震災復興のまちづくり──縮退社会の都市計画

饗庭伸(都市計画)×新雅史(社会学)×西田司(建築家)
左から、西田司氏、新雅史氏、饗庭伸氏

震災発生後の動きから

饗庭──まずは自己紹介として、自分の取り組みをお話ししたいと思います。現在、大学で都市計画を教えています。都市計画という学問は、海外では建築学ではなく政治学に近い学部にあることも多いのですが、日本の場合は歴史的な経緯があり、建築の中に位置づけられています。自分自身も大学では設計を勉強し、大学院から都市計画を専攻して、今に至っています。
大学院時代に1995年の阪神・淡路大震災がありました。兵庫県出身ですが当時は東京にいたので、被災者として巻き込まれたというよりは、研究の対象として見ていました。私の世代で都市計画をやっている人間は、そこからスタートしている人が多いです。自身では震災復興を専門としてやっていこうとは思っていないのですが、「阪神」の後、2004年に新潟県中越地震があったり、また、防災の大家である中林一樹先生に声をかけてもらい、東京で大震災が起きた場合の復興を考えるワークショップに参加したりしました。さらに、トルコや台湾での災害復興現場を見に行く機会もあり、3.11以前から災害や復興について意識的ではありました。
私の周りの研究者や実務者、プランナーといった多くの人は、3.11以前は首都直下型地震や東海東南海地震が起きることを考えていました。その対策を講じるなかであらかじめ繋がりがつくられていたので、3.11が起きた時にはそれらのネットワークが立ち上がり、建築学会の中で機能したり、神戸の知り合いが遠野へ行って現地の情報をくれたりというかたちで、全体の情報が集まるという立ち位置にいました。しかし、災害復興は基本的に個別的な現象ですから、ちゃんと現場に入らないとわかりません。
今は、大船渡市三陸町の綾里という場所に縁があって今年の2月くらいから通っています。綾里は、3.11以前は日本最大級の津波に襲われたという記録を持っている場所ですが、そこの復興計画づくりのお手伝いをしています。

西田──僕は建築家として設計事務所をやりつつ、震災発生の1カ月後くらいから、石巻で現地の若手商店主の方々と共に復興活動をやっています。昨年6月に「石巻2.0」という名前で活動の大きな枠組みをつくりました。まず最初に商店街の人たちが被災後にどんなことを考えているのかをリサーチし、声を拾い上げ、それらをもとにフリーペーパーをつくりました。その中で、もともと石巻は宮城県の中でもかなり空洞化が進んでおり、シャッター街も多く、被災によってそれがさらにそれが進行することが問題だという声が多くありました。復旧したところで、街に人がいないという状況は実際変わらないだろうと。これから新しく街の中心をつくる中で、新しいつくり方を考えていくことを共有しました。街の人の小さな声を種に活動を起こし、5年・10年というスパンで復興・街づくりの契機になればと考えて、いくつかのプロジェクトを進めています。代表的なものだと、空室を活用し人が滞在できる場所を増やす「民泊」や、小さな地域活動のニュースを拾い、みなで共有する「石巻経済新聞」というWebメディアをつくり運営しています。
基本的に、商店街や中心市街地というストックをプラットフォームに見立て、人の流入や物事の発生など、どうフローが起こり得るのか、また、街の使われ方における建築の役割なども含めて、さまざまな集合としての街を把握し、今後に繋がる街づくりができればよいと思っています。
最終的には、日本の多くの地方都市で同様に問題となっている「中心部の空洞化」に対し、今後どうその手法が応用できるか、建築的視点だけではなく街の視点でも考えていきたいと思っています。
僕の背景としては、2002年から5年ほど饗庭先生と同じ首都大学東京で研究員をやり、主に東京神田の中心市街地活性化活動を通じて、雑居ビルの建て替えやマンション建設によって街が変わっていく状況において、パブリックという領域をどのように扱っていくかという実践的な研究を行なっていました。また、各地の街づくりの担い手となっている若手の活動をリサーチし『新建築住宅特集』で紹介する仕事もしていました。
また普段の設計業では通常、建物の規模、土地サイズ、用途が決められているところから仕事がスタートします。ですが、最近ではそれがしっかりと決まっている状態で仕事が来ることが少なくなっています。建築を通してそこに発生するコミュニティ(社会関係資本)や、複合用途による時間共有や場の共有、持続的な運用など、設計の一歩前から入って作り手と使い手のインタラクションを見える化し、そこから建築の可能性を拡げることが求められる場面が増えています。石巻での活動を通じて、どのように人の集まる場所が生まれ、そこから育つパブリックがどうなるかを積極的に考えることは、これからの設計業や自分自身に突きつけられている課題だと思うようになりました。

新──わたしは阪神淡路大震災の時、大学2年生でした。当時はほとんど大学にも行かず、NGOピースボートの活動に携わっていましたが、ピースボートが神戸市・長田地区で支援を行なっていたこともあり、災害支援をわずかながら経験していました。ただ、その後、ピースボートを離れて、社会学を専攻した後は、企業スポーツや商店街といった、災害とは一見関係のない研究生活をすごしていました。わたしは、阪神淡路大震災以後、災害のない社会を前提に研究を行なってきたこともあり、発災した後は、社会学者としてどのような立ち位置をとればよいかわからずに、身動きのとれない状態でした。ただ、16年前にともに支援活動を行なったピースボートの元同僚たちが、宮城県石巻市で寒さのなか必死に支援を行なっている状況を聞くことで、どのように関わることができるか不安ではあるが、ともかく、被災地の支援の状況を記述してみよう、ということで6月から被災地に入り始めました。当初、わたしは、NGO/NPOの活動内容や、一部の被災地にボランティアが偏在してしまった問題、国がボランティア支援に介在することの意義と問題について調べました。その後、資金的な問題もあって、宮城県石巻市に赴く機会が減りましたが、東京大学名誉教授の似田貝香門先生のはからいがあり、東京大学の大方潤一郎先生、小泉秀樹先生たちによる社会技術研究開発センターのプロジェクトで岩手県大槌町の支援に関わっています。
わたしは、商店街を研究してきたことから、災害時に、商店街がどのような機能を果たすのか、という点に興味を持ってきました。じつは、石巻と大槌では、商店街が残っているかどうかという点で大きな違いがあります。石巻は商店街の建物がかろうじて残っていますが、大槌はほぼ残っていません。全壊・半壊の建物の割合をまとめると、大槌は人口の規模に対して全壊・半壊の建物の割合が相当多く、死者を除き、人口の25%くらいの人が仮設住宅に入っています。一方、石巻の仮設住宅入居者は、数は多いのですが人口に対する割合は5%未満です。女川は14〜15%くらいです。
こうした数字からわかるように、大槌では従前の市街地に生活空間が残っていないことが相当な問題となっています。建物・スペースがないと、住民にとっての居場所がなく、戻ろうと思っても戻れません。今回、大槌では、市街地の建物がほとんど残っていないなかで、仮設住宅の建設を進めたわけですが、早急に建設を行なった結果、仮設住宅が市街地から遠く離れた郊外に分散化されて作られてしまいました。また、分散化されて団地形成がされた結果、ひとつひとつの団地の規模も小さいものとなっています。わずかな世帯数の集落に集会所・談話室といったスペースがつくられていますが、お年寄りの寄り合い所のような場所としてしか機能していません。以前であれば、商店街は住まいの近くにあったわけですが、今の仮設商店街は、分散化された小規模仮設団地の間に作られていますが、仮設団地コミュニティと切り離されて存在しているようです。大槌の仮設団地では、お年寄りの寄り合い所のような場所しかなく、商店街が「居場所」として機能していない。一方で、石巻では、商店街が残り、そこを拠点としてボランティアが支援を行なったり、まちづくりなどの新しい動きが出ている。今後、大槌町のように市街地で甚大な被害が出た地域で、商店街をどのように再興するかは大きな課題となりそうです。
僕としては、そういった被災地間の状況の違いをしっかり押さえつつ現場を見て行きたいと思います。

復興計画と人口減少時代の都市計画

西田──饗庭先生は最近、各行政の復興総合計画について比較されていましたね。今の話のように、何もない状態に生き残った人のコミュニティなど、インビジブルな都市のネットワークはあると思うのですが、実際物理的には何もない時の復興計画、長期計画はどうなっているのでしょうか。自分自身は石巻以外の各都市の状況を網羅的に把握しきれていないのですが。

饗庭──復興計画の議論はあまりおもしろくないので(笑)、少し違う視点での回答になると思いますが、3.11以前の都市計画の世界では、人口減少社会については必須課題となっていて、これからの都市計画をどうするか盛んに議論がされていました。人口減少社会における都市計画は、何もないところにどう計画するかという計画論ではありません。日本は高度経済成長を経てそれなりに都市空間にストックの蓄積がありますので、人口減少社会では、既にあるストックのよいところだけを残し、不要な部分を間引くという方法が落としどころだと考えていました。それが、3.11以降、戦後直後のような何もない場所についても考えなければならなくなり、それが今突きつけられている問題です。
石巻は、市街地にある程度の大きさがあり、残された部分があるのでそこを手がかりにできますが、大槌は規模の小ささと地形の問題で全て流されました。都市の規模と地形の問題があります。

新──震災以前から、大槌ではすでにスプロール化が進んでいたと思いますが、仮設住宅が分散化してつくられたことで、一層のスプロール化現象が起きている状況です。仮設住宅の設置によるスプロール化は、石巻でも起きており、やはり土地に余裕のある中心から遠く離れた「郊外」に仮設住宅が設置されています。
大方先生を中心としたRISTEXのプロジェクトでは、市街地復興のマスタープランが立たないなか、仮設団地単位でのコミュニティ形成に力を入れています。高齢者の比率が高い被災地では、仮設団地でのコミュニティ支援は大変に重要ではありますが、ただ分散化された小規模の仮設団地でコミュニティ形成を行なうことには一定の限界もあります。小規模なコミュニティでは、健康づくりや子育て活動などに限定されてしまい、消費や職につながるコミュニティ形成となりづらい面があります。現代の都市的生活は消費やゴミ処理なども含め、集合的に多くの機能を果たさないと、成立しません。あまりにも規模が小さく、分散化され、かつ震災以前からあるコミュニティと関係なく仮設住宅がつくられている中、どのように復興をすすめていけばよいか、難しい局面に立たされているように思います。
また、商店街や街の活性化を考えると、仮設住宅団地単位のコミュニティが街全体の活性化に繋がらないのではないかという危惧があります。

饗庭──先ほどの復興計画の話について整理すると、全部流された白紙のエリアにどう線を入れていくかが都市計画です。行政がつくる復興計画では、白紙の地図に最初に入る線は浸水域で、その次に防潮堤です。2タイプの津波が襲った時にどこまで市街地が耐えられるか、堤防がカバーできるエリアが明らかになり、そこから街が組み立てられていきます。そのように、よくも悪くも上からの目線で線を引きながら都市をつくるのがひとつやり方としてあり、それは多摩ニュータウンなどと同じつくり方と言えます。
また、そうでないオルタナティブもあり、そのひとつは力としては非常に弱いのですが、仮設住宅に注目し、その中に発生する都市的なものに注目する方法です。たとえば仮設住宅の中でコミュニティレストランを始める人がいたら、その人やその空間を中心に街をつくるというものです。大方先生・小泉先生が仮設住宅でやろうとしているのもそういうことに結びつく話だと思います。ただ、今の話を聞くと、使えるコンテクストが少なく、かなり苦戦しそうだなと思いました。

外部からの人が関わる余白

新──先ほどの繰り返しになるかもしれませんが、空間的な限界を考えなければならないように思います。石巻でいうと「余白」のある空間があったからこそ、NPOやNGOがそこで関与できたということがあります。今回の被災地を見ていて思うのは、そういった外部のアクターが関わることができる空間があったかどうかが被災地間の差異を生んでいることです。
もちろん、そうした空間があったとしても中間集団が入りにくい場所もあったと思いますが、大槌のように拠点性のある空間がかけてしまった地域で、コミュニティ形成につながる空間をどのように用意していけるかは今後の大きな課題です。

西田──大槌の場合、いわゆる都市空間と呼んでいる中心市街地は住居だけでなく商業などのさまざまな機能も含めた複合的なエリアでした。一方、仮設住宅団地は住居という単独機能に特化しているので、このふたつを同時に議論するのは難しいと思います。たとえば横浜の自分が住んでいるエリアでは、50世帯くらいの隣人コミュニティがあるかというとありません。それはやはり現代的なコミュニティのあり方が、地縁でなく、職場環境や趣味やライフスタイルなどのクラスタで機能しているからです。ただ、それは被災地でも同じ問題だと思います。仮設住宅団地でのコミュニティ形成は、セーフティネットとしての働きはあると思いますが、持続性を持って有効に機能していくためには、都市機能との連動や地縁を越えた繋がりによる部分も大きいと思います。
今後の都市計画が旧来の道路やインフラを敷くところから始まり市庁舎・駅をつくって......、というようなハード面で進むのか、もしくはよりソフトウェア的に、たとえば福祉のネットワークがあって、必要な拠点を作って、地域教育や地域産業と日常をつなぐロジスティクスがあって......、というように進むのか、計画のイニシアティブをどこが持ち、未来に向けてどう始めるかはもっと地元を巻き込んで議論をしていく必要を感じます。

饗庭──昔のことですが、村人が9割くらい津波で流された村で、残った1割に対して村長の命令で、活力のために老若問わず結婚させたという話を読んだことがあります。要は子どもができたら頑張るだろうと。そんなことはとても現代ではできませんが示唆的なのは、家庭をつくって守るべき対象ができれば自ずと活力が沸くというメカニズムに注目した本能に訴えかける施策だということです。コミュニティをつくるだけでは弱い。結局、町内会が頑張っても個人は食べていけませんし、隣人と仲良くするだけで生きる活力が沸いてくるかというとそうでもありません。根本的に復活させる力にはならない。それをどうつくるかが大事です。

都市における空間の多層性・複雑性

新──仮設団地に対する調査はさまざまな機関で行なわれていますが、わたしの知っている限り、似たような結果が出ているようです。わたしたちRISTEXでも仮設団地でQOL調査を行なっていますが、神戸の時と比べて際立っているのが40?64歳層の精神的な健康状態の悪さです。65歳以上の方が状況がよく、またひとり暮らしの人の方が夫婦のみの世帯よりもよいという結果もあわせてなぜ、高齢者よりも壮年期の方が、ひとり暮らしよりも夫婦世帯の方が、状況が悪いのでしょうか。それは、先ほどの空間の問題と関連しています。集会所や談話室での健康づくりは、高齢者の方が参加しやすい一方で、壮年期の方??とくに男性の方??は参加しない傾向があります。また、支援団体による見守りも、ひとり暮らしの世帯には介入しやすい一方、夫婦世帯には介入しづらい傾向があります。では、壮年期や夫婦世帯のための空間が今の被災地にあるかといえば、きわめて限られているのが現状だと思います。
いまの被災地には、ひとつの機能だけを満たす空間ばかりが用意されているように思います。緊急時だから仕方がない面があったかもしれませんが、多様な機能、あるいは複雑性をもった空間をいかに用意していくかということも大きな課題ですし、そうした空間を「計画」できるかということは一社会学者として大変興味深いテーマだと思っています。せっかくですので、その点、都市計画の専門家の先生がどのようにお考えか、聞いてみたいのですが。

新雅史氏
饗庭──都市の複雑性は計画してできるものではありません。簡単に言うと、それは時間がつくりあげるとしか言いようがない。多摩ニュータウンは、僕も住んで10年くらい経っていますが、だんだんと場所に思い出が醸造され、なんとなく街の中で居心地のよいスペースを見つけられるようになりました。それがどれくらい掛かるかはある程度設計・計画した側の腕の見せ所になりますが、少なくとも最初からはできません。計画した後は別の力に空間を魅力的にすることを任せなければいけません。それには確実に時間が掛かります。ということが都市計画側からの答えです。

西田──一機能一空間というのは、20世紀の建築の世界が持ってしまった計画論・建築計画と言われる分野で、その中に商店街や住宅もあります。でも今、新さんが投げかけてくれたひとり暮らしの人の方が外に開くことができ、コレクティブな関係が生まれ、健全化されている一方で、夫婦世帯は内に閉じてその中で健康も害しているという話は、まさに建築が抱える問題と同じだと思いました。
今、僕らは石巻に入っていますが、たとえばある呉服屋が、そこに集まっていた人が減って立ち行かなくなって来た時に、その一角に趣味の漫画を置いて、ちょっとした漫画喫茶のようなコミュニティカフェを開きます。そこに若いボランティアが手伝いに来ると、呉服屋と漫画喫茶というこれまで相反していたものが同じ空間内に成立し、呉服屋2.0みたいなことが起こります。呉服屋がこれまで対象としていなかった若い人を取り込み、その若い人が実は浴衣に興味があった、というような「コレクティブ・イノベーション」によって新しい可能性が生まれています。
何もなくなったところに一機能を入れても確かに多層的な状況は生まれにくいと思います。ひとつの機能を少し開いたり、何かを外から取り込むことで公益性・公共性を加味するなど、実感が沸くレベルで新しい関係性が生まれています。一緒に新しいものをつくっていこう、というモチベーションによるコレクティブな関係性はイノベーションを起こしやすいと感じています。そしてそれはある種の作法みたいなことだと思います。これまでは一建物一機能の方が効率的かつ話が通りやすい、法律もつくりやすかったのですが、これからはそうではない多層性を、建物単位だけでなく街区単位でも考えていく時代だと思っています。

新──「健康」は現代では外出する誘因として相当に強いように思っています。公衆衛生という観点にまで議論を広げてみましょう。都市計画と公衆衛生はもともと学問的には同じ出自であるように思っています。ですが、死因が、感染症から慢性疾患中心になってきたことに伴って、公衆衛生が「空間」から「個人」の問題へと変化してきたように思っています。たとえば、都市の中に公園をつくるということが、公衆衛生の関心ではなくなってしまいました。しかし、今の被災地の状況を考えると、「健康」への関心をうまく「空間」づくりに活用できないでしょうか。そうすれば、複数の機能をもった空間を作り出すことができるかもしれません。たとえば、わたしの知り合いの公衆衛生の研究者は、商店街があることで散歩の距離がどれくらい伸びるかといった調査を地道に行なっています。すごく単純な調査のようで、実は深いものがあると考えています。ショッピングモールと商店街は、しばしば販売効率やアメニティなどの点においてどちらが便利かという比較が行なわれることがよくありますが、そうした比較では、先ほどの調査のような複合的な機能を検討することができません。これからの街づくりを考えた時に、商店街の必要性や、どれくらいの距離に商店を置くべきか、こうしたテーマを公衆衛生という観点から考えることはできないでしょうか。「健康づくり」が必要だからといって、単に運動施設や散歩道をつくるという単純な発想ではなく、歩ける商店街を作るというアプローチもあり得ないでしょうか。

饗庭──今のお話は、「健康」や「防災」といった性能別に都市空間を見るということだと思います。都市空間の評価は性能から行なうしかないのですが、ひとつの空間は無数の性能を持ちます。また、異なる性能から望ましいと考えられる空間が都市空間の中でバッティングするということもあります。わかりやすく言えば、防災に対して有効な都市は道路沿いに火を防ぐ固いコンクリートの建物がしっかり建っていることですが、しかしそれは通風や日照といった環境の面から見ると、街区の内側に風が入ってこないからよくない、ということになります。健康の視点ではよいけれど、他の視点ではよくないというように、異なる性能で見ると都市空間において往々に矛盾が起こります。すべてをひとつの性能で見るのはナンセンスで、それらの知見をそれぞれの性能別に高め、最終的には小さな空間単位のなかでつきあわせて調整をし、どこかで納得するしかないと思います。
たとえば、星旦二先生という健康都市づくりの専門家に聞いた話ですが、彼が多摩ニュータウンの高齢者を調べると、エレベータがない住戸に住んでいる高齢者のほうが長生きだという結果が出ました。なぜかと言うと転倒事故が少ないからだそうです。転倒事故は寝たきりにつながり、その先の生存確率を下げてしまいます。転倒事故が少ないのはどうやら階段の昇り降りで膝が鍛えられているからだという、一応の因果関係が見えて来たけれど、ではエレベータを最初からつけなければいいのかというとそれもまた違います。たまたまエレベータがないところに住んでいた人たちが、知らず知らずにそういう結果になっていたけれど、最初から計画として組み込めるかというと、バリアフリーの問題などまた別の性能からのインプットを入れた議論にもなるので、調整が難しいということです。

西田──公衆衛生という考え方自体が集団最適を目指す考え方ですよね。健康都市というと、もう少し個別最適の考え方になって、その中に健康に対する階層が多様に含まれ、医療からオーガニックフード、運動など、異なるコミュニティクラスタを集めることによって都市の中に違うネットワークと拠点形成がされると思います。
最近医療施設の仕事に携わる機会がたまたまあったのですが、地域医療という視点で考えると、今までは待っていれば患者さんが来たけれど、これからはどんどん出て行く方向になるようです。超高齢化社会の中で、治すだけでなく、教育していくような感覚で健康を維持していくような機能を地域医療が持つことを考えています。
実際に、地域医療における医療施設自体がどんどん複合化されていっています。そうすると、医療施設は拠点をつくるひとつのきっかけにはなります。セーフティネットのような全体最適の中で絶対に必要かというと違ってきますが、もう少しポジティブに街の魅力を語るために個別最適の関係性をなるべく引き上げていく必要を感じます。こういう場所があるから地域に愛着を持てるというような個別最適の階層と、全体最適の階層とふたつがあると思います。

饗庭──歴史的に言えば、水道の問題などの公衆衛生の観点から都市計画はスタートしました。それは当時、伝染病の蔓延を防ぐためにやっていることだということで皆が納得したと思います。その後日本の都市計画は関東大震災や各地の大火などがあって、防災中心になっていきます。燃えない都市をつくるためには幹線道路沿いに高い建物を建てて、道路をたくさんつくって火を防ぐという話です。ただ、それもある時期までは説得力を持っていましたが、今は公衆衛生も防災も個別のひとつの機能になっています。いろんな性能が出てきたところを調整する時代と言えます。

新──社会学の用語で言う社会関係資本を積み立てていけるかは、当然ではありますが、計画で空間をつくっただけではダメで、計画された空間をどのように住みこなしていくのか、あるいはその空間をどうつくり直していくのか、ということになります。健康というテーマは、住居空間や公共空間をどのように使いこなすかということを考えるにあたって、興味深い材料を提供してくれるように思っています。計画段階では、人々がどのようにその空間を使いこなすかという点まで見通すことは難しいとは思いますが、誘因となる仕掛けをいろいろなところにいくつかつくっていくことは考えられるのではないかと思います。

ボトムアップの都市計画

西田──体系立てて定量化することはできないと思いますが、今言われたことを大槌の問題に特化して言えば、既に住んでいる方々が今実際にどのような生業をされていて、街に対してどのような期待を持っているのかという、まさに社会関係資本の重なりを見た時に、健康という要素が大きければ、拠点形成していく手がかりになるとは思います。あくまで、こちら側から「絶対こうしたほうがいい」ではなく、住民の中からから拾い上げていったところでコモンセンスみたいなものが集まるのであれば、それから地域社会を考えていくことはできると思います。

饗庭──ただ、その空間をどういうお金でつくるのかということは気になります。どうしても公的資本、税金に頼らざるを得ないという問題があります。今、健康政策という枠組みの中で公共が市民の健康を守る施設をつくるという流れになっていますが、それをつきつめると、最終的には被災者の人が健康になるために何かをつくってください、それは行政でやってください、としかなりません。今日、話題にしたかったことですが、お金がない資源が不足しているという問題が今大きくのしかかっています。たとえば、東海・東南海・南海地震が来ると言われていて、その地域の人びとが集団移転をする計画がありますが、全部が動いたら財政破綻どころの話ではありませんし、そんなことは到底できません。なぜそこに税金を使うのかという根本的な問題があり、税金を使わないで集団移転するメカニズムをどうつくるのかが大事です。

新──おっしゃるとおり、「福祉国家の危機」という前提はきわめて重要だと思います。もしかすると、わたしも財政危機というコンテキストを無視して、国から降りてくるお金をあてにして被災地のことを論じているところがあるかもしれません。
また、財政危機の問題を置いておいたとしても、国の資金を頼りにすることは、かえって復興を遅らせる側面もあります。未曾有の災害ですから、国の支援が必要であることは言うまでもありませんが、ただその一方で、国の支援をあてにした結果、地域社会の自律的な復興を妨げることになっていないか、しっかりと検証する必要はあります。危惧しているのは、住民が行政の復興事業を期待することで、地域全体が「計画待ち」の姿勢にならないだろうか、ということです。こうなってしまうと、先の見通しがなかなか立ちにくくなり、意欲がある人は待ちきれずに地域外に活路を見出すことになりかねないのではと心配しています。身動きが取れないという状況はたとえば被災地域のマスタープランがなかなか立たないなかで、どのように自律的な復興を考えていくことができるか。ひとつの方法としては、半分「非合法」の形になるかもしれませんが、公共スペースをいかに自分たちで使いこなしていくかという動きもあってよいかもしれません。たとえば神戸の長田地区で行なわれたように公園の中に人が住んでいったり、道路を一定の時間だけ地域住民で管理するなど、住民の居場所をつくったりといったようなことは考えられるように思います。ただ、とはいえ、こうした「非合法」的な実践を、あまり期待するわけにもいきませんので、なかなか難しいなぁ、というのが現状です。

饗庭──被災地に公共投資がなされるのはある意味では当然だと思います。ただ、同じ論理が日本全体に通用するかというとそうではありません。税金を集めてそれを再投資する、という流れとは違ったところで都市の空間を変える仕掛けを見出していかないときついと思っています。

新──石巻での動きを見ていると、「上からのお金」をあてにしない、新しい復興の芽が出てきているように思います。阪神淡路大震災の時は、ピースボートをはじめとして、多くの団体が数か月して被災地から離れましたが、石巻では、いまだ多くの団体が石巻で活動を継続しています。ピースボートでは、災害支援だけでなく、ピースボート本体の活動拠点を石巻に置くことを決定しました。ある程度、「上からのお金」は必要ですが、そうした公的な資金に依存しない動きが被災地で起きていることにわたしは希望を見出しています。

西田──実際、復興計画として公共投資がしっかり決まっているのは、主に防潮堤と区画整理、復興住宅の3点です。そういった事業費が決まっているものがある中で、僕が復興まちづくりに参加している中心市街地は民間事業の集積しているところをどう変えていくかが軸で、復興計画の大きな網に載せて復興しましょうという話はありません。商店街の人たちはその場所やお店が復旧し、ボランティアの力を借りてきれいになったからといって、さあ事業を再び始めるかというと始めません。もともと高齢化していて街の中に若手もいない、震災までは事業を続けていたけれど、もういいやという人もいます。
同じような地方都市へ商店街や駅前の街づくり事業の手伝いで行くと、新しいことをやりたいと思っている若手が数人いたとしても、それ以外の、ある程度の年齢でローンも払いきって一区切りしているようなサイレント・マジョリティの層があり、その人たちが重い腰を上げないと結局実際の街の総意は動かせません。そのような状況が往々にして見受けられるのですが、石巻を見ていてよいと思うのは、完全にダメになったところからなので、始めるか/やめるかという二択しかなく、始めると言う人は是が非でも前に進むと決めていますし、全員が前向きな状態です。外部から入って来る人をうまく活用しながら街の中心のつくり方を再考できるという意味では、公共投資をあてにするのとは違った都市空間のつくり方の有効的なモデルになるかもしれないという期待があります。
僕らのように外から入って行く人たちは、その場所に税金を払っているわけでもなく、公共サービスを受ける側でもなく、感覚として滞在者です。そういう人たちがどんどん街に来て継続的に関与していく流れが生まれています。地方都市には若者が商店街に来ないという状況がありがちですが、人口が15万人くらいの石巻で、その15万人が中心市街地に来ないということを考えるよりも、仙台市の100万人うち10%が来れば10万人、東京都の1,200万人のうち1%が来れば12万人が来るというように、街をつくっていく時に関わる主体やシビックプライドの担い手を、他から継続参加させることもできます。今回の災害によって、石巻には外から人の流入が多くあり、彼らが行政のサービスを受けるのではなく、街を育てていく側として関与していくことで、中心市街地の中心の意味も拡がり、新しい公共性が生まれるのではないかという感覚があります。

西田司氏
新──商店街という場所は単に商業スペースという意味を超えて、よい意味での下からの民主主義を醸成できる空間だと思っています。ただし、今まではそうでなかった。限られたメンバーが商店街という空間を支配していました。たとえば商店街振興組合の構成員だけで利害を確定させ、そこに消費者が介在していなかったのです。そして、商店街組織は、行政に圧力をかけることで、補助金を獲得し、箱ものをつくらせることをやってきたわけです。しかし、このたびの災害では、商店街に多くのボランティアが集まったこともあってでしょうか、商店街の店主たちが、商店街に関わるアクターを拡げようとする動きが起きているようです。コミュニティ単位での民主主義といっても、あまりにコミュニティ規模が小さいと、実質的な意味はあまりないように思います。ある程度のスケールでコミュニティ単位の民主主義をいかに根付かせるかということが大変に重要だと思います。今の石巻の商店街には、支援者であっても、商店街の未来に関わることができる面白さがあります。たとえば、わたしは何度か、石巻の商店街の会議に出席させてもらいましたが、普通こうした会議に、ボランティアや名もなき社会学者が出席したり、意見することなど考えられません。しかし、石巻では、こうした外部からの参加を受け入れようとする動きが出てきている。そして、こうした外部からの参加者も含めて、「みんなで決めた」という事実を積み重ねることが、その空間の魅力につながるということに、多くの人たちが気付き始めている。こうした実践に可能性を見出したいし、こうした被災地での新しい動きが、もしかすると、疲弊した都市の未来像を指し示しているのかもしれません。
日本の都市は、市街地が無秩序に膨張した結果、どこからどこまでがその街なのかがわからない状況となってしまいました。しかし、たとえば石巻では、都市の外枠をある意味で中世ヨーロッパの都市のようにクリアにし、その内側にある商店街を直接民主主義的な場として考え、議論することによって都市の魅力を高める、というよい循環を作り出すこともできるかもしれません。成功例を石巻で示せると、他の地方都市や被災地にも勇気を与えられる気がします。 ──西田さんたちが石巻を復興させている方法論、経験は3.11を経て得たものか、あるいは建築家としてもともと持っていたものなのでしょうか。また、汎用性があるものなでしょうか。

西田──自分の建築設計のバックグラウンドとして、建設業界は投資がここ20年間で約5割まで落ち込み、就業者数が15年で3分の2になる激しく縮退している産業です。日本の中でこれだけ縮退している産業は農業か建設業だけです。一級建築士試験の受験者も、4年前の平成20年に5万人だったのが今年は3万人になっていることも、若者が建設業に対して期待していないということを示しています。そんな中で、やはりこれからは受注してでき上がるというタームだけが建築設計ではないと思っています。建設前の、「川上」にある、実際にどう建物をつくるのか、コミュニティの主体形成や、タイムフローにどう参加するのかという視点にはひとつの可能性があると思います。先ほどの健康のような切り口でも拾い上げていけば地域の人の集まり方に繋がるヒントがあるもしれませんし、商店街を考える時にも、商店の集合という価値を置き換え、時間や場所のシェアにより如何に知恵の交換が生まれる状況をつくるかという話になるかもしれません。
一方で、でき上がった都市をどう使っていくかという「川下」の課題もあります。これまで建築業界では、竣工して引き渡したらその瞬間からお役御免だったわけですが、実際はそこから10年20年と経過する中で、完成時とは違う状況が生まれています。たとえば地方の体育施設で維持費ばかりかかるけれどあまり活用されていないものを民間業者に借りてもらいプログラムと規模を見直したり、ビルメンテナンスの会社が、空きビルばかりになっているのでその使い方を相談されるケースが増えていたりという話が出てきています。右肩上がりの成長をしている都市の維持管理の作法と、衰退していく都市の中での維持管理の作法は違うと思います。今回、被災地ではその街を今後どう維持管理していくか、持続可能なものにしていくかが問われています。それは自分の興味の対象であると共に、業界全体が抱えている課題なのかと思います。

縮退する地方都市の問題

──地方都市は東北に限って言えば震災復興の影響で人口が一時的に増えて景気がよくなることもあるでしょうが、基本的には人口は減っていきます。10年後、確実に縮退する地方都市をどのように再生させていけばよいのでしょうか。

饗庭──一般解かどうかということは置くと、少なくとも石巻の初動は、東京がなければ起こり得ませんでした。石巻出身で東京で力をつけた人たちが入り込んでいますし、そうではない西田さんたちの動きも東京から入り込んでいます。ワイデン+ケネディという世界的なクリエイティブ・エージェンシーが無償でデザインに入ったといったこともありました。たとえばですが、日本に東京がなく、最大の都市がもっと小規模で、世界的都市として確立されていなかったとしたら、こういった現象は起きなかったと言えます。もう少しクオリティが下がるとか、お金も集まらなかったかもしれません。少なくとも東京を経由して新しいものが入っているし、かつ東京や横浜で教育を受けた建築家やプランナーが石巻で動いているという事実もあります。地方都市の再生にあたって、東京はどんどん使っていくべきものだと思います。

新──饗庭先生がおっしゃるように、東京のNGO/NPOや、東京に本社のある企業のCSR活動がなければ、石巻のような支援はできなかったと思います。その意味で、東京という「世界都市」の存在はきわめて重要でした。ただ、こうした外部からの支援を活かすことができるかどうかは、被災都市の受け入れ態勢が整っているかどうかによります。今回の被災地が、外部からの支援をうまく「受容」できたかは今後検証していくべきことでしょうが、その際に考えておくべき材料を1つ提示しておきたいと思います。それは、「中間集団」の存在です。
「中間集団」とは、個人と全体社会を媒介する自発的結社や職能集団を指す概念です。日本の地方都市では、商工会議所、商店街振興組合、農協、漁協といった職能団体が、中間集団の代表例になるかと思います。
地方都市では、こうした職能団体たる中間集団が、政治的にも経済的にも大きな力を握っているわけですが、関係者以外からはその存在が見えにくいという状況でした。また、職能団体の衰退もあり、中間集団の存在感も薄れている状況であったように思います。
ですが、今回の震災で、中間集団の意味が再確認されているように思います。災害時に、中間集団は、その構成員の安否をすばやく確認し、また、他地域の関連団体と連携をとって、外部からの支援の受け入れの機能を果たしました。また、災害という困難を乗り越えるという目的に向かって、中間集団どうしの「横のつながり」も出ているそうです。
いまの地方都市は、中間集団の衰退がきわめて大きな問題となっています。社会学の言葉でいえば「個人化」ということになるでしょうが、こうした流れに抗すためにも、被災地の経験は、広く社会に伝えていく必要があります。
以上の点以外にも、被災地から学ぶことは多い。言い方は悪いかもしれませんが、被災地は、通常では不可視なものが「可視化」されています。たとえば、仮設住宅にしても、多くの支援団体が定期的に入っていますが、平時では住宅は「プライベート」の空間であるため、そこまで他人の生活空間に入り込むことはできません。しかし、被災地では、「支援」という名のもとに、プライベートの壁を越えることができる。そこには、壁を乗り越えることができる、怖さと面白さがあります。被災地には、平時には観察の難しい場が可視化されるという状況がころがっており、そこから学ぶことは本当に多いように思っています。

街への帰属・シビックプライドの創造

西田──それはよい言い方をすれば、育っている状態が見えるということです。今までは都市はつくられたものとして与えられるものだという感覚だったものが、もう少し参加する関係になってきていて、その流れを震災が後押ししています。
自分が被災地での取り組みを他の地方都市にどう汎用させるかを考える時によく例に出すのが、現在、日本のサラリーマンは平均して1年間で国内旅行に行く日数は1.5日しかないという官公庁のデータです。子どもから高齢者まで全国民を対象にしても平均4.5日です。一方で、サラリーマンが故郷に帰るとか同窓会に行く、地元に戻るということに使う日数は6?8日あります。1.5日の、いわゆる観光に使うその部分は、今年は東北で来年は京都というように場当たり的で、いろんなところに万遍なく行くものですが、対して故郷に戻るのは毎回同じところです。そして、街づくりに携わるという感覚は、この故郷に戻るという感覚に近いと思います。旅行に行くのではなく、向こうにいる人に会いに行くという感覚です。故郷があるなしに関わらず、もうひとつ故郷をつくることに近い。土地に対する帰属性を持つことによって、そこで何かをし、自分と共に場所を育てていくという感覚が付加価値であり、人生の豊かさに繋がるというモデルは、石巻にかかわらず他の地方都市でも可能ではないかと思っています。わかりやすく言えば、東北に農家民泊に行って、子どもと一緒に田植えと収穫の時期を体験し、できたお米が送られてきてそれを食べていると翌年も行くとか、そういったサイクルが生まれることです。クラスタの違いによって、健康や子育てのこと、あるいは文化的なこと、ものづくり、街づくりかもしれませんが、そういった自分と地方との関係性の見える化が、被災地では非常にわかりやすく生まれています。
実際に別の都市で汎用した時にも、その都市の中で閉じていて解決できなかった問題が、他から人が入ってくることによってその人たちが感じる都市の魅力が都市自体のシビックプライドに繋がるのではないかと感じています。

新──西田先生のお話は記憶の問題と関わっていると思います。都市への帰属意識は、記憶とつながるシンボルや場があるかないかで、大きく変わります。あるいは、自分がその場に主体的に関わることで、街が変化したという経験を有しているかどうか。わたしはこれからも定期的に石巻を訪れたいと思っていますが、その理由は、わずかながらでも、石巻という街の変化に自分が関わっているように思えているからです。わたしは、わずかではありますが、多少がれきの処理に関わりました。わたしが作業をしたことで、ある場所の風景が変化したわけです。また、その風景の変化を覚えている人が石巻に行けば会えるわけです。こうした「場へのコミットメント」があるかないかは極めて重要ですね。「まちづくり」とは、街の変化に自分がコミットできたかどうか、そしてその記憶を他者と共有できるかどうかが大きなカギになるように思います。

饗庭──そうですね。ただ、僕もそういうふうにやっていけたらよいなと思う一方、今の石巻はユートピア状態であるという言い方もできると思います。神戸の時も、震災直後のボランティアは燃えていたわけです。石巻は見ていないのですが、そういう状況はあるのかなと想像します。ですが、ユートピアは確実に終わります。神戸も沢山のNPOが生まれましたが、初期の勢いや数や繋がりはだいぶ減っていると思います。当然、社会は冷たくなるというか熱を失っていくのが大きな流れだと思います。
そこで冷え方が問題になります。地域や社会の表層的が活発に活動していて、そこで外部と繋がっているように見えているけれど、深いところまでどう変わったかは見ておきたいところです。NPOやワークショップといった言葉が阪神・淡路大震災以降、急速に増えましたが、普通の人が日常的な言葉として使っていたかというと、15年経っても一般化はしていません。阪神をきっかけにできたNPOなどにより、各地方都市で意識のある人たちのネットワークが構築されたことはあると思いますが、根本的に問題となっている構造を変えるまでは至らなかったというのが状況だと思います。今回は阪神よりも規模が大きく、根こそぎ掘り返されて、本当にディープなところまで新しい人たちの空気が入り込んでいるように思うので、そこからどう冷えていくのか、阪神とは違う冷え方をするのではないかと思って見ています。

饗庭伸氏
新──「冷えた」時が問題であるというのはその通りだと思います。先ほど中間集団の問題を取り上げましたが、「熱い」時だけ、中間集団の存在が顕在化しても意味がありません。そこで重要なのは、「熱い」時に顕在化した構造的問題をしっかりと市民に共有していく専門家の存在です。わたしは、こうしたことを行なっていく「コミュニティ・マネジメント」の専門家がきわめて重要だと思いますし、そうした専門家がぜひ今後活躍してほしいと願っています。
失礼な言い方をすれば、都市計画の学問の中でそういった人材育成を考えているのかよくわかりません。アメリカで都市計画と言えば、そういったコミュニティ・マネジメントの人材育成まで視野に入れていますが、日本の都市計画は、それに比べて限定的なように思いますが、いかがでしょうか。

饗庭──学問としての都市計画では圧倒的多数はそういうことはやっていません。それは都市計画という学問の考え方になかったのですが、今は大学で教える内容も変わりつつあります。
地域に置いておく専門家、ある種の異分子を地域に溶け込ませるという話で言えば、中越地震の時に期間限定の雇用で地域に派遣する復興支援員という制度ができました。彼らの専門性や振る舞いはさまざまで、あまり専門家らしくはなく、「ただいる」という感じです。もちろん大きな役割を果たしているのですが、その定義されていない感じ、そのだらだら感が結構おもしろいと思います。あまり整合性がなく、一級建築士は持っていないけど技術はあるような人が「なんとなくいる」という感じが、すごく無駄なようでもしかしたら可能性があるのではないかと。そういった人材が、実はかなり社会の深いところにタッチできているような気がします。都市計画の専門家がワークショップを聞いて地域とコミュニケーションをとっていく方法よりも、地方都市が持っている構造的な問題を変える可能性もあると感じました。

新──大槌では今年から緊急雇用支援制度を用いて各仮設団地に地域支援員が配置されています。さて、こうした地域支援員の面白さは、多様な声を聞き続けるという点にあると思います。多様な声を聞き続ける存在はこれまでの地方都市にはいませんでした。限定された職能団体の中でのコミュニケーションはあったかと思いますが、当然、そこでのコミュニケーションは多様さとかけ離れています。しかし、仮設団地では、いろんな職業の人たちがいて多様な声が集まり、支援員の人がそれらを延々と聞き続けている。支援員の方にとって、その多様さはもしかすると最初はノイズでしかなく、それを聞き続けることはすごくストレスフルな仕事であると思います。しかし、こうした多様な声を発する機会もなかったし、それを聞き続けることも、これまでの地方都市にはなかったのかもしれません。
わたしが感じているのは、東京と地方都市の違いは、ノイズがあるかないかではないか、ということです。ノイズには、快楽の面と、苦痛の面、の双方があります。地方都市にはノイズを押しつぶすような構造があるように思います。わたしは九州出身ですが、ノイズの発生を嫌う土壌に嫌気がさして、東京に出てきたという面があります。被災地ではない地方都市でまちづくりをする大変さは、このノイズのなさ、異なる意見が出てこないことにあるのではないかと思います。被災で生じるノイズを被災地だけの現象にとどめるのではなく、通常の都市でもある程度のノイズをいかに発生させるか、あるいはノイズを引き出せる人をどう配置するかが重要だと思いました。

饗庭──それは大事ですね。ただ、中越では支援員は全員税金で雇われているので、やはりサステナブルではなく、その後どうするかはリアルな問題です。
新さんの『商店街はなぜ滅びるのか』の中でも、「近代家族」という言葉があり、それが商店街を規定しているという話がありましたが、近代家族のあり方が支援員によって変わるところまでいくとおもしろいだろうと思いました。ノイズを聞く第三者がいて、たとえばその人が突然家を譲られてしまうとか、突然漁師の2代目になったりというような、家や家族にまで介入する、融合するようなことが起きたらすごいなと思います。それは本当に構造を変えることに繋がります。

新──この支援員は緊急雇用制度というリーマン・ショックの際につくられた制度なので、国の財政的手当てがいつまで続くか心配です。本来は、国のお金には頼らずにノイズが発生するような仕掛けとノイズを聞ける主体をつくっていくということになるのでしょうが、なかなか言うは易しで、具体的にどうすればよいのか、しっかり検討していく必要があります。

西田──僕が石巻や建設業界に身を置きながら非常に可能性を感じているマーケットは、不動産管理やメンテナンスの分野です。それらは放っておいても仕事が発生するので、これまでは「何かあれば言ってください」という受け身のスタンスでした。セキュリティやクリーニングなど、街や建物を持続するために常にお金は動いていますが、それらの投資をもう少しアクティブな方向にする、そこにいる人たちの御用聞きをするというようなことなのかもしれません。もしそこにお金が余分に掛かっているのであれば、投資対象を提案したり、街のアセットマネージャーのような人かもしれません。突き詰めていくと、建物もしくは街を生き長らえさせる作法を編み出していくことで、もっと知的な、クリエイティブな方向に変わっていくのではないかなと思っています。
指定管理者制度でも結構いろいろな対象がありますが、不動産を管理するだけではなく、もう少し持続性を持ち、大きな意味での変わることを許容するキュレーションになるとよいと思います。それは成熟社会として都市の構造がつくられていて、それらを快適に使うための制度設計がなされている上で、不動産管理の領域がもっとアクティブに集客やコミュニティ形成に寄与する方向に変わっていけるのではないかと感じています。

新──饗庭先生が言われていた多摩ニュータウンの話にも繋がりますが、機能を極限化した空間のはずが、今では別の使いこなし方、住みこなし方がされている。多摩ニュータウンは、ある時期まで「否定性が刻印された空間」であったかもしれませんが、それがひっくり返って、可能性がある空間に変わりつつあることに興味を覚えます。
これから日本社会全体が人口減少していく中で、今あるストックをいかに使いこなしていくかという課題がありますが、その時に死蔵化されつつある空間をいかにマネジメントするかという視点が必要ですね。人口減少するコミュニティにおいて、もう一度その空間を再定義し、いかに住みこなしていくかという課題が全国各地で出てくるはずです。これまでは住民からノイズが出ないように、住民のニーズに対処した空間を、公共部門が用意してきたのだと思います。個別に新しい空間をつくることで対処したり、新しいニーズに対し新しいサービスをつくってきました。しかし、こうしたやり方は、財政危機が叫ばれているなかでは大きな無理があります。これからはもう無理です。今後、求められるのは、ノイズを消す方向にするのではなく、ノイズ=ニーズを聞き続け、それをいかに住民とともに公共的に解決していくか、ということだと思います。もしかすると、その息吹やモデルは、被災地にすでにあるのかもしれません。

まちづくりにおけるオープンソース

西田──多摩ニュータウンは頻繁に言及されていて、宮台真司氏もハレの空間ばかりで、なかなか居場所が取りづらいなどと指摘しています。実際、一巡した後に街をつくり直すことを考えると、減築する場所が生まれてきます。するとそこに余白が生まれ、居場所ができます。被災地の石巻もそうで、今までクローズドなコミュニティだったけれど、被災してしまったことで、使われていない場所や再建されない場所に外部からの人が入り、その人たちも含めて活用し、街をつくろうというオープンソース型に変わりつつあります。それらの余白空間によって、東京から来た人が活用しながら継続的に来る環境が生まれています。そこから商業的に既存と違うマーケットをつくろうという動きや、新しい余白の活用によるイノベーションが浮かび上がってくるのは、やはり街の構造が見える化・顕在化したことの効果が大きいと思っています。

新──死蔵化した空間の状況を明らかにして、それをオープンにしていくという発想ですね。単にシャッター街として片付けるのではなく、実際に数えて、その内容を調べてオープンソース型に変える。街全体のニーズを聞き続ける主体もあり、それらをマネジメントしながら空間を再配置していくこと。それが石巻ではできつつあるのかもしれませんし、他の都市ではまだできていないのかもしれないですね。

西田──先ほど饗庭先生が言われた、どんどん冷えていく時にどう対処するかというのは石巻でも真剣に考えています。今は開いているので入りやすく、空間も社会関係資本もカスタマイズしやすいものになっていますが、このオープンソース型で外部から入ってくることも地域で許容するという機運をうまくサスティナブルな構造にしたいと思います。
それは、アップルのビジネスモデルに近いと最近思っています。アップルはもともとハード整備がメインの企業でしたが、今はアップルストアやアップルデベロッパーなどプラットフォーム型に変化しています。そのひとつひとつに誰もが乗っかることができるような環境をつくり、ハードはそこを通して外部からのアプリにも対応しています。また、他社のハードウェアに対しても開いていて、個々にカスタマイズしやすくなっています。そのミドルウェアの部分をしっかりつくることが街づくりにおいても大切で、常に開かれており、主体参加できるようなプラットフォーム形成は、それにより常に更新可能な関係性を生み出し、自分事としてのまちをカスタマイズする意識に繋がると思っています。

饗庭──西田さんが言われた地方都市の問題は、石巻については有効だと思うのですが、たとえば、石巻から車でさらに1時間半かかるような集落に対してはそうではないと思います。東北にはさらにさらに外れた地域もあるわけで情報ネットワークインフラの面でも相当遅れている、チベット感があるところもあります(笑)。そのシナリオが通用するのはどのへんまでなのかは気になりますね。

西田──その通りですね。スケール感で言うと石巻は15万人の都市なので、比較対象として他の10万人都市がどんなまちづくりをしているかというリサーチが必要です。日本には、158の10万人都市があり、世界には2000以上の10万人都市があります。欧州では10万人都市は国内で上位の都市の場合も多く、周囲の集落との関係も含め歴史が豊富です。饗庭さんの言われる都市と郊外との関係やその住人の主体形成の可能性も含め、まちづくりの知恵や取組みのクリエイティブコモンズができると良いと思っています。

災害への危機管理・ボランティア

──近い将来、首都直下型地震や東海・東南海・南海地震が来るであろうと予測されている中、それに対するサバイバル術があまり教育がされていません。それは必要がないということなのでしょうか。東京で生き延びて行くための方法論みたいなものは、避難や備蓄なども含め、個別的なスキルについては教育されていないのではないかと思うのですが。

新──いかにマスメディアが情報を流すかといった危機管理の議論はなされているようですが、自分が被災地に関わって思うのは、それだけでは解決できない問題があることです。この座談会のメンバーの共通の関心事でいえば、やはり空間の問題だと思います。たとえば東京で広い範囲に全壊の建造物が出てしまった場合、どこに仮設住宅をつくるのでしょうか。いかに逃げるかはもちろん、その後どこに住居を設けるか、全壊建造物が発生した土地をどういうタイムスパンで復興していくか。東京で起きた場合、現在の被災地と同じようなタイムスパンで復興を考えては相当まずいと思います。今のようなタイムスパンで復興していては東京の魅力は失われます。

饗庭──災害がどのように起きるかは予測の問題でしか語ることができず、それによって違いますが、東京都では仮設住宅をつくる気はなくて、すべて空き家で対応できるだろうと検討している部署もあるようです。しかし、必要になったらどうつくるかということも考えているはずです。東京だけで空き家が75万戸くらい、全国では400万戸あるらしく、先日人づてに聞いたのですが、地震が起きた場合に不動産屋から空き家情報をあげてもらうようになっているようです。使える空き家をリストアップして、そこに迅速に入居してもらうという方向で進めているようです。あとはどんな規模で何が起きるかわからないので、起きた瞬間には機能しない可能性もありますし、意外と小規模で収まってうまくいくという可能性もあります。東京くらいまで大きくなると、都市機能の中で使っていない部分を使うことで空間の問題はかなり解けるのではないかと思います。また、東京の場合は、とにかく仕事があるので復活は早いでしょう。東京が止まると、世界も止まってしまいますから。

新──一方では相当な危機感を持っている人もいる気がします。災害が起きた時に使える余白の空間をあらかじめ用意しておいたほうがいいと考えている専門家もいるので、饗庭先生が今言われたような考え方が大半なのかどうか、少し疑問なのですが。

饗庭──結局それぞれのレベルの話になってしまいます。たとえば木造密集市街地で火災が広がったら大変なことになります。それはある限られた条件で起こるわけですが、考え出すと切りがありません。もちろん、そういう危機感を持って東京都では木造密集市街地の整備プログラムを動かしています。それは着実に成果を上げてはいますが100パーセント安全になったわけではありません。100パーセントに近づけるために、もっと公共投資をすべき、強い権力でもって市街地をクリアランスすべき、という考え方もありますが、結果的にはそれは主流ではありません。私は絶対に木造密集市街地に住もうとは思いませんが、木造密集市街地のリスクを訴えたところでそのエリアに住みたいと思う人はいるし、一般の人びとはそこまでリスクを感じていないのでしょうね。

西田──今回の震災によって、今までの都市空間では道路は交通のためだと思っていたところがある時には避難路になるという、意識の変化があったと思います。単に街区を区切る、移動するためのスペースというだけではなく、時には自分のためのスペースにもなるということで、道というプリミティブな建築が再確認される契機にはなったと思います。建築の側から今回思ったのは、コンクリートのようにすごく固いものでも倒れるときには倒れるし、固さは時間が経つと脆くなるものです。半永久的に固いということはあり得ません。「逃げる」ことも含めてもう少し有機的に、しなやかに災害とつきあうほうが固いだけよりも実は強靭なのではないか、というつくり手の意識の変化もあると思います。

饗庭──やはり東京がこれだけ大きくなったのは、人口が集中したからです。あと数年で東京の人口も減り始めると言われていますが、その力には逆らえません。あとはその力をいかにうまく使うかが重要で、逆に今、まだ増えている状態で公共投資をして空き地をつくるということではなく、境目に入ったところで巧妙に皆が土地を手放す仕掛けをつくるとか、そういったやり方をすれば、あまり公共投資をせずにやっていくことができると思います。ミニマムで考えると、公共投資の最小化を優先させようとすると、それを待つのが一番ですね。
山形の鶴岡市の中心部で空家問題をやっていますが、ものすごく空き家が多く、市と相談して中心部の不足している雪かき用スペースにしようと、重機が入れるようなスペースに使おうとしています。それは鶴岡市にとっては公共投資ゼロでできる課題解決です。そういった流れがいずれは東京でも起きてくるのだろうと思います。
眼前にある危機要因が明確で、それを排除すれば東京は安全になるということがはっきりしていれば投資をするしコンセンサスも取りやすいのですが、東日本大震災を受けてやり直した被害想定を見ると、かなり深刻なシミュレーションも多く出てきて、ドキドキしています。ただ、あくまでシミュレーションなので、結局それで人は動かせないし、抜本的な都市構造の改革に至らせるきっかけにはなりません。東京という空間の持っている日常の慣性力のようなものの流れを変えるまでには至っていません。あるシミュレーションの結果を信用すればこっちが危ないし、別の結果を信用すれば別のところが危ないということですから、シミュレーションから都市構造を決定する事ができません。もちろん、東京の東側の地盤の悪いところは危険ですし、木造密集市街地も危険です。それくらいの大きなスケールの都市構造の危険性は分かるのですが、もう少し小さなスケールの都市構造は決まって来ません。例えば、今回の災害では、あまり必要ないと思われていた三陸自動車動や花巻空港が役に立ったわけですが、結局のところ、不確実な災害を想定した場合、ある一方が機能不全に陥った時に、別が起動できるように、やや過剰なインフラ整備をしておくくらいのことが、都市構造のレベルにおける災害対策なのではないでしょうか。ですので、都市構造のレベルで厳密な対策が不可能ですから、建物が壊れても死ななければいい、というのが落としどころになっているような状況です。
つまり、公共的な施策には期待できないと考える方が確実です。サバイバルという意味では、個人的には生き延びれば何とかなると思っているので、危ない建物には行かないようにするとか、家中の家具を固定するとかいうことをやっています。とりあえず人にどうすればいいかと聞かれたら、地下の複雑な構造のところにはなるべく近づかないようにしています。あとは家を建てる人には二階建てよりも平屋に住んだ方が良いと言っています。
建築学の課題としては、都市空間が綺麗な材料で仕上げられていて、その裏側にある複雑な構造が見えなくなっています。たとえば40階の会議室と2階の会議室で、内装が同じだと人が持つ不安感は変わりませんよね。あるいはエキスパンションジョイントの上というのは、地震が起きたら非常に危険なわけですが、そこが綺麗な仕上げで隠されていると、一般の人どころか、われわれでもわからないわけです。そういう、見えない構造や構造が持っているリスクをデザインの問題としてどう可視化するか、ということは取り組むべき事かもしれません。
[2012.6.15 京橋LIXILにて]

201207

特集 震災復興のまちづくり──縮退社会の都市計画


震災復興のまちづくり──縮退社会の都市計画
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