全球近代建築史に向けて

岡村健太郎+クスニェソフ・ドミトリー

グローバルな文脈における近代建築

2017年2月から3月にかけて、「modern architecture in global context: Dialogue with Professor Ana Tostoes」と題された、4回連続の対話形式のイベントが開催された(於:東京大学生産技術研究所)。対話の主人は、基本的にアナ・トストエス氏(リスボン工科大学教授)である。トストエス氏は、近代建築を専門とする建築史研究者で、2014年3月からはDOCOMOMO International の会長を務めている。ゲストは、毎回設定されるテーマに沿って、4人の建築史研究者が務めた。第1回のテーマは、「Brazilian modern: Modern Movement in Latin America」で、ゲストとしてコメンテーターを務めたのが、山名善之氏(東京理科大学教授)である。第2回のテーマは「The Modern and Portuguese modern: Center and Periphery of modern Architecture in Europe」で、ゲストは土居義岳氏(九州大学教授)である。第3回のテーマは「African Modern: modern in Developing Countries」で、ゲストは村松伸氏(東京大学教授)である。第4回のテーマは「Japanese Modern: Learning from Tradirion」で、この回のみ主客が逆転し、主人としてプレゼンテーターを藤岡洋保氏(東京工業大学名誉教授)が務め、トストエス氏がゲストを務めた。

fig.1──第1回対話の様子(©穴水宏明)

第1回から第3回の対象地である、ブラジル、ポルトガル、アフリカは、それぞれトストエス氏の研究フィールドであり、そして第4回の対象地は、トストエス氏が2016年12月から2017年3月まで約4カ月間にわたり客員教授として滞在した日本である。こうしてみると、トストエス氏に関わりのある国や地域を安直に並べただけにもみえなくもない。しかし、話はそう単純ではない。

では、本イベントの狙いは一体何であろうか。それは、「グローバル」といいつつもわれわれが無反省に採用しがちな西欧中心主義の枠組みに対し、本当の意味でのグローバルなコンテキストのなかにおける近代建築史、すなわち「全球近代建築史」を考えることにある。そう考えると、4つの対象地も、じつは意味をもったものであることに気がつく。すなわち、ブラジルおよび日本は、主に戦後の非西欧における近代建築の中心地であり、周縁のなかでもハブとして重要な位置を占めてきた国である。また、ポルトガルは地理的に西欧の周縁に位置し、政治的にも1970年代までNATO加盟国中唯一の非民主主義国であり、西欧諸国のなかにおいて異質なコンテキストを有する国である。そして、アフリカについては、そもそもそこにどのような近代建築が存在するのか、情報が少なく、われわれ日本人にとってはなじみの薄い地域である。

つまり、本イベントにおける4つの地域は、全球近代建築史を描くための最初のステップとして、それぞれ意図をもって周到に選ばれたものとして位置づけることが可能である。これら周縁における近代建築の実態から、どのような歴史が描かれるのか。中心と周縁の絶えざる影響関係からみえてくるであろう全球近代建築史の実像に少しでも迫るべく、4回の対話をレポートしたい。

グローバル/ローカルの二項対立を超えて

そもそも、タイトルにある「modern architecture」は一体、何を指すのだろうか。そのまま、日本語に直訳すると「近代建築」となるが、その意味するところは文脈によって大きく異なるので注意を要する。ここでは、1920年代にバウハウスやル・コルビュジエらによって開始された「近代建築運動(modern movement in architecture)」の考え方に基づく建築を指している。そしてそれらは、中心たる西ヨーロッパから周縁たる世界各国へと伝播していったと、一般的には考えられている。

そうした中心/周縁モデルのなかで近代建築を理解するためのフレームワークとして多用されるのが、普遍性や国際性を標榜する近代建築運動の考え方と、所謂「地域主義」の考え方の二項対立に基づく分析である★1。あるいは、ケネス・フランプトンによって広められた「批判的地域主義」★2の考え方も、その延長上に含めてもよいだろう。たしかに、近代建築と伝統建築をどう調停するかという点は、周縁地域に共通する普遍的な課題であり、また周縁地域同士での比較も容易な問題設定である。しかし、そうした二項対立に基づくフレームワークは、往々にして既存の単純な中心/周縁モデルにおける西欧中心主義的な歴史観を補強するにとどまりがちである。全球近代建築史の構築に向け、新たな知見を得るためには、当然新たなフレームワークが必要となるはずである。それを一朝一夕で構築することは難しいかもしれないが、本レポートを通してそのヒントを探っていきたい。

「新しさ」の象徴──ブラジル

1回目の対話のテーマは、ブラジルの近代建築である。トストエス氏は、ブラジルの近代建築について「Lucio Costa -the strategis」「development」「RJ team」「Brasilia」「Sao Paulo school」「Brasil MoMo architectural characteristics」という6つのテーマごとに、それぞれ豊富な事例をもとに概説した。クーデターが相次ぎ、政治的に不安定な時期が長く続くなかにおいても、ブラジルでは各時代で優れた近代建築が生み出されていることが非常に印象的であった。歴史が浅い国だからこそ、近代建築にアイデンティティを見出そうとしたのではないかと考えられる。

トストエス氏によれば、ル・コルビュジエは1929年に最初のリオ・デジャネイロのスケッチを描いており、その後1939年には教育健康省の仕事のコンサルタントとして、ルシオ・コスタやオスカー・ニーマイヤーと協働を果たしている。このように、ブラジルの建築界は、かなり早い時期から近代建築運動の発信者であるル・コルビュジエと直接的な関係をもち、当時の最先端の西欧の近代建築を正確かつ忠実に受容してきた。実際に、ニューヨーク博における《ブラジル館》(ルシオ・コスタ、オスカー・ニーマイヤー、1939)や、新都市「ブラジリア」の建設(ルシオ・コスタ、1960)などは、周縁における近代建築の受容の実例というよりは、むしろ先進的な事例として世界に対し発信する側に位置づけられるものといえよう。

fig.2──Lúcio Costa, Óscar Niemeyer, Brazil Pavilion at the New York Universal Exhibition, New York, USA, 1939. (© Fay S. Lincoln Photograph collection, New York, N.Y., 1939-1940.)

fig.3──Óscar Niemeyer, National Congress, Brasília, Brazil, 1958. (© Leonardo Finotti, In Docomomo Journal 43 - Brasilia 1960-2010, Barcelona, docomomo International, 2010.)

では、いったいなぜブラジルは、モダニズムに対しこうも敏感に反応しえたのだろうか。その要因を、ルシオ・コスタやオスカー・ニーマイヤーの個人的な才能やネットワークにのみに求めても、全球近代建築史を見通すうえでの生産的な議論は生まれないだろう。むしろ、文化・政治・経済など建築と関連する諸分野において、ブラジルという国家が世界のなかで占めてきた位置づけを意識する必要があると考える。例えば、当日の議論において、コルビュジエ以外にも、1931年から約2年にわたりブラジルをはじめ中南米を訪問した画家の藤田嗣治や、1932年からブラジルに滞在した人類学者のレヴィ=ストロースなど、建築界以外の分野からも知識人がブラジルを訪問していることの要因が話題となった。それに対し、当日参加したブラジル大使館文化担当のPedro Bracante氏からは、当時西欧特にフランスの知識人にとって、ブラジルが「newness(新しさ)」の象徴であったという指摘がなされた。当日の議論はそれ以上深まることはなかったが、「建築」という枠組みを一度外したうえで、なぜブラジルが近代建築運動の先進国たりえたのか、また「newness(新しさ)」と近代建築が歴史的にどのような関係を取り結んでいったのか、複合的に考察する必要があるのではないだろうか。

周辺・亜周辺としてのポルトガル

第2回の対話で取り上げられたのが、ポルトガルの近代建築である。トストエス氏のプレゼンテーションでは、おおむね時系列に沿って、ポルトガルの近代建築を豊富な事例をもとに紹介いただいた。地理的に「modern architecture」の中心地に近接していることもあってか、前半は、UIA(Union Internationale des'Architectes:国際建築家連合)、RIBA(Royal Institute of British Architects:王立英国建築家協会)、CIAM(Congrès International d'Architecture Moderne:近代建築国際会議)などの建築団体や、『L'Architecture d'Aujourd'hui』などの建築雑誌、そしてル・コルビュジエをはじめとした建築家など、近代建築運動の中核をなした各種主体とポルトガルとの関係が語られた。また、後半は、ポルトガルにおけるバナキュラー建築と「modern architecture」の関連や、Fermando Távora、A. Pessora、P. Cid、Alvaro Sizaなどポルトガルを代表する建築家の作風の変化とその要因について、説明がなされた。

fig.4──Álvaro Siza, Tidal Swimming Pool, Leça da Palmeira, Portugal, 1961-1966. (© Álvaro Siza Archive, In Tostões, A.; Becker, A.; Wang, W (1997), Portugal: Architektur im 20. Jahrhundert, München, New York, Frankfurt, Lisboa, Prestel / DAM / PF 97. ISBN: 3-7913-1910-8)

対話のなかでゲストの土居氏が言及したのが、アカデミーを中心としたヨーロッパにおける近代建築運動と、キュレーションをベースとしたアメリカのそれとの違いである。換言すると、近代建築運動の中心における変化・多様化であり、これにより単一の中心/周縁モデルから複数の中心/周縁モデルをベースとした分析が要請されることになる。ポルトガルの場合、トストエス氏のレクチャーを聞く限り、戦前においてはフランスなどとの関係が深く、アメリカの影響が見受けられるようになるのは、主に1960年代以降である。この差異は、中心からの距離により持たされるものであろう。

例えば東洋史学者のカール・ウィットフォーゲルは、文明を分析する際に共時的な空間構造を分析する視点として、「中心/周辺/亜周辺」という3つの区分を設定した★3。この場合の「周辺」が中心からの地政学的距離が近くその影響を否が応でも受け入れざるをえないのに対し、「亜周辺」はそれが遠く、中心からの影響を選択的に取り入れることができるという。周辺と亜周辺の違いは、おそらくポルトガルのみならず、全球近代建築史を描くうえでも有効であろう。また、当日の議論のなかで、山名氏が英語圏と非英語圏における近代建築の差異に言及したように、近代建築における「中心/周辺/亜周辺」は必ずしも地理的な距離によってのみ決定されるものではない。いずれにせよ、より深く歴史の実態に迫るためには、これまでよりも分析の解像度を上げる必要がある。

ミッシングリンク・アフリカ

第3回レクチャーにて取り上げられたのは、アフリカ大陸にあったポルトガル植民地のうちの2カ国、アンゴラとモザンビークの近代建築である。いずれもポルトガルの独裁体制を終わらせたカーネーション革命後の1975年に独立を果たした国である。ただし、革命以前の段階においても、ポルトガル植民地は、ポルトガル本国にとって単なる植民地というよりはより積極的な役割を徐々に与えられるようになっていた。例えば建築界においても、ポルトガル人に先立ちアンゴラ人がル・コルビュジエ事務所のスタッフとして雇用されていたことが知られているという。

両国の独立後、急速な都市開発および信じられないほどの建設が行なわれ、力強く本質的な建築ボキャブラリーが存在していることが明らかになった。なかでも、アンゴラの野外映画館(Antonio Ribeiro dos Santos・Eduardo Paulino《Cine-Esplanada Atlântico》[ルアンダ、アンゴラ、1964]、Francisco Castro Rodrigues《Cine-Flamingo》([ロビト、アンゴラ、1963]など)は、熱帯気候における社会的活動を体現する優れた建築として挙げられる。また、モザンビーク人のMalangatana Ngwenya (1936-2009)による《Smiling Lion Building》(マプト、モザンビーク、1954-55)などのアーティスティックな作品も重要な建築といえる。こうして、空想的な建築はアフリカでも実現可能となり、動物や人間のようで彫塑的な建物が実現した。このように、アフリカの近代建築は、気候・極端な空想性・建築への芸術の応用・西洋との交流・新しい国家建設の可能性からくるアフリカならではの魅惑的なインスピレーション・壁なしで外気と接する形式への挑戦・そしてアフリカ出身の荒々しさを備えた建築家などによって特徴づけられる。

fig.5──António Ribeiro dos Santos and Eduardo Paulino, Cine-Esplanada Atlântico, Luanda, Angola, 1964. (© EWV Archive, Ana Tostões.)

一方で、ポルトガルによる植民地政策について議論していると、近代運動そのものが一種の植民地化政策なのではないかという疑念が湧く。しかし、トストエス氏は、アフリカが単純に近代化の実験場になり下がったのではなく、むしろ地域のリズム・スケール・建築と風景の関係・芸術的な表現力でもって、近代建築を大きく推進したと主張する。

とはいっても、同じポルトガルの植民地であったブラジルと比較すると、アンゴラやモザンビークの近代建築に関する情報量は限られており、全球近代建築史の流れのなかで両国の近代建築がどのように位置づけられるのか、現時点で判断することは難しい。その要因は、ポルトガルからの独立後も植民地的な関係が、独立戦争を支援したソビエトに引き継がれたことによるところが大きい。両国とソビエトの関係に限らず、ソビエトとその関係諸国における近代建築に関する研究は今でも空白のままである。全球近代建築史を描くうえで、それは非常に重要かつ巨大なミッシングリンクであり、今後の研究が必要不可欠である。

日本における近代建築とその言説

最後に、日本の近代建築について、藤岡氏がレクチャーを行なった。

藤岡氏は、戦前の日本における近代建築は、歴史主義を脱却しようとした西欧とは異なり、あたかも様式のひとつとして選択的に受け入れられてきたという。つまり、堀口捨己が「様式なき様式」と述べたように★4、駅や工場、研究所、病院などの特定の建物に対し、特定の建築家が様式のひとつとして採用したに過ぎないと述べる。その後、日本の建築家は近代建築が参照しうる日本建築の特徴として、単純さ・非対称性・素材への敬意・非装飾性・内部と外部のバランス・モジュールシステムの6つの要点を見出したとされる。しかし、それらも、ナショナルアイデンティティを見つけだしたいという要求のもとで、モダニズムのフィルターを通し、恣意的につくりだされた日本建築の特徴であると藤岡氏は断じる。

一方、戦後においては、丹下健三らの説いた「空間」概念の重要性を藤岡氏は指摘する。具体的に丹下は、センターコアの空間とそれを取り巻く空間の2種類の空間を見出し、両者を統制することで合理的・論理的に解を導くことができると主張した。そして、実際に《香川県庁舎》(1958)という実作をもって、その言説が真であることを証明してみせた。

fig.6──Kenzo Tange, The Kagawa Prefectural Government Office East Building, Kagawa, Japan, 1958. (© Zara Ferreira)

議論のなかで、トストエス氏は、近代化の道を進むために必ずしもルーツを失う必要はないのではという疑問を呈した。それに対し、藤岡氏は、近代建築とは、単なる形の問題ではなく、それを取り巻く言説とセットとなることで、はじめて合理的な方法論として成立したことを強調した。ただし、禅野靖司氏(青山学院女子短期大学非常勤講師)も指摘したように、言説は建築をコントロールし捕まえようとする際に用いられるものだが、一方でそれらは必然的にわれわれの思考を制限することにもなる。それゆえ、扱いには十分に注意する必要があるが、藤岡氏の言う通り、近代建築と言説は切り離せない関係にある。そのため、全球近代建築史を描くうえで、各国の建築のみならずそれに関する言説も当然ながら扱う必要があるであろう。

全球近代建築史のための協働

これまで、4つの対談を駆け足でレポートしつつ、全球近代建築史を描くためのフレームワークを構築するヒントについて考察してきた。建築という枠を外し、分析の解像度を上げ、これまで研究対象とならなかった地域を含め、建築のみならずその言説を含めて研究する。これを実行に移すとなると大変な労力を要する。一足飛びに全球近代建築史にたどり着くことはできないゆえ、実現のためには、志を共にする研究者と協働しつつ、地道に各国での研究成果を積み上げていくほかない。

現在、われわれは「mASEANaプロジェクト」と題し★5、ASEAN各国の近代建築に関する調査研究プロジェクトを開始している★6、7。また、本稿の筆者のひとりであるドミトリーは、ロシアの近代建築史に関する大規模な調査研究を予定している。そして、今回の連続イベントで主人を務めたトストエス氏は、言うまでもなくわれわれの強力なパートナーである。数年後、われわれの成果をここに再び披露できる日を楽しみにしていただきたい。

fig.7──第4回対話の様子(©穴水宏明)



★1──五十嵐太郎「批判的地域主義再考──コンテクスチュアリズム・反前衛・リアリズム」『10+1』No.18(INAX出版、1999)205-216頁。
★2──K・フランプトン「批判的地域主義に向けて」(『反美学』室井尚+吉岡洋訳、勁草書房、1991)。
★3──カール・ウィットフォーゲル『東洋的専制主義』(アジア経済研究所訳、論争社、1961)。
★4──堀口捨己「新時代建築の神話其他」『国際建築』(国際建築協会、1939年2月)。
★5──山名善之「アジアの近代建築文化遺産保護に対する国際的関心の高まりを受けてのmASEANaの設立」(『建築雑誌』日本建築学会、2017年2月)。
★6──mASEANa Project ed., (2016), International Round Table Colloquim 2015 Tokyo "Conservation Action Priorities for 20th Century Heritage Sharing Experience of ASEAN Countries and Japan", Docomomo Japan.
★7──mASEANa Project ed., (2017), The Report of mASEANa project 2016: 2nd&3rd International Conference "Pioneers of modern architecture", Docomomo Japan.


岡村健太郎(おかむら・けんたろう)
建築史、都市史、災害史。東京大学生産技術研究所助教。1981年兵庫県生まれ。シンクタンク勤務、日本学術振興会特別研究員を経て、2014年東京大学大学院工学系研究科博士課程修了後、現職。博士(工学)。2007年「『様式』としてのモダニズム──模型からみた近代建築史」で日本建築学会優秀修士論文賞受賞。2016年「昭和三陸津波後の岩手県大槌町吉里吉里集落の復興に関する研究──農山漁村経済更生運動と復興計画の関連」で日本建築学会奨励賞受賞。2017年に博士論文「三陸津波災害後の復興手法と集落構造の変遷に関する研究──吉里吉里集落の復興にみる変曲点としての昭和三陸津波」(東京大学大学院工学系研究科、2014)で、前田記念工学振興財団山田一宇賞受賞。著書に『「三陸津浪」と集落再編 ポスト近代復興に向けて』(鹿島出版会、2017)、『記憶と忘却のアジア』(共著、青弓社、2015)、『災害に学ぶ 文化資源の保存と再生』(共著、勉誠出版、2015)ほか。

スニェソフ・ドミトリー(Kuznetsov Dmitry)
グローバル建造環境史、建築遺産、社会主義建築。東京大学大学院工学系研究科博士課程。1988年、ロシア・バルナウル市生まれ。2013年、パリ・ラ・ウイレット建築大学修了。同大学にて『AIAC国際建築デザインスタジオ2013作品展』に参加、大学院卒業設計にて優賞受賞。その後、日本文部科学省の奨学生として来日。2015年、東京大学大学院工学系研究科修士課程修了。現在、修士論文のテーマ(「グローバル建造環境史におけるロシアの貢献に関する研究:中央アジア・東アジア・東南アジア事例として」)に関し、地域を拡大し研究を展開している。


201705

特集 ファブリケーションの前後左右──ネットワーク時代の生産論


「ポストファブリケーション」とそのデザイン
ファブリケーション、それは組み立てて捏造すること
デジタルファブリケーションを有効化するための5カ条
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