新国立競技場問題──是か否だけでは捉えられない問題の彼方へ

松田達(建築家・東京大学助教)

新国立競技場問題をめぐる構図

「新国立競技場問題」とは、国立霞ヶ丘競技場の建て替えのため、2012年秋に行なわれた国際デザインコンクールにおけるザハ・ハディドの勝利案に対し、巨大さによる景観への影響、膨大な建設費、コンペ要項への疑問などから、建築家や市民グループによる異議申立てが行なわれ、その後一年以上、随所で賛否が議論されている問題のことである。
この異議申立ては、2013年秋に建築家の槇文彦が中心になってシンポジウム「新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える」を開催し、多くの建築家が賛同者に名を連ねたことから、世界的にも注目を浴びた(その記録は、槇文彦・大野秀敏編著『新国立競技場、何が問題か:オリンピックの17日間と神宮の杜の100年』に収められている、図1)。一方、この国際コンクールの審査委員長は、やはり世界的に知られる建築家の安藤忠雄が、審査員ではノーマン・フォスター、リチャード・ロジャース、内藤廣ら著名な建築家らがつとめていたため、その発言が注目されたが、審査委員長だった安藤忠雄は当初よりほぼ一貫して沈黙を保ち続けている。ただし賛成、反対という単純な構図ではなく、伊東豊雄、大野秀敏らによる複数の改修案や、槇による対案なども提示された。また磯崎新は、2014年11月にザハ・ハディド事務所とともにこの問題に関する会見を行ない、再度ザハ・ハディドに新しい条件で設計をさせるべきという立場を表明するなど、建築界においてもそれぞれ立場の異なる、複雑な状況が生み出されていると言えよう。
新国立競技場問題がさらに注目されるのは、建築界にとどまらず、各界知識人、一般市民、メディアを巻き込んだ運動と議論に発展しているところであろう。例えば哲学者の中沢新一、社会学者の宮台真司らも新国立競技場ザハ・ハディド案への反対を表明している。市民グループでは、作家の森まゆみらが共同代表をつとめる「神宮外苑と国立競技場を未来へと手わたす会」が活発な反対運動を行なっており、多くの署名も集めている。また建築家の森山高至は、反対を唱える急先鋒としてネットでの発言を中心に、もっとも積極的に現行案の廃止を訴えている。
一方、新国立競技場建設を推進する国、都、発注元の日本スポーツ振興センター(JSC)は、批判を受け、2014年5月の段階で一度大きく計画の見直しを行ない、修正案を発表したものの、その後は粛々と解体・着工へと歩調を進めている。新国立競技場に対して、現実的にもっとも強い影響力を行使できる立場にある舛添要一東京都知事は、2014年6月の都議会の所信表明演説において東京五輪会場全体の見直しを表明したものの、新国立競技場を建設するという方向そのものは変えていない。
2015年1月の現段階において、この問題は決して議論としての解決を見ていない。複数の意見が、バラバラにネットやメディア上を行き交い、誰がどのような形で何を決定するという具体的な決断手段が曖昧にされたまま、ただ、時間だけが過ぎている状況が続いていると言えよう。

図1 槇文彦、大野秀敏編著『新国立競技場、何が問題か』(平凡社)

論争の背景にある、転換点としての2011年

この問題に関連して、都市計画の在り方や、設計競技の在り方など、多数の問題が浮かび上がってきており、限られた字数ですべてを詳述することは難しい。これらの問題も含めて、筆者は建築学会の場で2014年10月にシンポジウム「新国立競技場の議論から東京を考える」を企画開催させて頂き、その記録が公開されているため、詳細についてはそちらも参考にされたい(https://www.10plus1.jp/monthly/2014/11/pickup-01.php)。公式の情報を発信しているJSCのサイト(http://www.jpnsport.go.jp/)、反対の立場から多くの発言を行なっている森山高至のブログ(http://ameblo.jp/mori-arch-econo/)など、問題を知る上で紹介すべき他にもサイトは多いが、中立的な立場からこの問題について分析的に記述しているテキストは、決して多いとは言えない。特に、賛成の立場、反対の立場、双方の代表的論者が公開の場で直接的に議論をした機会は、筆者の知るところ、上述の建築学会でのシンポジウム一度のみである。
日本の建築界にとっては、久方ぶりの建築論争と言えるかもしれない。しかし、この論争はこれまでとは何かが違っている。1970年代の「巨大建築論争」や1995年の横浜港国際客船ターミナルの国際コンペに関する論争が、あくまで建築デザインについてであったのに対して、今回はデザインはむしろそっちのけで、建設そのものの是非をめぐっての論争である。デザインではなく、規模を変化させるべき、新築ではなく改修にすべき、といった論調が多い。コンクールの勝利案において当初特徴的だった流線型が、修正案において大きく失われる形でデザインが変化したことも問題にはされているが、たとえデザインが変わらずに規模が縮小したとしても、反対運動が起こることには代わりはなかっただろう。
したがって新国立競技場問題は、デザインの問題よりも、その存在意義そのものや成立に至る手続きの不備の問題が、論争の本質にあるように思われる。また一般市民や社会を大きく巻き込んでいるという点で、過去の建築論争より、より社会的な論争に発展していると言えよう。
この問題が、新しいかたちの論争として展開していることの背景として、三つの出来事を挙げておきたい。ひとつ目は、日本が人口減少社会に入ったこと。総務省統計局によれば、日本は2007年から2010年が人口静止社会、2011年が人口減少社会「元年」であるという(図2)。今後、継続的に人口が減少していく日本の社会にとって、巨大な建築が負の遺産となる可能性が懸念されている。二つ目は、東日本大震災の衝撃である。被災地の復興が、用地確保の地形的な難しさや、職人不足による建設費の高騰などを理由に遅れるなか、いかに東京五輪のためであろうと、いやだからこそ、高額で多機能な競技場は必要ないという考えが生じているだろう。開閉屋根は、オリンピック後に競技場をスポーツ以外にコンサート会場などとして使うために必要であるとされているが、このような多機能性こそが費用の高騰を生んでいると批判されている。三つ目は、都市建築ストックの飽和である。戦後、都市化に対応してさまざまな建築物が、スクラップアンドビルドを繰り返しつつ大量に建てられてきたが、人口規模の縮小にともない、都市建築はいまや量的な飽和状態に達しており、今後はストック建築の活用が迫られることは確実である。メインスタジアムはそのシンボルとして、現国立競技場の改修であるべきではないか、という考え方が建設反対に共鳴する多くの人の通底にあると言えよう。

図2 総務省統計局「人口推計」(平成26年12月報)
http://www.stat.go.jp/data/jinsui/pdf/201412.pdf
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「正しさ」とはー「法」か「正義」か?

上記の三点は、いずれも「2011年」が節目となっている。多少大げさに言えば、日本は2011年に社会の転換点を越えたとも言える。 巨大化・多機能化・新築の時代から、コンパクト化・単純化・改修の時代へ。明らかに、建築をめぐる状況は変わっている。新国立競技場は、その最たるものとしてあらねばならないという機運が、新国立競技場についての問題を、社会的な問題へと引き上げた。ただし、もしメインスタジアムが改修であるべきならば、本来それは最初に国際デザインコンクールの要項に書いておくべきことであった。しかしながら要項で求められた建築物は、決してそうではなかった。要項にしたがって案を提出した建築家に、非はないはずである。特に国外からの提案者にとって、東京の事情を知ることは、さらに困難であったであろう。
すでにさまざまなプロセスは進行しつつある(図3、図4)。現国立競技場の解体は、入札不調や談合疑惑が連続したことから当初の2014年7月からという予定より7ヶ月遅れたが、ようやく2015年2月にはじまる予定だという。時間をどこまで遡ることができるのか。時とともに、それは難しくなっていくのも事実である。しかし、それでも現行案に反対し続けるべき、という意見は現状を見る限り、やまないであろう。一方、監修を行なうザハ・ハディド、設計の日建設計ほかによる4社JV、施工予定者の大成建設、竹中工務店にしてみれば、定められたルールにしたがって、そのなかで最善の策をもとめて動いているはずである。また都市計画決定を行ない、高さ制限を変更し、これまで設計を進めてきた都やJSCは、ルールを「つくりながら」ではあったが、そのルールにそって動いてきたと主張する。このような状況において、どのような解決があるというのだろうか?
まるで法と正義の関係である。ルールをつくり、その「法」にしたがって動いているものと、そのルールを超えて、ここには「正義」があると主張するものと、そのどちらが「正しい」のだと言えようか?もちろん「正義」は、現行案の建設に対する反対をする側にだけあるというつもりではない。それぞれの立場が「法」を超えて、自分の「正義」を信じて動いているであろうからである。しかし、分裂した「正しさ」の基準に対して、どれが「正しい」と解決することはもはや不可能であろう。
何故それが不可能であるのか?現時点では、このような事態が起こることは、日本の公共建築をめぐるルールの「想定外」の事態であるからである。市民社会が、公共建築に疑問を突きつけた際に、それを止める手段が確立されていない。特に今回の場合、発注は国や自治体ではなく、JSCという独立行政法人であるため、市民の介入がより難しくなっている。誰が、いつ、どこに、何を、どのように申し立てれば、公的な議論や決議ができるのか、何も決められていない。したがってネットを駆使し、メディアに訴えかけ、声を大きくしてという行為を繰り返すほかないような状況である。

図3 新国立競技場ザハ・ハディド案(コンクール勝利案)(JSCサイトより)

図4 新国立競技場ザハ・ハディド案(修正案)(JSCサイトより)

行政の選択肢の多さと、市民の選択肢の少なさ

厳密には、都市計画案に対する意見書の提出は可能であったが、例えば今回の場合、高さ制限を大幅に変更する都市計画案に対して、それが可能であったのは、2013年1月21日から2月4日のわずか二週間だけである。この段階で問題の大きさを認識し、意見書を提出することは、ほとんど不可能であったとも言えよう。事実、後にこれだけ大きな声が沸き起こっているにもかかわらず、この時、意見書の提出は一通もなかった。なお、千葉商科大学の原科幸彦らによる「参加と合意形成研究会」の調査によれば、例えば2013年6月17日に都市計画決定された高さ制限の緩和について、決定前にそのことを知っていた地域住民は、わずかに1.9%ということなので、いかにこのような決定が「秘密裏に」(少なくとも合意形成できているとはとても言えないような状況で)行なわれているかということは、かなり明確に言える(新国立競技場計画「情報公開と参加に関する調査」報告書)。
諸外国の状況は、日本と異なる。アメリカでは1ヶ月に25,000人分の署名を集めれば、誰でも政府に対して嘆願ができ、それに対して公的な対応が約束される「We the People」というサイトがある。2013年に米国政府が「デス・スター建設」の嘆願に対し、85京ドルかかると、真摯かつユーモアを交えた回答を行なったことは有名である。もちろん、このような仕組みは日本に存在しない。
スイスにおいては、人口の1〜2%程度の署名を集めることによって、市民投票や市民発議といった形で、都市計画や公共建築に対する民意を問う仕組みがあり、頻繁に活用されていることは、木村浩之が紹介する通りである(「その建物に物申す!──レファレンダムとイニシアチヴの行使による都市建築計画への直接参加」)。
フランスのパリでは、19世紀末にエッフェル塔が建てられた時からも、景観問題に対する市民の意識は強かった。ごく最近でも、パリ市南西部にヘルツォーク&ド・ムーロンの設計によって建設が計画されていた地上43階、高さ180mの三角形型のタワー(図5)の建設が、2013年11月に市議会によって否決された。これに対しパリのアンヌ・イダルゴ市長は、秘密投票が守られなかったとして、行政裁判所にその無効を求めて提訴したという。
これら一連の動きは、定められたルールにおける選択肢から選ばれ、行使されたアクションである。翻って日本では、都市計画や公共建築への市民参加や合意形成の手段がほとんどないか、あるとしても形式的で実効性のないものであるといえるのではないだろうか。一方で、行政の選択肢は多い。今回も、例えば高さ制限は無根拠に15mから75mに変更されたわけではなく、都が定める「東京都再開発等促進区を定める地区計画運用基準」にしたがって、公告・縦覧・審議会を通過し、「ルール通り」定められたというわけである。再開発を行なおうとした場合に考えられる選択肢や可能性は、非常に多い。選択肢が多いこと自体が問題であるとは思わないが、行政の選択肢の多さに対して、市民の選択肢が少ないことは、いびつな非対称性を帯びているように感じる。なお、この「運用基準」の仕組みは非常に複雑であり、一般市民がその意図を理解して問題を指摘することは、極めて難しいように思われる。

図5 ヘルツォーク&ド・ムーロン設計によるパリのトライアングルタワー
(Photo: Cabinet Herzog et De Meuron)

賛否の問題を越えた方向性は、いかに提示可能か?

新国立競技場問題は、関連するさまざまな問題を浮上させる。特に2011年以後、ひとつの転換点を越えた社会において、都市や建築がどのようにあるべきなのか、多くのことを考えさせる。ここから派生して考えられる問題が多いということは、この問題の存在意義として重要である。もちろん現在進行中の問題であるので、今後の方向性は予測できないが、いくつかの方向性を示しておきたい。いずれかの方向性が選ばれるべきというシナリオではなく、共存可能なシナリオの提示である。もちろん、これ以外の方向性もさまざまに考えられるが、ここでは賛成や反対という立場を越えた、もしくはその両者を踏まえた上での視点を、以下に提示したい。

1. 都市計画や公共建築の整備に関する、市民社会の合意形成の仕組みを変えること
新国立競技場はメルクマールとなる建築であるから、災後・人口減少・ストック型社会のシンボルとして新築であってはならないという主張はもちろん理解できる。ただし、国際デザインコンクールという手続きを経て物事が進行していることを考慮すると、現実的に状況を覆すことは決して容易なことではない。とはいえ、新国立競技場がどういう方向に向かおうと、根本的な仕組みを変えない限り、いずれ同じ問題は生じる。この問題がどのような方向性に向かおうと、こういう議論が生じたことをきっかけに、都市や建築に対する市民参加のシステム、また合意形成の仕組みを再考することは、長期的な視野で見て重要だと思われる。

2. 都知事が新国立競技場について、何らかの見直しを決断すること
どこかのタイミングであってもおかしくない出来事である。知事は2014年6月に会場計画の見直しを表明した他、10月にはロンドン五輪の競技施設を視察し「民間の知恵を入れて最初からやり直す」「マイナスの遺産を残さない」などコメントを出した。民間企業の知見を求めるということであるが、当然すでに提案されている提案についても考慮される可能性はある。これまでのさまざまな改修案の他、例えば、磯崎新が提示した案なども、可能性のひとつとして挙がることはあるだろう(個人的には、このザハ・ハディドが再度新条件で設計をするという案が、時間さえあれば一番可能性があるように思われる)。また、やはり十分な時間があればかもしれないが、ザハ・ハディド自身が「修正新築案」ではなく現国立競技場の「改修案」を提示する、という解決もあったのではないだろうか。現実的な時間の厳しさと予算の圧縮の必要性、東京五輪のコンセプトとの整合性など、さまざまな観点を踏まえた上で、何らかの判断があるべきだと思われる。

3. 新国立競技場を唯一のシンボルと見なさず、複数の別の建築物の在り方を継続して考えること
仮に見直しが時間的に間に合わず、現行案から大きく変わることなく新国立競技場が実現されることになった場合(これがそもそもの案であり、別にこうなってほしいと気持ちを込めて書いているわけではない。結果のひとつとして、もっともあり得る筋書きとしてである)、それでも「新国立競技場問題」として議論された内容の重要性は変わらないはずである。確かに費用や注目の度合いとして新国立競技場のシンボルとしての存在感は強いが、公共建築の妥当性を問うとしたら、他にも見直しが迫られるような計画はいくらでも出てくるはずである。オリンピックに関連するものだけでも、多くの競技場や五輪選手村の建築物が新設される。むしろ、計画の変更がしやすい現段階から、それらの建築物の在り方を問う可能性を考えておくべきではないだろうか。都は2014年11月、10施設の新設会場の整備費の試算が4584億円に膨れていたことから、3施設の新設を取りやめることで約2千億円を削り、2576億円に圧縮したと発表した(図6)。この中に新国立競技場用整備費は含まれていないので、これから新設される7つの建築物は、金額的には新国立競技場以上になるのである。

図6 東京都「2020年東京オリンピック・パラリンピック会場計画の再検討の状況について」
(平成26年11月9日)より
http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/107/157/802/d00136801_d/fil/2-2.pdf
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松田達(まつだ・たつ)
1975年生まれ。建築家。松田達建築設計事務所主宰。東京大学先端科学技術研究センター助教。


201501

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