[座談会]千年村プロジェクトの始まりと活動報告

中谷礼仁+石川初+木下剛+福島加津也+元永二朗

1──千年村プロジェクト前夜──古凡村の発見

──千年村プロジェクトという、震災後の状況とより長期的な住環境のあり方双方とを考え実践していこうとする運動が進行中です。今回はその初期からのプロジェクトメンバーに集まっていただきました。
まず千年村とは、千年以上にわたりいくたびもの災害や変化を乗り越え、持続的に営まれてきた集落・地域のことをさしています。千年村プロジェクトは、その候補地をさがし、現地調査し、成果を公開し、地域をたたえ、そして交流を促進するためのプラットフォームとして構想されました(http://mille-vill.org/)。 2014年からは関東と関西に研究拠点を持ち、環境・集落・共同体に関する諸分野の研究者・実務者らと学生たちによって運営されています。今日はこれまでを振り返りつつ、改めてこのプロジェクトの今後について語っていただければと思います。


中谷礼仁──ことのはじまりは東日本大震災直後、研究機関でなにか貢献できる方法はないかと、石川初さんや元永二朗さんに相談したのがきっかけでした。なんとなく地図ベースのものになるだろうという勘があったからです。と同時に、現地に行かなくてはいけないとも感じていました。全く方法論としては未完成だったのですが、だんだんと特異なネーミングはできはじめて、最初は千年村ではなく「古凡村(こぼんそん)」と呼んでいました。石川さんの命名ですね。2011年夏ごろのことです。


石川初──「持続している丈夫な普通の村」ということですね。手元のPCで遡ると2011年4月に最初のメールが来ています。中谷研究室が早稲田大学内の「東日本大震災による被災復興に向けた研究プロジェクト」に応募するということで、協力要請の連絡をいただきました。記録によると、その後7月に「被災調査復興に関するブレスト」を行っていて、7月27日に「第1回古凡村ゼミ」が開かれた議事録があります。それ以前は「動的交通マップのプロジェクト」ということで、国土をもう一度描き直す地図などを考えていましたが、まず被災地へ行って何ができるか考えましょうという話に変わっていったようです。


福島加津也──なんとなくスタートしはじめたのは7月なので東日本大震災から4カ月経った頃ですね。


中谷礼仁氏

中谷──そもそもの始まりは学生からの行き場のない叫びでした。当時学生で、現在京都のRADに所属、もちろん現在は千年村プロジェクトメンバーの本間智希(関西研究拠点所属)さんなどの世代ですね。東日本大震災では、建築環境が諸問題のひとつだったことは確かなわけで、強い危機感や反省がありました。


石川──「アーキエイド」をはじめとする色々な建築家グループによる復興支援活動が始まっていましたが、それとは少し違う形のものを考えようとしていました。ブレストをしているうちに、建築史という長期的に物事を見ていく集団の役割として、今ヤバいところに注目するより、何かダメージを受けた時にそれをバックアップできるような「優秀な控え選手」を沢山育てていくこと、その控え選手の秘密を探ることが重要なのではないかという話になっていきました。当時、岩手の遠野は比較的被害が少なく、被災地をバックアップする役目を担っていました。ちょうど同時期に、私の所属する造園学会でも広域のバックアップ体制としての「流域」が着目されていました。また、東北地方にはなぜか伝建地区が少ないことも当時の議事録の話題に出ています。


中谷──震災発生からすぐ、文化財レスキューが動き始めていました。一方で、職人さんがいなくなったために、土蔵の壁とか瓦が落ちると、簡単に修理できるはずなのに、がんがん取り壊されていきました。日常的風景が、一人の職人の不在、一つの技術の忘却からむしろ意識的に地震後に破壊されていっているということに大きな危機を感じました。建築を含んだ環境のリハビリテーションに対して、もう少し長期的かつ日常的に考えられる方法を構築できないかと考えていました。ただ、具体的に何をすればよいかがわからず迷っていました。そんな中で2011年5月に造園学会主催による気仙沼周辺の視察がありました。私も同行させていただいたのですが、そこで環境系の皆さんの地形の見方や理解に驚きました。


木下剛──これだけの大地震ですから地形だって変化するだろうという認識でしたが、建築畑の中谷先生はそもそも建築を建てる土地が丸ごとなくなっているということに衝撃を受けていました。


中谷──住所が与えられた土地が海底に沈んでいるのを見て、建築と国家の関係が明瞭に見えたのです。つまり、建築は国家が許可してくれないとつくることができませんし、その国家、そしてそのインフラを支える近代技術も大きな災害には対抗することには限界があるのだということを実感したからです。


元永二朗──途中のブレストの中で、震災で壊れてしまった村ではなく、残っている村が大事なのではないかという話がありました。


中谷──それを言われたのは防災学の長谷見雄二先生でした。被災地訪問ショックから抜け切れていない時に集まった、先の「東日本大震災による被災復興に向けた研究プロジェクト」の会議でのことです。席上、長谷見先生から「壊れていない村」を調べるべきという示唆がありました。これが青天の霹靂になりました。会議が終わって、長谷見先生にそのアイデア実行させてくださいと言いました。方法論が見つからなかった最中の長谷見先生のこの言葉によって「もう一度建築や歴史を始められる」と思いました。


fig.1──東日本大震災において、地面が見えなくなった被災地。千年村プロジェクトの原点を象徴する写真。(撮影=中谷礼仁)

福島──以前に今和次郎の民家研究をしていた瀝青会からの展開という点も大きいですね。


中谷──瀝青会では、今和次郎『日本の民家』(1922)に収録されている民家を探し当て、その家の変容からこの約100年の変容を検討するという活動を行ってきました。今和次郎が重要なのは有名ではない「無名の民家」を紹介していることです。彼の選択には当然ながら理屈があったのですが、われわれの再訪時点で、訪問先はすでに決められている。私たちはその後の変容を見ればよい、つまり恣意的に「無名」の民家を探す必要がない。これは実は重要な方法論だったわけです。


石川──今和次郎民家再訪研究が終わった直後でメンバーが感化されていたこともあり、文化的に価値があると考えられていないものにも着目しようとしていました。イメージとしては、民家を見る今和次郎さんや看板建築を見る藤森照信さんのような視点です。伝建地区よりも伝建地区を成立させる環境そのものの評価軸をつくるような、建築史的価値の拡張です。弱い技術からなる強い村、免疫的防災のこと、また、造園史、建築史、建築家のネットワークとしての展開を構想しようとしていました。


福島──瀝青会は、古いものをランドスケープの観点や工学から再評価し、「使える」ものにしていく活動でした。論文ではなく設計のネタとしても使えると思っていました。瀝青会が終わってしまって寂しかったのですが、また呼んでいただき、渡りに船でした。




fig.2──全調査員が共有している「千年村の4要素」(作成=千年村プロジェクト)
fig.3──千年村プロジェクトは4つの段階に沿って活動を行っている。関東研究拠点の場合
(作成=千年村プロジェクト)

石川初氏

石川──瀝青会でも、その後半では、今和次郎が調べていた民家が既になくなっていても集落が残っているのはなぜかという視点が出てきていました。集落が長生きするのは、土地利用として無駄なものをそぎ落としながらも、農地や生産機能を残してきたからです。普通の村の強靭さに注目していました。


中谷──ゼミの議事録に「伝統的平凡地区」という言葉が残っていておもしろいですね。それが「古凡村」というタームにつながった。


石川──最初期から今に続く問題が提起されていますね。


中谷──2011年8月3日には石川先生から千葉大学の木下剛先生を紹介されて、木下先生にこのプロジェクト参加の打診メールをしています。返信には、「中山道の旧妻籠宿一体の伝建地区は背後の広大な山林を含んだものである」というような指摘をいただいたりしています。


木下──土地利用のレベルでの歴史性や伝統性は間違いなくあり、それを評価する基準が確立されていないと私も感じていました。建築やランドスケープの造作が変わっても、土地利用のシステムや地割は持続しているということはよくあります。


中谷──その後、第2回古凡村ゼミではその選定基準について議論・検討しています。はじめから彼方にゴールがあることがプレイヤーには見えていた。

2──地名学の召喚と地図の作成

中谷──さきの無名性の研究においては、客観性が重要です。無名なものをどう探せばいいのか?センチメントや恣意性に陥らないよう、それをいかに客観的に構築するかが大きなハードルでした。瀝青会では今和次郎訪問地を根拠にしましたが、ここではその代わりに地名学を召喚しました。つまり古代の辞書に載っている地名の現在の比定地をプロットしていけば、まず候補地ができあがるわけです。しかしその資料が客観性を帯びるには少なくとも何百かの地域が判明することが必要です。言うは易し行うは難しで、最初、古事記や日本書記でやってみたのですが、あまりにも少なくてこれは撃沈。平安時代につくられた辞書である『和名類聚抄』が使えるという発見は学生からの報告でした。地名学者は日本の地名の原基とし『和名類聚抄』を使っているということは、私自身恥ずかしながら意識していませんでした。僕の知らないところで学生自身が何かしなければいけないということで調べていたようです。そこには約4000の郷名が記載されていました。その中から地名学者が大字レベルまで比定しているのが学生たちによるカウントで約2000。これはちょっと学生には大変だけど、実行可能な作業量で、これをリスト化していけばいい。


福島──中谷研の西吉永一さんから角川書店の『日本地名辞典』の元になっているのは『和名類聚抄』だという報告でしたね。


fig.4──平安期文献の『和名類聚抄』を基に、千年村プロットが行われた。地名学者の比定研究に基づき文献記載中の約半数をプロットした。この空間プロットが千年村プロジェクトのブレイクスルーになった。(作成=千年村プロジェクト)

元永二朗氏

元永──最初はとにかく「Google Earthに集約してほしい」ということを学生に伝えて、マッピングを始めました。古い地名を今の地図に探し、プロットしていく作業です。


石川──Google Earthを使って全国規模の地図をつくってみることで、初めて「千年ある村」ということの実体やスケールがわかった気がします。千年経っていると大津波は何度か来襲しているし、九十九里や仙台平野のような地域には千年村はないなど、身も蓋もない結果が見て取れました。また、沖積平野の縁に位置しているものが多いという明らかな傾向も見えてきました。個別に見てもなかなかわからないものですが、その地図を見て、これは調べるに足るという確信を得ました。




fig.5──千年村プロジェクトと現在地図の重ね合わせ。分布が可視化されたことで調査地確定へと繋がる。
fig.6──千年村プロジェクトと現在地図の重ね合わせ。千年村と地質とは深い関連があると考えられる。(作成=共に千年村プロジェクト。HP:http://mille-vill.org/

中谷──Google Earthというインフラがあったということは幸いでしたね。地名学者は比定はしたのですが、それら全てをマップという空間上にプロットはしなかった。これを行ったことが作業上のブレイクスルーになりました。


石川──併せてさまざまな地質図や植生図も公開されていましたので、マッピングの環境が整っていたと言えます。平安時代の人が『和名類聚抄』をつくっておいてくれて本当に良かったですね。元々は税の徴収、つまり租庸調のためのものですね。


中谷──現在の千年村プロジェクトでは地域を評価する際には生産、共同体、交通の三位一体とその間に形作られる集落構造という4要素を用います。実はその主要は、租(米-生産)、庸(労役-共同体)、調(特産物-交通)にすでに表れていたわけですね。


石川──米が穫れる、健康な人が沢山いる、資源が豊富にある、という3つは現代でも集落のサバイバルにとって重要な要素ですね。


中谷──「古凡村」というのは石川さんの命名でしたが、その後「千年村」という言葉が浮上してきました。なにか強い潜在力のある言葉だと思って意識的に使い始めたことを覚えています。訪問先で「なぜ千年なのか」とよく聞かれますが、「古代ギリシャ文明が兄になる」と説明しています。「万年村」だと縄文人はいましたが有史以前ですし、「百年村」だと格がない(笑)──「千年」は人間が有形無形の文化、さらには環境の変化の歴史を考える優れた物差しになっているのはではないでしょうか。その証拠に中世キリスト教世界にも千年王国説がありました。千年には危機的な状況において、どう自分たちの歴史を編成するのかという問題が孕まれているようなのです。17から19世紀のアメリカでも大覚醒(GREAT AWAKING)という類似した考え方がありました。パラダイムを変えようという時に千年という単位が召喚されているのです。


石川──「古凡村」だと理解されにくいので「千年村」の方がネーミングとして上手だなと思いました。また、後から考えると、アメリカやオーストラリアなどの「新興国」を出し抜けるのが良いと思いました。手がかりがないくらい過去のことでもなく、最近のことでもなく、絶妙な塩梅です。


福島──ヨーロッパで千年を考えてみると、フィレンツェなど都市国家はありましたが、今のようなイタリアという国はまだありません。百年前は現在からの連続でなんとか調べることができそうですが、千年前のことだと限定された手がかりから類推せざるを得なくなり、それが発見的な調査につながっていきますね。


中谷──鎌倉時代が射程に入りますから、建造物がそこそこ残っていますし、一方でわからない部分もある。それがおもしろいですね。



石川──千年というスコープがリサーチと論証をおもしろくしてきたと言えます。

3──千年村調査方法の確立

石川──まず東北地方の地図を見て、地質図や地形図と見比べたり、川の流域を追いつつ条件を絞っていきました。そして最初の調査は宮城県大崎市の三本木へ行くことにしました。2011年9月のことです。ただ、当時はまだ闇雲に調査してみたという感じでした。消防団や水路に注目してみたり......。


福島──三本木は、東北で津波で被害にあった村とそうでない村の境(エッジ)にありましたが、最初に行った時には正直よくわかりませんでした。古くから残っていることを感じることができる体にまだなっていなかった。


中谷──普通な村の偉大さに触れた最初でしたが、建築史的には何をしたらいいかまだ分からなかった。


福島──「疾走調査」を行ったのがジャンプでしたね。疾走調査から詳細調査という順番が確立されました。


中谷──第1回疾走調査は2012年5月で、千葉へ行っています。


木下剛氏

木下──千年村の調査方法ですが、疾走調査と我々は呼んでいますが、まずあるエリアにおける『角川日本地名大辞典』から拾ったすべての郷(古代律令制下における最下位の行政単位)の比定地を数日間かけて車で見て回ります。やはりあるスピードを持って数を見ることでわかってくることがあります。その後、なぜ千年続いてきたかという持続性の要因に当たりを付け、そのような観点から調べるに値するおもしろそうな村を2〜3決めて詳細を調べるという流れです。詳細調査の前には文献などで十分な下調べをします。そのうえで現地では数日間かけて村の人たちと一緒に調べたり、インタビューをしたり、ワークショップを開催したりしてわれわれが見立てた持続性の要因が正しいかどうかを現地の方々と共に検証します。


中谷──『和名類聚抄』に掲載されているから千年村なのではなく、それらはあくまでも候補地です。とにかく訪れて感じなければはじまらない。そのときライバル視したのが藤森照信、堀勇良さんの建築探偵団。かれらのスローガンに「全部見る」「全部調べる」「全部会う」というスローガンがありました。あれを無謀だがやってみようと。しかし、さすがに1,900強は無理なので、とりあえず関東班として一都六県分の366の村はすべて見ようと思っています。関西にも当然沢山村があるので、京都工芸繊維大学の清水重敦先生や京都大学の菊地曉さんたちに関西研究拠点を作っていただき共同研究に発展しました。


fig.7──調査中に千年村風景を「画像」と「言葉」をセットにして投稿する。千年村を記録し、共有し、公開する。(千年村Tumblr

木下──関西地方は郷の範囲を推定できる史料がたくさん残されているそうで、千年村研究のフィールドとして期待できます。


福島──関東では、東京は少なく千葉が多いという傾向がありました。最初はそれを不思議だと思っていました。


石川──房総半島を見ると、川の流域がコンパクトで、丘陵・山地、水、集落、低地の水田、海がしっかりパッケージとして存在しています。そういう目で東京を見直すと武蔵野台地は貧しいですね。こんなところで人はどう生きていくのかと思ってしまいます(笑)。


中谷──千葉の地形のミクロな豊かさに心打たれました。山から海まですぐです。そこにいろんな襞があって人間が住んでいる。平坦だと重力の恩恵が受けられませんが、山と谷があれば雨(水)を利用して畑、田ができます。千葉にはそういう意味でユートピアが沢山ありました。「なんだ隠していたんじゃないか」と思いました(笑)。


石川──「豊かに生きやがって」みたいな(笑)──いつブレーカーが落ちてもローカルのバッテリーで長生きできそうですよね。川の流域ごとに独立できそうなほどです。


福島──千年残ってきた村と聞くと、地盤が固いとか、広い土地があるなどの印象を持ちますが、実際には地形と地形、地質と地質の端境にある事例が多く、そこには必ず平地と斜面とのセットが見られました。千葉ではそれがビジュアル的にも明快で、とても美しかった。


中谷──三本木の調査では私達の能力不足でつかめなかった何かが、千葉の調査で捉えることができたと思います。山とその高低差を利用した重力系があり、一方で市原市の島野地区は平坦でした。そこは海の近くで平安時代はおそらく島だったのではないかと思います。暴れ川があり、ほとんど海か川かわからないようなところに「微高地」がありました。微高地とは川の流れによってできた自然堤防で、1メートルどころか数十センチにも満たないものです。それなのに災害のときに生死を分けるわけです。島野では扇型の微高地の上に集落が住み着きました。その扇の形は、河道のカーブによって作られたものです。川だったちょっと低いところが一面の水田になっている。夏に行くとその集落が水田の中の島になっていて、すごいユートピア感があった。


木下──大地形のスケールで見ると氾濫原、デルタということで危なそうなのですが、解像度を上げて見るとそのなかでも微高地(自然堤防)が選地されており安全です。島野地区はそうしたモデルケースになりましたね。


中谷──島野は観光地化されていませんから、今まさにその地形特性を考慮していないような幹線道路の計画がありました。




fig.8──詳細調査より、「流域」による調査方法が新たに開発された。
fig.9──詳細調査で発見された旧河道と微地形による持続要因。微高地が居住地となり、旧河道が水田となっている。(共に千葉詳細調査島野地区、作成=千年村プロジェクト)

福島──千年村には、地図や航空写真から巨視的に見てわかることだけでなく、実際に行って微視的に見ないと分からないこともあり、複数の視点が必要ですね。建築とランドスケープ、民俗学などの複合チームであることの強みです。


木下──千葉県にはコンパクトながら多様な地形立地の千年村があり、そこで得た知見があったことで、利根川流域でも、なぜ過去の人があの茫漠たるところに居を構えたかが見えてきました。


中谷──今年9月に鬼怒川の決壊があり、木下さんが調べられていましたが、浸水を最小限に抑えた宅地も微高地でしたね。

4──無名の豊かさ

中谷──個々の調査で印象に残っていることをお話しください。


福島──僕は千葉と利根川流域の違いがすごく印象的でした。千葉の千年村はビジュアルとして美しく、千年村たる理由が見た目でよくわかる。一方利根川流域の千年村は、関西から関東へ抜けるルートと関東から信越へ抜けるルートの交差点で、交通の要所でした。たとえば高崎市山名がそうですね。今は山の上の行き止まりの集落ですが、実は鎌倉街道の重要な宿場町だったのです。千葉とは違い、現在からの視点だけでは見えてことないことが千年村ではあるのです。


中谷──山名にはかつて城址があり、小競り合いをしていたので人びとは山の上に住んでいました。その後少し平和になり、武士たちが山の裾野に寝るための「根小屋(ねごや)」を建て始めたのです。街道の話だけではなく、いろんな事情が関係しています。


石川──まさに「千年ベッドタウン」なんですね(笑)。





fig.10──利根川流域疾走調査では、流域をターゲットに5日間で49箇所の千年村を実見した。
(作成=千年村プロジェクト)
fig.11──ドローンによる空撮の調査風景。虫の目と鳥の目を繋ぐ調査方法により、新たな発見が生まれる。(撮影=千年村プロジェクト)
fig.12──ドローンによる空撮調査。
(「千年村関西研究拠点+Y-CAM鋳銭司調査」、撮影=千年村プロジェクト)

木下──私の一押しは千葉県の旧平群郡達良(たらら)と旧海上郡佐是(さぜ)です。前者は現在の富浦町多田良付近に比定されますが、ここは波浪によって形成された浜堤(ひんてい)と呼ばれる微高地に集落を置き、漁業を基盤としながらも浜堤間の後背湿地に水田を開くという環境・集落構造を今に伝える千年村です。後者は現在の市原市佐是に比定されます。こぢんまりとした段丘に集落を乗せてある種隔絶した世界を築き、養老川沿いの水田で献上米を産出したこともある千年村です。川沿いの低湿地での宅地開発は頑なに避けられています。


石川──僕が忘れられないのは、高崎市の倉賀野です。村には団地があったり、新建材の家がありますが、住宅地のすぐ裏に古墳が残っていたんですが、古墳を取り巻く環濠が水田として、盛り上がった前方部は畑として、さらに高い後円部は雑木林として、古墳の地形をあますところなく骨までしゃぶるみたいに利用されていました。里山パッケージとしての前方後円墳。千年という時間の中で古墳が完全に地形視されているのです。環境を資源化するしたたかさがすごかったですね。


福島加津也氏

福島──生き延びるためのタフさはすごいですね。捨てるものは平気で捨てています。利根川流域には数百メートル動いている集落がいくつもありました。当時の行政によって道が付け替えられたので、集落ごと引っ越しをしているのです。千年村には古いから残そうという情緒的な感じは全くなく、生き延びるために役に立つことを冷静に選択する合理性を強く感じます。


石川──「ヤッサ祭り」で知られる群馬県の小川島地区では、柱に物干し竿を掛けるために馬の蹄鉄が使われているのを見ました。明らかに、アンティークな趣味ではなく単に使いやすいからなのです。物事をクールに「資源視」しているのです。情緒の力だけでは残すことはできません。


中谷──残っているということ=資源性が高いということです。それが歴史的堆積が工学に寄与する部分なのだと思います。 印旛沼の土手住もすごかったですね。沼が干拓されるとその堤防に沿って新しい住居が建てられたらしく、幾つもの干拓の機会とともにまるで縄跳びのカーブの線に沿ったように一列の住まいができていた。住まいが干拓際の先行形態をなぞっているのです。


石川──「土手住」は衝撃的な風景でしたね。印旛沼の干拓の歴史がその集落の年輪になって残っているのです。今はもう印旛沼がないのにその畔のように残っているのです。千年村マップの地点でなかったので詳細調査の対象にはなりませんでしたが、いつかまた調査に訪れたいです。
小川島では新建材と古民家材がフラットに使われていましたが、そうしたスーパーDIYのような技術、「千年ブリコラージュ」とも言えるような......。日常的なスケールにおいても、まるで農機具を改良するようにかつての納屋をガレージにしていたりする強さがあります。



fig.13──土手住まいの歴史。段階的な干拓の歴史を表すように家屋が配列されている。

福島──学生は歴史的なものを見る機会が少ないので、古い集落に行くと日本人は古くからこうしたところに住んでいたのかと驚き興奮します。しかし、そうした歴史を目の前にした時「現代とどのようにつながるのか」という重要なテーマを感じ、戸惑いも持つようです。地形や地質は千年持続しますが、建築は千年持続できません。建築の中に千年持続する秘密をどのように見つけるかが大きな課題です。先ほどお話しした役に立つことを情け容赦なく選択する合理性、それは即物性と言っていいのかもしれませんが、そういうものが建築チームのキーポイントになると思っています。
現代の建築教育はある転換期にあります。ヨーロッパでは、学生が椅子に座って図面と模型をつくるだけではなく、実際に建築をつくるワークショップが近年盛んに行われています。建築には現実的な実践が大切です。古い民家の平面図や断面図などを実測した瀝青会は貴重な体験でした。そしてそれとはまた異なる点で、千年村にも建築教育のヒントがある気がしています。私の研究室では今、千年村にある即物的につくられた物の作品集をつくろうとしています。この即物性には、千年村の住人のものを作る技術が無意識的に表出しています。持続の秘密が建築として残らなくても、日常の技術として継承されているかもしれないのです。


石川──それはいいですね。建築学生は写真を撮る時に電柱を入れないという悪い傾向があります(笑)──絵葉書のような麗しき写真を撮ってしまうのです。中谷研の学生は教育が行き届いているので、わざとそう撮っているとしか思えないような「駄写真」を撮っていますね。身体が宮本常一になるようなトレーニングをしなければいけませんね。
合理性、即物性という意味では、「塩ビ管の鳥居」は短期的な機能としてではない何かがありますね。生産的な機能に割り切れない不気味な合理性というか。


中谷──あの既成品をカスタマイズした鳥居は衝撃でしたね。でも「塩ビ管──鳥居」でインターネットで検索したら他にも沢山でてきました(笑)──即物性で思い出したのは、宮本佳明さんが「ヘタ地不滅の法則」と言っています。農道に街道が重なり、不整形の敷地やヘタ地(三角形の土地)が生まれます。そこに家を建てるとまた敷地内にヘタ地が生まれます。それを埋めようとしても延々に発生しますが、最後は植木鉢が3個置かれるとか。環境から建築、そして猫の額までかたちは連鎖しているのです。


fig.14──塩ビ管の鳥居(千葉県佐倉市飯田、撮影=千年村プロジェクト)
fig.15──不整形ヘタ地(神奈川県厚木市飯山、撮影=千年村プロジェクト)

5──千年村的無意識の意識化


木下──島野地区の調査が印象的であり、また意味があったと思うのは、現地の人たちが全面的に協力してくださったことです。公民館を開放し、炊き出しまでしていただきました。また、われわれの実地調査に付き添ってくれたために、自由にいろんなお宅に入ることができました。そうした調査はその後できていませんが、ひとつの成功例だと思います。島野地区ではさらに詳細調査の結果を地元に還元する報告会を行いました。そこで印象的だったのは、われわれが見込んだ持続性の要因、つまり微高地を活かした土地利用や生産活動を住民の方々はそれほど意識されていなかった、無意識のうちになされてきたということです。他の千年村でも、多くはその持続理由が意識されておらず、それらを掘り起こしお伝えすることにも意義があると思いました。知っているのと知らないのでは村の今後にとってまったく違いますので、今後の村づくりの一つの判断材料にしていただければと思っています。
今は報告会からさらに発展して、村の人たちも参加し持続の要因について共有するワークショップの形になっています。その村の特徴である「キャラクター」を書き込んだマップやポスターを作成し、千年村の持続の秘密をオーソライズし、共有し、公開するという試みです。


中谷──島野地区での報告会は調査から1年以上経った後になってしまいました。報告書の作成にすごく時間が掛かりますし、報告会の後に地域の人たちが納得したかどうかというオーソライズが難しいことに気付きました。ですので、今年の詳細調査では、報告書の作成期間をすごく短くし、その場でオーソライズしてもらい、かつ発行できるようにしています。千年村プロジェクトと村が共催で行った結果をまとめ、広められる媒体をつくるまでを詳細調査の目的としています。
たとえばこれは群馬県高崎市の南八幡地域のポスターです。「キャラクター」はその地域の普遍的な特徴であり、木下先生が言われたように、それらをみんなが意識していれば、将来の開発の際に地域のコモンセンスをしっかりともって対応できると思います。巨大なインフラストラクチャーによって一気に変わってしまう場所もありますし、村が開発へと切り替わる可能性もあります。そこで「キャラクター」を大事に持っておいてほしいと思います。
南八幡地域ではそのキャラクターを表すキャッチフレーズを「ふたつの川が生んだ人のなりわい」としています。最初は10個くらいの候補を住民の方々に見せていたのですが、どれもピンと来ていない様子でした。ある古老が「川が生んだ人のなりわい」では何か物足りない、「ふたつの川」があったからこそ相乗的に土地が溜まったのだと言いました。そこで地域の人たちが次々に「そうだ」「そうだ」と輪唱していくように言い始めたのです。オーソライズとはこういうことなのだと実感しました。地域の人も合意していることが大事です。
成果物はその場所ごとに違っています。南八幡は上信電鉄があったので、観光ポスター風につくっています。とうとう小学校や付近の大学に貼られました。





fig.16──詳細調査ではワークショップを開催し、千年村マップを住民とリアルタイムで作成。(「利根川流域詳細調査南八幡地区」撮影=千年村プロジェクト)
fig.17──詳細調査における成果物のオモテ面。ワークショップにおいて住民とのオーソライズにより作成。(「利根川流域詳細調査南八幡地区」作成=千年村プロジェクト)
fig.18──詳細調査における成果物のウラ面。ポスターとマップの作成により住民への即還元性を狙った。(「利根川流域詳細調査南八幡地区」作成=千年村プロジェクト)

木下──同じく今年詳細調査に入った群馬県伊勢崎市の韮塚地区では、キャッチフレーズのオーソライズというところまではいきませんでしたが、やはり地域の方々と議論する中でキャラクターを特定し、我々なりのキャッチフレーズを記載したマップを作成し地域に還元する予定です。
韮塚は利根川の広大な氾濫原にあって自然堤防上に集落をつくり、後背湿地に水田を営んできましたが、広大な低平地はまた近代の開発の受け皿ともなりました。国道・県道の開通により土地区画整理事業が施行され従来の大字韮塚の区域の半分ほどが市街化調整区域から市街化区域に編入されました。この時、古くから集落があった区域は市街化調整区域を維持し現在も稲作が行われていますが、市街化区域に編入されて宅地化した区域は相対的に生産性の劣る水田だったそうです。
宅地開発によって人口の増えた韮塚は、従来の大字を引き継いだ町の範囲ではつきあいを維持していくことが難しくなりました。そのため、協議を経て日々のつきあいの範囲に基づいて新たな町内会の範囲を設定しました。つまり村の広さを変えることで地域社会の結びつきを維持したわけで、各地の千年村が直面しつつある課題を先取りした事例と言えます。私たちは、このような村のキャラクターを「広さ変われど、つきあい変わらず」というキャッチフレーズで表してみることにしました。
千年村プロジェクトは環境・集落構造・共同体の三つの視点から持続の要因を捉えようとしてきましたが、韮塚は共同体のあり方に持続の要因を見出すことができる初めての事例となりました。この成果は学生達の綿密な聞き取り調査と民俗学者の土居浩先生の参加によるところが大きいです。


石川──村の無意識が降りてきたのですね。それぞれの住人は千年村の豊かさを知らなかったわけですが、島野ではその後「もう一つの私の休日」というブログで、千年村という言葉を使っておられるようです。


元永──豊かさの自覚が失われた時期があるのです。初期の住人はそこを豊かな土地として発見したはずだし、そこで人びとはずっと生きてきたわけですが、どこかの時点でその意識が消えてしまった。それを再度調べ直して思い出してもらうということですね。


福島──僕もその無意識性がすごくおもしろいと思っています。彼らにとって、千年村は頑張って持続しているものではなく、日常の延長なのです。ひとりの優秀な誰かが一所懸命に残そうとしても、せいぜい100年ぐらいしかもたないと思います。当たり前にあることが持続の秘訣のようです。完全に無意識では残りませんから、意外と集落の風習などが重要なのかもしれません。近代建築では封建的なものとして排除されてきましたが。
関西班の調査で山口市の鋳銭司地区の調査に参加しました。かなり変わった集落で、すべての住戸の玄関は南側にあります。道路が北側にあってもです。また、農家なのに縁側がないのです。ここでは回覧板型の神様が集落を巡回しているのですが、縁側がないので直接外から奥座敷に入ることができるようになっているのです。しかし、住人たちにそれが他の地域と比べて変わっているという自覚は全くありませんでした。


木下──島野でも微高地に自分たちが住んでいることは自覚されておらず、「そういえば洪水で田んぼは浸かったけど家屋は浸水したことはなかったね」などと話していました。


石川──いつの間にか千年経ってしまったというのはすごいですよね。


元永──近代技術や資本による開発がやって来た際に、キャラクターを継承しながら変化できる村と、継承できない村の違いは何でしょうか。


石川──資本や経済の論理がそうさせる場合と政策がそうさせる場合があって、後者であれば継承される可能性があるような気がします。やはり大都市近郊は経済や資本の論理が技術を伴ってやってくるので脆いわけですが、土地の値段があまり上がらないようなもう少し奥地であれば大丈夫なのかもしれません。そうした奥地の村で千年村的な要素を残しておいてもらうことによって、将来的に都市がダメになった時に支えてくれるような気がします。


中谷──多くの千年村は初期的条件として自律性があり、安定性を持っています。木下先生の言うとおり大字という環境のセットの中で人が生きていくことができる。と同時に交通による交換経済が千年村を形作ることもあるでしょう。それらから産業化がはじまる。産業も千年村を生む重要な要素と考えたいです。しかし産業化が共同体の主体を変更してしまうぐらいの大規模なものになったとき、千年村は新たな局面を迎えざるをえなくなるでしょう。相模川流域ではいくつかそのような変化を感じました。


木下──あとは国家的なプロジェクトや政策、原発事故のような過酷事故等の外的な要因によっても千年村は変化を余儀なくされます。成田空港のすぐそばにあった村は空港建設によって集落ごと移転したようです。建物の無くなった宅盤と耕作放棄された農地が殺風景な佇まいを見せていました。また、今回の福島原発事故の避難指示区域の中には複数の千年村が確認できます。抗いがたい外的な事情によって千年以上にわたる地域の営みが閉ざされることになったわけです。


中谷──千年村の重要性が浮かび上がるのは他のレベルとのぶつかり合いが起きた時です。それは千年村やわれわれの運動が岐路に立たされるということでもあります。千年村は国レベルでも地域レベルでも便利なツールとして使える可能性がありますから。
千年村には無意識な豊かさと同時に私たちのプロジェクトをしたたかに迎えようとする地域の共同体の論理も働いていると考えたいと思います。むしろ、そうあってほしいと思います。彼らは村が生き残ってきた理由の詳細を説明することはできない(しない)のですが、一方でこのプロジェクトを受け入れてくれた場合、それなりに千年村という概念が彼等の生存にとってプラスであるという判断をしたわけですね。


石川──個人が到達できる有意識や思惑のスケールを超えて、千年経つと村としての意識みたいなものになっている気がします。それがまた個人に作用し、半ば無意識の、メタ意識とも言えるようなものが生まれているということですね。


中谷──確かにそうですね。個人レベルでは無意識でも、そこに村の意識があって影響を及ぼしていると。それに触れようとしているのでおもしろいんです。


石川──しつこく触れようとし過ぎても大変なので、素早く綺麗な、美しいお別れの演出が重要ですね。「これおみやげでーす」「じゃ!」みたいな(笑)。


中谷──オーソライズして、すっと引いて次に行くと。新しくプロジェクトに入った学生たちが続々新しいフィールドのプロットを開拓しています。一人は北海道でアイヌの地名を伝承から書き起こして地図にプロットしています。もうひとつは沖縄です。『おもろさうし』という歌謡集に出てくる地名をプロットしています。つまりかれらは和名抄の著者である朝廷が入り込めなかった、現北海道と沖縄の重要地名を発見しようとしています。また他の学生は都市化した東京の千年村に残る千年的要素や、都市を豊かにする人的ネットワークの強さについて注目しています。


木下──千年村のキャラクターを備えていても『和名類聚抄』に出ていない村はかなりありそうですね。ただ、根拠として『和名類聚抄』が強力だったので使ったまでですが、時の中央政権に把握されていなかったであろう集落もあるはずです。


中谷──『和名類聚抄』だけでも2,000以上は同定できていないわけですから。利根川流域だけで考えても、川の下流と上流ではまったくキャラクターが違いますし、別の川の流域ではまた異なってきます。千年村のキャラクターは、土地利用のための環境、共同体、産業、交通というマトリックスの重なりによってすべて違ったものが生まれてきます。同じ体系から別の組み合わせが生まれてくるのがおもしろいのです。


左から、元永二朗氏、木下剛氏、中谷礼仁氏、福島加津也氏、石川初氏


[2015年11月15日早稲田大学中谷研究室にて]

*千年村プロジェクトは準備研究後、2014年度より4年間の継続研究が採択され、文部省科学研究費基盤研究(B)「国土基盤としての〈千年村〉の研究とその存続のための方法開発」研究課題番号:26289224の一環として行なっています。


中谷礼仁(なかたに・のりひと)
1965年生まれ。歴史工学家。早稲田大学創造理工学部建築学科教授。著書=『国学・明治・建築家』『セヴェラルネス+──事物連鎖と都市・建築・人間』。共著=『近世建築論集』『今和次郎「日本の民家」再訪』ほか。
http://www.nakatani-seminar.org/

石川初(いしかわ・はじめ)
1964年生まれ。登録ランドスケープアーキテクト。慶應義塾大学SFC教授。著書=『ランドスケール・ブック──地上へのまなざし』。共著=『ランドスケープ批評宣言』ほか。
http://hajimelab.net/wp/

木下剛(きのした・たけし)
1967年生まれ。造園・ランドスケープ。千葉大学大学院准教授。共著=『市民ランドスケープの展開』『ランドスケープ批評宣言』ほか。
http://www.h.chiba-u.jp/prof/graduate/ryokuchi/tkinoshita.html

福島加津也(ふくしま・かつや)
1968年生まれ。建築家。福島加津也+冨永祥子建築設計事務所。東京都市大学工学部建築学科講師。建築作品=「木の構築 工学院大学弓道場・ボクシング場」ほか。
http://ftarchitects.jp

元永二朗(もとなが・じろう)
1968年生まれ。ソフトウェア技術者。「東京時層地図(iPhoneアプリ)」 開発。論考=「Grounding on Datascape」「時間遡行、地形観察、幻影のグラウンディング─その手法と実践の記録」(いずれも『10+1』 No.42 )ほか。

協力:小林千尋(こばやし・ちひろ)伊藤暁建築設計事務所


201512

特集 千年村宣言


[座談会]千年村プロジェクトの始まりと活動報告
千年村疾走調査・完全マニュアル
千年村関西班経過報告
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