ファブリケーション、それは組み立てて捏造すること

連勇太朗(建築家/NPO法人モクチン企画代表理事)

見慣れた風景にある日、ぽっかりと穴があく。いつもそこにあった建物が解体され、そして数カ月もたたないうちに、どこかで見たような建物に新築される。最近そうしたことが増えた気がする。遠くをみれば、背後には高層ビルが建設されスカイラインの形がいつの間にか変わっている。僕らの都市は、高度にシステム化された生産体制のもと、まるでロボットが操っているかのように風景が高速で書き換えられている。それは文化的判断や美学的操作によるものではなく、資本の論理によって一方的かつ確率論的に更新されていく、ドライなメカニズムに基づいた運動だ。日本の建物の平均寿命は30年程度。これは建物の物理的寿命を表わしているわけではなく、経済的エンジンをまわすためのガソリンとして建物がスクラップ&ビルドされているという状況を端的に示した数字だ。なんて短いんだろう。

そうした都市のなかで生活している僕たちは、ボディブローのようにジワジワと精神的にダメージを受けている。都市に定着させていたさまざまな記憶を知らない間に失って生きている。それゆえに、システムの力が肥大化することに抗い、セルフビルドやDIYが注目され、流行ったりする。人々は身の回りの半径数メーターを手作りでカスタマイズすることで、溜まっていたストレスや欲望とうまく付き合いバランスをとろうとしているのかもしれない。欲求としては誠実で人間らしい反応だ。こうしたことは、今までもあらゆる領域で、さまざまなかたちで現われ、語れてきた。なにも都市や建築の分野に限った話ではない。こうした動きは歓迎されるべきことだ。

二極化するファブリケーション

昔は共同体のなかで共有されていた環境構築のための知識と技術(=ファブリケーション)が、産業革命を発端とした近代化の波によって(コミュニティに求められる機能や期待の低下や、領域ごとの専門分化の高度化など)一部の主体や民間企業のあいだの特権的なものとして囲いこまれるようになった。そこから生産者と消費者という区分が生まれ、与える側と与えられる側の溝は今日ますます深くなってきている。
一方、21世紀になり、ウェブが広まり、新たな技術革新がめざましいなか、ここ数年、デジタルファブリケーションやパーソナルファブリケーションという言葉が注目され、ものづくりの技術や場が自律・分散する方向へと進んでいる。技術が遍在化することで、知識のレベルでも技術のレベルでも個人がつくり出せるものは数十年前に比べてはるかに拡張・拡大した。この流れは今後も強くなっていくだろう。私の所属する慶應義塾大学SFCでも、田中浩也氏を中心に進められているファブキャンパス構想をうけて、大学の図書館に設置されている3Dプリンターで、(ものづくりやデザインを専攻していない)学生が樹脂を積層させている光景は日常的なものになった。また、リノベーションが注目されるようになり、専門誌でも一般誌でも建築家の作品を含め、例えば空き家がカフェやコミュニティスペースへと改修され運営されている事例が当たり前のように掲載されるようになった。建築家のあいだでも、改修を仕事にするという抵抗感は若い世代のあいだではなくなってきているように思える。リーマンショックや3.11が拍車をかけ、価値観の転換・転倒が起こっているのかもしれない。人々はもっと日常的で、親密なものを大切にするようになり、そのなかで消費者/供給者という境界も曖昧になってきている。繰り返しになるが、これは歓迎すべきことだ。

フロー型の社会からストック型の社会へ、マスプロダクションからパーソナルファブリケーションへ、少品種大量生産から多品種少量生産へ、そうした流れへと時代が大きくシフトしてきている。

と言いたいところだが、事態はそんなに単純でもない。巨大化する産業システムと大資本による環境整備・管理の力はますます強くなってきていることを忘れてはいけない。マスプロダクションの波は止まらない。それどころかより強力になり、商品化住宅や高層マンションがズバズバ建設される日々が続いている。資本主義の原則に則った開発行為と、個人に立脚した身体スケールのものづくり、この二つの流れがパラレルに存在し、どちらも肥大化してきているというのが、今の状況だ。しかも、僕たち個人はこうした状況を何の矛盾もなく受け入れ、両方のスタイルを共存させながら暮らしている。たしかに「こうした流れは歓迎されるべきこと」であるが、この分裂を認識しないままの歓迎は楽観的すぎるだろう。

ネットワーキング・アーバニズム

2014年に「ネットワーキング・アーバニズム試論」という短い文章を書いた★1。暴走する産業システムが巨大化するなか、いかに多くのサブシステムを社会のセーフティーネットとして構築しておくことができるか、それが今後の現代都市における重要な生き残り戦略になるだろうと考えた。
ネットワーキング・アーバニズムを通して提案したことは、都市を物理的実体として捉えるのではなく、さまざまなネットワークの複層として扱うというものである。ネットワークの特質を利用し、都市に対する部分的な介入によって、都市空間を構成する事物の関係性を修復・編集・強化し、都市を成長させていくことを目指した都市的態度だ。そしてその複雑な関係性の海にただ闇雲にダイブするのではなく、意図と戦略を持って関係性を編集するための技術の必要性を主張した。関係の結節点を発見し、そこを引っ張りあげることによって芋づる式にさまざまなものに対して影響を与える、そうした建築による都市への介入方法を想像していた。
こうした態度は、いわば「すでにある(既存)」ということをどのように受け止め、創作の力に変えるのかという発想が根底にある。「既存」には関係性がすでにまとわりついている。そうした関係性を21世紀の新たな社会インフラとして認識し、そこから次の時代の都市デザインや建築を考えてみたかった。「試論」を書いたときは、国内外を含めた同世代の建築家の動きが頭の片隅にあり、そうした試みを一度しっかりと位置づけたいという気持ちもあった。そうした社会の隠れたネットワークを発見し、ファブリケーションの概念を広げている建築(家)について、3点ほど言及する。

ファブリケーションを拡張する試み
──フランス、ベルギー、イギリスから

フランスの建築家Lacaton and Vassal(ラカトン アンド ヴァッサル)は、フランス中に建設されているソーシャルハウジング(公営住宅)に対して、それをスクラップ&ビルドすることなく、建物の外側からプレファブリケーションによるバルコニーを設置するという非常にシンプルな方法によって蘇らせた。合理的な施工方法を採用することで、既存の住民が住んだまま工事することも実現している。彼らはソーシャルハウジングのためのバルコニーという建築装置の発明によって、幾棟もの既存住居に新たな可能性を与え、さらには、ソーシャルハウジングというタイポロジーにアクセスしたことで、フランスにおける住まいのスタンダードを変える可能性を手にしたのだ。

ベルギーのRotor(ローター)は、マテリアルのフローを建築的な問題として扱おうとしている建築家集団だ。彼らもラカトン&ヴァッサルと同じように既存をいかに活用するかということに徹底的にこだわった思考をしている。彼らの幾つかのリノベーションのプロジェクトは、すでにある素材や部材を執拗に利用・活用しようという意思にあふれている。既存の天井の角度を少しずらしたり、既存躯体を塗装の塗り分けによって生かしたり、操作としてはどれも些細なものであるが、ものの移動や組み合わせという視点から新たな価値観を提示しているように思われる。具体的な物の移動の仕組みをいじることが、そのまま彼らにとっての都市的実践になっていることは興味深い。都市の運動と、物の運動が断絶なく、シームレスなものとして捉えられている点に活動の特徴がある。これは国内では403architecture[dajiba]にも似た傾向がうかがえる。また、最近ではRotorDC Storeというウェブサイトをリリースし、彼らが入手した材料の販売も行なっている。独自の流通網を張り巡らせることで、ますます無機質になっていく都市の質感を彼らは変えようとしている。

2015年、アーティストに贈られるターナー賞を受賞したイギリスのASSEMBLE(アッセンブル)のGranby Four Street Projectもネットワークとファブリケーションの関係を考えるうえで興味深いプロジェクトだ。彼らは、リバプールの寂れた郊外のひとつの街路であるグランビーストリートを再び活性化するために活動している市民団体の動きに合わせ、まずはワークショップスペースをつくるところからはじめ、そこで住人と一緒にオリジナルのタイルや取手などを製作している。先日まで、表参道のEYE OF GYREで展示されていたが、どのプロダクトも個性がありそれ自体非常に美しい。彼らは、ここで生産したものを使って、地域の空き家を改修し、グランビーストリートに新たな住環境を生み出そうとしている。ものをつくるという行為、地域における人々の運動、そして具体的な空き家改修が、いわばソーシャルファブリケーションとも言うべき実践によって高度に結びついている。

スケール/時間/貨幣

ここに挙げた事例以外にも、国内外で既存のネットワークを活用した建築的実践が、さまざまなかたちで生まれてきている。今挙げた3点はほんの一例だが、こうした試みが象徴しているのは、建築家にとってのファブリケーションの意味や意義が変化してきているということだ。それは十分注目に値する。図面を書いて、それをもとに工務店が建設するというアプローチを超えた多様なファブリケーションの容態をそこに見出すことができる。こうした方向性は何をもたらすのか、仮説として、3つの視点をメモとして示しておこう。


1──階層化するスケール


建築的実践は、設計する建物が大きいか小さいかという物理的なサイズより、どのネットワークを選び取るのかという問題のほうが重要になりつつある。限られたリソースのなか、広大な関係性のハブになっている強い一点を見つけ出し、そこからネットワークへ接続することにより社会的インパクトを発揮する。これこそが、ネットワークの醍醐味でありダイナミズムである。ハブを見つけ出し介入していくということが、これからの建築家の行動様式・作法のひとつになるだろう。
もっと言えば、ネットワークの選択に重点がおかれる状況において、原理的には新築や改修といった区分はあまり重要ではなくなる。むしろ、そうした分類は、建築家を敷地境界線という単一のスケールに縛りつけることで不自由を生む。階層は複数選ばれたっていい。グローバルなネットワークとローカルなネットワークの併存は、われわれの時代においては矛盾しない。複数のスケールのあいだを自在にジャンプしアクセスしていくことで、私たちはさまざまな水準でものをつくることができるようになるのだ。取手ひとつのファブリケーションから、私たちは社会を変える可能性を持っている。しかし、適切なネットワークの選択とアクセスが必須だ。


2──高解像度になる時間


ASSEMBLEの活動が端的に表わしているように、契約─設計─施工という今までの計画から完成へ至る単線的な設計プロセスではなく、(むしろそうしたものの価値は相対的に低くなり)、例えばつねに物理的環境に対してメンテナンスや改変が繰り返されように、流動性のなかで建築や物理的環境を捉える視点が求められるようになる。これはスケールの問題にも関わるが、建築家を取り巻く時間概念は、ちょっとした修復、大規模な改修や建て替え、継続的なマネージメント、ネット上における販売やコミュニケーションなど、プロジェクト単位にまとめることができるような単一のものではなく、複数のタイムスケールがさまざまな事業や活動を通して現われるものとなり、いままでのマネージメント方法のみでは操作が難しくなってきている。時間は簡単に区切ることができるものではなく、私たちの仕事のなかにシームレスかつ高解像度の状態で入り込んでいるのだ。また、このことは契約や法規などの社会制度を含めて検討されるべきことである。多くの場合、現在の制度設計は、時間概念の多様化に対応できていない。むしろ大きな障害となっている場合のほうが多い。


3──複層化していく貨幣


グローバル資本主義システムに対して、いま、さまざまな形態の資本主義が存在していることは、これまでに多くの論者が指摘してきた。さらにいま、ブロックチェーンをはじめとした情報技術を背景とした新たな貨幣システムが生まれつつある。例えば、エストニアで生まれたスタートアップ「ファンダービーム」は、ブロックチェーンによって証券取引所とクラウドファンディングを組み合わせたサービスを開発しており、まったく新しい資金調達の方法を生み出した。そして、それはインターネットの表層的なサービスのレベルでの話ではなく、貨幣の概念を根本的に変えるような革新的な技術を背景としている。
こうした動きは、建設のための資金調達や建築家の報酬モデルなど、われわれの経済活動を根本的に変える可能性を持つ。今後、私たちの社会は、さまざまな貨幣の仕組みが複層化した社会を生きることになり、こうした変化は建築家に否応なく多くの変化をもたらすことになるだろう。これは発注形態の多様化を意味し、建築家もアイディアの生産から実現までの方法を多様化させることができる。
こうした経済活動の基盤が整えば、上記に挙げたように建築家は本格的に時間とスケールを自由に操る存在になることができるかもしれない。

「変えることができる」という倫理

スケール・時間・貨幣が、階層化・高解像度化・複層化することにより、いままで建築家があいまいに捉えていたコンテクストは、ネットワークという概念に代替され、「実体(点)」と「関係(線)」という具体的な対象として認識・操作できるようになる。ゆえに、関係性を繋ぎかえることや、新たな実体を入れ込みクラスタを生成していくことで、より戦略的かつ能動的な建築を実践することが可能となる。さて、こうした認識を得ることによって、新たな倫理を建築に要請することができる。それは、ものをつくること、建築を生み出すこと、空間を組み立てることによって社会を変えることができるという倫理だ。私たちは都市の環境や予見を所与のものとして受動する立場にいるのではなく、何か課題や不便があれば、それを修正、改善、改変し、よりよいものへとアップデートしていくことができるという立場に立脚している。与えられた敷地のなかで不能を感じ絶望するのでもなく、コミュニティとの戯れのなかで楽観的全能を感じるのでもなく、具体的な事物の関係性を丁寧に構築していくことにより、その先の関係性を「変えることができる」というプラクティカルでかつニヒリズムとは異なる建築的知性である。その意味で、具体的な事物の構築にまつわるファブリケーションという問題系は建築家にとってますます重要になってくるのではないだろうか。私たちは、仕口ひとつの発明が、都市の風景に変化をもたらす可能性を持っているし、具体的なものづくりの経験を通してコミュニケーションの連鎖を物質に定着させることだってできる。ファブリケーションとはモノとモノの結合関係を決定するある物理的仕組みや機構のことであるとすれば、そうしたことの真価が今まさに問われているような気がしてならない。

ファブリケーションの余剰

ネットワークは社会のコンテクストそのものである。ゆえに、ネットワークのなかで建築の実践を徹底していくことは、逆説的に「建築なんて必要ない」という結論と、容易に(かつ軽率に)結びついてしまう傾向にある。ネットワークやコンテクストから純粋に導き出される建築は、その領域の開放性ゆえに、自らの特権的立場や神秘性を簡単に奪われてしまう立場に置かれる。そして、そうした建築の価値の喪失を謳った言説はこれから耳にタコができるくらい増えていくだろう。そういう意味で、都市の関係性に建築家が身を委ねることは、必ずしも建築(家)にとって幸福なこととは言えない。別の言い方をすれば、建築の自律性は不必要なものとして、解体されていく運命を辿っていく。
さて、そうしたとき、ファブリケーションは特殊な意味合いを帯び始める。それはネットワークに回収し切れない「余剰」を生み出す可能性を持つからだ。圧倒的に物の論理の側に属するファブリケーションの知性は、説明不能な部分、コンテクストに収まりきらない価値を不可避的に持つ。紙面の関係上この部分に関してはまた別の機会に譲ることとしたい。
ところで、英語のfabricationという言葉は[製造]や[組み立て]という意味のほかに、[捏造]という意味がある。例えば、"to fabricate a fictional situation"は「架空の状況を捏造する」という意味になる。なかなか面白い二面性である。いうなれば、事物の構築は建築家に架空の物語をでっちあげる権利をもたらすと言えないだろうか。ネットワークという圧倒的なコンテクストの力のなかに建築を放り投げ、そこから文脈依存的に立ち上げられる建築において、今までのように盲目的に建築の形式性や自律性を信じることはできない。それでもコンテクストに回収しきらない物語を建築家はファブリケーションを通して実装することができるかもしれない。こうした問いの立て方は可能であるし、それはひとつの希望になる。具体的な事物を組み立て、同時にフィクションを創造する。ファブリケーションという概念の拡張は、それを可能にしてくれる。


★1──連勇太朗「ネットワーキング・アーバニズム試論」『新建築』2014年8月号(新建築社、2014.8)

連勇太朗(むらじ・ゆうたろう)
1987年生まれ。建築家。現在、特定非営利活動法人モクチン企画代表理事、慶應義塾大学大学院特任助教、横浜国立大学客員助教。

Thumbnail by Gordon Joly / CC BY-SA 2.0


201705

特集 ファブリケーションの前後左右──ネットワーク時代の生産論


「ポストファブリケーション」とそのデザイン
ファブリケーション、それは組み立てて捏造すること
デジタルファブリケーションを有効化するための5カ条
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