日本建築の切断面としての1970年代を軸に、濃密なコンテクストを提示
──日本館「現代建築の倉」
──日本館「現代建築の倉」
- 会場に組まれた仮設足場から展示会場に散りばめられた資料を俯瞰することができる
レムからのメッセージ
今年の第14回ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展は建築世界にとって革命的なメッセージが伝えられるのではないか、という期待にあふれていた。それは、総合ディレクターに選ばれたレム・コールハースが1年以上前から企図していた大胆なヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展の改革、それと同時に「建築」という概念そのものの変更を求めるものであったからである。
第14回ヴェネチア・ビエンナーレ日本館のコミッショナーの選考は、開催の1年以上前の2013年3月7日に選考会議が開かれている。今回は総合ディレクターのレム・コールハースから各国のビエンナーレを担当する事務局にメッセージが送られており、日本館のコミッショナー選定委員のメンバーにも、事前にこの「レムのメッセージ」が届けられていた。その内容は「建築家ではなく建築のためのビエンナーレである」とすること。これは、これまでは建築家を作家とみなして招待し、それぞれのインスタレーションを展示していたのをやめるということである。建築はアートではない。その表現を競うことに意味は無いということを主張しているように思えた。
そして、「過去100年に起こった各国の建築の変容を、ビエンナーレを挙げて追及する。各国館には、このリサーチ・プロジェクトのよき一環となるよう、積極的な参画を求めたい」とする。これは、建築というものが時間の奥行きのなかで物理的そして文化的なコンテクストを持つものであり、その確認のために展覧会という形式を使ってリサーチを行なうという主張である。そして、そこで目指すのは、「今日あたかも疲弊してしまったかのような建築の根本的な可能性とその豊かさを、ビエンナーレ会場全体を使って探り、理解することである。」とされていた。
私は、このメッセージには100年続いたモダニズムという建築の時代の終焉を暗示し、具体的には1980年にパオロ・ポルトゲージのディレクションによって始まった建築家をアーティストのように扱う建築ビエンナーレのありかたを変えるのだという意志を感じた。それは20世紀後期から始まったポストモダニズムと呼ばれる差異化を求める表層的建築言語の使用期限が終焉を迎えていることの表明でもある。それはどのようにプレゼンテーションされるのであろうか。
- 象設計集団《進修館》議場で実際に使われている椅子と机 手にしているのは樋口裕康氏のスケッチ
日本館コミッショナーの選考
コミッショナーの選定は、注目すべき言説や建築家、建築関係者を挙げ、この人ならばこのようなプレゼンテーションができるのではないかということを討議して候補者を挙げる。これまではヴェネチアのビエンナーレ事務局からは、全体の方向性を示唆するような大きなテーマ設定はされても、各国のパビリオンの展示内容、コンセプトは各国に委ねられていた。しかし今回、この「レムのメッセージ」によって選考会の道程は大きく歪む。1914年から始まる100年間のモダニズムの受容に関するリサーチを要請するという「レムからのメッセージ」には、そのなかにユーロセントリズムの気配を感じて不快感を示す選考委員もいた。おそらく他の国でも同じような論議があったのではないかと思う。ともあれ、この「レムのメッセージ」を受けて6名の候補者がノミネイトされ、2013年5月14日に6名の候補者が展示内容のプレゼンテーションを行ない、その結果、太田佳代子氏がコミッショナーに選考された。
日本館は1956年に吉阪隆正の設計で造られたもので、4本の壁柱で地上から持ち上げられたキューブのような建物である。太田氏の展示コンセプトは、この日本館の建物を高床の倉に見立て「現代建築の倉」というタイトルで説明する。それは、2階の展示室には、1914年から100年間の日本の近代建築の検証する事物が集められ、床下のピロティでは倉にある事物と連携して会期中継続したイベントが仕掛けられ、そこで生まれる新たな事物が倉に加えられるというものである。他の候補者の展示内容が完成されたスタティックなものが多かったなかで、太田氏の展示コンセプトは未完成でダイナミックなものであった。そして何よりもレム・コールハースの主宰するOMAのシンクタンク部門AMOのキュレーターであったという経歴は、総合ディテクターであるレム・コールハースの意図する展覧会場全体が連動する壮大な試みに同調できる可能性が示されていた。
- 貴重な戦後の建築雑誌の数々を手にとって読むことができる
70年代は日本の切断面である
この選考会の時点では、1970年代を起点にして100年の歴史が詰まった倉になるということであったが、日本館ディレクターとして参加した中谷礼仁氏による意図が付加されたのであろう。実際に展示されていたものはほとんどが70年代の建築的事物であった。それは、1970年代が日本建築の切断面であり、それを切り取って世界に提示することで現代の日本の建築の成り立ちと、モダニズムという建築運動をリサーチするためのよき資料になるという展示チームの主張である。
展示室内は提案されていた通り、倉のなかのようである。梱包を解かれたばかりのように木箱の上にさまざまなモノが一見無造作にばらまかれている。プレオープンぎりぎりに間に合った展示物もあるようで、おそらく会期中も出し入れがされることが予感される。私は1950年生まれなので1970年から同時代的に当時の日本の建築世界を体験しているが、展示物はどれも懐かしく、また知識としては知っていたものがリアルな現物として再現してあるのに驚いた。私のような知識の背景を持っている者にとっては宝の山であるが、あまりにマニアックなので、この展示意図がどのようにヴェネチアで伝わっていくのか興味がわいた。たとえば海老原鋭二の「からす城」の型枠に使ったドラム缶が置いてあるのだが、『都市住宅』で掲載された時の衝撃を知っている者には納得できても、知らない人にとっては内容を理解するためにそれなりの手続きが必要となる。展示を理解するためには濃密なコンテクストを読みこむことが要求されるのだ。しかし、建築とは一見してわかるものではなく、このように濃密な背景を抱えているものである。という主張が、この展示から伝わってくる。
1968年に日本はGDP世界第2位となり、そこで日本の社会はテイクオフしていた。1970年の大阪万博で幕が切られたのであろう。高度成長期を経て、当時の日本には若い建築家に仕事を依頼できるクライアントが登場していた。いまから考えれば、メタボリズムという建築思想を考案した60年代の日本の建築家たちは西欧世界から流れ込むモダニズムを学習する優等生であったのに対し、70年代の日本の建築家たちは自信を持って独自のリージョナルな建築を展開し始めていた。そんな時代である。建築の世界も社会と共にテイクオフしていたのだ。そこでは世界の建築思想と連携しながら新しい建築がダイナミックに模索されていたのではないか。日本という国の経済的ポテンシャルと同調しながら、モダニズムを乗り越えようとする早熟な冒険が展開されていたようにも思える。同時に、彼らの活動を支える多様な建築メディアが存在し、建築批評が活発に行なわれていた。日本の70年代は、さまざまな建築の可能性が試行された時代なのだ。その全部を倉と呼ぶ展示室に詰め込もうとしているのだから、日本館の展示は濃密な展示である。
いまから見ると独り言の集積のようにも見える70年代の日本の建築は、60年代のアメリカ東海岸で出題された建築のアポリア(解けない問題)に対する解答を多様に用意した時代であったように思えてくる。そして、この島国で展開した壮大な建築の実験は、後にケネス・フランプトンによってクリティカル・リージョナリズムのひとつとして総括され、片付けられてしまったのではないかと思った。そして、1980年にはパオロ・ポルトゲージによるヴェネチア・ビエンナーレ建築展によってポストモダニズムのとば口が開かれている。
- 雑誌コーナー奥の壁には、真壁智治らが発行した雑誌TAUの現物が貼られており、その質感までも楽しむことがで きる
そして、これから
6月6日、プレオープンの二日目の夕方、日本館を訪ねるとテントで囲まれたピロティに大勢の人が集まっている。ビエンナーレの全体テーマである「モダニズムの受容」を語り合うナショナルパビリオン間のクロストークである。塚本由晴氏が切れのよい論説を展開していた。日本館を担当した中谷礼仁氏の他にゲストスピーカーとしてチャールズ・ジェンクスやジャン=ルイ・コーエンなどが参加し、活気あるシンポジウムが始まっていた。このピロティは 倉では過去を展示しているのに対し、現在から未来が語られる場になるという重要な位置づけとされている。会期中にワークショップやセミナーがいくつか予定されているようである。
多くのナショナルパビリオンは「レムのメッセージ」に素直に反応していた。他のヨーロッパのナショナルパビリオンでは、たとえば、オランダ館では構造主義のヤコブ・バケマ、フランス館ではジャン・プルーベ、スイス館ではセドリック・プライスなどが召喚され、それはまるで、第二次世界大戦直後のモダニズムを初期設定する時代に戻そうとしているようにも思えた。そのなかで、日本館は70年代の日本の建築状況を特異な切断面として取り出し、その錯綜する根塊のような運動を解き明かそうとしている。今回のビエンナーレで興味深い展示にたどり着いているナショナルパビリオンは、すべてレムの壮大な構図の一翼を担っているものであるように思えた。日本館の太田氏とレムの間にも緊密に連携がとれていたことがうかがえる。その対話のなかで大事なことは、建築が歴史から切断されない文化的な行為であることであり、同時に未来を真剣に話し合う必要がある事の確認と、そこでリサーチされた建築が未来に接続するという確信である。
いずれにせよ、21世紀初頭、メディアとの共犯関係で差異化のゲームを行ない、資本権力に回収され消費されてきた建築を、再び人間世界にとって有意味な存在に戻せるのかということが問われている。会場を一通り見てきたが、レムの真意はどこにあるのか、私自身は未だに謎ときが終わっていない。ただ、新奇な形態を競う消費構造から建築を救い出そうという意思の存在を感じた。では、それをどのように実行するのか。それはメッセージを受けた観察者の責となるのであろうか。
- 青焼きコーナーには古いものは《軍艦島》から、アトリエ・ワンの《スプリットまちや》(2010)までの100 年間に日本建築が青焼きにて紹介されている。またその一部は、実際にその場で青焼機で複製し購入することも可能である