《イエノイエ》と「外形問題」
モダニズム建築と「無いもの」としての外形
建築は外形を持つ。これはあたりまえのことだ。「外形のない建築」といったレトリックが可能なのも、単体の建築が外形を持っていることの自明性があってのことだ。そしてある意味で「外形をなくす」ことに最も成功したのがモダニズムの建築である。理念上無限に続くはずの等質な空間は、格子状のフレームとして表象され、あくまで仮の境界としてのカーテンウォールがその四角い外形を形づくる。しかしこれは「無いもの」としての外形なのだ。あるいは無限に積層する床として想像された均質空間の概念は、いわゆる積層建築として形式化され世界的に広まっている。この場合外形を規定する「屋根」に相当する部分はあくまで無限に続く「床」であるはずで、フラットルーフが要請されることになる。ところでこのフラットルーフというものは機能的にはあまり合理的とはいえない。雨仕舞いという観点からすれば屋根に勾配があるのは自然なことであって、水はけが良いほうが当然雨漏りの危険も少ない。フラットルーフといっても完全に勾配が消え去るわけではなく、視認できない程度の微小な勾配にそれを還元するだけである。フラットな屋根の上には雨水ドレーンにスムースに水を導く目に見えない微小な地形が広がっているのだ。それは即物的な合理性の産物というよりは、「外形をなくす」ことを要請する理念の産物だといえるだろう。《イエノイエ》における屋根はこうした要請を括弧に入れた結果である。
内部と外部の新しい関係
誤解を避けておきたいのだが、ここで僕はフラットルーフ一般、四角い外形一般を批判したいのではない。条件によっては「外形」としての四角が適切であると判断されるときもあるだろう。また四角い形への新しい解釈に基づいた新しい空間の可能性も排除したくはない。とはいえ、モダニズム的な「外形のなさ」がもはや有効性を失いつつあるのは多くの人の感じているところだろう。一度は「ポストモダン」としてくすぶって消え、今日いわゆる「アイコン建築」として猛烈な勢いで回帰しつつあるように見える世界的な現象が、「外形」への抑圧に対する反動だとすれば、こうした物思いも無駄ではないと思えてくる。
しかしながら、僕は意味ありげな外形だけを考えているような建築を称揚したいのではない。むしろまったく逆に、どのように内部と外部を関係づけることができるか、というきわめて素朴で本質的な問題を、新しい形で考えたいと思っているのだ。
モダニズム的「外形のなさ」は、等質で無限な拡がりにむかう理念の産物であって、意味的には弱くみえる内外の境界が、その実絶対的な断絶として現象するという結果を生んだ。こうした空間に対応した空調の概念が環境問題という壁にぶつかっていることを考えてもその限界を理解できるだろう。また、たとえば東京という都市で個別の建物の内部を冷房するあまり、街全体の外部空間が暑くなってしまうというばかげた悪循環が起こっていることからも、新しいものの考え方が要請されているのは明らかだといえるだろう。
他方、いわゆる「アイコン建築」は多くの場合、内部に対しては無関心である。超高層的な提案では大抵いわゆる積層建築の方法論がとられる。建物の外形は変わっても成り立ちは変わっていないといえるかもしれない。ポストモダンのときと同じようにモダニズム建築の基盤の上に加えられた装飾のような、表層的なものに感じられる。
「外形」を与えること
私たちは建築に「外形」を与えなければならない。しかし同時に、どのようにその「外形」が表層的なものを超え、ある深度を獲得することができるのかを考えなければならない(当たり前のことだけど)。こうした問題意識の総体を個人的に建築の「外形問題」と呼んでいる。
《イエノイエ》は、きわめて限定された、ささやかなものではあるが、この「外形問題」に応答しようとした試みだった。「外形をなくす」というモダニズム的要請を超え、屋根というものの本性が獲得するある外形性に注目したのである。家型というアイコニックな側面と、屋根という形が介在することによる生活の再編の両方をテーマにした。プロジェクト発表時に多くを書いたのでここではあまり書かないが、「屋根という自然」によって生まれるひだ状の空間によって、複数の人が一緒に暮らす場所のありようをトポロジカルに変容させようとしたのである。思うに私たちの前には、形の生成原理に伴って現われる原初的な意味の広がりと、まだ十分に探求されていない立体性が切り開く生活の再編の可能性がともに開けている。「外形問題」の可能性もそのあたりにありそうな気がしている。
《イエノイエ》©Nacása & Partners Inc. |
都市への接続
ところで諸外国の同世代の建築家たちのプロジェクトと日本のそれを比較すると、日本のものはとても特殊だと感じることがある。必ずしも悪い意味ではないが、良い意味だけでもない。日本の建築は総じて、比較的小さな規模で高度で濃密な試みが行なわれている場合が多い。世界的に見ても恐らくそのレベルはかなり高いのだが、一方で、たとえばヨーロッパの若い建築家たちの、悪く言えば能天気だが、よく言えば非常に勢いのある提案と比べると、自分たちがどのように単に特殊であることから突き抜けられるのか、考えさせられもするのだ。先程、外形だけのアイコン建築は、ある意味で単なる装飾であると批判したが、日本的な文脈を離れれば、これには反論もあるだろう。事実、都市空間における効果という点では、「外形のない」モダニズム建築とは根本的に違ったものが生み出されることは間違いない。それが最悪の結果を招くことも想定されるとはいえ、こうした行為のフィードバックが新しい都市空間のありようを生み出す可能性だってあるわけだ。
《イエノイエ》は、個人住宅の規模のプロジェクトだった。そして僕はそうした小さな規模における関係性の問題が、都市や世界レベルの物事のありよう、あるいは社会といったものに接続すると信じている。しかし、そうした試みが単なる限定された規模でのゲーム的な広がりしか持ち得ないとしたら、アイコン建築を批判する資格などないことになるだろう。そうならないためにも、この「外形問題」の持つ広がりを、もっと大きなケース、都市的な規模のプロジェクトにもきちんと接続していかなければならないと感じている。そしてそうした将来の試みにおいても、《イエノイエ》での試行はひとつの足がかりを与えてくれるはずである。
★1──《イエノイエ》とは、横浜トリエンナーレのインフォメーションセンターとして建てられた、住宅のプロトタイプであり、家型をテーマにして行なわれた住宅の研究会(五十嵐太郎氏の監修でダイワハウスが主催)の成果の発表の場としても用いられた。トリエンナーレの会期終了にともなって、《イエノイエ》の展示もまもなく終了する。
[ひらた あきひさ・建築家]
1971年生。京都大学大学院修了。平田晃久建築設計事務所代表。
京都造形芸術大学、日本大学、東京理科大学非常勤講師。
作品=《House H》《House S》《sarugaku》《Showroom H(桝屋本店)》など。