地上の唯物論(石川初『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』書評)

日埜直彦(建築家)

〈場所〉とはなにか

〈場所〉についての本である。
どこでもよいのだが、あるときある場所にいた、としてみよう。あたりをただぼんやり見ているかぎりでは日常的な光景が目に映るばかり。しかしさまざまに具体的なフォーカスをもって見ていけば気がつかなかった事物のつながりが見えてくる。求めよ、さらば与えられん、というわけだ。そこには一定の一般性が観察され、また多かれ少なかれ固有性が見出される。その一般性は世界の成り立ちをあらためて確認させ、その固有性はその場所特有の来歴と可能性を端的に示してくれるだろう。 ある場所のリアリティは、それを読み取るリテラシーによって豊かになるのだ。 そうしたことに触れることはとても面白いし楽しい。その面白さ自体についてはあえてつべこべ言うまでもないだろう。

実は本書は評者に『アメリカン・ボーイズ・ハンディブック』という本を思い起こさせる。20世紀初頭にアメリカでベストセラーになった少年のためのハンドブックである。キャンプをするときのための心得から、雪合戦の面白い工夫、はては基本的なロープの結び方まで、少年が自然の中で遊ぶために必要なありとあらゆることが書かれている。著者のダニエル・カーター・ビアードはアメリカのボーイスカウトの創設者のひとりだが、ボーイスカウトのどこか徒党を組むような感じはまったくなくて、当時のごく普通の少年が自分の家のまわりで遊ぶときに頼りになるような本だ。例えば釣りに行くとしよう。そのためには最低限必要な準備と注意すべきこと、そしてこういうものがあるとより面白くなる、というようなことが書いてある。準備すべきものはどこに行けば手に入るか、その場でどうやって適当なものを見分けられるか、それがなぜ良いのか理由も添えて書いてある。そりゃぁもちろんワクワクする。

ダニエル・カーター・ビアード
『アメリカン・ボーイズ・ハンディブック』
ちょうどそんなふうに、〈場所〉の読み取りをあらためて生き生きしたものとし、あらためてフレッシュな目で向き合うために心得ておくべき基本的な事実と着眼点が本書『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』にはぎっしり詰まっている。〈場所〉へのリテラシーといっても、なにもそんな大げさなものではないのだ。あたりまえのように誰もが生活しているその〈場所〉に向けられた感性にほかならない。ランドスケープ・デザイナーである著者の幅広い視野と知性に裏づけられたこの啓発の書は、自らのフィールドをいかに歩き、読み取り、それとかかわりあうべきか、そうしたリテラシーを耕しフィールドに誘うハンディブックである。

そんなヒントの宝箱は、どの程度の視野の広さで〈場所〉を見ているかによって5つの章に区切られている。視野の広い方から順に、「地形のスケール」「地図のスケール」「時間のスケール」「境界のスケール」「庭のスケール」。著者自身も序文で述べているようにスケールによって見えてくるものが変わるという着眼はそれ自体興味深いテーマであり、そこについては後ほど少し考えてみたいところである。だがまずは、ざっと内容をかいつまんで見ておこう。

「第1章 地形のスケール」では、身体スケールを超える地形が扱われている。それはそのスケールゆえに直接一望されるのではなく、地図の等高線を介して、あるいは地質学的年代の知識によって、たいていは俯瞰的かつ間接的にわれわれに認知される。等高線によって粗く把握される大きなスケールの地形からレーザー測量によって可視化される都市の微彩な地形まで、体感スケールを超えるスケールで見てみるとそこにそれ相応の論理が見えてくる。大きなスケールで見えてくる様相には大きなスケールで全体に効く普遍的な条件(例えば物理法則や工学技術)、より小さな局所に見えてくる様相にはその場所特有の事情(例えばその場の歴史)を見ることができる。体感される地形ばかりではなく微妙すぎて体感されないようなものまで、注視してみれば無視できない〈場所〉のファクターとなっていることが示される。

「第2章 地図のスケール」では、その身体スケールを超えた地表の様相を記述し認識可能にするメディアとしての地図が扱われる。地図は地表の様相のニュートラルな写像では必ずしもない。何を記述し何を捨象するかを定める社会的なルールに従って地図は記述される。したがってどのようなルールによる地図を見るかによって〈場所〉のイメージはかなり左右される。GPSの記録は個人的な情報であるはずの自分の行動を直接地図にオーバーレイすることを可能にするし、古地図と現在を重ねれば〈場所〉の歴史がいきなり見るものに迫ってくる。〈場所〉の認識のメディアとしての地図は、われわれの〈場所〉の認知のもうひとつの現場であり、そしてそれに基づいてわれわれが行動するがゆえに再帰的に〈場所〉に反映される。

「第3章 時間のスケール」では、生態学的なものからパーソナルなものまで、時間を経て形成される〈場所〉の様相が扱われる。例えば植生はしだいに遷移を経て成熟していく。人為的に植生は変化するがその速度は自然なものとはまた異なり、庭となればさらに急変させることもできる。他方で個人的な記憶と〈場所〉はまた別の回路で時間を介して〈場所〉のリアリティを刻んでいる。遠い過去と現在が同じ〈場所〉であることを介して一気に繋がるように、〈場所〉によって時間の隔たりが結びつけられることもあるし、時間の遷移が痕跡をその場所に残すことで、空間によって時間が具現化することもある。空間と時間は交錯しつつ互いに転写されることで、そのリアリティを共に現わすということがあるようだ。

「第4章 境界のスケール」では、内部と外部、そしてその境界が扱われる。ある領域を一定の質をもった内部としたとき、それ以外の外部との間にかならず境界が存在し、そこに調停が必要になる。そもそも内部とは人為であり、世界と隔てられて成立するものである以上、その境界には人為と世界の拮抗が露呈してくる。それは必ずしも内部の論理そのものではなく、むしろその副産物でありしばしば内部とはまた異なる特有の質を持つ〈場所〉である。具体的にはそれは段差であったり壁であったり植生であったりするわけだが、いずれも抽象的な境界線とは似ても似つかぬ具体的な様相が見えてくる。

「第5章 庭のスケール」では、大域的な環境のなかで維持される比較的小さい領域が扱われる。それは同時に、しばしば公共的空間に囲まれたプライヴェート空間であり、コントロールの及ばない外部に囲まれながら時間をかけて維持すべき〈場所〉である。そうした思い思いの多様な庭があることによって固有の景観が形成されている。ある庭にどこか別の場所の環境が模倣されることもあり、またほとんど虚構すれすれの幻影が投影されることもある。むしろそのようなマイナーな〈場所〉のささやかな営みこそがわれわれ一人ひとりの拠点でもある。

場所の知性に向けて

こうしてさまざまに認識を更新してくれるケーススタディが詰め込まれた本書だが、それは全体としてはなにを意味しているのだろうか。とりあえずここまで〈場所〉と漠然と言ってきたが、その厳密な意味を問わねばならない。
一方でそれは例えば日々の生活においてその視野に写っている〈場所〉のことではない。それは意識されている世界像の一部としての〈場所〉のイメージであって、結局は意味にからめとられた記憶のことだ。他方で緯度経度で指定されうるような物理的な〈場所〉のことでもない。それは端的に言って位置であり、その位置の環境を形成している事物のことだ。人間の頭のなかにあるコトでなく、単にモノとしての〈場所〉でなく、コトとモノが〈場所〉において接している界面に論理を見出す、そういう意味において本書は〈場所〉の本である。

〈場所〉についての学問と言えば地理学があるが、そこでそのような意味での〈場所〉が問われているかと言うと実際のところどうだろうか。一方で人文地理学という学問の分野があり、これは人間的現象としての都市を扱う都市地理学であったり、地理的に分布する経済現象を扱う経済地理学であったり、要するに人文系の学問分野の問題を空間的・地理的に扱う。これに対して自然地理学というコトバがあり、いわゆる地理学というコトバから一般にイメージされるのはこちらだろう。地形や気候などを扱うおなじみのやつである。人文地理学は英語にするならhuman geographyで、自然地理学はphysical geography、大まかに言えば先のコトとモノに対応しているわけだが、これらの分野もいわば文系と理系のようになかなか噛み合ない。しかし当たり前のことだが、われわれはこの2つの領域を同時に、というかいっしょくたに生きている。この分裂は〈場所〉そのものに本来的なものではなく、むしろ分裂は「場所の認識」にこそあるのだ。human geographyの内面性はつねにそれを支える実体としてのphysicalなものを前提としてはじめて成立するし、physical geographyの外部性はそこで生きるhuman、つまり人間がいなければ無為である。いわばウロボロスの蛇のような具合で、互いに互いを成立させているわけだ。本書がさまざまな角度から切り込んでいる〈場所〉とは、そのウロボロスの円環としての〈場所〉である。

マックス・ヤンマー『空間の概念』
近代という時代は空間や場所を普遍的なものとして扱ってきた。カントが空間を認識の対象そのものとしてではなく抽象的なカテゴリーとして扱ったように、科学においても社会一般においても、空間はxyz軸で測られる抽象的な空間として捉えられてきた。こうした空間イメージの古典的な到達点としてマックス・ヤンマーの『空間の概念』(1954)が挙げられるだろう。古代の空間概念から説き起こし、デカルト以降の近代的空間概念の成り立ちを総覧し、相対論的空間まで一気に総覧するこの本が基本的に前提としているのは計量可能で普遍的な抽象空間である。この近代的空間の明晰さはきわめて強力なもので、あっというまに世界を席巻し、近代社会においてありとあらゆる事物はこの空間像の上にあった。

こうした抽象的な空間イメージを、本書『ランドスケール・ブック』は具体性を持って覆す。空間をそのように抽象的、形式的なものとして扱うことを否定するというわけではないにしても、実際の空間・場所は至るところ異質性と不透明性をはらみ、捉え方によって見え方が変化することを実例を持って力強く示している。〈場所〉をどのようなスケールで捉えるかによって見え方は変わるし、なにを見ようとするかによっても見え方は変わる。植木鉢のようなスケールから広域の地方まで一気に見通す論理は存在しないし、〈場所〉に現象する多様な現象を一気に捉えることなどできはしない。そうした多様性にこそ〈場所〉の実体があるとしたら、近代的抽象空間はそうした多様性の基底にある根本的なものというよりも、むしろ単に軽便な捉え方のひとつに過ぎない。さまざまな偏差をはらんだ見方を重ねることで見えてくるのは、〈場所〉の成り立ちの重層性である。透明で空疎な場所の認識をオーバーライドする多様な閾への感性こそが、場所の豊かさを讃え、その可能性を掘り起こす鍵なのだろう。

土地と建築の唯物論

そうは言っても〈場所〉に対する本書の態度はごく控えめなもので、 さまざまな事例を示す以上に大きなフレームを構えることを慎重に避けているようにも思える。だからこの本をその内側から理解する限り、これ以上に論を拡張・飛躍させることを躊躇せずにはいられない。だがそれでも2点だけは展開しておかなければならないように思う。

一点は著者がこの本にまとめられた実践を積み重ねてきたなかで、とりわけ建築の分野に与えた大きな影響についてである。今となってみればその影響はこの本を読む前提となっているかもしれないが、しかし10年程を掛けたこれらの著者の実践が、一方でこの本としてまとまり、他方でその影響を周囲に及ぼしたのであってみれば、この本の外側の文脈を踏まえることは必要だろう。

かつて建築の世界とランドスケープの世界はそんなに近くはなかった。近くないと言うと語弊があるが、モノの考え方が両者でずいぶん違うので、実務上はともかく議論としては接点を持ちにくかった、とでも言おうか。協働する機会の多さに比べて関係はそんなものだったと思う。むしろその意味では、建築の世界と都市計画の世界のほうが近かった。それぞれの世界においてベースとなる思想を組み立てた理論家が共通しているし、なによりも〈計画〉という重大な概念を共有している。近代建築史は近代都市史とまるごと重なり、都市に関する提案を建築家が行なうことも珍しくはなく、そんなわけで建築と都市は共通の文脈と言語で繋がっていた。その間でランドスケープの世界はいわば脱落していたのではないだろうか。

そのギャップに登場したのが本書の著者、石川初氏である。彼がもたらしたランドスケープからの視点は、建築と都市を包括的に繋ぐまったく別の回路をもたらした。それはもちろん造園の様式のようなものではなくて、広い意味で生態学的な視点のことである。ある対象に着目するときに、それがどのように環境と関係を取り結び、環境を成立させているか、を見ていくことで、建築でも庭園でも地域でも都市でも、およそモノである限りにおいて一貫性をもって観察する視点である。そこはかとなく疎外論的の影のある90年代後半の郊外論から反転して、建築の議論のなかからはそこにすでにある事物を使えるリソースとして受け取め、それをポジティヴに享受する指向が当時出てきており、この生態学的な視点はそうした傾向ともリンクして浸透した。

もちろんそれは石川氏単独の貢献というわけではないだろうが、建築と都市のあいだのスケールの具体を考えようとするときに、そこで参考になるさまざまな事例が石川氏の周辺から出てきていたと言っても過言ではないだろう。 GPSの利用や電子化された地図の技術の応用のようなデジタルツール系の話題はともあれ、結局示唆的だったのはその使い方であり、その実践が喚起する視野の拡張こそが重大だった。

さて生態学は、対象をそれがどのような環境のなかで成立しているか、という観点から見る。ある生物が一定の生態系において生存するのと同じように、建築はその環境としての地域においてこそ成立していると考えられるだろう。またある生物個体が他の個体とどう関係するかという視点と同様に、一個の建築と他の建築の間の関係への着眼があり、ある種が他の種とどう関係するかという視点と同様に、類型としての建築が他の都市要素と結ぶ関係への着眼がある。そしてさまざまな種が植生や地理条件、気候条件とあいまってある生態系を形成するのと同様に、さまざまな建築が環境要因やインフラとあいまって特有の都市や地方を形成する。これは単なる比喩的な相似ではなく、実際に人間が形成する生態系として都市・地方があり、その主要な一因子として建築があると言うことができるのだ。その意味で広義の生態系のひとつの実例として、建築と都市をランドスケープの視点で繋げて見ることが可能になった。建築から見ればこうした視点は、例えば「住宅地」という概念からコンテクストを読むことを陳腐化し、その場を形成している具体的要素に着眼点をブレイクダウンしながら、そこに可能性を発見していく今日的な態度の形成をバックアップした。

同時期の少し似た考え方として、例えば塚本由晴氏と西沢大良氏による『現代住宅研究』(LIXIL出版、2004)やジェームス・ギブソンのアフォーダンスへの関心があった。前者については本書との対応は実に興味深いもので、あるトピック(「配置」「斜面」「へこみ」......)でテーマ(現代住宅)をさまざまな視点から切り出して分析するスタイルといい、その分析のほとんど生態学的と言っていいほどの即物性といい、顕著な平行性が見てとれるだろう。アフォーダンスは認知心理学から出てきた概念だが、これもまた対象と環境の関係を読み解く強力なアプローチである。例えば床というビルディング・エレメントを自明のものとして考えるのではなく、床をある事物の様態(水平さ、平坦さ、広さ、堅さなど)の束として捉え、それを事物と人との関係において行為を支えるアフォーダンスと見る考え方である。

粗い整理をするなら、生物と事物をマクロの関係において扱う生態学は、対象をより大きいフレームを想起することで把握する経路を示唆し、個体とそれを取り巻く事物が取り結ぶミクロの関係を扱うアフォーダンスは対象をより小さな部分に分解して把握する経路を示唆した、と言ってよいかもしれない。どちらも、ほとんど唯物論的に、事物を本質論や意味論から引きはがし、そこに存在し環境を形成している要素とその関係に分解しつつ把握する。こうしたアプローチがデザインの実践をより柔軟にしうるという認識は広く共有されるようになった。

地形や地質、気候、 植生、 そこに生きている生物。あるいは建築を組み立てる素材と技術とそれらが系統立って組み立てられた物体としての建築。都市における社会システムとしてのさまざまなインフラとそこを流れるマッシヴな物質循環。こうしたものはすべて各々の水準で特有の論理で成立しているものであると同時に、環境を構成する要素という意味では等しくそこでの可能性を支えるリソースである。どこであれ、ある〈場所〉を観察されればそうしたものが見えてくる。こうした建築・都市への現代的なアプローチを支える世界観に対して本書に見られる実践の影響は少なくなかったはずである。

空間の一般理論にむけて

それからもう一点、蛇足になることを承知でスケールの問題についても一考しておきたい。込み入った議論になるわりにたいした結論が出るわけでもないのだが、試論のたぐいと思っていただければ幸いである。

そもそも本書のタイトルにある「ランドスケール」という造語(?)が意味していることは、はたしてどういうことだろうか。本書のなかで直接それに言及しているのは序文だが、そこで述べられていることは2点ある。
1)どのようなスケールでその土地、その空間を捉えるかによって、そのスケールなりの庭の発見があり、逆にまたその庭を成り立たせている固有のルールの発見がある。
2)(あるスケールでの検討が行き詰まったときに)広域スケールに「戻ってみる」のは有効だ。経験的に言って、検討の行き詰まりや議論の行き違いは、かなりの割合で「スケール」の齟齬によって生じている。

特定のスケール(視野の規模)で見ることによってはじめてある場所が見えてくるし、そうしてはじめてその場所の論理が見出されること、そしてまたスケールが違ってしまうとその論理は通用しないということ、これらの知見は先に紹介した『空間の概念』と鋭く対立する。ヤンマーの空間イメージはスケーラブルでありまたリニアであるが、スケールが変われば同じルールが成立しないとすればこうしたイメージは瓦解する。局所的なルールと大局的なルールには違いがあるというのはわれわれの自然な感覚にもフィットするが、それを具体的にはどういうイメージで考えればいいのだろうか。

実は生態学の分野のひとつである群集生態学ではスケールの問題が扱われている。群集生態学とは、異なる種を含んだ系をなしている一群の生物である生物群集の振る舞いを扱う学問である。例えばプランクトンから魚に至るさまざまな種が同じ池に生息していたときに、それは生物群集をなしており、そのうちの特定の種の個体数の増減が他の種の個体数にどう影響するかといったことが群集生態学のテーマとなる。この分野で議論検証されているスケールの問題は次のようなことを示唆している。つまり比較的小規模の観察範囲では局所適応が強く作用し、生息環境による生物種の条件付けが決定的であることが観察されるが、中規模の観察範囲ではそのような条件付けの影響による生物種の特殊性は均されてしまう。ところが大規模の観察範囲では環境自体の多様性の影響が強く現われ、種の多様性がより大きくなるのだ。

この知見の細かい解釈にここでこだわっても意味はないのだが、ただ示唆的なことは群集の多様性を規定する論理にはそれが規定するスケールがあるという点だ。構図としてはこの知見は、相互作用の種類によって影響範囲が異なると考える素粒子物理学の標準模型理論ともいくらか似ているのだが、こうした知見のアナロジーとして、〈場所〉の成り立ちにおいても同様のことが起きていると類推することはできないだろうか。つまり〈場所〉を規定し条件づける要素も、それぞれ波及するスケールがさまざまであり、その結果として、スケールに応じて論理が異なるように見えるのだ、というふうに。
仮にそのようにイメージしたときに、大きなスケールで見えてくる論理と小さなスケールで見えてくる論理が異なることについて一定の理解ができる。それぞれ違う論理がそこに作用しているというよりも、局所的な生態系を成り立たせている因子はあるスケールを超えるとほとんど作用せず、それ自体はより弱い作用しかもたない因子でありながら波及するスケールが大きいものがあり、それが大域的な生態系を傾向的に規定するというように。具体的に言うならば、例えば谷戸地形や河川を前者と想定し、地質や気候を後者と想定すること、個人や家庭を前者と想定し、地域社会やその制度を後者と想定すること、こうした想定は少し頭をひねればいくらでも可能だろう。


こうした想定にはそれ自体としてはさして意味はない。だが〈場所〉の現象の背後に論理を読み取り、さまざまな断片的な知見から〈場所〉を包括的に読み解く理論的図式を構想することには意味があるだろう。本書『ランドスケール・ブック』は評者にとってそうした包括性への期待を抱かせるものであった。都市計画の視点、「まちづくり」の視点、ランドスケープの視点、 建築の視点、 それぞれ各々に断片化し、どれひとつとして目の前のこの〈場所〉を適切に理解する手がかりにならないと思わざるをえないときに、認識の基盤となる共通の理論的バックグラウンドを持ちえないものかと夢想するのはむしろ自然ではないだろうか。本書がこの10年の成果だとしたら、次の10年はそれがさらにいかに展開するだろうか。期待を抱かずにはいられない。

201211

特集 刊行記念特集:石川初『ランドスケール・ブック』、吉村靖孝『ビヘイヴィアとプロトコル』


刊行記念対談:石川初+吉村靖孝「都市、建築、そのスケールとプロトコル」
地上の唯物論(石川初『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』書評)
社会と建築をつなぐ「もうひとつの詩」(吉村靖孝『ビヘイヴィアとプロトコル』書評)
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