サステイナブルな芸術の共同体
──山口文象ノンポリ説からみたRIAの原点

天内大樹(美学芸術学、建築思想史/静岡文化芸術大学デザイン学部講師)

山口文象のライフワークは「芸術制作を手がける共同体の維持」ではないか。以下、一見大量の住宅生産とは無関係に思われがちながら、じつは山口を魅了し続けた「芸術」という考え方を軸に、RIA設立までの経歴を辿ることで1953-69という年号をもつ『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり』(彰国社、2013)のいわば助走を示したい。
1902年、彼は山口瀧蔵として東京下町に生まれた。実家も養家も大工の家であった。エリート校の東京府立第一中学校に合格しながら、東京高等工業学校付属職工徒弟学校木工科大工分科に入学したのは、親の命ずるところだった(同校の年鑑には岡村瀧造と記されたが、当時の戸籍名は岡村瀧蔵である)。1918年に同校を卒業し、清水組の定夫(日給制の職人)となった。

営繕課──建築設計をめぐる身分差

山口文象(1902-1978)
引用出典=『国際建築』1954年3月号
(美術出版社)

1928年に東京帝国大学建築学科教授・佐野利器は上級の学校に進みたいという「上級熱」を煽り「高等遊民」を生む「漫然教育」=普通教育を敵視し、実業教育本位の体制を提案している★1。佐野のいう「万人皆悉く其の道に依て世に働かざるべからず」の思想、また「上級熱」を阻む職業の固定観念は、岡村の家を含め広く共有されただろう。
しかし当時の論者がしきりに採り上げたテーマは「文化」「芸術」だった。「文化」は、戦中にかけての日本建築界の指導者・佐野にとって「文明」と同義語であり、経済効率や衛生・防災など実務的な内容を指したから★2、「文化村」「文化住宅」などの流行語もあって、バラバラな意味合いで使いやすい言葉となっていた。
一方、佐野は「芸術」という「漫然」とした考え方を受けつけなかった。野田俊彦の1915年東京帝大卒業論文が「建築非芸術論」と改題・編集されて『建築雑誌』に掲載された黒幕は佐野であり、1920年卒業生のうち6名が分離派建築会という集団を旗揚げした際に「建築は芸術である このことを認めてください」と訴えた相手も佐野・野田らである。列強を前に危急存亡の秋にある国家に貢献する「建築家の覚悟」★3がみえない分離派界隈の議論に、8年後の佐野は歯がゆさを覚えて教育論に奔ったのかもしれない。

1922年頃から岡村蚊象(ぶんぞう)と名乗ることになる彼は、分離派メンバーの山田守が1920年の卒業直前に、建築家の「生命」と「建築哲学」の意義を唱えて掲載した雑誌論考に共鳴し、山田に手紙を送っている。活字メディア上の理念の応酬は、大学卒業者の専有物ではなかった。この年、彼は世話になった清水組の監督に紋付き袴の正装で挨拶し、職人の世界と父に訣別した★4。建築家の中條精一郎を飛び入りで訪ね、最終的に製図工の職を紹介されたことで、設計に携わり始めた。
職場はたまたま山田守も就職していた、逓信省営繕課であった。岩本禄や吉田鉄郎も所属し、電信電話など最新技術を扱った開明的な組織とはいえ、帝大卒業者の技師=高等官と、図面の複写と清書を主とする山口ら雇員=判任官との身分差は、現在の公務員制度以上に露骨だった。しかし岡村の手紙に返事していなかった山田は、その埋め合わせか、分離派の会合に彼を同伴したという。彼は帝大卒業者の会話についていけず、設計と並行して外国語、数学、デッサンという「漫然とした」基礎教養と、「芸術」としての建築観を身につけた(「上級熱」!)。
1923年、関東大震災直後の異様な昂奮のなか、彼は営繕課の製図工と現場係員らとともに創宇社建築会を旗揚げした。後からの加入者も、ほぼ同じ階級にあった。同時に彼は、山田と共に帝都復興院の土木部橋梁課に嘱託され、数寄屋橋、清洲橋などでみずから設計を手がけた。高等官以外でデザインを触れた唯一の人材として創宇社の指導的位置にあり★5、また分離派でもメンバーと認められ1924年以降展覧会に出品した。1926年から彼は、分離派結成メンバーの石本喜久治に招かれ、竹中工務店ついで片岡・石本事務所で、主任技師として腕を揮った。

創宇社──「文化」「芸術」への渇望

創宇社と分離派の違いは、発足直後から垣間見える。「専心建築の本道に進むべく努力はしながらも実生活においての周囲の関係やパンの問題やのために知らず識らずの中に建築の本質に離れ(...中略...)尊い創造の心をも不純なものにしてしまいがちです」★6。岡村は同僚雇員の収入を気にした。
とはいえ初期の創宇社は分離派のコピーでしかない。濱岡(蔵田)周忠や石本の場合、後に別団体に加入したことが分離派からの除名に繋がったが、創宇社を立ち上げていた岡村が除名されなかったことは、彼らが分離派と競合するものではないと思われていたことを示す。
なにより、所与の図面のトレースをもっぱらとしたメンバーらが団体活動に賭したのは「形の方面」の追究であった。それが「建築の本道」、自分たちになく帝大出身者にあるものだと彼等は考えたのである。この点には、「芸術」を訴えた団体結成以来、構造の軽視を散々叩かれながら実務や研究を重ねてきた分離派、また他の展覧会観覧者からも懸念が寄せられた。分離派も造形と機能の一致や新材料への対応を考えてきたが、その役割は終わったという谷口吉郎の指摘や前記仲間割れなどから、1928年以降活動を停止した。
この前後から創宇社は東京美術学校出身者をメンバーに加え、造形的追究のみならず無選共同展や新建築思潮講演会の開催、ひいては1930年に各団体を糾合する新興建築家連盟への発展的解体を図った。しかしこれは佐野利器の意を受けた『読売新聞』記事で左傾的団体と断じられたのをきっかけに瓦解した。創宇社メンバーも1929年の判任官減俸に対する反対運動から検挙・解雇され、運動どころか生業(なりわい)も一時困難になった。なかには地下共産党の資金調達を仄めかされ、赤色ギャング事件を首謀させられた人物もいる。

この間、岡村蚊象は設計対象の用途が労働者階級向けか中産階級向けかに大別される点、また唯物史観から建築の「事実必然性」が重要である点の指摘をしてはいる。創宇社の左傾化を戒めた石本に反発し、岡村ら3名は石本事務所を辞職してもいる。しかし階級闘争に連なる明確な発言は彼にはない。創宇社が「文化」「芸術」を「上級」の持ち物として渇望し、次いで労働者階級の建築を志向し、そして階級闘争に加わりながら生活が逼迫した過程は、はたして彼にとって望ましい展開だっただろうか。創宇社は「日本の青年建築家が、建築家層としての社会層の認識を革新するまで」の役割を果たしたと、運動史家は集約した★7。建築から階級闘争への貢献はその後だという意味だが、階級の闘士としての岡村の限界を指摘してもいる。
そこで彼は山口蚊象として1930年末に渡欧し、ベルリンのグロピウス事務所に勤務して32年帰国した。この間彼はベルリン反帝グループと関係し社会主義国際組織と接触を図ったという。しかし反帝グループには留学先によくある日本人ネットワークという側面もあるし、国際組織との接触もさほどヒロイックなものだろうか。創宇社を率いた彼にして、じつは「芸術」の追究が階級闘争に優先したのではないか。
帰国後34年に彼は山口蚊象事務所を開き、《日本歯科医学専門学校付属病院》(1934)、《番町集合住宅》《日本電力黒部第2発電所》(以上1936)などで活躍したが、彼の根底には「芸術」としての建築の探求と創宇社メンバーへの共感が同居しつづけたろう。この両者は親和的ではない。おそらく階級闘争には直接加わらずに創宇社メンバーらへ有形無形の支援を行ない、あわせて造形の向上を社会に役立てるというあたりが、結果的に彼の選んだ立場だろう。一方で戦中の彼は、軍需工場や海軍関連の寄宿舎も多数手がけた。名前を変えて渡欧したこと、戦後自らの事務所を解散したことは、戦後に関しては仕事の困窮も原因とはいえ、みずからの矛盾を解除する試みではなかったか。

RIA──「青年建築家」が建築設計に専念できる体制

『疾風のごとく駆け抜けた
RIAの住宅づくり[1953-69]』
(彰国社、2013)

事務所解散後、彼はまず美術団体の新制作派協会(1936年発足)に建築部をつくった(1949)。彼の建築観のベースに「芸術」は存続している。3年後RIAとして初めて制作したローコストハウスも新制作展で発表された。
ただし下の階級に着実に「芸術」の果実をもたらすには、彼らを設計に集中させなければならない。ここにいう下の階級とは、なによりRIAを支えた「青年建築家」である。指導者とメンバーの立場の乖離は、彼らを造形の探求から遠ざけてしまう。これを避けて建築制作の共同体を維持するための、平等な立場で競われた所内コンペと勝利案に対するチームサポートであり、階級闘争や金銭的困窮に足を掬われず「建築の本道」に「専心」するための、コンピュータの導入も厭わない大量設計だったのではないか。だから本書『RIAの住宅づくり』が冒頭で現代のアトリエ系事務所員の「パンの問題」に触れているのは、想像しにくい歴史的過去に現代の読者を導くためのたとえ話ではなく、むしろ当時のRIAの企ての本質を忠実に示している★8。彼らが考えたのは設計者がきちんと食べていける建築体制の設計であった(カイカイキキ?)。戦後の切迫した住宅事情を改善し、これから住宅を入手する階級を手広く救うことは、その帰結である。
以上の脈絡はアトリエ系事務所の住宅作品のように、才能に溢れた個人=作家による一品生産として名作=「芸術」を理解する主流的な考え方から外れている。特権的な作家という権威を排した先例として、今泉善一ら元創宇社メンバーによる新日本建築家集団の共同設計が挙げられるが、これは施主である労働組合にも評判は芳しくなかった。そこでRIAは担当はあくまで個人ではあるがあえて名前を出さず、チームとして活動する体制を選んだ。コンペの準備は私宅で行なうというルール、施主の要求に歯噛みしたのが設計担当ではなく交渉・聞き取り担当だったエピソードなど、個人としての確立と社会への呈示をズラした点にRIAの面白さがある。
しかも大量設計の「芸術」制作において、出力されたプランはおそらく現場で勝手にアレンジされている。「芸術」作品としての同一性も損なわれたことになるが、RIAがその変型の現場に立ち会わなかったらしいのは、山口が訣別したはずの世界での出来事ゆえだろうか。「青年建築家」と職人の世界の調停を図ったゆえか。戦後しばらく、住宅生産は工務店の施工が主流だったため設計と施工は大きく分離していた。ゼネコン設計部をめぐる設計・施工一貫の是非に関する論争や、ハウスメーカーの登場などは、本書で扱った時代の末から始まる事象であった。

★1──佐野利器「教育制度刷新案」(『建築雑誌』1928年6月号)。
★2──佐野利器「文化生活」(『建築雑誌』1921年6月号)。
★3──佐野利器「建築家の覚悟」(『建築雑誌』1911年7月号)。
★4──清水慶一「製図工から前衛運動の中心へ:山口文象」(『近代日本の異色建築家』、朝日新聞社、1984)。
★5──竹村新太郎「文ちゃんと創宇社」(『建築家山口文象──人と作品』、相模書房、1982)。
★6──岡村蚊象「創宇社と其の第一回展」(『建築新潮』、洪洋社、1924)。
★7──竹村新太郎「創宇社建築会の新建築運動」(『建築と社会』、日本建築協会、1937)。
★8──磯達雄「はじめに──今、住宅を設計しているキミへ」(『疾風のごとく駆け抜けたRIAの住宅づくり[1953-69]』、彰国社、2013、18-21頁)。


あまない・だいき
1980年生まれ。美学芸術学、建築思想史。静岡文化芸術大学デザイン学部講師。共著=『ディスポジション』『建築・都市ブックガイド21世紀』ほか。


201503

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