第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方

田村友一郎(アーティスト)+服部浩之(インディペンデント・キュレーター)+山城大督(美術家)+西澤徹夫(建築家、西澤徹夫建築事務所主宰)+浅子佳英(建築家、タカバンスタジオ主宰)+森純平(建築家、PARADISE AIRディレクター)

建築的アプローチによる制作

西澤徹夫──「八戸市新美術館」は展示室をつくって終わりというものではありません。新美術館のプロポーザルでは、八戸市が所有する美術作品を収蔵、展示するだけでなく、地元に根ざした風俗文化を取り上げて、それらを現在の状況に位置づけていくことの可能な施設であることが求められていました。八戸市は、デコトラやB級グルメなどの発祥の地とも言われていますし、種差海岸などの景勝地もあります。そこでわれわれは、そういった文化資産を、調査研究し、記録し、展示する拠点として新美術館を捉えることを提案(pdf)しました。「ラーニング」をキーワードに、アーティストやキュレーターを中心にしながらも、活動のプロセスを八戸市のみなさんやその活動に関わる有志、スタッフを交え双方向的に学ぶ場にしたいと考えたのです。展覧会をどうつくるか、地域資源をどう活用するかが重視される八戸市新美術館では、リサーチ、制作、展示、ドキュメントというプロセスが、やはり重要になるのだと思います。
本日はその前提を踏まえて、現代美術の現場で活動されているお三方にお越しいただきました。「10+1」の読者のなかには、みなさんの活動をご存じない方もいらっしゃると思いますので、まずは自己紹介をしていただきながら、お話を伺っていきたいと思います。

田村友一郎──最近では自分が何者なのか自ら名乗ることはしていないのですが、やっていることは建築なのではないかと思っています。

一同──ええー、建築ですか!?

浅子佳英──田村さんの真意はおいおい聞いていくとしましょう(笑)。お三方の場合、いずれも招かれた場所を訪れ現地で参加者を募ったり、歴史や地理をリサーチし組み上げたりしていくような作品あるいは展覧会をつくっており、他のアーティストやキュレーターと比べ、リサーチとドキュメントに特異な部分があるように思います。まずはこの2点についてお話ししていただけますか?

山城大督──自分は美術家、映像ディレクターという肩書きで活動をしています。ときにはドキュメント・コーディネーターとして仕事をすることもあります。個人で作品を制作するほかに、中崎透、野田智子とともにNadegata Instant Party(以下ナデガタ)というユニットとして作品を発表しています。
まずは建築や都市と関わるナデガタの作品をいくつか紹介したいと思います。ユニットでは、主にはいろいろな地域を訪れ、人々とのコミュニケーションを通じて起きる出来事自体を作品化していくような活動を行なっています。依頼を請けて訪れることが多いのですが、その場所でどんなことを起こせばいいのかを数カ月から年単位でリサーチしていきます。場所柄だけでなくスタッフの方の人柄もリサーチの対象となります。いま現在その場所や地域が空間としてどのように生きているか、街のみなさんとコミュニケーションをとることで知っていきます。
たとえば、服部君が担当学芸員だった《24 OUR TELEVISION》(国際芸術センター青森[ACAC]、2010)では、24時間だけ開局するインターネット・テレビを、青森市の街の人たち総勢100人と1カ月かけてつくりました[fig.1]

fig.1──Nadegata Instant Party《24 OUR TELEVISION》
(国際芸術センター青森[ACAC]、2010)
写真提供=Nadegata Instant Party

山城──静岡県袋井市では《Instant Scramble Gypsy》(2010)というプロジェクトを行ないました。やはり50人ほどの地元のみなさんと、廃墟になっていた洋裁学校を改装して、1カ月だけオープンする「どまんなかセンター」という公民館にしました[fig.2]

fig.2──Nadegata Instant Party《Instant Scramble Gypsy》(2010)
写真提供=Nadegata Instant Party

山城──「開港都市にいがた 水と土の芸術祭2012」に参加したときには、新潟市50人のみなさんと保育園の跡地に陶芸窯をつくる《ONE CUP STORY》というプロジェクトを行ないました[fig.3]

fig.3──Nadegata Instant Party《ONE CUP STORY》(2012)
写真提供=Nadegata Instant Party

山城──こうした作品の場合、プロジェクト終了後も建物が運営されたり、プロジェクトを通じて生まれたコミュニティが続いていくものがあります。全国に10カ所くらいあるのですが、僕たちも各地に1年に1度くらい訪れて、みんなでいっしょにご飯を食べたりしています。イベントが行なわれていれば、作家としてではなく、個人として参加するので、そうなるともう自分たちの作品という認識は薄れています。建築家と似ているところがあるかもしれません。建築家の場合、自分の建てた建物であっても、そこで起きていることまでを、作品だとは考えないでしょう。意図的にそうしようと思ったわけではなく、人々の人生に関わることで作品が生まれている側面があるので、だからこそその後もコミュニティが続いていっているのではないかと思います。

服部浩之──現在は美術館などには所属せずにインディペンデント・キュレーターとして活動しています。
もともとは建築学科で設計の勉強をしていました。散歩をしたり風景を眺めるのが好きで、風景を見ることやつくることに関わりたいと思い建築を選択しました。僕が学生だった2000年前後の東京ではいくつかの大規模な再開発が進んでいたのですが、なんとなくそれを推進する側にはまわりたくないという思いがありました。そんなときに赤瀬川原平さんや藤森照信さんの路上観察学会の活動を知ったんです。都市の風景を眺めるなかで、普段見過ごしてしまうものに可笑しみを発見し、名付けることで価値を転倒させる。美術ってすごいと衝撃を受けました。それらを知ることで、都市計画の授業で耳にしていた今和次郎や彼の考現学による観察し記録することで社会や生活を描出する活動のおもしろさに改めて気づきました。この二つが、建築から現代美術へと興味が向かったきっかけとなっています。東京以外の街に住みたいという望みもあって、山口県美祢市(当時は美祢郡秋芳町)にある秋吉台国際芸術村というアーティスト・イン・レジデンスを中心とした施設で企画担当の職に就きました。世界各地からやってくるアーティストと、ある一定期間に深い関わりをもち、いっしょに未知のものを探りつくっていくアーティスト・イン・レジデンスは、僕が美術の現場に入るきっかけとしては合っていたと思います。

山城──じつは服部君とちょうど同じ時期に、山口情報芸術センター[YCAM]でエデュケーターとして勤務していたんです。図書館、映画館、劇場、ギャラリー、ラボを有する、山口市が運営するアート・センターです。YCAMがニュー・メディアを扱う場所ということもあり、一般にはわかりづらい表現の作品も多いなか、エデュケーターとは、作品の解説をしたり、いっしょになにかをつくったりしながら、そういった作品群と山口市のみなさんとを結びつける役割を担う仕事です。たとえば「meet the artist」という、公募で集まってきた人たちとアーティストが一緒になって1年かけて作品をつくるシリーズでは、作品を提供するアート・センターとたんなる鑑賞者という関係ではなく、人々をアート・センターに巻き込んでいくようなことが起こっており、そのことを身近で体験できたことは大きかった。
このころ服部君と同じ家に住んでいたんです。YCAMでは地元山口出身ではない人たちがたくさん働いていたので、そういった人たちや、「meet the artist」に参加したみなさん、さらには近所の人たちを招いて飲み会をよく開いていました。そのうちにナデガタの中崎君が「Maemachi Art Center」(MAC)という名前をつけ、僕たちが家でやっていることを概念化したんです。遊んでいただけのつもりだったのですが、概念化されると初めて訪れた人でも参加しやすくなるようです。気がついたらGoogle Mapに「Maemachi Art Center」と表記されていたほどです(笑)。そうなると「服部と山城の家に遊びに行こう」ではなく、「きょうはMACでなにかがあるらしい」というように、みんなが概念を利用し始めるようになるんです。
ちょうどナデガタの活動を始めたころでもあったので、YCAMに来るアーティストの方たちが毎日遊びに来たりして、公立のアート・センターでは絶対にできないようなイベントが、MACで開催されていたのだともいえます。

服部──僕たちが住んでいたのは縁側のある家で目の前に小川が流れていました[fig.4]。川辺から子どもや猫がふらふらと縁側に入ってくるようなこともありましたね。普段から家に鍵をかけないなど、僕らがわりと適当な人間だったこともここが開かれた場所となった要因のひとつではあるのですが、同時に前に川が流れていたり縁側があるなど、建物や環境が潜在的に外へと開かれやすい開放性を備えていたことも大きいと思います。目の前の小川に川床をつくってパーティをしたことがあって、それはまさにこの場所の潜在的な開放性をもう一段階先へと進める経験でした。隣家と隔てる境界線でもあった小川に川床をかけることで、そこは境界から結節点へとかわり、予期せぬ来訪者を迎え入れるコミュニケーションの場となりました。MACでの暮らしは、人との関係や場の設計を実践的に学ぶ機会だったようにも思います。その後、やはりアーティスト・イン・レジデンスを行なっている青森公立大学国際芸術センター青森[ACAC]の学芸員になりました。

fig.4──「Maemachi Art Center」
写真提供=服部浩之

西澤──青森でもMAC(Midori Art Center)をつくっていらっしゃいましたね。

服部──はい。山口で独自の場をもつことのおもしろさを実感するとともに、公共文化施設の限界みたいなものも感じていました。大きな資金と施設があるからこそ実現できることがあるのはもちろん理解しているのですが、それには長い時間がかかります。当時は、ぱっと思いついたことを瞬発的に柔軟に実践できる場所や環境を求めていたんだと思います。展覧会というフォーマットではないところで「なにかが起きること」をつくりたいと思ったときに、プライベートな空間ではあるんだけど、少しパブリックに開かれたMACのような場が、すごく有効に機能すると考え、青森でもMACをつくったんですね。
自分にとって「場所」や「状況」はものごとを考えるときに重要な要素です。それらと切り離して展覧会をつくることはできません。そういう意味では建築と似ている。与条件はなにかを考えたうえで、状況に対してアクションを起こしていく。それが僕にとってキュレーション実践の基礎になっています。

田村──服部君や山城君に倣うわけではありませんが、冒頭で言ったように僕も建築的なことをしていると思っているんです。どういうことかというと、与えられた展覧会のテーマ設定に対して最適値を返す──依頼されて作品をつくる──ということをしているからなんですね。
こういうことをする以前は、出版社で社員カメラマンをしていたのですが、そのときの仕事の仕方とそうは変わっていません。雑誌であれば、企画のテーマがあります。そして担当の編集者がおり、自分の担当するページ数が決まっている。担当者の求めに応じた内容で、ページ数に対して想定される必要な枚数とバリエーションの写真を撮っていく。

服部──田村君は、自分から能動的に作品をつくるというより、問題を投げかけられてからリアクションをしていくタイプの作家ですよね。

田村──そうですね。出版社の社員カメラマンの場合、さまざまな被写体や撮影の条件に広く対応することが求められます。そのときの経験がバックボーンとしてあるのだと思います。


201801

連載 学ぶこととつくること──八戸市新美術館から考える公共のあり方

第6回:MAT, Nagoyaに学ぶ
街とともに歩むアートの役割
第5回:YCAMの運営に学ぶ
地域とともにつくる文化施設の未来形
第4回:学ぶ場の設計から学ぶ──
ラーニング・コモンズと美術館
第3回:美術と建築の接線から考える
美術館のつくり方
第2回:子どもたちとともにつくった学び合う場
──八戸市を拠点とした版画教育の実践
第1回:森美術館からの学び
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