには、経営陣に近い本社の開発担当、部品点数を抑えたい工場、顧客に近い地域の営業所などのさまざまな思惑が錯綜し、必ずしも合理的な構法やマーケティングによって規定されるものではない。時に経営者の一言によって構造システムが変更される場合さえある。さらに建材メーカーや施工者の意向なども受けながら、多様な「生産者」同士の複雑な折衝を経て、ひとつの商品がカタログに掲載される。

加えて顧客はカタログの商品にそのまま住むわけではない。カタログはスタートに過ぎず、顧客と営業マン(そのまま設計者である場合が多い)の間で会話が繰り返され、住宅展示場の実物大模型を見ながら、敷地などの与条件や要望を元に設計図が作成されていく。こうして簡単に記述しただけでも、一軒の住宅が設計される過程に多くの人々の意思の連鎖が組み込まれている。さらに、こうした人間による関係のみならずモノなどの非人間存在に目を向ければよりいっそう多様な連関を見出すことが可能になる。例えば営業マンが顧客の前で即興的に平面図を描けるのは、方眼紙のマス目に始まり、社内のCAD、工場の生産ライン、建材メーカーのオリジナル部品に至るまでがそれぞれ統一的なモジュールを共有しながら連関しているからである。さらに言えば、住宅部品のモジュールは、道交法の規定や工場で使われる機械の寸法といった外的な環境の制約を受ける。

このような複雑なプロセスを観察すれば、建築が作り出される過程に人間だけではなく非人間の存在も含むさまざまな存在者の関係性を見出すことができる。人間、社会、モノのうち何かが特権的にほかを規定するような関係ではなく、微視的な諸関係を指摘できるだけであり、また観察する私たちもその諸関係のなかにいる。

4 ANT的記述の先に

ご承知の通り、先述した捉え方はアクターネットワーク理論の方法を引き受けている。ブリュノ・ラトゥールを中心に展開されるこの「連関の社会学」のパースペクティヴが「グラデュアリズム」の下地となると考えているからだ。「グラデュアリズム」は建築家の特権的主体性が無効化された時代の新たな社会参加のあり方を考えることを企図しているため、あらゆる特権的な拠点を棄却しながら諸関係の組み直しを試みるANTは重要である。しかし、建築に携わる者にとってANTは素朴すぎるし、「役に立てる」ためには多少の工夫が必要である。

近年、日本の建築の文脈でもANTが急速に受容され始めている。その受容のされ方はきわめて素朴で、既往の建築観に対して軋轢や齟齬が少ないように思う★5。それはラトゥールやアルベナ・ヤネヴァが建築をANTの記述対象として度々参照することからわかるように、建築にはもともとANT的な性質があったからだろう。建築に携わる者なら、「特権的な建築家が建築を形作る」という見方よりも、建築事務所の所員たちや施主、施工者などの人間から、製図道具や模型といった非人間に至るまでさまざまな存在者の連関のなかで建築が流動的に形作られていく見方のほうが受け入れやすいからだろう。日本の建築文脈にANTを紹介した最初期の事例である建築家・能作文徳氏の以下のテクストを見てみよう。

これまで建築作品と呼ばれるものは、人やモノのネットワークとはあまり関係のない空間イメージのほうに重きが置かれていた。その多くは芸術という名のもとに、アクターとの接続ではなく切断を図ることによって建築の自律性を高め、建築的な価値を主張してきた。そうした自律性は、どの芸術のジャンルにおいても探求すべき事柄のひとつであろうと思う。しかし現代の建築家に突きつけられているのは、自律性の探求に逃げ込むことではなく、グローバル化によって引き起こされた無関係なものに溢れた世界や断片化したネットワークを、建築を通して修復し、より大きな全体性として描き出すことではないだろうか。 (「建築におけるアクター・ネットワークとはなにか:《高岡のゲストハウス》」、「10+1website」2015年2月号)

能作氏は「芸術家=建築家/芸術作品=建築」という建築観を否定し、諸関係の修復者としての建築家像を提言している。筆者はこの新たな建築家像に賛同した上で、建築家がANTを持ち出す際の留意点を指摘したい。ラトゥールとヤネヴァによる「銃を与えたまえ、すべての建物を動かしてみせよう──アクターネットワーク論から眺める建築」(「10+1 website」2016年12月号)を一読すればわかる通り、ANTは建築を動的なものとして捉えようと試みる。しかし、かつて特権的な主体だと自認してきた建築家にとって、さまざまなアクターにていねいに目を向ける作業は、自らの主体性を棄却し雁字搦めの関係性のなかに埋没させてしまいかねない。ANTを新たなまなざし・記述・観察の方法以上のものし、新たな建築との関わり方を考えるには、一度ラトゥールから離れる必要がある。

5 技術の倫理

ANTの素朴な受容から新たな建築論を展開するひとつの方法として、技術が持つ倫理の問題を取り上げたい。なぜならANT自体が建築のクライテリアを用意してくれるわけではないからだ。建築論として展開するにはどのような建築が良いかあるいは悪いかを判断する回路、少なくともそういう判断が現に存在することを示す回路を組み込まなければならない。

ここでピーター=ポール・フェルベークの技術媒介論を参照する★6。フェルベークはラトゥールのANTやドン・アイディのポスト現象学の流れを汲む技術哲学者である。フェルベークは技術が人間の道徳を媒介するという技術媒介論を唱え、技術と倫理の相互作用を指摘する。彼が挙げる例をひとつ見てみよう。洗って再利用しづらいプラスティックのコーヒーカップには「使い終わったら私を捨てなさい」というスクリプトが刻まれている。ここで道徳的アクターであるべきなのは人間か技術的人工物なのか断定することはできない。技術だけが倫理を規定するわけでも、人間だけが倫理的存在なのでもなく、人間と技術的人工物が相互浸透するかたちで倫理の問題が立ち現れる。

フェルベークは技術的媒介という概念を確認したうえで、設計者が媒介としての技術にどうすればアプローチできるかを示している。まずフェルベークは、「設計」の文脈と「使用」の文脈のつながりを明確にすることが必要だと述べている。技術的媒介は根本的に予測不可能で複雑なものだが、どのように技術が使用され、どのような効果を生むかをある程度予測して対応することができる。フェルベークはその方法のひとつとして設計者の想像力による予測を挙げる。ここで彼はオランダの工業設計者集団エターナリー・ユアーズが設計するプロダクト(使い古すほどに新しい模様が見えてくるソファーカバーや部屋の中心に置いて発熱体の方向を調整しなければならないヒーター)を紹介し、これらは使用者の遊戯的な参加感覚を促し製品寿命を延ばすデザインであり、「環境倫理」を具現化していると述べている。

フェルベークの技術哲学が画期的なのは、あらゆるアクターが相互的に関係し合うANTの転回を引き受けながらも、その記述法を超えて設計者を倫理の問題に働きかけるアクターとして位置付けていることである。フェルベークは設計者を、特権的に技術を規定できる主体としてでもなく、あるいは人々を抑制する支配的な技術の信奉者(テクノクラート)としてでもなく、技術的媒介という複雑な関係性へアプローチできる存在として捉えている★7

6 グラデュアリズムへ

かなり回り道をしてしまったが、最後にこれまで述べてきた迂回路を「グラデュアリズム」という建築実践の理論へと帰着させていこう。能作氏の示す関係性の修復者という新しい建築家像や秋吉氏が提唱するメタアーキテクト★8 に見られるように、現代の建築家のアプローチは審美性から技術やシステムへと回帰しつつある。この背景には震災以後のトップダウン型、ボトムアップ型それぞれのアプローチに限界を感じながら、いかに中間的な立場を打ち出せるかという問題意識があるのだろう。しかし、先述した通り建築家にはもはやテクノクラートに回帰する方法は残されておらず、目の前に広がる建築の風景は自律的に駆動しているかのような巨大なシステムによって支えられている。こうしたシステムを前に、建築に携わるひとりとしてできることは「社会」のような大きな枠組みに頼らずに、まず身の周りの微視的な関係性を観察すること、そこに宿る小さな政治性や倫理を着実に汲み取ることだろう。それは同時に自らが連関にどのような影響を与えているかを観察することでもある。日々建築行為のなかで繰り返される選択が事物の関係性を変容させうる。例えばたったひとつのサッシュを選ぶことでさえ、環境倫理への介入である★9。こうした小さな介入から始めて、ネットワークに対するチャネルの量を漸進的に増やしていくことが、現代的な社会改良の方法ではないか。それがまさにグラデュアリズムの目指すものである。

グラデュアリズムは、手法も目的も規定しない。ただその運動に対する漸進的な姿勢に対して名付けられている。つまり逆説的に、どのようにチャネルを増やすかという手法と、なぜ増やさなければならないのかという目的によって、各プロジェクトの性質が決まる。デザインツールの提供によって技術の民主化を図るVUILDのEMARFや、レシピやスクールを通して改修のリテラシーの共有を図るモクチン企画を見れば、啓蒙的で支配的な仕組みによって量を増やすというよりも、主体的に参加してくれる人々とツール・メディア・教育などの手法によって連帯していく過程として見ることができる。重要なのは「トップダウン」か「ボトムアップ」か、という単純な二項対立では捉えきれない中立的な立場・方法を彼らが実践のなかで打ち出していることである。本特集の鼎談で秋吉氏が言及する概念としての「ミドルウェア」も、個々のソフトウェアを連帯させ、時に支配的な構造を借用しながら、あるヴィジョンへと進んでいくという中立的な姿勢を持つアイディアである。秋吉氏が言うような既存のサプライチェーンに寄生し活用するという手法には、近代的な生産システムを単に批判するのではないリアリズムが現れている。こうしたリアリズムは、巨大な産業連関の中で着実にチャネルを増やしていくために必要であり、ミシェル・ド・セルトー の言葉で言えば「なんとかやっていく」★10ための戦術である。

ANTによる記述やフェルベークの技術媒介論を通して、「社会」という言葉の大きさを前に立ち尽くすしかなかった数多の事象に対して、少しずつでも介入し再編できるという希望を得られるのではないか。その視座の下では特権的な建築家像のための建築論は無効であり、建築論自体が建築に携わるさまざまな人々に開かれる。いま必要なのは建築をヒロイックに語るための言葉ではなく、建築の問題に関わるあらゆる存在に日常の現場、まさにその場所で運動の参加者となってもらうための言葉である。そうした連帯のための言葉がまさに「グラデュアリズム」なのだ。



★1──布野氏による建築家の職能論について下記のテクストに詳しい
布野修司『裸の建築家―タウンアーキテクト論序説』建築資料研究社、2000年
布野修司『布野修司建築論集3 国家・様式・テクノロジー 建築の昭和』彰国社、1998年
★2──新自由主義の台頭と脱政治化の関係性については、主にコリン・ヘイが論じている。 コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか 民主主義の取り戻し方』吉田徹訳、岩波書店、2012年
★3──住宅に関する統計は複数あるが、要約されたものとして下記のスライドがわかりやすい
http://www.mlit.go.jp/common/001264473.pdf
★4──本稿で石山修武氏による「商品化住宅」批判に対する賛否を適切に行うには紙幅が足りない。石山氏は1980年代に最も高い洞察力で多面的に住宅産業を批評した批判者であると同時に、「D-D方式」をはじめとするオルタナティブな住宅生産手法の実践者である。一連の著作、『バラック浄土』(相模書房、1982) 『「秋葉原」感覚で住宅を考える』(晶文社、1984)『笑う住宅』(筑摩書房、1986)などに、同時代の商品化住宅批判の重要なテクストが収用されているので、適宜参照・再読していただきたい
★5──日本の建築界でANTが紹介されている事例として以下が挙げられる。 能作文徳「建築におけるアクター・ネットワークとはなにか:《高岡のゲストハウス》」10+1 website、2015年2月号
中村健太郎「『アクター・ネットワーク』──『科学』としての建築学は可能か」建築討論、2019年7月号
また近年、ラトゥールの邦訳や関連書籍が複数出版されている。本稿執筆に当たって以下を参考にした。
ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す──アクターネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳、2019年、法政大学出版局
久保明敦『ブリュノ・ラトゥールの取説──アクターネットワーク論から存在様態探求へ』2019年、月曜社
★6──ピーター=ポール・フェルベーク『技術の道徳化──事物の道徳性を理解し設計する』鈴木俊洋訳、法政大学出版局、2015年
★7──テクノクラシーや技術の民主化といった議論の変遷についてはフィーンバーグの技術論にまとめられている。
アンドリュー・フィーンバーグ『技術への問い』、直江清隆訳、2004年、岩波書店
★8──秋吉浩気「建築とデジタルファブリケーションの交差点──自律分散型の住環境生産サーヴィスが、『限界費用ゼロ社会』を実現する」WIRED、2019年2月
★9──日本はパリ協定を批准したにも関わらず2018年に小規模住宅に対する省エネ基準の適合を見送ったが、設計者に対して建築主への省エネ基準適合可否の説明を義務付けた。つまり設計者は国家による支配的な命令ではなく、建築主との合意形成の中で「樹脂サッシュかアルミサッシュか」という選択に現れるような環境倫理の問題に取り組まなければならない
★10──ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』、山田登世子訳、国文社 1987年


谷繁玲央(たにしげ・れお) 1994年愛知県出身。2018年東京大学工学部建築学科卒業。同大学院権藤智之研究室所属。建築輪読会主宰。メニカン共同主宰。専門は建築構法、建築理論。主な寄稿に「建築のグラデュアリズム──始まりも終わりもない建築へ」(建築雑誌、2018年12月号)、「内田祥哉著『ディテールで語る建築』」(建築討論、2019年7月号)など。


202001

特集 建築の漸進的展開


グラデュアリズム──ネットワークに介入し改変するための方策
アーバニズム、建築、デジタルデザインの実践とグラデュアリズム
『建築を政治的なものに変える5つの方法──設計実践の政治序説』イントロダクションより
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