千年村プロジェクト中間報告座談会

中谷礼仁+石川初+福島加津也+元永二朗+佐々木葉+土居浩

──「10+1website」では2015年12月号に「千年村宣言」を特集し、その座談会では千年村プロジェクトのコンセプトや発足の経緯、調査方法についてお話しいただきました。その後、早稲田大学の佐々木葉先生や、ものつくり大学の土居浩先生が新しくプロジェクトに参加され、さらに千年村憲章が制定されました。2016年度は利根川流域の群馬県安中市松井田町五料(山の千年村)と、茨城県霞ヶ浦周辺(海の千年村)で、疾走・詳細調査を実施しています。今回は、2016年度の活動を振り返りながら、これからの千年村プロジェクトのあり方や、メンバーのみなさんの関心についてお話しいただきたいと思います。

千年村憲章の制定と調査方法

千年村憲章のねらい

中谷礼仁──千年村プロジェクトは、もともと「持続している丈夫な平凡な村」という意味で「古凡村」という名称で活動を始めました。その後さらに「千年村」に改称し、その言葉が持っている社会的波及性を感じました。そのため千年村プロジェクトが考えていること、目指していることを明確にしておいたほうがいいと思いました。それが憲章を公開したきっかけです。つまりこれまではリサーチャーの組織体として展開していましたが、千年村という「村」を単位として扱うことで、ここに住む人たちがどのように千年村にコミットできるかを検討する必要がありました。そこで、この活動を特定な具体的人格に帰属せずに、憲章という客観的なかたちで参加者の行動を意味あるものにしたほうがいいのではないかとプロジェクトで検討し、憲章の作成、公開に至りました。
社会的活動としての最終的な方針はごく当たり前のものだと思いますが、憲章の「序」における危機感の表明、つまり私たち人類は今後1000年続くのだろうかという一文を挿入したことが、21世紀初期の活動としてのリアリティを持てたのではないかと思います。



千年村憲章[2016年8月25日 千年村プロジェクト決議]


過去の人間も間違い、そして今後も人間は間違い続ける。しかし人間がいま犯しうる間違いの量は桁外れに増加している。
ここに人類が現在、生き続けることの困難がある。
わたしたちは、これからの千年を生き続けることができるであろうか?
このような根本的な問いに立ちいたった時、発見されたのが〈千年村〉という活動基盤である。(中略)

1──基本的生存単位の尊重
わたしたちは、長期にわたって先行した生存単位のあり方を尊重する。
2──地域からの発想
その単位の今後の持続の方法は地域の特性にまず依拠する。
3──〈千年村〉の普及
〈千年村〉の持続方法を客観化し、啓蒙、共有することにつとめる。
4──継続のための活動
〈千年村〉を持続させるための活動、ならびに協力をおこなう。

[引用=mille-vill.org「千年村憲章 / Millennium Village Charter」]



中谷礼仁氏
中谷──憲章が公開できたので、千年村という概念自体はより広く普遍化できたと思います。現在は私たちのプロジェクトに関連する諸活動について、その活動に特定の性格を与えるための行動倫理をつくっています。
さらに各地の千年村候補の人々がプロジェクトに対して千年村認証を申請するためのチェックリストをつくっています。このチェックリストには千年村プロジェクトがこれまでの千年村訪問で獲得した知見による項目が含まれています。これは私たちの貴重な成果であるとともに、地域の人々が自分の所属する地域の特徴を明確にできる利点があります。これによって千年村という考え方やその地域が継続する方法を、多くの方々と共有できるようにしようとしています。また、学術研究がベースではありますが、千年村を讃えて応援するという側面から、認知された千年村の持続的活動に対するプロジェクト側の協力体制づくりも検討しています。行動倫理に基づいて、研究組織と地域を持続させるための組織がしっかり連携しようというねらいです。


福島加津也──憲章を制定するきっかけは、このプロジェクトに参加したいという地方からの声が、千年村のウェブサイトなどを通して届いていることでした。活動の認知度が高まったということでしょうか。


中谷──そうですね。本当の村の方々からコミットしたいリクエストがあることはその結果だと思います。それに後押しされて、ではどのようにして活動を展開するべきかをプロジェクト側で考えなければいけなくなりました。また、千年村の理念や倫理を明らかにし合意することで、プロジェクト内部でも各自の関心に沿ってより主体的に活動できるということになります。


徳島県神山町での調査事例

福島──石川先生は中山間地にあたる徳島県神山町で研究活動をされていますが、千年村プロジェクトの理念をどのように引き継いでいるのでしょうか。


石川初──神山町の調査は、私たちにとっては千年村で鍛えた方法論を応用するフィールドになっています。神山町は徳島県の中山間地にある人口5,600人あまりの自治体です。消滅可能性自治体のリストに載るような過疎の地域でありながら、IT企業がサテライトオフィスを構えたり、アーティスト・イン・レジデンスなどの取り組みが有名です。数年前に流入人口が流出人口を上回って話題となり、地域おこしの成功例としてメディアに紹介されたりしました。昨年、神山に移住した友人から個人的に声がかかって、研究室の学生たちとともに訪れました。
神山町は『和名類聚抄』には記載がなく、千年村の地図には候補地としてプロットされていませんが★1、資料などを総合的に鑑みて、ここは明らかに千年村であると判断しました。
行ってみると、とても魅力的な地域でした。民家を改修したおしゃれな建築もあるのですが、周囲の山が石積みの棚田になっていて、とても高いところにまで人が住んでいて、その住み方が素晴らしい。私たちは、当初は移住者のための既存の民家の改修事業へのヒントを見つけるための調査の打診を頂いたのですが、まずは出かけていって地域を観察させてもらうことになりました。今年度は、『神山町暮らしの風景図鑑』や『神山町これまでの千年、これからの千年』という絵本をつくっています。そのほかに、石積みを模したレゴブロックのセットなども提案しています。


福島──これまでは「千年村の4つの段階」に沿って、「さがす」「まなぶ」「たたえる」ことを行なってきましたが、2016年からは「つづける」というフェーズに入っています[fig.1]。「まなぶ」段階ではどういった観点から神山町の調査を行なったのでしょうか。


fig.1──千年村プロジェクトの活動段階(関東研究拠点の場合) [作成=千年村プロジェクト]

石川──いくつか切り口があります。四国の山間地は、もともと焼畑農業の地であり、水田があとからできています。山の上のほうが豊かで、徐々に下に降りてきたという経緯なのです。そのため、これまでの調査で見てきた、例えば房総半島に慣れた目を通して、水田と山、その裏にある集落というセットで見ようとすると、神山町では様子が違うのです。


福島──山の上では、ニュータウンや工場などが入会地につくられることが多いのですが、ここではその逆になっているのですね。


石川──また、私たちがFAB-G(Fabrication Skilled Grandfathers)と呼んでいる人々の存在があります。多くの中山間地と同様、神山町もアクセスが不便な町の周縁部では空き家が増えていて廃屋も見られるのですが、「こんなところに」と驚くような山の上のほうにも住んでいる人がおられます。そういうところへお邪魔すると、目につくのが住民の方のものづくりのスキルです。農具のカスタマイズや住まいのDIYなど、農家はだいたい「臨床型ものづくり」の最先端ですが、神山でもそういうFAB-Gの仕事をたくさん見ることができます。


福島──そのような臨床型の技術はこれまで千葉、群馬などで見てきた千年村に共通しています。


土居浩──臨床型技術とは、要するにブリコラージュですよね。ありあわせのモノで、なんとかやりくりするやり方。とはいえ旧慣をただ「頑なに守る」のではなく、よい意味での「墨守」する姿勢がうかがえます。


石川──『暮らしの風景図鑑』をつくったりしていると、私自身が千年村的なものの見方になってしまっていることを実感します。「千年村眼鏡」を通して発見するものとは、例えば千葉で見つけた塩ビ管の鳥居です★2


福島──鳥居の素材となる既製品がホームセンターで売っています。あれは千年村の象徴ですね。


石川初氏

石川──千年村的には、鳥居は無垢の木でなければいけない、というようなことは言わず、素材が塩ビでも鳥居を立てて土地の神様を祀る行為が継承されていることを評価しますよね。神山町の江田という集落の棚田が「日本の棚田百選」から漏れたのは、石積みにコンクリートが一部使われているためだったらしいという話を学生が聞いてきました。たしかに、コンクリートの擁壁や、コンクリートが混ざっている石積みはオーセンティックな石積みの価値を重視する立場からは優れているとは言えません。しかし、私たちはそういうハイブリッドな石積み、コンクリートが使われても「積む」という行為が継承されているということをこそ、褒めたり励ましたりしたいと思いました[figs.2,3]。趣きのある杉の桶と、100円ショップで買ってきたようなプラスチックのキャラクター洗面器が等価に扱われている世界。ここに千年村を評価する視点があると思います。神山町のように、IT企業がつくるサテライトオフィスの向こうにすごい石積みが連なっていて、でもそこにはコンクリートやPCも石のように使われている。そういう多様で強かな生き方の風景を拾い上げたいと思っています。


figs2,3──ハイブリッドな石積みの例[著者提供]

「千年村」であること/「千年村的」であること

福島──土居先生と佐々木先生は新しいメンバーとして千年村に加わっていただきました。このような「千年村眼鏡」に対する率直なご意見を聞かせてください。


土居──「意見」というか、当初は「違和感」がありました。例えば千年村プロジェクトの方法論として「疾走調査」と名付けられた悉皆調査がありますが、正直、いまだに慣れません。そもそも「疾走」と「調査」が、結びつかない。例えば神社を調べることひとつとっても、千年村プロジェクトの疾走調査では、基本的にGoogle Mapsで確認できる神社を、全部チェックする。そして神社の創建年代などは、Wikipediaなどネット上の情報を探し集めて、ひとまずベースの情報としてますね。ですから、現地で実見すると、当たり外れがあるといいますか、「え? Google Mapsでは確かに神社マークが付されているけども、これ、神社を名乗るにはどうなの?」と思ってしまうほどボロボロの小さな祠に遭遇することも、しばしばある。効率が悪いといえば、悪い。
でも最近は、リテラシー教育として「疾走調査」はアリかな、とは思います。例えば神社に関するネット情報の当たり外れも、後日に、そのエリアに関する『角川日本地名大辞典』と、平凡社の『日本歴史地名大系』を見比べて、最低限の学術的検証を経た情報と照合すればよいわけですから。まずは数をこなすうえで「疾走調査」は有効でしょう。


福島──まさに「千年村的な」ということについて考えさせられます。ある種の大雑把さを許容しながら、数をこなすことでなんとなく見えてくるものがある。


土居浩氏

土居──「数をこなすことでなんとなく見えてくるもの」は、どの専門領域でも言えるのでしょう。ただ「千年村」の「千年」という言葉が、強烈すぎるきらいがありますね。千年村プロジェクトとしては、ここ最近50年ほどを詳細に検討したほうがクリアになることがあるのに、どうしても1000年前の遺跡などを、すぐ連想されてしまう。


中谷──千年村プロジェクトを考えるときには「千年村」のほかに、「千年村的」であることを重要視したいと思っています。つまり千年村の特徴が、先のチェックリストでは「環境」「地域経営」「交通」その結果としての「集落構造」という4つの側面から、すでにテキストとして項目化されています★3。これは千年村活動を千年村だけのためにするのではなく、今後の地域づくりにも千年村の経験を役立てられればという願いから来ています。
ですから一方の方向性としては、当時の郷名を記した項を含む、10世紀に成立した『和名類聚抄』を徹底的に調べていくように「保守」に究める。他方では、石川先生が発見したコンクリートブロックの石垣のように「リベラル」に展開していく。つまり千年村の本質は村「的」となってこそ、開かれていくというわけです。厳密に規定した結果で得られた千年村のエッセンスを「使う」ことで広げていけるのです。だから『和名類聚抄』に記載されていないから千年村ではないのではなく、1000年間続いている地形や特徴を把握し、それを別の場所に対しても実際的に広げていけばいいのです。こうした関係のなかにこそ千年村の幅があってよいのです。昔、佐々木葉先生が自分が関わられている村を紹介する際に「研究者にはホームベースとなる地域が必要だ」ということをおっしゃっていました。まさしくその通りで、私たちは「千年村」という仮説を用いつつ、自分の人生の限界として、長くても数十年しか現実の社会とお付き合いすることができない。そういう個別的な場所での具体的な活動がもとになって、千年村プロジェクトにその知見が反映される。そこに「千年村実存論」とでもいうべき生き方も意識されてくるのだと思います。


佐々木葉氏

佐々木葉──私はこれまで地域と関わるときには、なんらかの計画や事業を具体的に行なうという立場で関わっています。例えばいまは長野県宮田村で法に基づく景観計画をつくっているのですが、この計画によって建物の高さや色、ゾーニングなどの制限をする、つまり私権を制限することになるのです。そういったシビアな感覚から言うと、千年村プロジェクトにはちょっとついていけないなあ、と思っている部分もありますが、インスパイアされたことがたくさんあります。まずこれまで地域を1000年単位で見るということがありませんでした。1000年という時間を、人が住み続けてきたという観点から話をしたことがなかったのです。しかし文献から学術的に1000年持続していたとは言えるのでしょうが、私たちがいま見ている現在の状態から、その地域の基本構造が1000年のあいだ継続していたと言うことはほぼ不可能ですよね。疾走調査のときもよく言いましたが、いま見ている構造は近世のものかもしれないということです。しかし、しょせん証明できないのだからそのことからひとまず離れて地域を見る。あるいは地域の人とコミュニケーションをとる。私はずっと景観という観点から地域に関わっているので、1000年という単位を思った途端に、屋根の色だとか、道路のコンクリート法面だとか、といった見た目のことからふっと離れていくわけです。自分たちの地域のなかで、何が本質的に大事なのかという話をしていくときに、すごく効果的なコミュニケーション言語だなと思っています。とは言うものの私たち土木系の人間は最終的には行政の人たちとタッグを組み、制度的にもインフラ的にも、多くのことを決めていかなければなりません。その責任は非常に重いので、一つひとつの地域を見るのに時間がかかります。そんなに多くの場所に関わることはできないので、せいぜい2つか3つのホームベースで考えていくことになります。しかし、具体的な地域との関わり方とは別に、千年村におけるバッテリー能力という考え方はとても大事だと思っています。東京や地方の県庁所在地クラスの都市は全然サスティナブルに思えません。大切なのは国土として考えた場合のバッテリーであり、いわば種の保存として必要だと思っています。こうした生き延び方を励ますためのキーワードとして、「千年村」は有効だと思っています。


千年村のキャラクターのとらえ方

佐々木──疾走調査というスタイルによって見えるものもありますが、2回、3回と行ってようやく見えてくる地域の姿が大切です。人と地形と暮らしが一体となったものがすべて風景に表われているので、疾走調査で全体をざっと眺めること、そのあとに何度も足を運ぶことで見えてくるもの、それぞれ意味があるでしょう。


中谷──以前、佐々木先生と千年村の調査方法について議論したとき、1000年間村が持続してきたことを厳密に実証することは大変難しいという話になりました。そのとき佐々木先生が「村のキャラクター」という考え方を提案してくれました。つまり明らかに村を通底して流れている地域のキャラクターがあるのだと。そのキャラクターを捉えることができれば、古い石垣がコンクリートブロックになったとしても、それを真っ向から否定する必要性はありません。つまり、そのコンクリートブロック採用の経緯が、村のキャラクターとして妥当なものであり、これまでの石垣とキャラクター的には地続きであるという検討もできるのです。そうした見方において、石川先生が報告されていた事例での千年村のリベラル性が効いてきています。


福島──一体化したリサーチとして、各専門分野がゆるくつながっているということですね。


中谷──その通りです。千年村プロジェクトは、千年村の経験からそのキャラクターを言語化、ダイアグラム化して公開し、かつ現在との接点を見出していきましょうということなのだと思います。キャラクターを検討する際には異分野の方々と検討しあうことが本当に重要なんだと思います。例えば単体の建築を扱う建築史を専攻する私にとっては、民家の分析には責任を持ちたいと思います。民家から、地域の生産連関の特質を語ることはできると思います。一方でランドスケープからの知見は、なんとなく感じることはできても責任を持って言葉にできません。しかし、両者が議論するうちに2つの専門性が繋がって、民家から見える風景や地域の特色といったものがより具体的に把握できるのではないでしょうか。


福島加津也氏

福島──瀝青会★4では、当初建築のメンバーだけのところへ、石川先生や京都大学人文科学研究所の菊地曉先生が他分野から参加されました。私たちは建築のことは理解していても、インフラのことはまったく知りません。例えば石川先生の「家の形は変わっても、細い水路ほど水の流れは変わらない」という知見には大変驚かされました。新しい視点の参加が瀝青会のよさですし、これが千年村プロジェクトを多分野に広げるきっかけとなったのではないでしょうか。それゆえ発見が多く、まとめることが一番知的な作業になっています。


中谷──その通りです。ゆるくまとめるというかつなげる。その時に、ざくっとまとめられて大きく間違えない方法があるといいなと思います。


福島──千年村憲章の制定もその一環ですね。

佐々木──キャラクターはシステムとして継承されている場合もありますが、当然、場所・空間にも存在しているのではないでしょうか。景観学の中村良夫先生は南方熊楠がつかっていた「萃点(すいてん)」という言葉をよく用いています。私の研究室では「地域のツボ」などと言っていましたが、萃点を見つけてみたいです。こうした場所は若干形が変わったりもしていいですが、その前の様子が想像できないほどに変えてしまってはいけない。その意味において、千年村憲章はいわば最低ラインを明確化したものだと私は理解しています。つまり千年村に参加する村にはさまざな動機──例えばプロダクトを出したい、有名になりたい、映画のロケに使いたい、地域のコミュニティのために参加したい──があってよいのですが、この一線を守ってほしいと。


中谷──その意味では、千年村憲章と村の掟とは似ています。きだみのるが著した『にっぽん部落』に載っている「焼くな、盗むな、殺すな、村の恥を外にさらすな」というものです。そこで重要なのは、村の掟そのものではなく、きだみのるはこの掟があること、それに関する村の実相を書いてしまったことで、その村から本当に追い出されてしまったということです。個人的には、彼の行動と千年村活動の「村の特質を明らかにし、公開していこう」という方向性は似ていると思います。つまり地域の掟を尊重しつつ、とはいえ外部の役に立つことについては情報を公開する。このバランスを大事にしたいと思います。


佐々木──千年村を認証するということについて、私はこれまでややどうかなと思っていました。しかしフランスとドイツの小さな村の調査をされた方の報告を伺った際に、美しい村連合など、ある種のローカルを超えた基準に入ることの意義を感じました。個別具体のユニークなローカルが離散的に存在しており、離散的な存在の集合体を可視化し、継続させる。継続させるためのエネルギーを獲得する手段として、登録認証制度はやはり大事であると思いました。ただ、踏み絵みたいな印象があることが気になっていましたが、離散的なものをひとつの力に束ねていくときにはそうした方法も大事だと最近思うようになりました。


元永二朗氏

元永二朗──私は千年村プロジェクトのウェブサイトをつくる立場ですが、悩ましいのはプロジェクトの成果物を見ても千年村の何が大事かということが分かりづらいということです。他方で、ウェブサイトをご覧になった方から、まだ千年村としてプロットされていない候補地の指摘もいただきました。ウェブで公開している意味を感じています。『和名類聚抄』から現在地を比定することはできないけれども、明らかに1000年程度は集落が持続している事実がその地域のなかで共通認識として存在するようなものに関しては、ご指摘があり次第、千年村プロジェクト側でも根拠を確認のうえウェブサイトの一覧に反映するようにしています。公開して1、2年で5件程度の指摘をいただきましたが、『和名類聚抄』で比定した2,000個ほどを母数とすると、それなりの数の指摘です。おそらくほかにも候補地はたくさんあるでしょう。神山町もそうですが、『和名類聚抄』というインデックスに記載がないものに関しては、地域から情報提供をしてもらわないと探しようがありません。千年村の価値観をより広く知ってもらうことが、いまの時期では大事だと考えています。その意味でも憲章の役割は大きいと思います。集落のあり方はそれぞれに違い、千年村の要件定義は千年村の数だけある、とも言えるので、細かい要件のみで千年村か否かの判断をしてもあまり意味はありません。まずは、この「千年村」という評価方法の目指すところを明らかにした憲章を共有することが必要だと思います。

山の千年村と海の千年村の調査報告


福島──2016年度の各調査地域について、参加した学生の方から報告してもらいましょう。


群馬県安中市松井田町五料

神保洋平──山の千年村として利根川流域の群馬県安中市松井田町五料を対象に、現地調査とワークショップを行ないました。調査地選定にあたって、はじめに碓氷峠とその街道というインフラの強さが見られる碓氷郡坂本郷に着目しました。文献調査や江戸時代後期の絵図★5から、坂本郷の比定地のなかでも五料にのみ、街道筋の集落だけでなく道から離れた集落の存在を確認できました。そして、それらがひとつの大字内に併存している特異性に注目し調査地を五料としました。実際に、現地調査において、五料には「山際」「街道沿い」「ふもと」という3つの暮らしがあり、それぞれが独立しつつも街道沿いの中心施設を介してつながりを保ってきたことがわかりました[figs.4,5]


fig.4──五料における3つの暮らし[地理院地図 Kashmir3D「スーパー地形セット」より書き出し 千年村プロジェクト加筆][画像をクリックして拡大]

fig.5──調査風景[撮影=千年村プロジェクト]

神保──その後、8月2日に、住民に対する調査報告を兼ねたワークショップを開催しました[fig.6]。今回一番重要だったのが、女性と子供が主体的にワークショップに参加したことです。成果物として、五料の3つの暮らし(山際、街道沿い、ふもと)を端的に表わしたポスター[fig.7]と、「千年村マップ あそびからみる五料」というマップ[fig.8]を制作しました。あそびによって五料の多彩な地形と人々との関わり合いが視覚化され、そこに五料の3つの暮らし方を載せることであそびと暮らしの関係を見ることができるようになりました。ポスターに使う五料を象徴する写真は子供たちに選んでもらい、キャッチフレーズ「やまでたくましく みちでなかよく」は参加者全員で決めました。


fig.6──ワークショップ風景[撮影=千年村プロジェクト]

fig.7──五料ポスター[作成=千年村プロジェクト]

fig.8──千年村マップ あそびからみる五料[作成=千年村プロジェクト][画像をクリックして拡大]

中谷──今年は違う分野の複数の大学生が最初から主体的に関わりました。また、一般的に地域のワークショップでは参加されにくそうにしていた女性や子供が、五料で行なったワークショップでは多数参加された意義は大きいと思います。千葉大学の造園学科の学生が提案した「あそび」というテーマが、調査メンバーのあいだで早期に合意されました。あそびは地形が特徴的なところに発生します。すなわち地形的な特徴と人間の行動を象徴的に指し示すものです。いまの子供からおじいちゃん、おばあちゃんの世代までの方々に参加してもらい、それぞれの遊び場を教えてもらって、プロットしました。あそびは単に子供用に設定しているのではなく、環境と人間との付き合い方として、より多くを語ってくれると思いました。


福島──萃点のようなものを、通常は地形や民家に見てしまいがちですが、これはあそびという切り口にしたことが特徴です。実際に、3つの暮らしに対応してそれぞれ3つのあそびがあったのでしょうか。


中谷──川沿いではもちろん水あそび、そのほか化石拾い。宿場町では学童や家あそび。山は林の中のかくれんぼとか斜面すべり、木登りなど3つの暮らしごとに多くの種類が出ました。


福島──歌で集落を象徴する楢山節考★6を思い出しました。最初は余計な情報も歌っていたけれど、最終的には大事な部分しか歌い残らない。つまり、あそびや歌を通して純化されていくのです。これまで私たちに欠けていた視点です。


石川──あそびという切り口は全住民がピンときたと思いますが、それぞれの人たちが遊んでいた記憶の範囲までしか遡れません。あそびをテーマに卒論を書いている学生がいますが、自分の父親の世代では海岸があそび場だったが、いまでは1人では行ってはいけないそうです。海があそび場ではなくなった時代というのは、ちょうど学校にプールができた頃と対応しているらしいです。環境が施設化していくと、元の環境があそび場ではなくなるのです。


福島──ひとつでいいから共通したあそびがあれば、違った切り口が見い出せるかもしれません。環境や地形コンシャスではない、村の掟のようなものです。


茨城県行方市麻生

松木直人──海の千年村では行方郡麻生郷に比定される茨城県行方市麻生を調査しました。事前に利根川の霞ヶ浦を見て回った際に、麻生が霞ヶ浦沿いの千年村の典型例として調査をできることがわかり、疾走調査と呼ばれる悉皆調査と詳細調査を1回ずつ行ないました[figs.9-11]。詳細調査では、麻生市麻生郷郷土文化研究会を中心とした地元の方々に、文献・実地調査から分かったことを発表し、意見交換を行ないました[fig.12]。その際特に注目したのは、集落が霞ヶ浦をどのように使ってきたかということです。結果、霞ヶ浦を大きな資源として、時代の変化に合わせて交通・漁業・取水源と利用法を変えていることがわかりました。


fig.9──茨城県行方市麻生大字領域図
大字境界によって、ゴルフ場の敷地が画然されているのに注目。ゴルフ場の受け入れが、大字単位によって決定されている可能性がある。千年村プロジェクトは、大字単位を村落単位の基本セットとして考えている。[作成=千年村プロジェクト][画像をクリックして拡大]

fig.10──霞ヶ浦沿いの古宿(ふるじゅく)の集落[撮影=千年村プロジェクト]

fig.11──古宿の集落構造・家屋ダイアグラム(現地にて作成)[作成=千年村プロジェクト]
[画像をクリックして拡大]

fig.12──地域の方々との意見交換会[撮影=千年村プロジェクト]

松木──一方、今回の調査で特筆すべきなのは地域からの情報の発信です。行方市は地域の持続要因である生産物や生業、文化財などをPRするパンフレットを豊富に作成しています。また、ウェブ上に地域情報プラットフォームを構築し地域活性化を行なっている、株式会社フューチャーリンクネットワークの宮嵜和洋(みやざきかずひろ)さんという方にお会いしました。宮嵜さんは大学の歴史科出身で、地域のイベントや店舗の情報に限らず、地域の歴史を同時に発信しています★7
このような千年村の活発な情報発信に出会うのは初めてであり、予定していたワークショップの必要性を感じなかったため、霞ヶ浦沿いの集落構造の分析や、地域住民の方々からのヒアリング情報をまとめたものを報告書としてまとめ、調査に協力くださった方に配ることとしました。


中谷──行方市麻生で、地域ワークショップを提案したときに非常に反応が鈍かったのです。理由を聞いてみると、すでに行方市で同様のことがたくさん取り組まれており、すでにさまざまなパンフレットの成果や地元情報の活発な発信がウェブでなされていることがわかりました。その品質が高く驚きました。このような地元の活発な活動を象徴しているのが、地元出身の若い元歴史研究者でありUターン組であると知りました。彼が地域おこしを主眼としたアプリケーションを扱うベンチャーネットワーク企業に現地採用されたのです。地域と大企業から派生したITサービスの企業、そして地元に生まれて帰ってきた歴史学者という3つが重なって行方をかなり面白く展開していました。これは私たちの出る幕ではないと考え、報告書を書いて渡したのです。


福島──四国では梅やみかんが名産品ですが、100年前まで栽培していなかったと聞きます。名産品と言われているものも、じつは意外と時代の流れに乗ってやっているのです。霞ヶ浦は30年前に淡水化されており、ドラマチックに水質が変わっています。それまでは海の魚をとっていたのに、ワカサギやうなぎなど淡水でも儲かる魚に意識的に変えているのです。このように漁業といっても人工的に変化しており、いい意味での強かさがあります。インフラのシステムも、周辺の田畑の取水源は霞ヶ浦かと思いきや、かなりの部分を霞ヶ浦とは違う山の上の溜池からとってきていました。大きなインフラとしての霞ヶ浦だけでも生きていけるはずなのに、苦労してつくらなければいけない小さなインフラも同時に共存し、いまでもその2つが維持されている。こうした強かさが千年村の特徴であり、霞ヶ浦のなかでも生き残る集落と、そうでない集落を分けるのかもしれません。


中谷──かなり特殊ですね。巨大工業地帯があるにもかかわらず、交通機関はやや行きにくい。湾は遠浅ですから産業も限られる。しかしながら環境の複雑さは、人間が生きる場所としての基本的な力を多く備えている。さまざまな要因が時には積極的に、時には消極的に作用する[fig.13]


fig.13──霞ヶ浦の変遷と使われ方(現地にて作成)[作成=千年村プロジェクト]
[画像をクリックして拡大]

福島──霞ヶ浦自体も湖として非常に特殊で、面積は大きいが水深は浅いそうです。広くて浅い海があるというのは雰囲気が独特で、陽の光が底まで届いてしまう。うなぎを獲っている漁協のおじさんに話を聞くと、直接取り引きすることでより高く売れるため、流通まで自分で行なっているそうです。都市近郊としての利便性を活かして、意識的に漁師の職能を拡張しているといえるでしょう。


石川──霞ヶ浦が淡水化されたのは、水源として利用するためですよね。


福島──工業地帯の誘致に際して水源が欲しいということですね。


石川──湖が都市の論理でまるごと施設化されたわけです。


福島──昨年にも出てきた話ですが、道や川などのインフラは長いあいだに何回も変化しています。霞ヶ浦も淡水化を自然に受け止めていることを考えると、これが最初の大きな変化ではないように思えます。

千年村プロジェクトの展開可能性
──1000年というスケールをどのように感じるか


石川──ここ数年「生存のランドスケープ」ということを考えています。生き延びるための工夫を通して、村が長持ちする秘密を探りたいです。神山町の調査もそのひとつです。


福島──石川さんのご専門であるランドスケープはどういった切り口になるのでしょうか。物語を収集するならば文化人類学のほうがよいようにも思われます。


石川──ランドスケープの切り口は、見えているものとそれを成立させている文脈との脈絡をつけることだと思います。さまざまな現象のなかで、暮らしから地域まであらゆるスケールにまとまりのルールを見つけることがランドスケープ的な観察の役割だと思います。


佐々木──局所的に良い地盤のところに家が建ち、ほかのところは畑地になっていたりもします。


石川──私たちが撮った石積みの写真を、石積みに詳しい東京工業大学の真田純子さんに見てもらったところ、幹線沿いは公共事業で積まれた可能性があり、伝統的な石積みではないという指摘をもらいました。私たちはハイブリッドも愛でるというメンタリティを抱いていますが、それはそれとして、コンクリートで固めない空石積みが石の隙間から水を通すことでより広域の水系を維持するというような仕組みには学びたいと思います。


福島──水についての話は、勾配をつくる仕組みをいかに設けるかということと関係します。U字溝になるかもしれないし、あるときは土かもしれません。石垣は集落のなかにフラットな面をつくる技術です。それをつくる技術が石垣であろうがコンクリートであろうが、いかにフラットな面をつくるのかに眼目が置かれていますね。


石川──伝統的な石積みは建設の規模に抑制がかかるため、フラットな部分を局所的に留めて谷の地形のなかに配分することになります。それぞれの部分に小規模な平面を確保しつつ、全体としては地形の改変を最小限にして大きなダメージを避けている。地形と楽に付き合おうという工夫、技術なんだと思います。それを観察するスケールが適正であればわかることです。


佐々木──地すべりや大きな洪水で山は動くので、大きな単位で構造物をつくると大変です。小さな単位であれば少しずつ修復できます。また、ヒューズのようなところをつくって大水はそこに流すなど、小さいスケールのほうがサスティナテブルです。


石川──地すべり地形にある棚田で、大きな岩や石の間を石積みの壁がつないでいたりします。そうしたところには、無理をしないで長持ちさせるという無言の方針が強く感じられます。私たちの身体のスケールや、寿命の時間的スケールから桁が外れているくらいのスケールの論理は、局所的には理不尽なものとしてあらわれます。古い村にはしばしば理不尽な掟があったりしますが、より広域的なスケールでは理にかなっていることもあるでしょう。


佐々木──なんとなく身体化して理解しているけれども、言語化できていない。暗黙知でしょう。


福島──私は見た目でわかる千年村を確立したいと思っています。私の研究室ではこれまで疾走調査を通して千年村的なものを身体化し、千年村を見る眼鏡を鍛えてきました。そこで千年村のダイアグラムをつくっています[fig.14]。それを見ることで千年村であると分かったり、昔がどうなっていて、未来がどうなるかを予測できるようなものにしたいと思っています。現地調査ではいまのことしか分かりません。現代の地図と150年前の迅速測図★8からそれぞれダイアグラムをつくり、その2つの比較から1000年前と100年後を類推できるような手法をつくることが目標です。福島研究室は疾走調査を相模川で始めたばかりなので、近々にもう一度行く予定です。まずは数をこなすことで千年村眼鏡を鍛えたいと思っています。


fig.14──集落構造分析ダイアグラム[作成=東京都市大学福島研究室 森秀太]

集落の基本構成(上)
ひとつの集落は、住居、田畑、バッファーゾーンの3つの要素からなる三重構造とそれらを二分する川や道で構成されている。三重構造は第1境界に住居、第2境界に田畑があり、第3境界は山があったり、なかったりと集落によって異なる。神社は第2境界、第3境界のいずれかに位置する。

集落の関係(中)
2つの集落の関係は、A>Bのヒエラルキー型とA=Bのフラット型の2つのタイプが存在する。ヒエラルキー型は、第3境界に神社や山が位置し、AがBより発展している。フラット型は、第2境界に神社が位置し、AとBの差がない。

集落の発展(下)
A>Bの集落はBの住居が第2境界に発展し、第3境界には大きな工場などができるが、Aは冷凍保存されている。A=Bの集落はどちらの住居も第2境界まで発展しているが、第3境界に工場は見られない。



福島──千年村の集落構造をダイアグラムにすると、中心に集落があり、その周りを耕作地と入会地が同心円状に囲んでいます。そして川や道のようなインフラで、たいてい集落が2つに分かれています。神社の位置がとても重要で、入会地にある場合は、分割された2つの村にヒエラルキーがあり、神社がある側の家は大きく、ない側は小さくなります。神社が耕作地にある場合は、2つの村にヒエラルキーがありません。その後の発展の仕方にも大きな違いが見られます。ヒエラルキーがある集落は、神社がある村は美しく保存されていますが、ない村は拡張し、入会地は工場化されています。ヒエラルキーがない集落は、2つの村が同じように発展しています。これらのダイアグラムと、現地の写真を組み合わせることで、見た目でわかる千年村にたどり着くのではないでしょうか。


中谷──すごく挑戦的だと思います。ダイアグラムを作成することは、地域の設計、いわば千年村設計に展開する第一歩ですよね。ダイアグラムの作成を有効な仮説として用い、具体的な計画に展開していくということです。2年後くらいには「有限会社千年村計画」もありうるかもしれません。


福島──実際に使えるようにすることが大事だと思っています。地図からは集落と耕作地、入会地、山、神社、インフラを抽出しています。これらをダイアグラム化するだけで、千年村を語れるようにしたいです。


土居──話題を少し戻して、神山町のことを話します。石川先生とはまったく別の経緯なのですが、私も2016年から神山町に少し興味を持ち始めました。ちょっと調べただけでも、すでに整理されたり調査されたりした資料が、ゴロゴロと出てくる。ここで、千年村プロジェクトにおける地域経営の観点からポイントになるのが、近代以降の記録です。1000年のスパンからみれば、ごくごく最近の話ですが、この最近の変化を資料できちんと追えることが重要です。例えば食文化です。1978年に、徳島農業改良普及所神山支所が出版した『神山の味』という冊子があります。この冊子は、神山町のFood Hub Projectも注目しているらしいのですが、要は、当時のレシピ集です[figs15,16]。私の若い友人などは面白がって、いくつか再現してますが、信じられないほど砂糖を大量に使うとか、手打ちうどんが「新しい料理」として紹介されているとか、いろいろと面白い事実が確認できます。この『神山の味』は一世代前の話ですが、神山町の食文化については、たまたま戦前の調査記録もあるので、ここ100年足らずのあいだに、どのように食文化が変化してきたのかを、かなり具体的に追えるのです。同時に、何を「伝統」として見出してきたのかも、きちんと追うことができる。いま現在、神山町を訪れて手打ちうどんをふるまわれたら「おぉ『伝統』の味だ!」と思い込んでしまうでしょう。「そんな『伝統』は偽物だ!」と糾弾するためではなくて、むしろ、過去の人々が創意工夫を重ね続けてきた現在完了進行形である伝承を捉える視座は、千年村プロジェクトそのものだと思います。


fig.15──ほうれん草とこんにゃくの白和え[撮影=長谷川雄生]
fig.16──レシピ[引用出典=『神山の味』(徳島農業改良普及所神山支所、1978)]
[画像をクリックしてレシピを拡大]

石川──ほかの例として、取り壊された土蔵から出てきた白黒フィルムなどがありました。それを見ると、私たちが知っている有名な洗練された阿波踊りがとても最近のことだということがわかったりしました。


土居──現在の情報インフラでは、アクセスポイントさえ間違えなければ、誰もが信頼性の高いリソースを直接参照できる。元永さんが作成された千年村マップがよい例です。ネットで使える地図といえば、Google Mapsと、iPhone標準装備のマップしか知らなかった人たちを、千年村マップにアクセスさせるだけでも、各段にリテラシーが向上します。あとは、その土地の公共図書館などが所蔵する、郷土資料を整理した二次資料へ適切なアクセスさえできれば、結果、学生に限らず一般市民に、いわば千年村リサーチャーがどんどん増えることになるでしょう。そんな将来を想像するのは、じつに面白い。もちろん小学校・中学校の教材としても、千年村マップはとても素晴らしいものです。そもそも前世紀だったら膨大な手間がかかった、地図を切り替えつつ重ねつつ確認する作業が、瞬時にできるのですから。その意味では、適切な二次資料へのアクセスをガイドすることも、千年村プロジェクトの担う役割かもしれません。


元永──いま土居先生のお話を聞いていたら、まだやることがあるのだなと思いました。千年村のウェブサイトでは、成果物にアクセスできることも必要ですが、個々の成果物の理解を深めてもらうこと自体を目指してもあまり意味がありません。千年村憲章で伝えたいことをウェブサイトでわかりやすく表現せねばと痛感しました。おそらく千年村と聞くと、伝統を大事にしていると理解されますが、そうではなく「コンクリートの石垣でもいい」という視点を分かりやすく伝えたいですね。


石川──そして、そういうリソースはまさにいま拾っておかなくてはならないと思います。終戦時に20歳前後だった方々が亡くなり始めているので、情報そのものがなくなり始めている時代であることを強く感じています。


土居──千年村プロジェクトでもとりわけ地域経営に関心を持つ者として、いま「地域振興」やら「地方創生」やらさまざまな名称で呼ばれる全国各地での取り組みを無視することはできません。とりわけ注目したいのは、自発的に地域間相互でネットワークを組み始めた潮流です。例えば地域共創カレッジなどは、岡山県の西粟倉村、徳島県の神山町と上勝町、島根県の海士町、宮城県の女川町、この計5地域それぞれで地域経営の一端を担う人々が連携しています。私は2016年に海士町、西粟倉村、神山町の3地域を訪問したのですが、神山町は石川先生が先に指摘したように千年村といえますし、海士町と西粟倉村などは、千年村マップでも候補地に挙がっています。地域経営の挑戦を進めている各地のベースに、千年村的な環境があるのです。


中谷──私は「千年村思想」というものを広げることができるかなと思っています。冒頭に説明したように憲章をつくるにあたり、はじめは「これからの千年」ということを書いていましたが、そもそもこの活動が東日本大震災のときの危機意識から生まれたことを考え、むしろこれから1000年もつのかという問題提起にしたほうがよいと急転回しました。つまりこれまで持続していたことが、われわれ以降でダメになってしまうかもしれないという危機感があるのです。それを書いたほうがむしろ的確な方向性であろうと思いました。
それから2013年にユーラシアプレートとほかのプレートの境界を歩いたときに、目の前の風景がどういうかたちで成り立っているのかがおおよそ分かるような気がしました★9。眼前には例えば3億5000年前などといった地質が、地中から隆起しています。それが1、2万年で侵食され、耕作のできる平地をつくります。人間がそのなかの2、3000年で住み着いているのです。ですから千年村はそれほど難しいとらえ方ではありません。現在の風景には私たちが1000年を感じることができる前提がすでにあるのです。その見方、感じ方をしっかり思想にしていかねばと思っています。加えて、佐々木先生の言っていたキャラクターと持続性のアセスメントはとても重要です。例えば何億年ものレイヤーに直接的に関係するのは災害のレベル。私たちにとっての1000年というのは、自然地層との問題からすると、なにをしてもブリコラージュのレベルで展開しているに過ぎなかったはずでした。ところが近代技術というのは、何百万年といった規模で効いてくる災害を起こしうるほどになってしまいました。このようなさまざまな時間層が一気に露出している空間の中で1000年間を扱うといった姿勢をもちたい。現在において、1000年と1億年は同時に存在しています。これを感じられるのはきっと経験ですが、そこに書く理由があります。つまり自ずと分かるものではないのです。


佐々木──現象学的風景論のようですね。現象学的千年村といってもいいかもしれません。物理的に環境をつくっているのは人間で、人間の行為を方向づけているのが物理的な環境。この表裏一体のサイクルを、自分たちの管理可能な範囲のなかで、持続させていく方法論によって環境と人間の関係を構築していく。こうしたマインドをもった人間を育てる環境をつくりたいと考えています。自分たちの地域の特色を読み取ったり、方向性を思い描く構想力を、いま見えている風景から感じとれる人です。そういうマインドを育むような町とか風景はどんなものなのか。いまやそれは自ずと生成されるわけではありません。意識してつくっていかなければならない。そのときの鍵になる表象としての風景の翠点、これを発見する方法論を考えています。


[2016年12月18日、早稲田大学にて]


★1──千年村プロジェクトでは、平安期の文献『和名類聚抄』をもとに千年村の候補地をプロットしている。
★2──「塩ビ管の鳥居」(撮影=千葉県佐倉市飯田、2015)
★3──「千年村チェックリスト」は2017年3月31日に公開され、ウェブサイトからダウンロードすることができる。
★4──今和次郎が訪ねた民家・集落調査地を、約90年後に再訪するプロジェクト。おもなメンバーは中谷礼仁、石川初、菊地曉、福島加津也、御船達雄、清水重敦、大高隆ら。成果は『今和次郎「日本の民家」再訪』(平凡社、2012)にまとめられている。https://www.10plus1.jp/project/kon/
★5──「五海道其外延絵図 中山道分間延絵図 第3巻」(東京国立博物館デジタルライブラリー)http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0007523
★6──小説家の深沢七郎による、民間伝承である棄老伝説を題材とした短編小説。村の盆踊り歌、楢山祭りの歌を解釈することで小説が展開する。
★7──「なめがた日和」http://namegata.mypl.net/
★8──明治初期から中期にかけて行なわれた簡便な測量法とその成果の地図。
★9──中谷礼仁『動く大地、住まいのかたち──プレート境界を旅する』(岩波書店、2017)を参照。


中谷礼仁(なかたに・のりひと)
1965年生まれ。歴史工学家。早稲田大学創造理工学部建築学科教授。著書=『国学・明治・建築家──―近代「日本国」建築の系譜をめぐって』(波乗社、1993)、『セヴェラルネス+──事物連鎖と都市・建築・人間』(鹿島出版会、2011)、『動く大地、住まいのかたち──プレート境界を旅する』(岩波書店、2017)。共著=『近世建築論集』(アセテート、2006)、『今和次郎「日本の民家」再訪』(平凡社、2012)ほか。

石川初(いしかわ・はじめ)
1964年生まれ。登録ランドスケープアーキテクト(RLA)。慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科/環境情報学部教授。著書=『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』(LIXIL出版、2012)。共著=『READINGS〈2〉ランドスケープ批評宣言』(LIXIL出版、2002、2006[増補改訂版])、『今和次郎「日本の民家」再訪』(平凡社、2012)ほか。

福島加津也(ふくしま・かつや)
1968年生まれ。建築家。福島加津也+冨永祥子建築設計事務所。東京都市大学工学部建築学科講師。建築作品=《中国木材名古屋事業所》(2004)、《柱と床》(2008)、《木の構築 工学院大学弓道場・ボクシング場》(2013)ほか。

元永二朗(もとなが・じろう)
1968年生まれ。ソフトウェア技術者。「東京時層地図(iPhoneアプリ)」開発。論考=「Grounding on Datascape」、「時間遡行、地形観察、幻影のグラウンディング──その手法と実践の記録」(いずれも『10+1』No. 42)ほか。

佐々木葉(ささき・よう)
1961年生まれ。早稲田大学創造理工学部社会環境工学科教授。景観論、土木構造物のデザイン論、土木史。共著=『景観用語事典』(彰国社、1998)、『風景とローカル・ガバナンス──春の小川はなぜ失われたのか』(早稲田大学出版部、2014)、『ゼロから学ぶ土木の基本──景観とデザイン』(オーム社、2015)ほか。

土居浩(どい・ひろし)
1970年生まれ。ものつくり大学技能工芸学部建設学科准教授。民俗学/地理学、日常意匠研究。共著=『風景の事典』(古今書院、2001)、『はじめて学ぶ民俗学』(ミネルヴァ書房、2015)、『仏教史研究ハンドブック』(法藏館、2017)ほか。


201704

特集 フィールドワークの諸相──「野」の歩き方


エクスペリメンタル・フィールドワーク・ガイド
夜の登歩──グラフィティ・ライターと都市の自然
フィールドワークと在野研究の現代的方法論
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