社会と建築をつなぐ「もうひとつの詩」(吉村靖孝『ビヘイヴィアとプロトコル』書評)
この人はつねに待ち構えているのだ
しばらくして『新建築』が事務所に届いた。パラパラと眺めてみると、僕を含めた建築家全員が当たり前のように進行中のプロジェクトを並べるなか、吉村靖孝のページだけがまったく違った様相を示していた。被災者に向けて、《CCハウス》(著作権を保持しながら同一性保持権を放棄する吉村のプロジェクト)の実施図面を無料配布するというプレゼンテーションをしていたのである。僕はとても驚いた。おそらく震災後わずか数日で、それまで用意していたであろうプロジェクトからこの内容に差し替えたことになる。
その反射神経の早さも凄いのだけど、それ以上に「この人はつねに待ち構えているのだ」と思った。吉村はスタンバっているのである。自分にできることと、社会から求められていることがピタッと合うタイミングをいつも窺っている、彼はそういう建築家だ。あの震災直後の混乱のなかでさえも。
即物性と即時性
ところで吉村が設計した作品の特徴のひとつとして、強い「即物性」が挙げられるように思う。意図はカタチにほとんど直接反映される。建築はわかりやすいものであるべきだという意志。これは彼が在籍したMVRDVの影響だともいえるだろうが、しかし引いて見れば、こうした建築表現における「即物性」は現代建築のひとつの傾向でもあり、彼固有のものとは言えないかもしれない。むしろ彼の固有性は、彼の多くのプロジェクトに導入される建築の「即時性」にあるのではないだろうか。工期を大幅に短縮する一連のコンテナプロジェクト、設計期間の短縮を促進する《CCハウス》、必要なときに必要な大きさの家を提供する《カーサ・プラス》など、施工者/設計者/ユーザーと対象はプロジェクトごとに変わるものの、建築が「規模の経済にアクセスできる可能性」を★1、建築の「即時性」をもって挑もうとしている。建築の時間の捉えかた、導入する時間の種類が、ほかの建築家と明らかに違うのである。また、さきほど「即物性」は現代建築のひとつの傾向などと乱雑にかたづけてしまったが、彼にとっての建築の「即物性」は、建築が「即時性」を獲得するために欠かせない要素なのかもしれない。いずれにせよ現時点において、吉村靖孝は建築の「即物性」と「即時性」を携えて社会に切り込もうとする建築家である、とまずは言えそうだ。
- もともと1 棟の住宅が建っていた敷地に5棟の《CCハウス》を計画(以下図版は本書より)
「ビヘイヴィアとプロトコル」と「ビヘイヴィオロロジー」
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アトリエ・ワン
『The Architectures of Atelier Bow-Wow:
Behaviorology』
日常生活のなかにみられる身体や風や光などの機微、さらには歴史や慣習のなかにも含まれるあらゆる「ふるまい」を空間や建築の文脈に繋げていく。それが「ビヘイヴィオロロジー」である。おそらくこの「ふるまい」には社会のなかに働く力学のようなものさえも含まれうるので、「ビヘイヴィオロロジー」は「プロトコル」まで内包する概念だとアトリエ・ワンは説明するだろう。
- 吉村靖孝『超合法建築図鑑』
詩の不在
ここで指摘したいのは、やや唐突だが、両者における「詩」の所在である。詩によって、ある主体の気づきや驚きやよろこびなどが、人々と共有され、そして人々のものになっていく。それぞれのなかで詩は生き続ける。詩にはそのような、個人と世界を繋ぐ働きがある。もしそれが上手く共有されれば、いつのまにか、もとの主体はスッと後退し、気にならないものになる。しかしそれでも、詩の主体は、確かにある。
さまざまな「ふるまい」に耳を傾け空間を記述していくアトリエ・ワンにとって、建築に詩は欠かせない存在である。塚本由晴は現代における詩の重要性を繰り返し主張している★3。
それに対し『ビヘイヴィアとプロトコル』には、詩がほとんど見当たらないことに僕は気づいた。もともと吉村は文章がとても上手い人だ。同世代では群を抜いている。今回も文体はとても丁寧で(ちなみにLIXIL出版「現代建築家コンセプト・シリーズ」初の「ですます」調)、軽妙な描写を挟みながら実に心地良いリズムでページを進ませる。しかし意識的に、詩から距離をとろうとしているように読めたのだ。
「詩の不在」を僕が感じたのは、なぜだろう。社会を軸足にして語るために、「誰が」の部分、つまり主体が見えにくくなっているからだろうか。あるいは詩は、どのようなかたちであれ詠まれる時間や共有される時間を必要とするものだから、建築が「即時的」であろうとすると詩から遠ざかるということもあるのかもしれない。行間に、「建築家は詩に逃げ込んではだめだ」「詩に酔ってはだめだ」とでもいうような吉村の意識が感じられたのである。あるいはこれまでと違った詩のあり方を考えているのかもしれないが、とにかく吉村の「ビヘイヴィア」は、詩を媒介させずに現実の社会に生々しく向けられるものであり、そこがアトリエ・ワンの「ふるまい」との違いなのではないだろうか。
単位と反復
では、吉村の作品にみられる「ビヘイヴィアとプロトコル」の実践とは具体的にどのようなものだろうか。著作でも各章ごとに実例としていくつも紹介されているが、ここではさらに全体を通して見てみたい。これまでの彼の作品を改めて細かく見ていくと、コンテナを単位とする一連のプロジェクトが最もわかりやすいが、一般的な住宅の半分程度のスケールの単位を設定する《CCハウス》や《カーサ・プラス》、近隣の住宅地のスケールに合わせた家型を単位とする《中川政七商店新社屋》、さまざまな断面形状の室を単位とする《Nowhere but Sajima》など、「単位空間の設定」が毎回とても特徴的であることにまず気づく。そして、これらの単位空間が反復される際に、「ビヘイヴィアとプロトコル」の応答が問題にされている、と解釈できそうだ。吉村はほとんどのプロジェクトで、「単位とその反復」というある意味では建築の古典的な方法に、「ビヘイヴィアとプロトコル」の図式を重ねている。しかし、ここがおそらくポイントになりそうなのだが、「単位とその反復」に対する「ビヘイヴィアとプロトコル」の吉村の重ね方は、意識的に臨機応変で、そしてときには交換可能なものになっているのである。
- 《Nowhere but Sajima》
- フリーエクスコンテナ
「ビヘイヴィアとプロトコル」の運動性とその地平
- 建築の主題の変遷をあらわすダイアグラム
つまり、例えば「ビヘイヴィアが内側の動的なものでプロトコルが外側の静的なもの」といった安定した二項対立とその拮抗関係に留まらず、スケールや状況によってそれらの応答関係が軽々と入れ替わり、「ビヘイヴィアとプロトコル」のあいだに運動性や円環的関係が派生し、その総体をもって、建築と現代社会のダイナミックを描くことができる。「ビヘイヴィアとプロトコル」という吉村の見立てにはそういう可能性があるのではないか。
ただし現時点では、吉村の「ビヘイヴィアとプロトコル」の実践は、まだ二項対立とその拮抗関係に留まっているようにも思う。冒頭で指摘した吉村の建築の「即物性」や「即時性」は、「ビヘイヴィアとプロトコル」という二項対立を強化し、両者のあいだの運動性や円環的関係を膠着させ固定化してしまうものかもしれない。もしかしたら「詩の不在」もこの二項対立によるものかもしれない。
この著作ではっきりと吉村のヴィジョンが示されたいま、あとは「ビヘイヴィアとプロトコル」の豊かな運動性を内在する建築作品が放たれるのを僕は待ちたいと思う。そしてもしかしたら二項対立を超えた両者の運動性のなかに、僕たちは社会と建築をつなぐ「もうひとつの詩」を読み取ることができるのかもしれないとさえ思う。それはさらに言えば、「建築のカタチ」ではなく「建築の働き」が人々のあいだに共有されていくような、新たな建築のシンボリズムになりうるのではないか。吉村靖孝がこの著作で示した地平はこのあたりにあると僕は思う。