第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践

坂本小九郎(宮城教育大学名誉教授)+西澤徹夫(建築家、西澤徹夫建築事務所主宰)+浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ主宰)+森純平(建築家、PARADISE AIRディレクター)

個性が合わさる共同制作

坂本──それから、私にとって養護学級はとても特別な意味をもっています。実際に子どもたちとずっと付き合うなかでわかったことは、勉強ができるかできないかといったことは関係なく、一人ひとりの人間として上下なく向き合うことを基本に据えるべきだということでした。美術教育はもともとそのことが表現活動の基本にあります。
たとえば、版画の共同制作でも、ひとりの人間が彫ったような作品に見えるようにするために、互いに学び合いながら制作するのですが、私はそのことに違和感を覚えたことがあります。
一人ひとりの個性をもつ子どもたちの表現が温かく受け入れられて、それでいて全体としてまとまった世界を表現できないだろうか。稚拙な者を排除することなく、一人ひとりの個性、異なる力がひとつの画面のなかで合わさるような共同制作がありえないだろうかと考えました。そのように各人がそれぞれのかたちで生きていくあり方が大事だと思うんです。
完成した大きい絵のどの部分を抜き取っても一枚の作品になっていることも大切な特徴です。これは子どもたちが共同制作の版画で表現した世界です。私自身も、作品のそれぞれの箇所から一人ひとりの子どもがそれぞれ彫った部分が見えてきて最初は驚きました。

西澤──美術には絵画や彫刻などのさまざまな表現領域があるなかで、共同制作の手段としてなぜ版画を選ばれたのでしょうか。

坂本──表現を伝えるということと複数性、共同制作の制作プロセスで版画は誰ひとり排除することなくみんなで参加することができるからです。
具体的な共同制作の方法は、まず最初にいたずら書きのようなラフスケッチや文集のカットなどのバラバラな下絵を用意して、それをモンタージュするかたちで一枚の絵にして、ひとつの画面としてつくり出していきます。それを彫刻刀でひとつずつ彫っていく。そのなかで私の技術面での指導は「彫刻刀の前には手を出さないこと、彫刻刀には必ず手を添えること、一気にではなくじっくりと彫ること」だけです。
たとえば「夜空をペガサスと牛が飛んでいく」(『虹の上をとぶ船 総集編Ⅱ』より、八戸市新美術館建設推進室所蔵、1976)[fig.1]の部分なのですが、ひとりの子どもが家の輪郭を描かず窓のようなものだけを彫っていたときに、ふとあることに気がつきました[fig.2]。夜に家の中の光で窓だけが浮いている様子のようにも見えたので、あえて家の姿を描いていないのかなと思いました。その窓からはひとりの子どもが顔を出していて、隣の家では両親と子どもたちとが手をつないでいるんです。じつはそれは窓ではなく布団から顔だけを出している姿だったのです。家族みんなが布団で寝ている家の隣で、ひとりの子どもが寝ている絵です。その子どもは小さい頃から父親も母親も遅くまで働いていたものですから、赤ちゃんのときからひとり暮らしをしているような生活でした。寂しかったのです。そのように一人ひとりの子どもの生きてきた生活の願いが絵のなかで表現されているのです。このようなことを大切にしない表現はありえないと思いました。

fig.1──八戸市立湊中学校養護学級生徒共同制作「星空をペガサスと牛が飛んでいく」『虹の上をとぶ船 総集編Ⅱ』より(八戸市新美術館建設推進室所蔵、1976)[写真提供=八戸市新美術館建設推進室]

fig.2──同、部分[写真提供=八戸市新美術館建設推進室]

坂本──実際にその版画をつくった子どもは場面緘黙という症状をもっていて、ほとんどお喋りをしないときがありました。けれども養護学級でいろいろなことを問いかけて聞いているうちに、徐々に一言、二言喋るようになったんですね。うれしかったです。
その子どもが描いた絵を順に見ていくと、最初は手をとても小さく描いていることがわかりました。人とつながろうとしていなかったようにも見えます。ところが、そのうちに手をつないだ絵を描くようになった。その子どもを褒めると元気が出てきたのか、つないでいる手をどんどん太く描くようになり、最終的には手を上げて喜びを表現している絵を彫りました。この子どもの表現は心の魂のドラマだと信じます。
それから僕は美術学校の出身ですが、養護学級では国語と理科を教えたこともあります。理科の時間には実験よりもわかりやすいだろうということで、星空を観察しに行ったり、ギリシャ神話を読み聞かせたりしたのですが、やがてある子どもの絵にさそり座の絵がどんどん出てくるようになったんです。過去にザリガニが好きだったんですね。
子どもたちの版画をじっと見ているといろいろなドラマが見えます。こうした経緯をもつ絵をほかの子どもたちが美術館で出会い鑑賞し、少しでも自分の可能性に自信をもっていけるシステムのようなものが新しい美術館に備わっていることを期待します。作品の前でも版画を制作するコーナーなどもあるといいと思います。そこで彫り、刷った作品をそれぞれ持ち帰り、まさにタンポポの種のように願いを伝えていくといいと思います。

版画教育の温かさ

浅子──先ほど、八戸で25年間の指導を続けていくなかで、教育方針が成績重視のものに変わり、美術教育が難しくなっていったというお話がありました。そのころからさらに年月が経ち、社会状況も大きく変わってしまった現在、坂本さんが実践されていた美術教育と同じことを試みるためには、当時とは多少異なるアプローチが求められるのではないかなと思いました。

坂本──教育の現場の悲しいニュースを見るたびにつらい気持ちになります。知り合いの美術の先生方に最近の動向について聞いたりすると、どうしても「坂本先生が教えていたころは自由でよかったですよ」と言われてしまいます。それだけ時代が変わったことに対するつらさを感じます。
地域性と美術のすそ野をともに紹介し伝える美術館をつくることは、美術教育と「美術」そのものの存在の重要性を人々に浸透させるうえで最も重要な力になると思います。世の中全体を変えることは難しいかもしれませんが、少しでも変化を起こす可能性があればいいという気持ちはあります。大切なのは人と人が温かく結びつくことです。平和を願うことです。それは美術でも進めていけます。そう信じています。

浅子──難しい質問になってしまいますが、そうした現状に対して私たちは具体的にどのようなことをすればよいとお考えでしょうか。

坂本──現場から遠ざかった身ですから、私のほうから細かなことを言うのもどうかとは思いますが、現在とてもつらい思いをしている学校の先生や子どもたちが、私たちの作品を見てどのようなことを思うだろうかということを、まずは考えてみたいと思います。みなさんはどう考えますか?

西澤──なにかを表現するということは、世界と自分を結びつけることだと思います。そしてそれを他人が見ることもまた、等しい経験になると思います。少なくともこの作品を現在の学校の先生が見ることにはとても意義があると思います。

坂本──学校という場所でも、子どもたちの誰もがもっている温かい人間性を感じる普遍的な力というものをすくい取る方法があると思います。それが発揮されないまま、自分の気持ちを伝えることもできずにひとりで苦しんでいる人が多いという状況はとても残念なことです。
私自身、いまも八戸の海の物語を題材にした作品をつくっています。それを見た人々は、過去の子どもたちの作品に似ていると言うんです。当時の作品に子どもたちの生き方がにじみ出ていたのと同じように、私の作品にも昔の子どもたちや八戸の地域性がにじみ出ているというわけです。さらにそこには私自身の生き方も含まれているので、それを一生背負って生きていくほかないですね。

地域の版画教育に徹する

浅子──坂本先生ご自身の幼少時代について聞かせてください。

坂本──私は1934年生まれで、子どもの時から転々と住む場所が変わりました。

浅子──それは幼稚園くらいのころからですか。

坂本──そうです。そして、幼いころからさまざまな美術館、博物館に行って作品を見ることが好きでした。まだ子どもだったのでなにもわからなかったのですが、一生懸命見ているうちに自分の楽しみにもなっていき、あちこちに関心が広がっていったことを覚えています。
やがて小学校に上がったころに戦争が始まり、学童疎開で東北に、そして小学校4年生のときに終戦を迎え、今度は親が昔住んでいた盛岡に戻りました。転校、転校と地域を変わるたびに学校で習う進捗も変わり、しだいに算数などはついていけなくなりました。言葉の(方言の)違いも小学校の子どもにとってはカルチャーショックでした。そして、自然に図工、美術の表現の世界に親しむようになりました。厨川小学校、下橋中学校に通い、そこで美術の先生たちとの出会いがありました。戦後、食べていくだけでも苦しい時代でしたが、文化についても強く求めていた時代です。
好きだった絵を勉強しようと中学校卒業後は岩手県立美術工芸学校(現岩手県立大学)にいきなり進学しました。戦後はじめて盛岡にできた美術学校です。当時、東京で空襲にあった深沢省三・紅子夫妻が盛岡に戻ってきており、高村光太郎(1883−1956)も花巻にいました。県会議員の橋本八百二(1903−1979)も美術学校の創設に力になってくれました。
この美術工芸学校では、中学校を卒業したばかりの人や年上の人々もおり、一緒に同じ教室で勉強をしていました。とにかく徹底的にデッサンから絵の勉強をしました。
そのときに何回か高村光太郎が来て講演をしたこともあるのですが、彼が宮沢賢治について書いている文章のなかで深い感銘を受けた一節に「内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても常に一地方的の存在から脱する」という言葉があります(『高村光太郎全集第8巻』筑摩書房、1958)。その思想は私の美術教育の根幹にあるものだと言えます。地域の美術教育に徹することも私の信念になりました。
その大元には差別に対する反感や、戦後社会の極端な転換に対する疑いの念、絵しか得意になれなかったことへの劣等感を回復したい気持ちなど、それまでの生活のなかでのさまざまな体験があるのだと思います。

浅子──子どもたちから聞いた幽霊の話もそうですが、坂本さんのお話のなかには「死」に関するイメージが繰り返し出てきますね。

坂本──近くの海で親族が命を落すこともよくあったので、昔の子どもたちにとって死はそれほど遠いものではなかったのかもしれません。子どもたちの集めてきた伝説や昔話はそのことを物語っています。と同時に生きること、生命の大切さを強く願っているのだと思います。

浅子──どのように作品を見る「目」を養っていくかという話に戻るのですが、坂本さんの生い立ちを聞くに、そこにはつねに学校や地域に馴染めなかった者としての、いわば「よそもの」としてのまなざしがあったと言えるのではないでしょうか。

坂本──盛岡から若い時にやって来て、八戸の地域のもっている、人々の厳しい生活、魚市場、海辺で働く人々の活気、歴史、伝説などの----そこに住みついている人々とはまた違った----強烈な人間の生活にめざめたのが出発点でした。だからこそ、子どもたちの個性を大事にする美術の自由な表現を教えることができたのでしょうね。砂漠でも地下を深く掘り下げると、ここの井戸にも遠方の村の井戸にも共通の地下水が流れていると言います。美術教育、版画教育も井戸のように子どもたちと深く深く掘りました。やがてファンタジーを含む、世界共通の水、平和への願い、人と人とが温かく手をつなぐ心に到達したのです。
1911年に捕鯨会社が八戸の鮫町に事業所をつくりました。鯨の解体の時に血が流れ、魚が取れなくなるというので、漁民たちが暴動事件を起こしました。それを題材にした版画を、子どもたちと共同制作したことがあるのですが、当時、上の人から「お前が子どもたちにこういう題材を指導したことはよくない」と注意され、作品は一枚しか刷れませんでした。ハンガリーのブタペスト大学教授のマリア・セイカチさんが私に会いに来たときにどうにもこの版画がほしいと言われ、差し上げました。その版画は現在、ハンガリーのブタペスト大学にしか存在しないんです。けれどマリア・セイカチさんの日本の子ども版画の紹介の著書にもこの版画は図版として収められています。これはひとつの例です。このほか、子どもの作品は版画ですから、世界中に迎え入れられ伝えられました。そしていま、子どもの版画の生まれ故郷に戻ってきたとも言えます。そしていま、八戸の美術館でこのように大切に迎え入れてくれました。ありがたいことです。


201712

連載 学ぶこととつくること──八戸市新美術館から考える公共のあり方

第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割
第5回:YCAMの運営に学ぶ
地域とともにつくる文化施設の未来形
第4回:学ぶ場の設計から学ぶ──
ラーニング・コモンズと美術館
第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方
第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践
第1回:森美術館からの学び
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