場所と人間──トポグラフィの視覚文化論
"Topography"とは、一般的な辞書では「地勢」あるいは「地形学」と訳される英単語であるが、その語源をたどるとギリシア語の"topos"すなわち「場所」と"graphia"すなわち「記述」を組み合わせた語であることが分かる。拙著『トポグラフィの日本近代──江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』(青弓社、2011)で、私は「場所を記述すること」という原意に立ち返って、「トポグラフィ」という言葉を場所に対する人間の働きかけを包括する概念として提示した。
「トポグラフィ」という言葉/概念を採用した大きな理由には、「風景/景観
landscape」という言葉の使い方の広さ、曖昧さがあった。その言葉は、美術史だけではなく、建築学、地理学から生物学、植物学や地質学に至るまでさまざまな領域で用いられ、その定義はそれぞれ違う。また美学や美術史においても、その言葉を、例えば「浮世絵の風景版画」というように、広い意味で使う者もいれば、狭い意味で使う者もいる。
美術史/英文学研究者のW・J・T・ミッチェルは、自ら編んだ論集『風景と権力』の冒頭論文「帝国の風景」において、風景(画)に関するさまざまな派閥からのさまざまな言説において、「西洋性」、「近代性」、「風景画の視覚的/絵画的本質」という三つの事実が共通して認められると指摘したうえで、その背後に隠蔽されている帝国主義との関係を探究し、それを絵画の一ジャンルにはとどまらない「『人間』と『人間』以外のものとのあいだでのコミュニケーションのための」「媒体」として捉えることを提言した 。この論の重要性は、風景表象を単に見られるべきイメージ、読まれるべきテクストとして扱うだけでなく、それを社会的、主体的なアイデンティティを形成する実践、あるいはプロセスとして考える点にある。ここでミッチェルが意図したところは、「風景」をモダニズム的な美術史用語から解き放ち、より広範な文化研究の概念的ツールとして再構成しようとしたのではないかと考えられる。
となれば、ミッチェルが拡張してくれた新たな「風景」を用語として採用してもよかったのだが、ここで翻訳の問題が絡んでくる。「風景」という言葉は、中国では7世紀の文献に、日本でも8世紀の『懐風藻』に見られる古い言葉で、およそ「眺め」という意味を示す言葉として使われていた。江戸期にも、例えば歌川広重(1797-1958)による「名所江戸百景」シリーズに《鴻の台とね川風景》(1856)という題が見られる。とはいえ、それは絵画のジャンルではなかった。江戸期にジャンルとして存在していたのは、「名所(絵)」や「山水(画)」であって、「風景」が「名所」や「山水」をも含む上位ジャンルとして成立するのは、landscapeの翻訳語として定着する20世紀を待たなければならなかったのである 。
当然、ここで思い起こさなければいけないのは、柄谷行人による「風景の発見」論であろう。周知のように、彼が指摘したのは、「風景」とは超歴史的な概念ではなく、「明治二十年代」以降登場したものであり、それは絵画における遠近法をテクストに応用した「言文一致」が可能にしたものであったということである 。遠近法というメカニズムの採用によって絵画というメディウムが透明になるのと同様、「言文一致」というメカニズムの採用によって、はじめて言語というメディウムも透明になる。正岡子規はこのことを「絵画的観念」と呼んでいるが、このメカニズムのなかで、見る者としての個人がはじめて主体subjectとして立ち現われ、見られるものが対象objectとして、すなわち「風景」として定位される 。柄谷が述べるには、このように「知覚の様態」の変化として風景が発見されることで、はじめて外界から隔絶された「主体」が成立するのである。
すこし横道にそれるが、柳田國男(1875-1962)が上記のような意味での「風景」を成立させる技術的コンテクストとして「汽車の窓」に着目しているのは、大変興味深い。柳田は、汽車が「今まで予想もしなかつた景色の見やうが有ること」を人びとに教えたという。その「景色の見やう」とは、「捕らうという気にもならぬ小鳥、摘んで食べようとは思はない紅色の果実が、あゝ美しいといつて旅人から見られる場合」であって、それを彼は「要望なき交渉」と名づけた 。このことはヴォルフガング・シヴェルブシュが『鉄道旅行の歴史』において、鉄道の車窓が、高速移動によって生まれる「ほとんど実体なき境目」によって外界と旅人を分かち、世界を「タブロー」──すなわち「風景」──として見る目をもたらしたと主張したこととほぼ重なる言明であろう 。
ともあれ、このように「風景」を近代ヨーロッパで発展した遠近法的空間概念を前提としたものである以上、これに縛られることなく広く場所と人間の諸関係を考えるために思いついたのが「トポグラフィ」という言葉であった 。そしてこの概念の採用によって、さまざまな論文や記事を書いてきた。写真研究の範疇では、19世紀の写真(ローマの遺跡群、ロンドンの下層民、富士山)や仏像写真研究、鉄道写真研究につながり、さらには戦後日本の鉄道観光ポスターやマンガにおける江戸の表象など、多岐にわたるトピックに手を染められたのも、トポグラフィという概念の射程の広さゆえであろう 。
ただ、これまで取り扱ってきたのは、場所の表象がほとんどであった。しかし、場所と人間の関わりあいというのは、表象だけにはとどまらないだろう。都市の路上で繰り広げられるさまざまな営為も興味深いし、あるいは都市の表皮に直接介入するような行為も広く考えればトポグラフィ──この場合は「場所への書き込み」──と考えられるのではないかと考えるようになってきた。考現学や路上観察学などへの興味がその発端であったが、このようにトポグラフィ概念を拡張することで都市計画や造園、さらにはストリート・サブカルチャーなども扱うことができるのではないかと考えている。
最近興味を持っているのは、都市の祝祭を彩るイルミネーションの問題である。これは祝祭というある一定の期間に、都市に仮設的ながら直接手を加えることで、新たな意味を付与するトポグラフィの一種であると考えられるからである。イルミネーションについて調べだしたのは、もともとは鉄道と並んでモダニティを牽引したネットワーク・システムのひとつである「電気」に対する興味からであった(もちろんそのきっかけのひとつは、東日本大震災と原発事故で、私たちが空気のようにあって当然のものと看過していた電気の存在が一気に前景化されたことにある)。その電気の歴史を、京都の都市史のなかで調査していた時に出会ったのが、「大正大礼」の際に京都市街を彩った無数の電灯の存在であった。以下では、その研究の一部を紹介したい 。
1915年(大正4年)の京都は、大正天皇の即位式および大嘗祭──いわゆる「大正大礼」──が行なわれることになり、大いに沸いていた。大礼は、11月7日から21日間行なわれたのだが、そのあいだ、天皇の巡行路を中心に10万灯を超える電灯で京都の市街は彩られたのであった。 日本におけるイルミネーションの歴史は博覧会とともにある。1903年の大阪での第五回内国勧業博覧会では6,700余であったが、1907年の東京勧業博覧会では3万5,000灯強と5倍になり、上野公園と不忍池を煌々と彩ったという。このことは夏目漱石(1867-1916)が『虞美人草』(1907)に採りあげている。
文明を刺激の袋の底に篩い寄せると博覧会になる。博覧会を鈍き夜の砂に漉せば燦たるイルミネーションになる。いやしくも生きてあらば、生きたる証拠を求めんがためにイルミネーションを見て、あっと驚かざるべからず。文明に麻痺したる文明の民は、あっと驚く時、始めて生きているなと気がつく
。ここで重要なのは、イルミネーションの効果が「あっと驚く」ことだと指摘されている点だろう。このことは、漱石と同時代のヨーロッパの知識人──例えば少し年長のゲオルク・ジンメル(1858-1918)や若いジークフリート・クラカウアー(1889-1966)、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)──たちが、「モダニティを刺激の殺到として考え」ていたことと共通する
大正大礼の際にも岡崎公園では大典記念博覧会が行なわれ、その会場にも1万灯(史料によっては3万)のイルミネーションが施されたという。これだけ見れば、東京勧業博と比べて縮小したように思えるが、大正大礼の興味深い点は、それが博覧会場にとどまらず、市街全体に拡張された──全体で10万灯強という未曾有の量──という点である。
そもそも京都における電気の歴史は、1888年に京都電灯という会社が設立されたことにはじまる。その時点では木屋町通の社屋内にあった火力発電所から繁華街に送電するという規模であったが、1891年には琵琶湖疏水を利用した蹴上水力発電所が建設され発電量は増大する。京都市当局も電気事業に乗りだし、1912年ごろには、京都電灯とエリアを棲みわけるかたちで京都市の住宅密集地にはほぼ全域配電されていた様子が当時の史料から見える。
さらに20世紀初頭の京都市では、「三大事業」と呼ばれた社会資本整備計画を行なっており、今出川、丸太町、四条、七条、そして千本、烏丸、東大路などの主要道路が拡幅され、今日の京都市街の姿ができあがっていた。大正大礼という国家的なメガ・イヴェントを行なうためのインフラストラクチャーがすでに完成していたわけであり、大礼は近代都市へと生まれ変わった京都の姿を内外にアピールする好機となったと言われる 。大正大礼は、天皇代替わりに乗じたモダニティの祭典と考えることができるだろう。
大礼期間中、夜毎に京都の市街──京都駅、烏丸通、丸太町通、四条大橋、二条城など──にイルミネーションが点灯される。官公舎や会社などもライト・アップされ、町家には電化された提灯が灯り、そのなかを電飾で光る花電車が走りすぎる。京都は、このたった3週間だけであるが、「電気都市 Electropolis 」と呼ぶにふさわしい都市へと変貌したのである。ちなみに大礼については、京都府によって記録された写真が『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』というアルバムのかたちで残っており、全5冊が京都府立京都学・歴彩館に収蔵されていて、写真のすべてがデジタル化され「京の記憶アーカイブ」の一部としてウェブ公開されている。写真は、5巻で総数436点。そのうち第5巻にイルミネーションや、花電車、奉祝踊の様子が31点見ることができる 。
- 《四条大橋ノ夜景》『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』
[出典=京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ] - 《烏丸通ノ夜景》『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』
[出典=京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ] - 《京都市内ノ奉祝踊(於・円山公園)》『大正大禮京都府記事關係寫眞材料』
[出典=京都府立京都学・歴彩館 京の記憶アーカイブ]
このイルミネーションに対する反応が、一種のマス・ヒステリアと言ってもいいような「奉祝踊」の熱狂だった。夜な夜な踊り狂う市民の数は日を追うごとに増え、当時の新聞に「狂乱の巷」と評せられるほどのカオティックな状態に至ったという。この狂乱は何によって引き起こされたのであろうか。
イルミネーションに照らされた京都市街を「昼のごとく」や「夜を昼にした」などと形容する文が当時の史料に散見される。それは「夜なのに昼」という矛盾した物言いと考えられよう。いまの私たちは、例えばイルミネーションやライト・アップを見ても「昼のようだ」とは思わずに、あくまでも夜として受け止めるだろうが、当時の人びとにとって「夜なのに昼」という転倒は日常の価値観をも転倒させたのではないだろうか。奉祝踊りの際には仮装し、化粧した参加者が多く見られ、異性装も相当に目立ったようである。「昼/夜」「男/女」という通常の二項対立がことごとく転倒するカーニヴァル的な都市空間。これを生み出したのが視神経に直接働きかけ、目を眩ませる電気の光であったのではないかと考えている。
場所それ自身は、意味を持たない。私たちが表象すること──それについて語り、そのイメージを生産すること──こそが、場所に意味を埋め込むトポグラフィという営為なのである。エドワード・サイード(1935-2003)は、それを「心象地理 imaginative geography」と呼んだ
。それは、人間が空間に意味を付与した結果であり、なじみ深い空間を「自分たち」の場所とし、なじみのない空間を「彼ら」の場所とする想像上の空間認識である。私たちの目のまえに広がる場所は、トポグラフィによって、意味あるものと化し、理解=意味生成(make sense)可能なものになるのである。したがってトポグラフィとは、それを生産する人びと、そしてそれを消費する人びとの欲望を顕わにする実践の集合体なのである。