第3回:感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し
建築を情報の観点から再定義しその体系化を目指す建築情報学会。その立ち上げのための準備会議が開催されている。「10+1 website」では、全6回にわたってこの準備会議の記録を連載。建築分野の内外から専門的な知見を有するゲストを招き、建築情報学の多様な論点を探る。連載第3回は、木内俊克氏がモデレーターを務め、身体論や人工生命の専門家をゲストに迎えて「感性の計算」をテーマに議論する。
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イントロ──コンピュテーショナルデザインの諸相と、なぜ「計算的に眺める」のか
木内──私は個人で設計事務所をやりながら、東京大学でデジタルデザイン、コンピュータを使った建築設計の研究と教育に携わってきました。今回の建築情報学会キックオフ準備会議では「感性の計算──世界を計算的に眺める眼差し」というタイトルを掲げました。いまは建築情報学会で実際にどんなトピックを扱うかを模索している段階ですが、前回は「BIM(Building Information Modeling)」についてプラクティカルな観点からの議論がありました。突き詰めていくとコミュニケーションの問題なのではないかというような結論が、非常におもしろかったところです。 今日、ゲストとしてお呼びしているのが、伊藤亜紗さんと土井樹さんで、それぞれ美学、身体論と人工生命の研究をされています。建築とは直接の関係はありませんが、あえて外側から話をしていくなかで、建築情報学のトピックを考えていきたいと思っています
。導入として、コンピュテーショナルデザインと建築という単位の失効ということを考えてみたいと思います。建築においてデジタル技術が具体的にしてきたことを端的に言ってしまえば、機能・構造・エネルギー・資源といった各種効率の最適化だと思います。1990年代以降、計算機により制御可能なシステムやネットワークを用いてそれを実現し、ひとつのビジュアルシンボル、有機的形態にまとめ上げることが目指されてきました。
例えば、グレッグ・リンによる有名な《Embryological House》(1997-2001)は、パラメータを調整していくことで、さまざまな要請に応え、最適化されたものを生み出していくマスカスタマイゼーションを標榜していました。こうしたプロジェクトは当初コンピュータ内だけで行なわれてきましたが、徐々に現実世界とつなぐデジタルファブリケーションや3Dスキャニングといった技術が発達してきます。象徴的だったのは、1997年に開館した《ビルバオ・グッゲンハイム美術館》で、その後、エンジニアリング会社「ゲーリー・テクノロジーズ」によって世界中で特徴的な形態をつくる技術が展開されていきます。同時に、構造エンジニアリングの台頭として、例えば佐々木睦朗さんが手がけた有機的な形態を持った磯崎新《フィレンツェ新駅(コンペ案)》(2002)があり、《カタール国立コンベンションセンター》(2011)として実現していきます。
一方で何よりもインパクトがあったのは、「ナリッジの蓄積」です。これは砂山太一さんが『10+1 Website』で2017年に書かれた内容を参照していますが、デジタル技術がある特定の人たちのなかに蓄積されていっただけではなく、具体的に言えばRhinoceros+Grasshopperの普及によって、オープンカルチャー化したことが世界中の設計の仕方を大きく更新していきました。Rhinoceros上でさまざまなタスクのために世界各地で書かれたプログラムが、大量にインターネット上に転がっているという状況は非常に重要なことです 。
マリオ・カルポという建築史家は『アルファベット そして アルゴリズム: 表記法による建築──ルネサンスからデジタル革命へ』(鹿島出版会、2014)で、一つひとつの建築をつくること自体よりも、建築を生み出すためのプログラムや一連の過程を誰がどうつくるのか。その原作者になるのか、あるいは書かれたプログラムを使う側に回る(「インタラクション」する)のかという、2つのタイプの設計者について言及しています
。そうした状況の進行と並行して、「Search, don't sort.」、つまり整理するのではなく、とにかくデータを全部突っ込んで、そこに接続できる状態があれば構わない、そのなかを検索するのだというGoogle的な創作態度も出てきます
。そうなると、建築単体をどうつくるかというよりは、計画・生産施工・使用の過程・群れ・時間的広がりのなかにどう入っていくのか。また、ロボットやモビリティ、要素技術などをつくっていくことが建築が取り扱うべき問題となってきます。こうしたことが技術から見たいまの建築の状況です 。ここで従来の建築設計の分野に目を向けると、こうした技術の動向と、建築をどうつくるかではなく、どう使うかという問題が取り沙汰されるようになってきた時期がちょうど重なっていることがわかります。乾久美子+東京藝術大学乾久美子研究室による「小さな風景からの学び」展(2014)では、日常的な風景を大量に撮影し、分類をするだけで、建築的なモデル化などはなされていません。これは使うという行為が本質的に発見や創造に満ちていること、したがって「なぜ使われるのか」を徹底して即物的に観察すれば、つくることも使うことの一部として位置づけられる事実を明らかにしたものでした。つまり、「何をつくるのか」や「なぜつくるのか」を環境から読み取ること自体がデザインであるし、そうした読み取り方を方法として提示できれば、単体の建築にとらわれずとも、広範な環境の使われ方を一気に変革できる可能性が示唆されたわけです。そこでは人が環境を読み込み、使うメカニズムそのものの把握がきわめて重要なファクターになってきます
。こういったことを考えていく時、「感性」は非常におもしろいアプローチです。『感性工学ハンドブック』の定義によると、感性fは「e = f(s)」、つまり「知覚s(インプット)を表現e(アウトプット)に対応づける関数」であり、個々人によって異なるものとされています。また「すべての人間活動は開放系であり...(中略)...外部からの影響(外乱)によって関数 f は変化し、その結果われわれの行動が決定される」とあります
。これまでは対象の範囲を限定したうえで実験ベースのものはありましたが、昨今は「人工感性(特に人工意識)」によって、認識系のはたらきを「模倣」して「使ってみる」プロセスのなかで感性とは何かを探っていくアプローチが出てきているのがおもしろいところです。今回私は、建築や都市の領域においても、つくる行為と使う行為の連動自体を運用していくなかで、いかにわれわれがインタラクションするかというアプローチがあるのではないかと考えています 。「世界を計算的に眺める眼差し」は、以上の議論を進めるための仮説的な枠組みとして設定しました
。「計算的」とは、何かを使ったり、つくったりする手続きが、仕組みは理解できなくても、プロトコル化し、運用でき、繰り返せる状態を指して用いています 。「歩く」行為ひとつをとっても、どうそれが実現されているのか、細かな身体の仕組みはわからないまま日常僕らはそれを繰り返し運用しているという点で、前述の意味での「計算的」な研究をしている分野が、美学における身体論ではないかと推論し、まず伊藤亜紗さんにお話しいただきます。
一方、「見る」のではなく「眺める」とは、複雑で多量な入力情報を切り捨てない、限定しないで、とにかく並べておくということです。そうした多量のデータの「眺め」方として、データからパターンが紡ぎ出されるメカニズムを取り扱っている人工知能や人工意識の研究、さらに人工生命における生成的アプローチの研究をしている土井樹さんにお話を伺います
。- 木内俊克氏
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