都市空間における「肯定的共鳴」

カロリン・バードソール(アムステルダム大学)
Carolyn Birdsall『Nazi Soundscapes:
Sound, Technology and
Urban Space in Germany, 1933-1945』
(Amsterdam University Press, 2012)
『Nazi Soundscapes』では、さまざまな種類の音、そしてそれらの間に生じる緊張関係を分析することによって、音がどのようにして都市のサウンドスケープのなかに折り込まれ、また再構成されたのかについて論じている。ドイツの「国家社会主義」とその音響的イコンに関するクリシェから完全に離れることは難しい。しかし、本論は、(媒介された)音、聴取体験、そして都市空間の接点に関心を向けることで、20世紀初頭のドイツにおける社会的・文化的生活のなかでの音の重要性をあぶり出すことを試みる。最優先されるのは、近代的な音の技術が、聴取体験と都市空間の形成に担った役割を把握することである。都市空間に焦点を合わせることは、聴取と音の生産が行なわれる条件、そして音に影響を及ぼす空間的性質に関心を向けることを意味する。したがって、文化的・歴史的特異性など、空間中の音に関する文脈は随時紹介していくが、それと同時にこれらの音事象の情動的および記号論的側面にも脚光を当てていく。

〔...中略...〕

ナチスのプロパガンダ手法における視覚的・テキスト的要素の機能は、学術的に大きな注目を集めてきたが、ここで試みるのは、公式行事における「神話」の大衆化および正規化に関する音の役割を特定することである。この視点は、国家社会主義政権による、都市を空間的に組織し専有することを目的とした、1920年代と30年代の取り組みに関する考察を促す。公共的・社会的空間をめぐる争いには、多くの場合暴力が伴ったが、市民の注意と参加を求めるために、感覚的訴求力を実現することを目的とした身体的・音響的戦略も展開された。そして、都市空間を音で満たす政治的取り組みは、街のなかに「共鳴(resonance)」を生むという原理に基づいて行なわれた。

都市空間の共鳴は、通常道路沿いの壁やその他の表面が音を反射させることによって生じる、音の増幅を介した高い音響レベルを伴うことが多い★1。音響研究者のジャン=フランソワ・オーゴヤール(Jean-François Augoyard)とアンリ・トルグ(Henry Torgue)は、「共鳴」という概念が特定の身体部位(例えば内耳の振動や声路など)の形成する共鳴系から、権力に関する理論まで、幅広く応用できることを指摘している。ふたりによると、共鳴する音、あるいは残響は、歴史的にも「距離を超えて存在感を示すための力」を示すものとして捉えられてきた(「共鳴とは、音の権力によって象徴される、強さの神話である」★2)。そして、定期的に発生する音でさえも、大気条件や音を反射する表面に左右されるため、共鳴は本質的にある時と場所に特有なものである。この「共鳴」という概念は、「聴覚的想像力」★3への訴求をベースにした都市の美的占有を可能にするための、音響的存在感を確立するという政治的戦略を紐解くうえで、有用な枠組みである。この「共鳴」の第2の要素は、ナチスの行事に出席する群衆のさまざまな聴取的、発声的、身体的参加である。この参加こそが、「肯定的共鳴」★4の共同的創造につながった。このような聴覚的体験の現象学的な次元を明らかにしていくことで、大規模な行事や、アルベルト・レオ・シュラゲーター(Albert Leo Schlageter)のようなナチスがつくり上げた「殉教者」の記念式典における、個人的な、そして間主体的な側面に光を当てる。

〔...中略...〕

ドン・アイディ(Don Ihde)の「聴覚的想像力」という概念を拡張し、身体政治と共同的空間における実践の観点を組み込むために、「肯定的共鳴」という概念を提案したい。通常「共鳴(affirmative resonance)」という言葉は、特定のシステムや範囲内での振動の頻度や、音の豊かさ、多様性、高まり、そして人々が引き起こす反応などを指す★5。しかし──ある種の楽観性、同意、もしくは何らかの大義や人の支持を示唆する──「肯定的」という言葉と組み合わせられた時、「共鳴」はより明確に社会的・政治的文脈に位置づけられる。ここでは、「肯定的共鳴」をひとまず「人の集団が共同で空間に共鳴する音を発し、集団とそのアイデンティティの正当性を強化する実践や事象」と定義しておこう。この現象は、複数の人間の声、歌の合唱、音楽の演奏、録音・音響伝送技術による増幅など、その現われ方によって違った特性を帯びる。さらに、「肯定的共鳴」は、直接的な音響的存在感から、公共言説やポピュラーカルチャーにおいて行使される音響的シンボルまで、実際に聞こえる音だけでなく想像された音に引き起こされることもある。それは聴取者の声、耳、身体をさまざまなかたちで関与させ、主に都市の公共空間で体験されるが、特にメディアの利用を通して家庭の領域で生じることもある。

ナチスの初期の政治的戦略は、都市空間と社会的想像力のなかで音響的存在感を現わすことであり、「肯定的共鳴」の実現は1933年以降に大規模な群衆を集め、ラジオ放送などのメディアを利用できるようになったことが必須の条件だった。公式行事における群衆の大きな歓声は、発声・聴取の個人的なフィードバックループの肯定だけでなく、マイクが拾い、スピーカーシステムから発せられ、そしてまたマイクに拾われる音の増大をも引き起こした。このフィードバックのプロセスは、ナチス政権による「肯定的共鳴」の試みの示唆に富んだ一例である。しかし、それは問題なく実現されたわけではなく、しばしばロジスティック的な課題や機器の機能不良に妨げられた。

「肯定的共鳴」の概念は、1920年代中旬から33年にかけてのナチスのプロパガンダ戦略の熾烈さと効果の高まりを考えるうえでも有効である。1925年以降、巨大な行事を開催するという欲望は、ナチスを大衆的な政治運動に生まれ変わらせるという目的と密接に関連していた。本論は、この時代の音の戦略を分析していくことで、個人的な「聴覚的想像力」を刺激する試みから、より包括的な「感覚的圧倒」を目指す取り組みへの全体的な移行をたどっていく。最終的に求められた大規模な「肯定的共鳴」の手法は、偏在と不可避の印象を生むための戦略として追求された。

〔...中略...〕

1930年代には、都市景観の専有と、媒介された音の公共の場への統合がかつてない規模で行なわれた。特定の行事をサウンドスケープに組み込み、長い期間を通して持続させる戦略の例として、1936年の選挙前に行なわれた準備は示唆的である。1936年3月、引退生活を送っていたデュッセルドルフのアーティスト、アルバート・ヘルツフェルト(Albert Herzfeld)は、地元の新聞がヒトラーの講演を告知したことに対する驚きを日記に綴った★6。このラジオ講演において、ヒトラーはベルサイユ条約の規定を起因とするドイツの不当な状況を強調し、不可侵条約を結ぶ意欲を示した。その数時間後、ラインラントを再占領する決断の一環として、ドイツ軍がケルンのホーエンツォレルン橋を渡ったというニュースがラジオで大々的に放送された。さらにその後、2日間にわたってすべての公共施設と個人住宅に旗を掲げる指示と、選挙が3週間後に行なわれるという告知が告げられた。こうして、ドイツ軍による再占領は、祝祭的な選挙プロパガンダと相まって、数週間にわたってチラシ、ポスター、ラジオの講演、告知を行なうために新設されたスピーカーなどによって、文字通り街を覆い尽くすこととなった。

選挙が行なわれる週末には、象徴的な演出が行なわれたことをヘルツフェルトが記録している。それによると、1936年4月20日の新聞には、エッセン市のクルップ工場においてヒトラーがドイツの全労働者と兵士のための講演を行なうという告知が掲載された。その手順は、次の通りだった。まず午後3時45分に、ラジオで旗を掲げるアナウンスが放送される。この指示の直後に、すべての公共施設、事業所、家で旗が掲げられる。そして、その15分後にクルップ工場でサイレンが鳴らされ、総統の講演の開始を告げる。

エッセンのクルップ社の建物からのけたたましい音とともに、ドイツのすべての工場、船、電車がサイレンを鳴らす。その後、1分間にわたって国中の交通が止まり、国民が沈黙をささげる★7

この1分間の沈黙は、国民の結束とヒトラーのいわゆる「平和政策」への支持を示すものとされた。その翌日、4月28日土曜日は、「ドイツ国民の栄誉、自由、そして平和の日」が祝われた。午後6時半からは、街を埋め尽くすかのような数の人々が、選挙前最後のヒトラーの講演を聞くために、共同の聴取所に向かった。午後7時45分からは、党員が集結し、編隊を組んで行進できるように整列した。その後、ケルンの展示場から発信されたヒトラーの「平和の訴え(Friedensappell)」への序曲としてケルン大聖堂の鐘が鳴らされた。その後の報道によると、講演後に参列者全員が「古きオランダの感謝祈祷(Altniederländische Dankgebet)」の合唱を始め(anstimmen)、それにドイツ国民全員が加わった(einstimmen)という。「神よ、我らを自由にしたまえ(Herr, mach uns frei)」というこの歌の最後の節はドイツ全土に響き渡ったとされている。歌の開始から15分間、「ドイツ国民の栄誉、平和、そして自由」のために教会の鐘が鳴り続けた。

この選挙前の儀礼には、複数の興味深い側面が確認される。サイレンは、放送源であるケルンで鳴らされただけでなく、工業地帯や道路など、全国のサイレンによって強化された。この聴取体験においては、ラジオからの音が国中に反響する音と調和し、さらにその共同的性質が街に散らばる公共聴取所によってより強調された。ラジオの放送は、ザール地方の軍事的再占領を記念するために用いられたことによって、ラインラントの音響的象徴としての大聖堂の鐘の存在をさらに強めた。同時に、「感謝祈祷」などの宗教的シンボリズムのアプロプリエーションは、軍事的行動にさらなる正当化をもたらした★8。そして、「anstimmen(歌い始める)」や「einstimmen(歌に加わる)」など、音に関する言葉には、「zustimmen(合意する)」と明らかなつながりが存在する。これは、ヒトラーのラインラントにおける存在感と街路の軍隊の存在感を通して、国の選挙と外国の軍事的占領からの自由との接続を演出した、都市空間の占有の好例である。

選挙の翌日は、すべての大都市において、99%の得票によるヒトラーの勝利を祝う、たいまつ行進や音楽の演奏や講演が行なわれた★9。つまり、1930年代の大規模な党の儀式は、ヒトラー政権による音響的存在感と象徴性への依存度の著しい高まりを示している。そして、これらの組織化された緊張感、感覚的刺激、そして発声的・身体的参加の形態は、大規模な「肯定的共鳴」の実践として捉えることができる。ナチスの大規模行事における感覚的関与と規律訓練は、「音による支配」の手法を利用する儀式が、権力と快楽の双方を伴うことを思い出させる★10。発話・聴取のフィードバックループによる音響的想像力の拡張は、掛け声としての「ハイル・ヒトラー」の通俗化に顕著に現われている。ナチス式敬礼は、1920年代には、党員の集団アイデンティティの強化に寄与し、一般人に対して党の魅力を高める効果があった。1933年には、この掛け声は肯定的な呼びかけと反応を生じさせ、集団的なまじないのように、圧倒的な帰属感を誘発し、特に大規模な行事の際には、形式化された発声的・身体的行動を通して身体の政治性を動員した。

「肯定的共鳴」とはつまり、現地での存在感や想像力への訴求を目指した1920年代の手法から、空間の占有、音響的偏在、そしてコミュニティの形成を組み合わせた手法への移行を示す、大衆説得の手法と捉えることができる。さらに、この概念は、身体の空間的な組織化から音を通した都市空間の律動的な秩序化への移行、つまり大規模な儀式への地理的拡張をも把握することを可能にする。それは、視野を超えて都市空間に反響する性質を前提として、音がいかにして特定の政治的目標を確立するために使われ得るのかを気づかせてくれるのだ。



翻訳=松山直希

Nazi Soundscapes: Sound, Technology and Urban Space in Germany, 1933-1945. Amsterdam: Amsterdam University Press, 2012. 30-35頁および61-63頁の抜粋を著者本人が本特集に向けて加筆修正。Amsterdam University Pressの許可を得て翻訳・掲載。


★1──合理化されたファサードの近代的な建物は、音波を回折させることが多い古い建物よりも音を強く反射する。Augoyard, Jean-François, and Henry Torgue, eds. Sonic Experience: A Guide to Everyday Sounds. Trans. Andra McCartney and David Paquette. Montreal: McGill-Queen's UP, 2005.
★2──同書、108頁。
★3──Ihde, Don. Listening and Voice: A Phenomenology of Sound. Athens: Ohio UP, 1976.
★4──「肯定的共鳴」という表現は、ナチス時代の音響技術に関する議論で、メディア研究者コーネリア・エッピン=イェーガー(Cornelia Epping-Jäger)によって初めて用いられたが、エッピン=イェーガーは概念の理論化には着手していない。Epping-Jäger, Cornelia. "Embedded Voices: Stimmpolitiken des Nationalsozialismus." Phonorama: Eine Kulturgeschichte der STIMME als Medium. Ed. Brigitte Felderer. Berlin: Matthes, 2004. 145-57.

★5──例えば、Websterの『Third New International Dictionary of the English Language, Unabridged』(1986)を参照されたい。
★6──Herzfeld, Albert. Ein nichtarischer Deutscher: Die Tagebücher des Albert Herzfeld 1935-1939. Ed. Hugo Weidenhaupt. Düsseldorf: Triltsch, 1982.

★7──同書、55頁。
★8──ケルン大聖堂の鐘の音を電気音響学的に録音し、発信する試みは、すでに1924年に行なわれており、1927年には大聖堂内にマイクとスピーカーシステムが設置された。鐘のシンボリズムは、1926年1月31日のフランス軍の撤退時に鐘の音を放送した西ドイツのラジオ局によって確立された。この事件は、全国配信のメディア事象として過度に祝福されたが、後に屋外放送技術に問題があったことも明かされている。Göttert, Karl-Heinz. Geschichte der Stimme. Munich: Fink, 1998: 426-9; Eckert, Gerhard. Der Rundfunk als Führungsmittel. Heidelberg, Berlin and Magdeburg: Vowinckel, 1941: 23-4, 233.
★9──1938年3月後半、4月10日の選挙を前にして、大きなポスターが街路や家に張り出され、似たような準備が行なわれた。選挙の1週間前、ヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)がデュッセルドルフで講演を行ない、その内容は街中に設置された30機のスピーカーから同時放送された。選挙の前日、4月9日土曜日、正午に2分間の沈黙がささげられ、その後サイレンと教会の鐘が鳴らされた。その夜、ヒトラーによる90分間のラジオ講演が放送され、放送は「古きオランダの感謝祈祷」で締めくくられた。選挙結果が発表された後、99%の得票による勝利を祝うために教会の鐘が鳴らされ、ライン川の岸で大規模な花火の打ち上げが行なわれた。Herzfeld, 1982: 93-7.
★10──ジュリアン・エンリケシュ(Julian Henriques)は、ジャマイカのレゲエ・サウンド・システムの考察を通して、「音響的支配(sonic dominance)」の概念を案出している。ここでは、エンリケシュの動的でクリエイティブな活動としてではなく、権威主義的な力関係や都市空間における身体政治の実践を指すために概念を用いている。


カロリン・バードソール(Carolyn Birdsall)
アムステルダム大学、メディア・スタディーズ准教授。主著『Nazi Soundscapes』(AUP、2012)は、「ASCA Book Award 2013」を受賞。2016年より「ASCA Cities Project」のディレクターを務め、オランダ科学機構から資金提供を受けて、紛争の歴史と遺産を複数国間で比較する「Mapping Transnational Conflict Heritage」(2019-2023)を率いている。現在は、ラジオが戦争、占領、再興などの状況下で、どのようにアーカイブ、流通、再利用されたのかを研究しており、その関連で日本におけるNHKの歴史も調査している。


201809

特集 サウンド・スタディーズ
──個と集団を結ぶインフラストラクチャー


公共性の音──イントロに代えて
音を通して考える──あるいは公共性からのオプトアウト
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ショッピング・モール──ミューザック、誤聴、そしてフィードバックの生産的な不安定さ
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