アーカイヴの経験と美術館

田中純(表象文化論、思想史)
ジャック・デリダ『アーカイヴの病──
フロイトの印象』
(福本修訳、法政大学出版局、
2010、原著=1995)
アーカイヴは語源的に法と深く関わるがゆえに、法措定的/法維持的暴力(Gewalt)をめぐるヴァルター・ベンヤミンの考察を背景として、ジャック・デリダは「アーカイヴ的暴力」について語った★1。このアーカイヴ的暴力が、ミュージアム(博物館/美術館)においても、知の規範の一部として作用してきたことは言うまでもない。磯崎新が「第一世代」と呼ぶ、王侯貴族のコレクションをもとに、国民国家意識の形成と併行して生まれた18世紀末─19世紀初頭の美術館は、「芸術」の制度化という「知の暴力」を伴っていた。この制度化によって創出されたアカデミーの権威に対する反抗がモダニズム美術に結実し、それ自体の規範化を生じたとき、新しいビルディング・タイプとして第二世代の均質空間的な美術館が要求される。磯崎の議論によれば、さらにそこに第三世代としてのサイト・スペシフィックな美術館が続くことになる★2。しかし、これらのいずれの世代においても、「アーカイヴ的暴力」はあくまで、それぞれの「芸術」や「作品」の規範に応じた「コレクション」の選別・収蔵の局面において作用してきたように思われる。

W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』
(鈴木仁子訳、白水社、
2003、原著=2001)
選択的なコレクションではなく、網羅的なアーカイヴに美術館の関心の移動が見られるとすれば、それは歴史ないし過去との関係性の変化に対応していると考えられよう。この変化の顕著な徴候は、19世紀以来の歴史学的・歴史主義的な歴史研究とは異質な記憶研究の興隆である。また、ヘイドン・ホワイトは、歴史主義に発する専門化した知の所産としての「歴史学的な過去」とは対極的な、現在と実践的に関係している──たとえば教訓を引き出しうるような──「実用的な過去」を提供する言説としての「歴史小説」が20世紀後半に復活していると主張し、W・G・ゼーバルトの小説などをその例として挙げている★3。ゼーバルトの遺作『アウステルリッツ』では、ひとりの建築史家が自分の幼少期の記憶を取り戻す過程で、もはや歴史学的な言語で語ることができなくなってしまう。歴史学が「唯一の過去」として公的に管理する「歴史的事実」はいわばコレクションの原理の産物であるのに対し、記憶研究や歴史小説はそのような原理の間隙に育つ、はるかにハイブリッドな言説実践であり、アーカイヴの原理、アーカイヴの経験との結びつきが強い。

Hayden White, Metahistory,
Johns Hopkins Univ. Press, 1973.
アーカイヴの「経験」とは、過去とのあらたな関係性を紡ぐためのひとつの方法である。歴史理論においては、ホワイトの『メタヒストリー』(1973)をはじめとする歴史記述のナラティヴやレトリックをめぐる議論に代わり、歴史や過去に関わる「経験」の諸相を問う「歴史経験」論の勃興が認められる。それは「経験」や「現前」といった概念をめぐって展開されている人文学のパラダイムに関わる議論にも深く関係している。代表的な論者はオランダのフランク・アンカースミットとエルコ・ルニア、ドイツのハンス・ウルリッヒ・グンブレヒトといった人びとだ。彼らの考察では、過去に「触れる」、一種の感覚的な経験の可能性が検討されており、グンブレヒトの著書『1926年に──時代の際(きわ)を生きる』(1997)では、まさにアーカイヴ的な並列配置による実験的な論述形態を通して、1926年という過去を読者に実感的に経験させることが目論まれている★4

Arlette Farge: Le goût de l'archive,
Paris: Le Seuil, 1989.
アーカイヴはコレクションのように見通しの良い歴史的展望を与えない。ひとはアーカイヴで資料体のなかに入り込み、資料との接触を通じて過去に「触れる」。フランスの歴史家アルレット・ファルジュは、アーカイヴでの調査を大海のような何かへの潜水あるいは水没に似たものと譬えている。ひとはそこで、資料の巨大な全貌を把握することなど毛頭できず、ただ溺れるようにそのなかに沈み込むしかない★5。この比喩で暗示されているのは、堆積した資料の束がぴったりと軀に密着してくるような触覚性である。その一葉を読み始めるとき、ナラティヴや言説を通してではなく、過去の現実にじかに接しているという感覚がわれわれをとらえる。ファルジュの著書は『アーカイヴの味わい(Le goût de l'archive)』と題されており、アーカイヴの経験は味覚や触覚に近いものと見なされている。ファルジュは「アーカイヴに溢れかえり、読者をもっとも内面的に挑発する、生の剰余」について語り、「そこで読者は美や驚き、或る種の感情的激震を経験する」★6と言う。そして彼女はアーカイヴにそんなふうに身体的に反応した人物の典型として、ミシェル・フーコーの名を挙げる。

ミシェル・フーコー
『ミシェル・フーコー思考集成VI
セクシュアリテ/真理』
(筑摩書房、2000)
フーコーやファルジュにとってのアーカイヴとは、おもに18世紀フランスの司法アーカイヴであり、それは裁判や尋問、判例、判決文などの文書からなる、まさに極めつきのアーカイヴ的暴力の場にほかならない。彼らがそんな暴力の空間で見つけ出そうとするのは、みずから言葉をもたない世に埋もれた人びとが、「権力」という光と衝突することでほんの一瞬のあいだだけ閃かせた生の軌跡である。この2人が共同で編纂した、一般施療院やバスチーユ監獄のアーカイヴ資料にもとづくアンソロジーにフーコーが寄せた序文は「汚辱に塗れた人々の生」と題されている。この序文の冒頭でフーコーは「これは歴史書ではまったくない」★7と断言している。彼がアンソロジー形式によって伝えたかったのは、歴史学的な歴史でもなければ、彼自身の書いた独自な歴史でもなく、アーカイヴに埋もれた「汚辱に塗れた人々の生」の強度それ自体だった。

ファルジュが言うように、自伝や個人的な日記は、たとえそれらがどれほど秘密にされ、数世紀のあいだ屋根裏部屋の隅に遺棄されていたとしても、その著者たちがいつの日にか自分の自伝や日記が発見されて読まれることをあくまで前提として人生の出来事をそこに書き残そうとしていた点で、そのような前提や意図などまったくなしに、司法書類のなかに他者によって記録された「汚辱に塗れた人々」の言葉、行為、思考とは著しく性質を異にしている★8。権力と衝突する「出来事」なしに、彼らの生はけっして記録されえなかった。

美術館におけるアーカイヴのうちに見出されるべきは、フーコーやファルジュが典型的なアーカイヴ的暴力の場で発見した「汚辱に塗れた人々の生」に相当するような何かではないだろうか。それは「芸術」であろうとする前提や意図などまったくなしに、美術館のアーカイヴが網羅的であることによって結果的に記録されてしまうような出来事である。そんな情報・資料収集のメカニズムを美術館は構築可能だろうか。ファルジュによれば、そうした出来事の痕跡を探し出す作業は、大海への潜水に似た資料への埋没を求める。そのようなアーカイヴの経験こそが、過去に「触れる」歴史へのアプローチにふさわしいのだとすれば、美術館のアーカイヴは単に収蔵機能にとどまるものではなく、展示や教育までも包摂した活動の形態となるのではないだろうか。このようにアーカイヴ化する美術館は、コレクションの鑑賞という形式を離れて、鑑賞者によりいっそう能動的な探索の作業を要求することになるだろう。

クロード・レヴィ=ストロース
『野生の思考』
(大橋保夫訳、みすず書房、
1976、原著=1962)
クロード・レヴィ=ストロースはアーカイヴに収蔵された古文書の魅力を語るに際して、古文書とはわれわれを「純粋歴史性」と接触させる「出来事性の化身」である、と述べている。レヴィ=ストロースによれば、このような性格は古文書に書かれた出来事の内容やその解釈とは関わりがなく、たとえ自筆原稿の数行や署名だけでも足りる。それらが史実を告げるとしても、そこで示されるのは断片的な小さな歴史でしかない。むしろ本質的なのは、その記録が出来事の破片やかけらであるということ、いわばその「がらくた」に似た性質であって、そのようなものとしてこそ、この出来事のかけらたちは「ある個人ないしある社会の歴史の化石化した証人」★9となる。レヴィ=ストロースは、こうした出来事の化石を用いて作り上げられる構造に、神話的思考やブリコラージュの特性を見出した。

ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史──
経験の破壊と歴史の起源』
(上村忠男訳、岩波書店、
2007、原著=1978)
ジョルジョ・アガンベンはそのレヴィ=ストロース論のなかで、遊び道具のうちにブリコラージュの素材の断片性と歴史の時間性を体現する古文書に似た性格を認めている★10。遊び道具は古文書のように歴史的な時間の連続性において過去を断片的に保存し、その通時的な性質を伝えるのではなく、玩具のなかに古代の戦争や占いといった活動の生き残りを見たエドワード・タイラーの「残存(survival)」の理論が教えるように、事物の聖なる起源といった過去自体を解体し変形させて、その変化が生んだ時間の断絶、すなわち、時間的形態における「かけら性」そのものを体現する。おもちゃを手にした子供たちは、いわば歴史のかけらを相手にして遊んでいるのである。そして、遊びが人間的な時間の本性に関わる行為だとすれば、歴史こそは極めつきの遊戯の場あるいは玩具とさえ言えるのではないだろうか。

『ヴァールブルク著作集 別巻1
ムネモシュネ・アトラス』
(伊藤博明、田中純、加藤哲弘著、
ありな書房、2012)
アーカイヴの魅力は、そこが出来事の化石化したかけらが羅列される、歴史という遊戯の場であることに由来するのだろう。そんながらくたたちによる「遊び」──時間と戯れる遊び──が歴史経験を呼び覚ます。美術館のアーカイヴもまた、「芸術」という制度を支える「傑作」の収蔵庫であったり、「美術史」が公的に管理する「歴史学的な過去」を体現する場ではもはやなく、出来事の夥しいかけらのうちに埋没し戯れる場へと変容してゆくのかもしれない。そんな美術館の先駆けとして、ヴァールブルク図書館というイメージのアーカイヴと対になった『ムネモシュネ・アトラス』のプロジェクトを晩年に手がけたアビ・ヴァールブルクは、等身大のパネル70枚ほどのうえにピン留めされた千に及ぶイメージ群の絶え間ない並べ替えを通して、歴史的時間のかけらたちと戯れていたように見える。

そして、そんなかけらや破片との遭遇であるがゆえに、アーカイヴの経験とはつねに、出来事の「残存」の経験であり、そんな「死後の生」こそがもつ「生の剰余」による、「感情的激震」の可能性を秘めているのである。



★1──ジャック・デリダ『アーカイヴの病──フロイトの印象』(福本修訳、法政大学出版局、2010、原著=1995)9頁参照。
★2──磯崎新『造物主義論 デミウルゴモルフィスム』(鹿島出版会、1996)39-59頁参照。
★3──ヘイドン・ホワイト「実用的な過去」(佐藤啓介訳、『思想』No.1036[2010年8月号]、岩波書店、2010、8-33頁)参照。
★4──Cf. Hans Ulrich Gumbrecht: In 1926: Living at the Edge of Time. Cambridge, Mass. and London: Harvard University Press, 1997.
★5──Cf. Arlette Farge: Le goût de l'archive. Paris: Le Seuil, 1989, p.10.
★6──Ibid., p.42.
★7──ミシェル・フーコー「汚辱に塗れた人々の生」(丹生谷貴志訳、ミシェル・フーコー『ミシェル・フーコー思考集成VI セクシュアリテ/真理』、筑摩書房、2000、314頁)。
★8──Cf. Farge, op.cit., pp.15-16.
★9──クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』(大橋保夫訳、みすず書房,1976、原著=1962)28頁。
★10──ジョルジョ・アガンベン『幼児期と歴史──経験の破壊と歴史の起源』(上村忠男訳、岩波書店、2007、原著=1978)125-129頁参照。




田中純(たなか・じゅん)
1960年生まれ。表象文化論、思想史。東京大学大学院総合文化研究科教授。著書=『都市表象分析I』(LIXIL出版、2000)『都市の詩学──場所の記憶と徴候』(東京大学出版会、2007)、『政治の美学──権力と表象』(東京大学出版会、2008)、『イメージの自然史──天使から貝殻まで』(羽鳥書店、2010)、『建築のエロティシズム──世紀転換期ヴィーンにおける装飾の運命』(平凡社、2011)、『アビ・ヴァールブルク──記憶の迷宮』(新装版、青土社、2011)ほか。


201506

特集 「収蔵・展示・教育」から「アーカイヴ・インスタレーション・ワークショップ」へ
──美術館と建築家の新しい位相


第三世代美術館のその先へ
生の形式としての建築展示
記録の政治と倫理の終わり
制度としての美術館と破壊者としてのアーカイヴの可能性
アーカイヴの経験と美術館
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