新国立競技場問題の日本的背景を考える
──日本のコンペティションは、なぜ設計者の顔を隠そうとするのか?

松田達(建築家。武蔵野大学工学部建築デザイン学科専任講師)

あらためて、新国立競技場の問題について振り返る

2015年9月18日、白紙撤回後の再コンペの申し込みが締め切られた。応募は隈研吾、梓設計と組む大成建設のグループと、伊東豊雄、日本設計と組む竹中工務店、清水建設、大林組のグループの二者のみのようであり、日建設計と組んで応募を検討していたザハ・ハディドは、応募条件が厳しく施工会社が見つからずに不参加という、なんとも痛ましい展開となった。今後は、二者による再コンペが進んでいくことであろう。
新国立競技場に関する状況は、日々変化しており、大手メディアからソーシャルメディアまであらゆる情報が日々流れている。ここで、新国立競技場問題の経緯を振り返っておくことは、無意味ではないだろう。問題の本質がどこにあるのかを見失ってはならないからである。新国立競技場に関する問題が国民的な議論として盛り上がってきたのは、ようやく今年の6月末に政府が2520億円の支出を決めてからだといえるだろう。しかしながら、この問題は少なくとも2012年の最初のコンペの時点からはじまっており、問題は複雑に絡み合っている。よって、ここでは現在進行形の問題は中心的には扱わず、放っておくと忘れ去られてしまうかもしれないけれども、問題の本質を考えるためには重要であろうことを確認していきたい。
なお、ほぼ一年前の2014年10月1日には、新国立競技場に大きな問題提起を投げかけた槇文彦、新国立競技場国際デザイン・コンクールの審査員であった内藤廣、この問題に対してこの時点で既に様々な発言をしていた五十嵐太郎、青井哲人、浅子佳英各氏を招いて、「新国立競技場の議論から東京を考える」というシンポジウムを筆者は企画し、日本建築学会主催の建築夜楽校というイベントにおいて開催した。その記録は公開されているので、こちらも参照されたい(https://www.10plus1.jp/monthly/2014/11/pickup-01.php)。さらに、このシンポジウムの参考資料として、この時点までに新国立競技場に関して発言された様々な言説について、その要旨をメモし、論点を抽出してまとめたものも公開しているので、紹介しておく(http://www.kenchiku.co.jp/bunka2014/honbu/shinkokuritsu_matsuda.pdf)。過去の議論も、特に建築関係者の間では少なからず反響があったので、経緯も含めた事情に関心のある方には少しでもそれらを辿って頂ければと思う。

コンペティションにはどのような問題があったのか?

さて、2012年秋に行われたコンペは「新国立競技場 国際デザイン・コンクール」と題され、安藤忠雄を審査委員長として行われた。しかし、結果的にここまで国民的な議論と関心を集めつつ、最終的にキャンセルされたコンペはおそらくかつてないだろう。このコンペは、通常のコンペといくつかの点で違っていたが、大きな問題を3点に絞ってあげておこう。
第一に、このコンペが選ぼうとしたのは設計者ではなく監修者であった。募集要項の応募条件には、「最優秀者は、デザイン監修を行う」「デザイン監修は(中略)提案のとおりに基本・実施設計及び施工が実施されているかを確認し、必要な場合には、修正の提案を行い、また(中略)基本・実施設計者及び施工者の要望や質疑について回答などを行うことをいう」「基本設計及び実施設計の設計者は、今後、改めて公募型プロポーザルを行い選定する」(http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/compe/20140530_compereport_7_boshuyoko_1.pdf)と明記されており、少なくとも文面の上では、監修者という立場が間接的なかたちでしか設計に携われないことが明確にされている。例えば、レム・コールハース率いる設計事務所OMAのパートナー重松象平氏は、コンペの要項が明らかにされた段階で、このような条件を理由にOMAが設計コンペに参加しないことを表明していた。「勝った後の知的所有権のほうがもっと問題なんです。質にこだわる事務所が、基本設計以降全く別の事務所が勝手に自分のコンセプトを仕上げてしまう可能性があるという条件を呑むだろうか」(https://twitter.com/sshigematsu/)と。欧米の公共建築のコンペでは、設計者という個人の建築家に権限を委ねることで責任の所在を明確にすることが一般的である。著作権を複雑化させてしまうようなこのコンペの条件は、世界的にはかなり変わったものであったと言えよう。いまから振り返れば、このようなコンペの枠組みの怪しさに目をつけ、参加しないという選択を取ることに、ある種の先見の明があったと言えよう。
第二に、応募資格が必要以上に厳しかった。高松宮殿下記念世界文化賞(建築部門)、プリツカー賞、RIBAゴールドメダル、AIAゴールドメダル、UIAゴールドメダルという5つの賞の受賞経験者、もしくは1.5万人以上のスタジアムの基本設計または実施設計の実績を有するものに限られていた。特に前者は、UIAゴールドメダルは3年に一度一者が、その他の賞も1年に一度一者しか選ばれないような賞であり、ここまで厳しい資格を課すことに、応募要項発表時から大きな批判があった。なお、国立競技場将来構想有識者会議における施設建築ワーキンググループに入っていた内藤廣氏は、当時、応募資格の条件を緩めようと内部で試みたが、結局それは実現できなかったという(建築夜楽校2015「新国立競技場の議論から東京を考える」での発言より、2014年10月1日)。この応募資格の難しさという問題は、再コンペでも別のかたちで引き継がれた。再コンペでは設計と施工が予めチームを組むデザインビルド方式での参加が求められたが、結局、日本のスーパーゼネコン5社しか参加できないような厳しい条件を課せられたものであった。両コンペの経過を見るに、日本におけるコンペが、大きくなればなるほど慎重さを期すあまり、結局クリエイティブな可能性を発掘することには臆病になってしまっているといえよう。ある意味、お役所仕事を着実にこなす「業者」としての設計者や施工者を見つけるという、心意気のないものになってしまっている(という風にしか見えない)傾向があるように思われる。コンペは、多くの可能性のなかからもっとも優れた案を公正に選ぶことが出来るところにこそ意義がある。しかしながら新国立競技場のコンペは、失敗を怖がるあまり予め様々な可能性を排除しようとし、結果的に再コンペでは、応募者がおそらく二者のみであろうという、コンペのフレームとしてはクリティカルな失敗を起こしているといえる。
第三に、審査の透明性が少ない。最初のコンペは2012年9月25日に応募提出が締め切られ、11月15日に最優秀賞が発表された。審査委員長の安藤忠雄からは、満場一致でザハ案が最優秀賞とされたという結果が伝えられたが、具体的な選考経過が明らかにされたのは、2013年秋以降に新国立競技場に関する様々な批判が建築関係者や市民団体から発せられた後、かなり時間の経った2014年5月末のことだった。その内容を見る限り、審査そのものは様々な観点から評価を加えた内容であり、決しておかしな審査がされたわけではないが、おそらく主催者側が「予期せぬ批判」を恐れて、途中経過をできるだけブラックボックスとしておくのが一番だと考えたのであろう。しかしながら、経過を明らかにしてこなかったことは、むしろコンペ主催者側への不信感を生むきっかけとなった。ただしさらなる問題は、再コンペに際しても、審査の不透明さがすでに現れている点である。JSCは「参加表明、その後の資格審査、技術提案いずれの段階でも参加事業者名は公表しない。最終結果のみ公表する」としている。よって、最終結果が公表されるまで、参加事業者名すら公表されないということである。『東洋経済オンライン』(http://toyokeizai.net/articles/-/85101)によれば「最終決定まではデザインも公表されない」のだという。そこまで途中経過が完全に公表されないことはさすがにないとは思われるが、もしそうだとすると前回以上に不透明なコンペだと批判されることは必至だろう★1

神宮外苑でこそ、民意が問われるべきである

敷地となった神宮外苑の位置づけについて確認しておきたい。1912年に明治天皇が崩御した後、当時の東京市長であった阪谷芳郎は、養父であり実業家の渋沢栄一らと、明治天皇の陵墓を東京につくることを提案した。しかし陵墓は京都につくることが決定されていたため、明治天皇を祀る神社をつくるという覚書を発表し、その後の造営に尽力した。
代々木の内苑には神社が置かれ、12万本の多彩な樹種が植樹することで、100年後に広葉樹林に遷移することを計画してつくられた、近代造園学による植栽計画の嚆矢ともいえる人工林である。青山の神宮外苑は、この内苑に付属する庭園として整備された。青山練兵場跡地に、聖徳記念絵画館をはじめとした諸施設が配置され、外苑は1926年に完成した。内苑が和風を基調としているのに対して、外苑は洋風を意識した空間である。例えば、聖徳記念絵画館は、ウィーン分離派の影響を受けた小林正紹案を原案としており、また周回道路を挟んで青山通りに向かう中心軸の両側は、折下吉延、藤井真透が設計した銀杏並木で彩られている。
競技場は、この内苑の一部に設置された。阪谷は外苑を欧米にあるような都市のなかの公園としても考えており、そこにスポーツ施設を設置するアイディアをかぶせていったためである。後藤健生によれば、古来日本では「相撲や演劇などを神社に奉納するという伝統があ」り、「明治神宮外苑競技場が完成すると、『そこで行われる近代スポーツを含む競技は明治神宮に奉納する宗教儀式なのだ』という論理がさまざまな場面で展開されてい」ったのだという(『国立競技場の100年──明治神宮外苑から見る日本の近代スポーツ』、ミネルヴァ書房、2013)。競技場が絵画館の西側に配置されたのは、渋谷川沿いの窪地という地形を考慮してのことだという。さらにその周囲に、野球場、相撲場、水泳場などがつくられ、スポーツ・コンプレックスが形成されていった。
この「神宮」と「スポーツ」の結びつきは、その後もこの地をスポーツのもっとも重要な聖地として、位置づけていくことになる。1940年の幻の東京オリンピックでは、メインスタジアムが最初埋立地に、次に駒沢に計画されたが、結局戦争によってオリンピックが返上され、実現しなかった。1964年の東京オリンピックは、メインスタジアムとして神宮外苑に新しく国立競技場を建設して実現した。2016年の東京オリンピック開催計画では、晴海にメインスタジアムが構想されていたが、結局招致に至らなかった。2020年の東京オリンピックは、再び神宮外苑にメインスタジアムを設ける計画にして、招致に成功したわけである。
このような経緯を踏まえると、この地がオリンピックのメインスタジアムの敷地として選ばれるのは、歴史的には妥当性のあるストーリーのひとつだといえよう。歴史の偶然もあるだろうが、オリンピックが神宮外苑と結びついた時、実現されている。一方、明治神宮は、内苑が国費でつくられたのに対し、外苑は国民の寄付を募って民間の力で造営したという歴史も持つ。新国立競技場が浮き彫りにする大きな問題のひとつは、公共建築の設計における市民参加と合意形成の仕組みの未成熟さであったが、この地であるからこそ、市民や国民の意見がもう少し丁重に扱われるべきだということもいえよう。

未成熟な都市計画システム

都市計画に関する問題も大きい。神宮外苑一体は、高度地区によって20mの高さ制限がかけられていた。しかしながら、2012年秋のコンペの段階で、設計の前提条件として高さ制限は70mとされた。実際20mの高さ制限が75mへと緩和されたのは、神宮外苑地区の地区計画が都市計画決定されたコンペ後の2013年6月17日のことである。これはどういうことか?何故20mの高さ制限のかかる場所で、70mを上限としたコンペが公に行われることになったのか。そもそもこのコンペは、設計者を決めるコンペではなかった。あくまで監修者を決めるコンペであり、デザインイメージを決めるコンペとして開催されたというかたちが取られている。
高さ制限が20mの段階では、建物の「イメージ」が決められたにすぎない。その後、高さ制限の緩和はそれとは別に行われ、正式に都市計画決定し、高さ制限が75mとされた後に基本設計がはじまったので、設計の段階では決して法令違反をしていない、という説明がなされている。当然、偶然同じ時期に高さの緩和が行われたわけではなく、最初からコンペとタイミングを調整しながら、後で違法性が手続き上は現れないようにと仕込まれ、またその責任者が明確に見えないかたちで進められた一連の出来事であると見るべきであろう。
もちろん、このような綱渡り的な手続き自体にクレームをつけようとすれば、つけられるのかもしれないが、より本質的に問題だと考えられるのは、都市計画決定のされ方である。地区計画を都市計画決定するためには、事前に原案の公告と縦覧が必要である。どのような地区計画が設定されるかということは、あらかじめ周知され、意見を言いたい人がいればいえる仕組みがある。しかしながら、2013年1月21日から2月4日までの二週間、高さ制限の変更を含む都市計画原案が公告・縦覧されたにも関わらず、それに対して意見書の提出(2月12日を提出締め切り)は一件もなかったという。このような大きな変化をもたらす都市計画の変化の内容に対して、何も意見がなかったということは、形式的には制度があっても、肝心なときに市民が議論できる仕組みになっている都市計画の制度だとはとてもいえない。その後、5月17日にこの地区計画は東京都都市計画審議会で承認されて、都知事に答申され、一ヶ月後の6月17日に都市計画決定されている。実際の議事録を見ると、都の都市計画審議会ではほとんど何も議論がないまま計画が承認されていることが分かる(その前段階の例えば新宿区の都市計画審議会ではある程度の議論があったが、意見をいうだけで実効力は持っていなかった)。高さ制限を変更したこと自体に問題があると指摘しようとしているのではない。現行の都市計画が、このような巨大建築が都市に現れる場合にでも、ほとんど市民の意見をすり抜けるように成立してしまう制度であることを問題にすべきであろう。また審議をすべき都市計画審議会が、ほとんど役割をはしていなかったことも、大きな問題である。都市計画が市民の意見を反映するシステムとしては成熟しておらず、形式的に物事に適法性を与えるような仕組みとして作用しているところがあるのではないだろうか。

コストとその背後の問題

新国立競技場の建設コストは、白紙撤回をすることになった最大のきっかけである。2012年当初の予算は1300億であったが、その後、3000億円以上の金額も出てくるなど、何度も上下したような印象があるだろう。実際、ザハ・ハディドのデザインを実現するなら、いくらかかるのか?今回、筆者も一般の人からこの点について何度も尋ねられた。しかしながら、建築関係者であるからといって、このような巨大建築のコストを見積もることは容易ではない。もっとも共有されていない点は、見積りというものが、具体的な設計や施工方法に明確でない部分がある限り、施工会社が出す数字は様々な可能性を担保した、安全性が高めの数字だという点である。場合によっては当初予算の2倍近くの数字が出ることは、住宅であっても決して珍しいことではない。そこからの調整により、いかに性能を下げずに減額するかということも、設計という行為の重要な一部である。単なるコストダウン(CD)に対して、コストに対する機能を価値と定義し(価値 [Value] =機能 [Function] / コスト [Cost] という定式がよく用いられる)、その向上を図るバリュー・エンジニアリング(VE)の提案を行うなどしながら、コストと建築物の適正な関係が見出されていくのが通常である。
特に今回のような8万人を収容し、かつ開閉式屋根を持つ建築は、世界のどこにもない規模のものであり(2014年に竣工したシンガポール・ナショナルスタジアムが5.5万人収容で、開閉式屋根付きのスタジアムとしては最大規模)、個人が見積もることが出来るような代物では決してないだろう。また一般論としては、コンペ提出時における構想段階のイメージと図面だけから、「他人の設計について審査の段階で正確に見通すのは難しい」(隈研吾談、大西若人「白紙に戻った新国立、設計者どう選ぶ? 隈研吾氏に聞く」『朝日新聞デジタル』、2015年7月23日)。もちろん、設計者はコストに対して責任を持つべきであるが(繰り返すが、ザハ・ハディドは設計者ではなく、監修者であった)、ここで述べておきたいことは、見積もりというものが、詳細が決まらない限りはどうしても大きめな数字で出てきてしまい、かつ今回のような規模の建築物であれば、詳細を決めること自体がまた数ヶ月以上かかるため、その金額のコントロールは、決して容易ではないという点である。
なお、まだあまり明らかにされていない問題点の一つとして、最初に1300億円という金額が設定された経緯の問題が残っている。「新国立競技場整備計画経緯検証委員会 検証報告書本文」(http://www.mext.go.jp/component/b_menu/shingi/toushin/__icsFiles/afieldfile/2015/09/24/1361944_1_1.pdf)によれば、施設建築ワーキンググループにより設定されたわけではなく、2012年4月23日に、JSCがプロポーザル方式によって選定した都市計画設計研究所(代表者は関口太一)が、2012年7月13日の第2回有識者会議までに、JSCと9回の打ち合わせを経て、具体的には定めたという。なお、都市計画設計研究所は概算事業費(工事費)について1500億円という数字を出したところ、JSCからの口頭の要請で、約1300億円という数字におさめられたという。検証報告書の参考資料にあたる「新国立競技場整備計画経緯検証委員会による関係者ヒアリングの概要」(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/sports/029/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2015/09/24/1361947_4.pdf)に、都市計画設計研究所へのヒアリング内容がおさめられおり、ある程度の内容は把握できる(pp.45-47)。具体的には「一番規模が近い日産スタジアムの断面図等を参考に、簡単な設計を行い、8万入る規模 の検討を行い、最終的に 29 万㎡を出した。」「単価については、単純な平米単価ではなくて、スタンドと屋根その他に分けて設定をした。」「2か月しかないので、事例から出すしかないということでこのような方法で行った」ということである。すなわち、この段階でかなり急いで設定した金額が、結局最後まで独り歩きしていたということは言えよう。
都市計画設計研究所は、前述の都市計画の問題にも深く携わっていることは、以下のヒアリング内容から分かる。「都市計画の手続、地区計画に関して、(2012年)11月に企画提案書を提出しなければならかった」(括弧書きは筆者追加)「ザハ・ハディド案が決まった平成 24 年 11 月には都市計画はアウトラインが決まっていた」「絵画館に日影を落とさないなどにより高さが決まっていたので、その中にザハ・ハディド案が収まるか検証し、どこが収まらないのか、ザハ・ハディド案に関して縮小してこれなら大丈夫というものを検討した。」すなわち、前述の「最初からコンペとタイミングを調整しながら、後で違法性が手続き上は現れないようにと仕込まれ、またその責任者が明確に見えないかたちで進められた一連の出来事」を、都市コンサル事務所としてコントロールしていたのだろうと考えられる。本論考の目的は、必ずしも責任追及ではないが、何がどのように行われ、今回の問題が発生したかということを考えていけば、当然重要なファクターのひとつとして浮き上がってくる事実であると考えられよう。

国会議事堂と新国立競技場

大きな流れを振り返った時に、何が言えるのか。新国立競技場のコンペは、確かに不透明な部分や違和感を感じさせる部分が多かった。槇文彦氏の提言、森山高至氏、「神宮外苑と国立競技場を未来へ手わたす会」をはじめ、ネットを巻き込んだ動きが連動しつつ、最終的には安倍首相による「白紙撤回」に至ったことは確かである。しかしながら、その後の再コンペでは結果的に「外国人外し」というかたちになってしまっているなど、問題が解決に向かっているとは言いがたい。
特に日本におけるコンペティションのあり方は、本格的に問いなおすべきだと思われる。近江栄は『建築設計競技──コンペティションの系譜と展望』(鹿島出版会、1980)において、コンペティションの基盤が民主的な社会体制であることを指摘する。コンペの問題とは、民主主義の問題でもあり、公共建築において自由で公正なコンペが行われることは、われわれの社会を問いかけることでもある。近代以降の日本のコンペを歴史的に振り返った時に、特に問題となるのは、国会議事堂(当時は「議院建築」と呼ばれたが、以下、「国会議事堂」と書く)のコンペであった。国会議事堂は、誰が設計するのか、長年議論がなされた挙句に、設計者が誰であるのかよく分からないようなかたちで完成した。当初、国会議事堂の設計は、大蔵省臨時議院建築部の妻木頼黄らにより進められていたが、当時の建築界の大御所、辰野金吾らは、それに対して1908年に設計競技で設計者を決めるべきであると意見書を提出した。その後、長年の議論や計画の延期があり、妻木が1916年に亡くなった後、1919年に辰野金吾を審査委員長として公開コンペが開かれた。当時は、審査員が当選案に手を加えて改変し、自分の作品のようにしてしまうことは度々行われていた。真偽はともかく、辰野もそのことを想定していたのかもしれない。118案が集まり、その中から宮内省技手の渡辺福三案が一等に決まったが、辰野は同年に亡くなった。渡辺案は、吉武東里らによる宮内省内匠寮の有志による案のひとつであったので、実質的設計者は吉武だといえるかもしれない。渡辺自身も、翌1920年に亡くなる。吉武は大蔵省臨時議院建築局技師となり、矢橋賢吉のもとでまとめられ、実質的には大熊喜邦と吉武が設計を進める。矢橋は妻木の片腕と言われた建築家であるので、不思議な因果のもと、国会議事堂は明確な設計者を挙げられないような状況のまま、当初の公募案からは大きく変更されたかたちで完成する。
コンペの結果に対して、多くの建築関係者が批判を加えていた。特に、長野宇平治、高松政雄の主張と、佐野利器の主張は、真っ向から対立した。長野宇平治は、建築家の職能団体として、後の日本建築家協会となる全国建築士会を1914年に立ち上げた建築家である。長野は、当選者に実施設計を依頼すること(実施権)を主張し、長野のもとで高松は、コンペが「案」ではなくて「人」を選ぶべきであることを主張した。当時は選ばれるのは「案」であって、選ばれた後に実現するとも限らないし、また前述のように、審査員らが「案」を参考にしてさらに別の案とすることも横行していたからである。ところが、長野、高松の主張に対して、佐野はコンペが「案」を選ぶものであることを主張した。良い「案」を出した建築家が、必ずしもその後の実施を上手く行う能力のある人物であるとは限らないからであるという。長野、佐野が欧米型の建築家像を理想としていたのに対して、佐野の主張はまさに日本的な現実路線であった。佐野は東京帝国大学教授、明治神宮造営局参与、宮内省技師などを務め、辰野亡き後そのポジションを継ぐなど、国家的なものとの結びつきも強めていった人物であり、長野、高松らの掲げる個人としての独立した建築家像とは、まったく異なる立場であったと言えよう。
新国立競技場の経緯と合わせてみた時に、パラレルではないが、共通する特徴が多々見られる。佐野が主張したような枠組みが、現代においても新国立競技場の一連のコンペの背景にあるように思われる。すなわち、日本におけるコンペが決して「人」を選ぼうとはしないということである。まさに西洋の建築家であったザハ・ハディドは、最初のコンペの最優秀賞となるが、結局二回目のコンペで外された。二回目のコンペは、半ば建築家を選ぶというより、確実に期間内に決められたコストで実現することが出来る、施工者を選ぶコンペであるもいえよう。設計者の顔が、出来る限り表に現れないような、日本的コンペ。ある意味で「設計者が誰であるのか分からないこと」こそが、実は日本の社会における現在の建築のあり方を象徴しているようにも思われる。

追記
2015年10月2日、建築夜学校2015第1夜において、「日本のコンペティションは、このままでよいのか?」と題したパネルディスカッションが開催された(http://www.aij.or.jp/jpn/symposium/2015/yagakko20151002.pdf)。新国立競技場の議論はもちろんであるが、その中でも特にコンペティションの問題をめぐり、討議が繰り広げられた。パネラーは、馬場璋造(建築評論家、『新建築』元編集長)、鈴木知幸(元・2016年東京オリンピック招致推進担当課長、順天堂大学客員教授)、森山高至(建築エコノミスト)、佐藤淳(構造家、東京大学准教授)、日埜直彦(建築家、日埜建設計事務所代表)浅子佳英(建築家、批評家)、田中元子(建築ライター、建築コミュニケーター)の各氏である。
多岐にわたる議論のなかで、新国立競技場とそのコンペをめぐる複数の立場があらためて浮き彫りとなったことは間違いない。現在、Ustreamにて、討議内容の大部分を見ることができるので、興味のある方はこちらも参照されたい(http://www.ustream.tv/channel/nKK95tdJPrY)。本論考での問題設定も、討議全体のひとつの下敷きとなっている。誰もが発言することが可能であった、開かれた議論の場を設定させて頂いたつもりである。

★1──やはり透明性のなさに対する批判を受けてか、2015年10月6日に、JSCの審査委員会は審査過程の透明性を高めるために、業者の同意が得られた場合、審査前に提案内容を事前公表する方針を示した、というニュースが流れた。なお、技術提案書の締切は11月16日で、公表される場合は12月上旬から中旬、下旬に選定業者が発表という。

松田達(まつだ・たつ)
1975年生まれ。建築家。松田達建築設計事務所主宰。東京大学先端科学技術研究センター助教。


201510

特集 新国立競技場問題スタディ──「白紙撤回」への経緯と争点


新国立競技場問題の日本的背景を考える ──日本のコンペティションは、なぜ設計者の顔を隠そうとするのか?
新国立競技場問題をめぐる議論はなぜ空転したか
社会がスタジアムを必要としているとき
『日本の思想』としての新国立競技場コンペ
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