コモナリティをつなぐために──増山たづ子の「すべて写真になる日まで」展を通して

貝島桃代(アトリエ・ワン)

永遠の笑顔

ある美術館で手にとったちらしの写真の、農作業で一休みする男女の笑顔に惹かれた。背景となる山は険しく、木々は青々としている。日に焼けた顔から白い歯がこぼれている。女性は彩り豊かな作業着で、周囲には鮮やかな花が咲いている。写真特有の撮る人/撮られる人といったかたくるしさはみじんも感じられない。みなが心から打ち解け、楽しみ、慈しんでいる写真に流れる時間の理由を知りたいと思い、ちらしの解説を読む。その写真は、岐阜県の徳山ダムの底に沈んだ村の在りしの姿を写したものと書かれており、IZU PHOTO MUSEUMでその村の風景を撮り続けた増山たづ子(1917−2006)の「すべて写真になる日まで」展が開かれていることを知った。

稲刈り。門入にて。1980年

成瀬さんのトタン屋根替え。コトシャー(今年は)トウド(とうとう)この屋根もトタンをカグラセル(かぶせる)支度をしダイタ(出した)。1980年

戦争そしてダム、まちへ

IZU PHOTO MUSEUMを訪れた。そこでの展覧会をみるのははじめてだったが、その展覧会はこれまでわたしが見てきた写真展とは違っていた。郷土資料館の展示を彷彿させるような、写真をとることの意味やその写真家を取り巻く関係性を含んだ構成となっている。展覧会をご覧になっていない方のために、展覧会の様子を順に案内しよう。

チビットニ(少なく)なった家に鯉のぼりがあってうれしかった。まだ子供がいる。1985年5月5日

「油断すると流されるで恐いぞ」「おばあちゃんへいきへいき」。 1984年7月25日

はじめの部屋は、徳山村の歴史と増山の半生の紹介から始まっていた。縄文時代から続く、揖斐川の上流にある8つの集落からなる村の地図があり、そこに増山が生まれたこと、太平洋戦争で結婚したばかりの夫と死に別れたこと、増山の家は農業のかたわら、切手や雑貨を売る民宿を経営している様子が示されていた。美しい自然に囲まれた山村までも戦争の影は及んでいたのだ。戦後、村は一旦のどかな様子にもどったかに見えたが、1957年にダム計画の話がおきた。大都市名古屋を含むと東海3県への電力供給の必要性や治水および利水から、国は揖斐川流域にダム建設を検討し、徳山村が候補地となったのだ。はじめ計画は住民に対してもそれほど真実みを帯びていなかったものの、調査や移転交渉の話が進み、村はダム計画の推進派と慎重派に二分された。そうした村の分断がおきた1977年、村がばらばらになってしまうまえに、すこしでも村の様子を残しておきたいという気持ちから、増山は民宿を訪れた客からすすめられた「ピッカリコニカ」を購入した。その後カメラは、増山が2006年に亡なくなるまで、変わりゆく村の様子をおさめていくことになった。会場には増山が使い込んだカメラも展示されている。
つぎの部屋には、約600冊におよぶアルバムが並ぶ本棚を中心に、周囲の壁やガラスケースでは、いくつかのテーマに沿って選ばれた写真群とそれによせた増山の言葉が展開される。増山のカメラは、山深い徳山村の豊かな四季の風景を捉えていた。花に満ちた春、山が萌木色に染まる初夏、子供たちが川で遊ぶ夏、山が色づく収穫の秋、そして、雪に閉ざされる冬。山、川、畑、田んぼ、家廻りなど、山村ならではの起伏ある地形を近景、遠景で撮影した。また野良仕事、学校、葬式、祭り、運動会など、村の人びとが集まる風景が、増山が録音した音源とともに展示されている。さらに集落の風景と人の姿を捉えたポートレートが並ぶ。そのなかには彼女自身のポートレートもある。相手だけでなく、相手に自分も写してもらう。こうした撮影風景そのものも、次第に村の日常のふるまいとなっていったのだ。

イチョウと子供たち。1982年

坂本信綱さんふくさん夫婦はいつも仲が良い。縁側で臼ひきをしたり、二人とも声が良いのでいつも唄を唄っている。今日も二人で干柿を作って、なかには早く作ったものもあり、イラが通りかかったら、「ター干柿やろうか甘うなったど」といって「うまいこと受けなあかんど」とひとつる投げてくれた。有難いなー。1982年

3つめの部屋では、ダム計画の補償交渉の進め方をめぐる選挙の風景、ダム計画のための土地・家屋調査への協力風景、沈みゆく村を舞台にした神山征二郎監督の映画『ふるさと』(1983)の撮影風景が並んでいる。立場は違うが、村を思う気持ちはいっしょということだろうか、村長候補者、村の外からやってきた専門家、俳優、監督、増山のカメラは等しくおさめ、写真にはそれぞれの労をねぎらう言葉が添えられていた。
4つめの部屋では、計画が決定し、立ち退き、家が壊されるテレビ局の報道番組の映像が流れている。外からのテレビカメラは、集落の家々をつぎつぎと壊していくショベルカーを写す。増山のカメラはこれらを写さなかったのか、増山の写真はあまり展示されていなかった。

神山征二郎監督『ふるさと』(1983)

家壊しを見守る村人。1985年
すべて写真提供=IZU PHOTO MUSEUM/増山たづ子の遺志を継ぐ館

5つめの部屋では、増山の写真がふたたび展示される。自分をはじめ、人々が引越す様子、民家園へ移築後の増山の自宅の民家の様子などが展示されている。村からまちへ、なにを持っていこうか、大きく変化する生活の様子が写されている。
最後の部屋では、岐阜県郊外にできた村の移転地の風景とその生活の写真が並んでいた。徳山村から移植された花々であふれた増山の庭。庭に小山があるようにも見える。また移転地に移り住んでからもダムに水が入るまで、ときどき村の小屋に帰ってきては野良仕事に精をだした夫婦の写真。中央のショーケースには、増山が友人に送った押し花がおさめられている。写真のかわりの押し花に、写真と同じような短い文面が添えられる。押し花は増山の庭の花、つまりふるさとに咲いていた花である。そのすべてにふるさとへの想いはあふれていた。

ピッカリコニカの考現学

「新しくつくられていく東京はどういう歩み方をするものかを継続的に記録する仕事をやってみたくなった」。
この展覧会をみて、関東大震災後で廃墟となった東京で考古学に対して考現学をはじめた今和次郎の言葉を思い出した。今が、ノートを携え、焼け野原を歩き、スケッチしたのは、バラックから小屋、家になる住まいや、和装から洋装に代わるファッションなど、震災の廃墟から立ちあがる人々の営みの移り変わる様子である。それらは特殊な個性でも、国家によって強制されたものでもなく、東京のある地域に、自然発生的にうまれた集団的現象であり、スケッチそのものも、個人の表現や誰かに強制されたものではなく、その現象を共有する手段である。だから同時代を生きるものがそこに立ち会った驚きと感動、そこに生きる人々の強さへの畏敬の念があり、その現象に寄り添い、育てるように見守っていた。
増山が国家的な決断を受け入れるかどうか揺れていた状況下の村で、ピッカリコニカで撮り続けたのは、四季の風景や生活など、村の当たり前に繰り返されてきた人びとの営みであり、その移り変わる様子である。それらの写真は増山個人の表現ではなく、また誰かに強制されたものではない。そこには、村に対する深い理解と愛情とともに、村に住んできたものに共有された、自然や人びとへの距離感や時間が写り込んでいた。また増山の選んだカメラが、ピッカリコニカという誰にでも撮ることのできるものだったことも手助けをして、村がなくなることを惜しむことだけではなく、村があったことを誇りに思う気持ちが共鳴していく。村に共有されてきたこと、村が大切にしてきたもの、村が苦しみ悩んだこと、その全体を記録する。ピッカリコニカを媒介として、お互いを撮り合うなかで、人びとは写真のなかで、村に永遠の時間を与えることができることを共有したのだ。「ふるさと」という空間としてのかたちは変わるが、人のつながりという「ふるさと」は残る。その意志とふるさとへの誇りを胸に、笑顔でカメラに向かう。だから写真の笑顔は美しく、晴れやかで、まぶしかったのだと思う。

永遠の時間をつなぐ想像力

なぜいまこの写真展が開かれたのか。その理由は示されていない。「失われたふるさと」、この言葉を聞き、東日本大震災で多くの人々がふるさとを失ったことを重ねた人も多いのではないか。その問いは、この展覧会を訪れた者への宿題として残されることになる。
ふるさとを失うことが、どれほどつらいことか、それは失くしたものにしかわからない。だからといって、その外側にいる私たちがそれを理解し、その思いに共感することをあきらめてはいけないということを、増山の展覧会は伝えているのではないか。増山は、写真や音源、押し花によって徳山村の豊かな風景や暮らしを記録することで永遠の時間を与えようとした。が、それは物理的なものではないのはすでに明らかであることからすると、その永遠の時間の内実とは、次の時代につなぐという意味ではないかと思い始めた。
例えば、増山が残した押し花の、この展覧会場までの道筋を想像すること。徳山村の道端のどこかに咲いていたその花の種や苗を、岐阜の移転地の庭に持ってきて大切に育てる。それを摘み、押し花にする。できたての押し花を便せんに貼りつけ、その姿や花の香りを文とともに友人におくる。その友人がこの展覧会のため、その便せんを学芸員に託す。それを私たちが見る。だから、便せんの押し花をみると、人々のふるさとへの思いに触れ、とても悲しくなる。しかしそう感じるのはそこが終わりだと考えるからである。増山や村の人びとがわれわれに求めているのは同情ではない。その先である。われわれが見たことによって、押し花は姿をかえてつづいていくと想像すること。たとえば押し花となった花をもとめて、徳山ダムを訪れ、そこでなにができるか考えること。つながりを想像する想像力を、未来へつなぐために使う。そこに永遠の時間あるのではないか。失ったふるさとの空間は戻らないが、そこにあった関係性=コモナリティはいまもかたちを変えてあり、そこに立ち会ったわたしたちがその関係性に加わることによってコモナリティをつなぐために、考えること。その想像力に、増山の写真、徳山村の時間は託されているのである。


貝島桃代(かいじま・ももよ)
1969年生まれ。筑波大学准教授、建築家、塚本由晴とアトリエ・ワン主宰。最近の作品=《ハウス&アトリエ・ワン》(2006)、《みやしたこうえん》(2011)、《BMW Guggenheim Lab》(2011)、《Rue Ribiere》(2011)ほか。最近の著書=『空間の響き/響きの空間』(2009)、『Behaviorology』(2010)、『WindowScape 窓のふるまい学』(2010)、『建築からみた まち いえ たてもの のシナリオ』(2010)、『A Primer』(2013)ほか。


201405

特集 アトリエ・ワン『コモナリティーズ──ふるまいの生産』、その建築的 "知性" と "想像力"


コモナリティ会議 04:「測り得ないもの」に開かれた建築の "知性" と "想像力" のために
コモナリティをつなぐために──増山たづ子の「すべて写真になる日まで」展を通して
建築的知性:生きていることの条件において──「マイクロ・パブリック・スペース」展によせて
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