ニュータウンの哲学──新しい都市像の構想のために

篠原雅武(社会哲学・思想史)
哲学や歴史、政治といったことがらにかかわる人文学は、人間の実生活の営みをよりどころとする。現在、私たちはどのような生活を営んでいるのか。この問いに対し、ただ経験の内容を素朴に語るのではなく、経験の条件を、さらにはそこにはらまれている問題を、理論的に言語化するということが、人文学の課題である。

現代において、人文学がよりどころとする生活経験とはどのようなものか。そのひとつがニュータウンでの生活経験ではないかと、私は考えている。

ニュータウンは、戦後の復興から高度成長にかけて、都市部での人口増加にあわせて建設された人工都市である。以来、半世紀が経過しようとしている現在、そこで生まれ、幼少期を過ごしたというだけでなく、大人になり、幼少期とは別の人生を送るようになった人も多いだろう。そうした人たちにとって、ニュータウンは、自明のもの、ありふれたものである。

「集合住宅の窓の一つひとつが安らかならば、それでよいと思う。建物に意味や価値をつけすぎない方がいい。肝心なのは、そこで誰かが命を灯し続けているという事実。暑さ寒さをしのぐためのもの、と思えば、建物も衣服も同じ」★1

ニュータウンは、住居を主要な構成要素とする、集合体である。多くの住居があるということは、そこに住む人がたくさんいるということであり、そこに住む人それぞれが営む人生があるということである。その生活は、普通に営まれている。それが当たり前と思ってしまえば、別に深く考えなくていい。暑さ寒さをしのぐといった基本機能、利便性が保たれていれば、そこでの生活には満足できるし、ほかの人たちも満足していると思っていられる。


だが、ニュータウンには、ただこのように言ってしまうのでは捉えがたい問題がある。この機能性、利便性というものが、何を代償として成り立っているのか。機能的で利便的だから満足できるという信念は、はたして、絶対的に正しいものといえるのか。ティモシー・モートンが述べているように、このような思考こそがエコロジー思考である。それは、「意識化されることのないままである私たちの存在の諸側面を明るみに出すこと」である。そうすることで、「私たちの世界、私たちの問題、私たち自身を見直すこと」★2が可能になるのだが、ニュータウンもまた、こういった思考の実践により、新しく見直すことが求められているのではないか。


クリストファー・アレグザンダーは、「都市はツリーではない」で、「人工の都市にはかけがえのない何か本質が欠けている」★3と述べている。人工都市とは、計画的につくりだされた都市のことである。ではいったい、人工都市に欠落している本質的な構成要素とは、何のことか。

アレグザンダーは、人工都市に共通のものを、抽象的な秩序の水準で把握した。部屋と部屋、住居と住居、団地と団地、近隣住区と近隣住区、都市とその外部というように、人工都市には構成要素が切り離され分断された状態で寄せ集められるという秩序パターン(ツリー=樹木状)が現われているということを論じた。そしてアレグザンダーは、ツリーとしての人工都市には、決定的に何かが欠落しているというのだが、それが何かを明確に述べず、本来の都市は重なり合いに満ちているべきであると述べることで、この欠落が何であるかを示唆しようとする。アレグザンダーの図式においては、本来の都市は、京都やリヴァプールやマンハッタンなどの自然生長的に形成された都市であり、人工都市はこの自然都市と対置されるという関係にある。そしてこの対置により、人工都市に欠落しているものが何であるかを示唆するというのが、アレグザンダーの論法である。

人工都市に何かが欠落しているという洞察自体は、けっして誤りではない。1973年に発生したトイレットペーパーの買い占め騒動が人工都市の典型といえる千里ニュータウンのスーパーマーケットを起点に始まったというのは有名な話だが、この出来事は、人工都市に欠落している何ものかをほのめかすものといえる。松山巌は述べている。「東京をはじめ都市圏に人口が集中し、農地や工場跡地を蚕食して大規模団地が出現する。生産や加工の現場が見えぬ空間のなかで、事実は噂にすり替わり、モノ不足の危機感のみが拡大する」★4。人工都市は、生産や加工の現場から切り離されているというだけでなく、そこに住む人たちに根づきの根拠を実感させる何ものか(伝承、習俗、風土性)からも切り離された空間である。自然都市であれ、農村であれ、時間をかけてつくりだされた居住地には自然生長的に形成されてきたはずのそうしたものが、人工都市には欠落している。

アレグザンダーは、この欠落が、自然都市にそなわっている都市的なものの本質を人工都市に移植することで解決できるとは考えない。人工都市が自然都市とは異質のものとして存在するということは不可逆的な現実であって、そのこと自体はどうしようもない。必要なのは、秩序の水準において、ツリー化というパターンとは異質のモデルを考えることであり、このモデルに即して、新しい都市をつくりだそうとすることである。それは、自然都市とも人工都市とも異なるものとなるだろう。


現在において、アレグザンダーの問題提起は、なおも重要である。だが、この問題が、アレグザンダーが提示した図式では把握するのが難しいものであるということも、わかるようになってきた。そもそもが、人工都市が何かを欠落させているというとき、それはただ、ツリー状という抽象的な秩序の水準にかかわるものなのか。松山が示唆しているように、それは、伝承や習俗という、人間が生活するということの条件、つまりは生活形式にかかわるものでもあるといえるのではないか。さらにもうひとつ、人工都市は、農地や工場跡地といった自然を蚕食するものとして建造されているが、このことは、「人工」という言葉の意味の多義性を問わねばならないことを示唆している。アレグザンダーは、人工を、自然生長性と対置されるものと意味づけしている。つまり、人為性であり、作為性である。しかしながら、人工都市は、農地だけでなく、里山や丘陵を造成するということの産物でもある。つまり、人工都市の人為性は、自然生長性と対置されるというだけでなく、そこにはさらに、自然を改変するという意味もまた含まれているということに、意識的になることが求められている。

人間が自然を改変すること。それは、1945年以後、惑星規模で大々的に起こるようになった現象である。人新世(Anthropocene)といわれる地質学的な状況を私たちは生きるようになっているのだが、このことが私たちの心身に及ぼす影響を真剣に考え直すことが、人文学では新しい課題として浮上している。モートンは、「この時代においては、人間ならぬものが人間と決定的な接触を行なうようになる」と述べ、そのことゆえに、「歴史を、ただ人間にかかわるものとしてだけ思考することができなくなる」と述べている★5。そうなってくると、私たちをとりまく世界というものが、じつは私たちの思考や内面性といったものとは無縁で、勝手に動き回る、予測しえないものの集合体で、それに固有の歴史性というものがあるということになりそうだが、この状況を意識化すると、人工都市の捉え方もまた、違うものになるのではないか。

人工都市とは、私たちをとりまく世界のそもそもの無関係性の度合いを弱め、環境世界を人間の意のままにすべく馴致したことの帰結であるということになろう。そこでは、事物にそなわる奇怪で予期しえない影響が、あらかじめとりのぞかれている。ただし、そういった除去、馴致が、本当に可能かどうかはわからない。それでも、少なくともここに住んでいる人たちは、馴致が可能であると信じているし、私たちをとりまく世界がそもそも奇怪で、手なづけられないものであるということに、無自覚になっている。


ニュータウンでは、個々の住宅内で営まれている私生活が、重視されている。基本機能が備わっていて利便性が保たれていても、人と人が出会う場や意思疎通を行なうといった私的ならざる公共的な生活のための場が乏しい。他人との関係もまた、予測しえないもの、手なづけえないものではある。そうしたことをも可能なかぎり手なづけ、予期可能なものにしてコントロールするというのであれば、たしかに、それらは最小限度に縮減されるべきということになろう。ノイズの縮減である。だが、このノイズの縮減が、逆説的にも人間の心身にダメージを与え、ストレスを亢進させていく。それがいったいどういうことかは、なおも問われるべきだろう。

じつはこのノイズの縮減の効果は、ただ人間に及ぶというだけでなく、ニュータウンが建設される場となった自然にも、及んでいる。ニュータウンに住んでいると、自然なるものは存在せず、すべてが人工物ではないかという錯覚にとらわれてしまうのだが、それはつまるところ、ニュータウンに慣れてしまうとそのように信じてしまうというだけのことで、ニュータウンをとりまく山、そこを流れる川、空に浮かぶ雲、陽光、少し離れたところにある田んぼや畑といったものが存在しているのであり、そのかぎりでは、ニュータウンの人工性はあくまでも局所的なもので、それが自然との連関のなかにあるということは、少し冷静に考えてみればすぐにでもわかることである。

モートンは、瞑想(meditation)が大切であると述べている。瞑想は、「私たちの概念的な固定性を暴露し、網目状のもの(mesh)が開かれていくことへと探求の目を向けていくことである」★6。ニュータウンは、人工物として自足しているようにみえるかもしれないが、この自足性に対応する私たちの概念枠をまずは解体する必要がある。そのことで、ニュータウンを、それをとりまく自然世界との相互連関のなかに置き直してみるならば、ニュータウンについて別の見方ができるだろう。ニュータウンは、もう新しい街ではない。老朽化し、空家化も起きている。そこは、人工物としての自足性が綻びている部分として捉えることができるのではないか。ニュータウンを新たなものにしていくことの拠点は、この綻びにあるのではないか。ニュータウンという人工世界へと自然を招き入れる場であり、人間と自然の関係の新しい結び直しを実験する場となるのではないか。

もちろん、このことのためには、厳密な思考が必要である。アレグザンダーのいう自然都市は、自然生長性という意味での、自生的秩序に根ざすものであった。だが、その自然都市もまた結局は都市であり、自然なるものとは切り離された状態にある。現在は、アレグザンダーのいう自然都市とは別の意味での自然都市の構想が求められている。そのためにも、私たちをとりまく世界への感度を高めつつ、そこから距離をおいて瞑想し、人工物と自然との相互連関、さらにはそこにかかわってくる人間や動植物のあり方を、時間をかけて感覚し、そして洞察し、この相互連関にふさわしい生活形式がどのようなものかを考え、言語化していく必要がある。


★1──東直子『ゆずゆずり』(中公文庫、2009)31頁。
★2──Timothy Morton, The Ecological Thought, Harvard University Press, 2010, p.9.
★3──クリストファー・アレグザンダー『形の合成に関するノート/都市はツリーではない』(稲葉武司+押野見邦英訳、SD選書、2013)217頁。
★4──松山巌『群集』(中公文庫、2009)472頁。
★5──Timothy Morton, Hyperobjects: Philosophy and Ecology After the End of the World, University of Minnesota Press, 2013, p.5.
★6──Morton, op. cit., p.127.


篠原雅武(しのはら・まさたけ)
1975年生まれ。社会哲学・思想史、大阪大学特任准教授。京都大学人間・環境学研究科博士課程修了。主な著書=『公共空間の政治理論』(人文書院、2007)、『空間のために──遍在化するスラム的世界のなかで』(以文社、2011)、『全-生活論──転形期の公共空間』(以文社、2012)。主な訳書=シャンタル・ムフ『政治的なものについて──ラディカル・デモクラシー』(共訳、明石書店、2008)、マイク・デイヴィス『スラムの惑星─都市貧困のグローバル化』(共訳、2010)、ジョン・ホロウェイ『革命─資本主義に亀裂をいれる』(共訳、河出書房新社、2011)、ロビン・D・G・ケリー『フリーダム・ドリームス─アメリカ黒人文化運動の歴史的想像力』(共訳、人文書院、2011)ほか。


201501

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